クンヌイ砦炎上す
同じ日の同じ頃、つまり寛文九年八月四日(一六六九年八月三十日)早朝。 泰広は亀田の街中にある古刹(といっても建立されて三十六年)、曹洞宗高龍寺を仮住まいにしていた。その寺の山門をひとりの雲水が箒で掃いている。寺は後に大川(亀田川)の氾濫によって流され崩壊し現在は移設され箱館山の山麓にあり、望めば前方に箱館湾が見えるという禅宗寺にふさわしい場所にある。 しかしこの時点では住民の数からいっても檀家の都合上街中が相応しかったのだろう。山門の前は大路となり町並みが両側に続き後の国道五号線へと続く、現在の亀田川は上流に給水ダムが建設されているためさほど大きな川とはいえないが、当時は湾から船で荷入れ出来るだけの川幅もあったのである。それだけにまた暴れ川でもあり、元禄十五年十六年と続けざまに起きた大洪水は町や寺を流しただけでなく河口さえも塞ぐ土砂の流出で、ついに亀田の河川湊は滅びてしまい、湾岸の箱館へと湊と町の繁栄を譲ったのである。さらに明治中頃には水路の役目もなく港への土砂の流出なども考慮されて河口も太平洋側へと放水掘削れて変更されてしまった。しかし万年の歴史を思えばこの大川の運ぶ土砂も大きな砂州を造る役目を果たしていたのだと思う。また太古時代から現代まで函館が湊として発展したのも、海水で汚れた船底を洗い内陸まで運搬出来るこの大川があったればこそであろう。 ゆえに泰広が亀田の拠点をこの寺に決めたのは、反乱軍が街道を進んでやって来る事を見込んでのことであった。もちろん裏の大川を利用すれば海から来てもこの寺から海は近い、敵が渡海の場合は海岸線で抑え、彼らの上陸を防ぎ浪打際で壊滅させる計画であるため、この砂州の半島の東西のどちらから現れてもいいように、見張りも怠りなく配置され、特に盾と篝火を必要以上に並べて夜襲(当時は夜間の航海はこの辺りでは不可能であったのだが)にも警戒し、兵の半分は交代制にして夜も迎撃の用意がある。それでもまだ泰広は慎重であった。福山を襲われる場合も想定にいれているのだ。三厩から軍船に乗ってやがてやって来る津軽兵には福山の守備を頼んである。クンヌイ、亀田、福山と広い蝦夷地でしかも敵より少数で戦うには重要基点を守り、三点の内一点が攻められれば、そこをあとの二点の応援軍が駆けつけて後ろから襲うという戦法しかないのだ。だから二箇所を一度に襲われたら致命的なことになるのでもあった。 しかし、シャクシャインが本当に賢ければ、遠く福山を襲うという無謀はまずないだろう。なぜなら福山は過去の対アイヌ戦でも簡単に落ちる地形ではない上、遠ければ兵も疲弊するだろうし、行軍の情報も漏れてしまう。そうなると、手こずれば亀田とクンヌイの軍に駆け付けられて挟撃されやすく、だからこの敵地内に深く入る作戦はあまりにも危険すぎ、一挙に敵の本拠地を突くという作戦は考えとしてはいいが、これはあくまでも机上でする素人の戦法で戦上手のすることではないのだ。また危惧する亀田とクンヌイを同時に襲われれば、これも作戦としてはいいように見えるが、実際、彼我の軍勢はたとえ攻める側が多くとも倍にはほど遠い、しかもクンヌイでは同数であるから、この場合砦の中に居る者のほうが断然有利になるだろう。だとすれば、アイヌ軍がとる戦法はひとつしかない。これまでも各地で商場を襲って勢力を増やし、ついに松前藩を圧倒する軍勢になった。当然クンヌイも陥せば、内浦アイヌ族の参加も見込まれるに違いない。石狩のハウカセとて考えも変えることは必至で、勢力は拡大するばかりか、和人軍に与える精神的打撃もそうとうなものとなるだろう。こうして考えれば、どうみてもアイヌ軍はクンヌイに集中すると泰広はにらんだ。彼は何度も考え抜き、時に反対の方を取上げてみたが、結局この結論に至った。準備はその方向で進められていたのだった。 この日、夏は例年どおり、海面は暖かく、海上の空気は北国らしく夜に冷えて海霧がたっていた。それがまた夜明けの日差しに暖められて消えていくのだが、まだ寺前の広小路の向こうも霧で見えない。その霧が今まさに消えようとする寸前の短い間、それは海面から陸地の中深くまでわずかに漂うように街中を妖怪のように彷徨っていた。 雲水はこのひと時が好きだった。まるで乳白色の柔らかい雲の中に寺があるようで極楽とはこのようなものかと想像できるのだ。周りも目覚めの早い小鳥の鳴き声だけが静けさを深めるだけだった。北国の、夏の朝の空気はひやりとして本当にすがすがしいのである。雲水は満足そうに深呼吸をすると、また作務の修行を始めた。 すると広小路の北側から人と荷車で百年も踏み固めた道を旋律も正しく叩く音が小刻みに聞こえてくるような気がする。 何か?いぶかる雲水の耳に音は序々に大きくなってきた。音は地響きを伴って近付くと、その正体を考える暇も無く突然霧をおびた真っ黒な天馬が雲水の十間ほど前から飛ぶようにして出現し、ぐわっとまっすぐこちらに向って走って来るではないか。 あっと声を挙げる間もなく、雲水は仰け反って山門の大きな地輻に足を取られドッと倒れた。黒馬はガッと後足で立ち上がり嘶くと角度を変えて山門にそのまま向った。雲水はまるで巨大な岩が頭上を飛んでいくのを見ながら肝がつぶれてしまった。大きな黒い陰がゴォーと過ぎさり、人馬は驚く雲水の真上を軽がると飛び越えて、そのまま尻目に山門を乱暴にも馬蹄で蹴破るように突っ込んで行ったのである。雲水は腰を抜かしたままこの暴挙になすすべも無く茫然と眺めていた。荒々しい人馬は狭い境内の中に入っても止まろうとせず行き先のない庭をぐるぐると回って激しく埃を舞い上がらせていた。騎乗の武士は具足を着けていたが兜はどこぞで放ったのかぶっておらず、髻のない髪がばっさりと肩にかかっている様も恐ろしく、男は気絶しているのか、あるいは精魂尽きたのか馬の首にもたれたまま馬のなすにまかせているかに見える。やがて馬は勝手に止まった。人も馬も遠くを駆けて来たのか、全身からもうもうと水蒸気をあげていた。しかも馬は今にもそのまま倒れてしまうのではないかと思うほど荒い息を吐き出している。その姿を怖れるように立ち上がると雲水は箒を前に槍のようにかざして及び腰に近付いていった。 馬ごと境内に飛び込むとは、何とご領主さまでさえも下馬する聖域を恐れぬ馬鹿者めが、と呆れた顔で騎馬武者を見ると相手が動かぬことで落ち着きを取り戻したのか雲水は箒を振り回しながら馬上の武士に怒鳴った。踏み殺されそうになった事でも腹が立つ、 「ここを何と心得るか。罰当たり目が、お前のような者は仏罰を受けよっ」 その男は言葉どおりに仏罰を受けて、時間が緩慢になったかのようにゆっくりと馬上から転げ落ちていった。ドサリと鈍い音がして雲水は我事のように痛そうに顔をしかめた。馬も今にも倒れそうだった。口から泡を吹き何とか四股を踏ん張って耐えている。どうしたものかと雲水は箒を抱きしめて戸惑ったが、落馬した武士の背中に『伍』の指物があるのを見つけると、これは、あれではないか、すべての事情が呑み込めた。なぜ幕府の高官がこの寺に泊まっているのか、東の大地で何が起きているのか、雲水は方丈から説明を受ける遥か前から知っていたのである。あわわ、と声にもならぬ奇声を発し、雲水は倒れている武士の生死も確かめず走り出した。草履を履いたまま堂上に駆け上がるなり急ぎ大声で応援を呼んだのである。ついで自分はまっすぐ泰広の部屋を目指して駆けた。 早朝、廊下を慌しく駆けて来る音で泰広は目を開けるとそれだけでもうすべてを理解した。来たか、ついに。ろくに眠らないでこの日を待っていたのだ。彼は布団を跳ね上げると枕もとの刀を掴み障子を開けた。そこへ飛び込むように先ほどの雲水が走りながら滑り込み土下座してきた。 「何処にいるか?」泰広は質問を二つほど省略して問うた。 雲水はあわてていて声が出ないのか、伏せたまま境内の方を指さした。こうしたことは関係のない他人が見れば可笑しな姿の雲水であろう。しかし人は極度に緊張したときみな噴飯の事これある。当然泰広には雲水のあわてようは一層の緊迫感を与えるだけで可笑しくは見えないのだった。彼は強張った顔でうなずくと早足で雲水の来た方向へ廊下を歩いた。境内では泰広の部下や他の雲水が集まって、伝令の武士を介抱していた。武士はまだ生きている。冷水を乱暴にも顔にかけられて意識を取り戻したようだ。泰広は縁側の一番武士に近いところまで来るとそこに座った。本当は自分から進み裸足で庭へ駆け寄って伝令から早く報告を聞きたかったのだが、しかし格式がある。これ以上武士に近付くわけにいかない。武士は泰広の家来に介助されながら引きずられようにして彼の前まで来た。 「大儀であった」労うように微笑みながら泰広は声をかけた。 「敵は、国縫を、目指して、いる、ようで、ございます。昨日、それを、確かめるため、向った、権左衛門殿、率いる、三十名が、長万部、峠で、蝦夷軍に、襲われ、ました」武士は気力を振り絞り、挨拶など無駄を省いて本文だけをやっと吐き出すように述べた。「襲った、敵は、千名、ほどで、まだ後方には、その何倍かは、いるようだ、との、ことでした」 「敵の総数はわからぬのか?」 「御意。まずは、敵勢の、来襲を、報告せよ、と、ご家老の、仰せで、ありました。ただ、本隊は、早ければ、昨夜のうちに、国縫に、到着して、いるかと、おもわれます。どちらにせよ、今ごろは、砦も、襲撃されて、いることは、間違い、ありませぬ」 「そうか、敵の総数を知らせる二番手の使番も今ごろ駆けているころだろう。それは間にあわぬなあ」とぼやくように言うと泰広は部下を見た。「急ぎ貝を鳴らせ、太鼓を叩け。そうだこの寺の鐘も突け、かねてより申し合わせたように町民全員を港に集めるのじゃ、」数名の部下はうなずくとそのまま駆けて行った。 それから泰広は伝令の将校を見下ろして、 「貴殿はゆっくりと部屋で養生せよ」と優しく言った。 「お言葉、ですが、」武士はすがるように泰広を見た。「御大将、拙者も、お供を、国縫に、戻りとう、ござる」 「うむ、気持ちはわかる。しかし見よ、」と泰広は境内の方を指さした。武士がよろけるように振り返ると、共に此処まで走って来た伝馬は倒れて死んでいた。「御身こそよく生きていた。貴殿はこれで十分働いたのだ。もう休め、」 武士は馬を見ておどろいた。一頭目も駒ヶ岳の西際を突き抜けたときに走ったまま死んで逝った。そのとき武士は山中の草叢におもいっきり叩きつけられたが不思議と何所も怪我はなかった。馬はそのまま見捨ててきたが、今ごろは熊か山犬の餌になっているだろう。二頭目もこうして目的を果たすまで頑張ってくれたのである。家代々使番であったから日ごろから可愛がってきた馬であった。使命とはいえ家族を失った悲しみが武士にはある。彼は両手を地面についたまま震えながら泣いていた。 「時は無い」泰広は縁側から立ち上がるとみんなに言った。「我等が一歩なりとも早く駆けつけなければ砦の者の命はない。しかも国縫が落ちれば勢いを増した蝦夷はこの亀田も福山も一気に踏み潰すであろう。今から我らが如何に迅速に動けるかによってこの戦の勝敗は決まる。皆の者奮起せよ、急げ、急げ、急ぐのだ」そう叫ぶと泰広は自分の部屋へ仕度のため早足で戻った。 その背を押すように寺の鐘がゴーン、ゴーンと続けさまに鳴り、いつもののんびりした響きとは違う非常事態が起きたことを町民に報せた。さらにほら貝が朝の静寂を切り裂くように町並に響いていった。 泰広が江戸から幕府軍を率いて蝦夷に来た折、箱館で兵を下船させたあと広林らとこの高龍寺で軍議を開いたことは話した。泰広はそのあと船で矩広を福山まで送ったのだが、のち福山で早々と出陣して来た津軽藩の将官と打ち合わせてから再び亀田に戻ったのである。その帰り道、船は知内、木古内などの漁村を巡りほぼ強制的に漁船と漁民を徴収して共に連れてきた。その他にも亀田半島の戸井や椴法華などの漁村にも人を派遣して漁船と漁民を亀田湊や箱館湾に集めていた。それは総てこの日のためだった。泰広は江戸で陣立てしていた時から恐らくシャクシャインとの会戦はクンヌイになるだろうと読んでいる。しかしそれをわずか二百丁の鉄砲だけで壊滅出来るとは思っていない。彼らを倒すには二段三段と周到な作戦と準備と根回しが必要なのだ。そのひとつが広林らに語った挟み撃ちである。もしクンヌイが襲われたら援軍が陸路を駆けつけても間に合わないだろうと泰広はそう考える。ならば蝦夷軍を海から渡って挟み撃ちにする作戦しかない。これなら陸路の半分の直線距離で行けるのだ。そのためには蝦夷軍の肝を潰すだけの、クンヌイの海岸を覆いつくほどの軍船が必要となる。それをこの近辺の漁村からかき集めたのである。三十石以上の船ならどんなものでもいい、泰広はそう命じた。途中外海を通るため小船ではおぼつかないであろうし、万にひとつ、小船が荒波で沈めばその救助で時間がとられてしまうことにもなりかねず、とまあそれらを考慮した。このため箱館湾にはおびただしい船が集まった。ほぼ三十石舟が多い。他に大きな船もあるのは、そのほとんどが偶然この騒ぎを知らずにやって来て没収された商船である。総数百はあろうか、その船団に亀田の町民たちが次々と乗り始めていた。泰広は何日か前から町の世話役を集め、このたびの戦に協力するよう求めたのである。この町にはすでにクンヌイをはじめ各地から避難して来た金堀人が大勢内地に逃げようとして船待ちしていたのだが、それらも泰広は足止めしていた。彼らの中から事情を説明して病気や怪我をしている者以外は皆クンヌイ戦へと参加してもらうことにしたのである。ほら貝が鳴れば直ちに港に集まれ、そう厳しく命じてある。こうして集まった人数が七百人ほどになり、泰広は彼らに具足や武器のあるものは身に付けて来るように命じていたのであった。それらの無い者は鉢巻を締めて棒だけでも持って来るようにも話してある。応援で亀田にいた津軽藩士の一隊はこの有り様を見て、こんな連中とこの装備ではたして戦になるのだろうかと首をかしげていた。それにしても職業軍人である津軽藩をなぜ使わないのだろう。泰広は戦の結果によっては亀田と福山を守るために他藩の兵士を後詰にさせるといっていたが、このような軍団ではそれが本当になるのではないかと津軽藩士はみな疑念を持った。 泰広はその貧弱な軍勢を港で指揮しながらことさら大声で叫んでいた。 「わが軍二千、これから国縫へ助太刀に行く」 湊には大勢の内浦アイヌ族がいる。彼らは形勢を見てシャクシャイン軍に合流しようとうずうずしているのだ。泰広の誇大な叫びはそうした者達への牽制とシャクシャイン軍に二千の新たな敵が向かっていることを報せたかったのである。 風は吹いた。 旗艦から出陣のほら貝が鳴った。一斉に帆を開いた全船はその風をまともに受けるとバッシと激しい音を立てた。帆柱がギギギッと軋み総数百隻の大小の軍船は箱館湾を迂回し、津軽海峡から太平洋へ、さらに内浦湾を突ききってクンヌイを目指すのである。 こうして泰広が箱館湾を出港する一刻ほど前、クンヌイでは外記が戦いの初めを告げる鉄砲を発射し、それに答えるようにヘカチが外記の頭を狙って一矢を報いたことは先に話した。 そのとき、外記は左耳に風を切る鋭い音を聞いたような気がする。しかし振り向き確認する間もなかった。ガアンっと寺の鐘を叩いたような音がした。鉄棒で思い切り兜を叩かれたような衝撃が間髪をおかず外記の脳天を襲った。外記は矢倉の上で反対側の仕切りまで飛ばされ、梯子口から下に落ちそうになった。横にいた彼の従卒が素早く飛びついて外記の転がり行く身体を抑えた。それを見て矢倉の上に居た他の四人もあわてるようにして外記と従卒に飛びつくとみんなで彼を引き上げたのである。やっとこ上げて一息つくと従卒は外記の兜の緒をはずし、気絶している外記の、頭の矢の当たったあたりを手でなぜてみたが血は出ていない。ただそこには大きなタンコブが出来ているだけだった。 「なるほど、矢は通しませんなあ、」と彼は隣にいる相棒たちに言った。 五人は真剣な顔をしてうなずいた。外記の配下で同じ射手の武士は外記の兜を取ってしげしげと眺めている。雑賀鉢といわれるその兜は四枚の鉄板を鉄鋲で止めた頭形の飾りの無い実用的なものでその左側面が大きく凹んでいる。 「雑賀鉢といえば鉄砲弾さえ通さぬ丈夫なもの。それをあの距離でここまで凹ますとは、恐るべし蝦夷の弓よのう」と射手の武士は言った。「しかも」と言いながらそばに落ちている矢を拾った。「この矢はわれらと同じ鉄の鏃だわ。どういうことか?」みんなに見せながら五人は再び互いに目を合わせた。 外記はまだ気絶したままだった。戦が始まろうとしているのに頭をこのまま眠らせておく訳にはいかない。従卒は、 「だんな様起きなされ、気を確かにだんな様、」と言うなり平手で外記の頬を思いっきり叩いた。 それでも外記は起きない。代々仕えてきた主人を殴れるのはこの機会しかないと思ったのか従卒は再び嬉しそうに殴ろうとした。そのとき外記はうなされるように口を開いた。 「目が見えぬ。頭が痛い。ここは何処か、真っ暗じゃあ。それがしは死んでいるのか、生きているのか?」 「按ずるな。おぬしはとっくに死んでおるぞ。ここは地獄じゃ、」矢倉のもうひとりの射手夏目準之助は幼馴染の外記へ冷たくそう言った。 「夏目様はなんてことを言いなさる。地獄など縁起でもない」従卒の五平は外記を揺すった。「旦那様御気を強く持ちなされ、」外記はまだ目が開かない。〆たと言うべきか、 五平はまだ諦めていないので再度機会を得て叩こうとした。 その手を外記は捕らえて目を開けた。 「五平、もういい」 外記は握った五平の手をテコにしてゆっくり起き上がった。頭の中には数匹の蜂が飛び回っているかのように唸っている。頭部左側もズキズキ病んでいる。目の前には星がチカチカ光っていた。二日酔いのような気分だった。外記はゆっくりと自分の頭に手を当てると割れていないか確かめて見た。 「ひどい瘤じゃあ、これでは兜もかぶれぬ」そう言って恥ずかしそうに笑った。 それに釣られて矢倉の五人は腹を抱えて笑い出した。これで戦の緊張感は取れた。 「準之助さあ、戦はどうなったろうか?」数秒しか気絶していなかったのに外記には長い時間眠っていたように思えた。 夏目準之助は横板を逆三角形に切った狭間(銃眼)から六匁銃の長い筒先を出して射程内に敵が来るのを待っていた。下の土塁ではすでに外記の鉄砲で目覚めた兵士たちが各々射撃準備が出来るとまだ遠く森のそばに居るアイヌ軍に向かって当たりもしない弾を惜しげもなく発射していた。前もって外記は鉄砲方に一斉射撃はするな、こちらから合図もしない、各々敵が射程範囲に入ったときに自分の判断で放てと言い含めていた。しかし敵はまだ射程外の森の中に居た。それでも寝ているところを叩き起こされた動揺とアイヌ軍への恐怖で撃ち方は興奮していた。最初に誰か撃てばその恐怖は連鎖反応を起こすのか、やたらめった撃っているのである。そのため辺りは一斉射撃のように硝煙で煙幕が張られているようになっていた。夏目準之助は外記の瘤のおかげで冷静を取り戻している。 「馬鹿者どもが無駄弾を撃っておりますわ」と振り向きもせず外記に報告した。 「そこから様子がよく見えるかえ」外記の左耳は音鳴りが止まずほとんど聞こえなかった。 「下はひどい煙幕ですが、上から森の様子もよく見えまする。敵はまだ動きませんな。それにしても、」といいながら準之助は鼻をぴくぴくさせた。「この匂い、たまりませんなあ、マラが立ちまするぞ」子どもの時から嗅いでいる大好きな硝煙の匂いに彼は興奮しているのだ。 外記は這うようにして自分の持ち場の狭間に近づき覗いて見た。船中、泰広が語ってくれた設楽ヶ原の戦いでこの煙幕がかえって味方に不利を与えたという。泰広はその欠点を補うために矢倉を沢山建てさせたのだと説明してくれた。なるほどその読みは正しい。その煙幕で見えない敵に向かって下の味方は一所懸命に無駄働きをしていた。泰広が、敵は銃が大量にあることは知らないから十分に引き寄せ、一気に殲滅させるという作戦を井上に与えた。これならば二百の鉄砲が最初の一発で二百人を殺せる。一度に二百人が死ねば敵は臆して戦場を去るかもしれない。しかしそれは使われない作戦となってしまった。第一慌てた外記が最初にその作戦をぶち壊してしまったともいえるのではないか。後に井上が泰広に会ってそのことを詫びたとき、泰広は、 「戦は机上の謀のようにはいかないものです」と優しく慰めてくれた。 「それにしても、」と準之助は外記に話し掛けた。「話が違いますなあ、」 外記は、ふむ、という顔つきで準之助のほうへ目を向けた。 「矢でござるよ、敵のさあ」 「それが何んとした?」 「鏃がね。権左殿らが襲われたとき蝦夷の鏃は木であったと言っていたではないか、実際外記さんがあの人の鞍には木の矢が着いていたのを確認したでしょう」 「そうでしたな。毒を含ませるため加工し易い木や動物の骨で作ってあると蔵人様も言っておったわな」 「それがあんたを襲った矢は違っている。ほら、」準之助はさっき拾った鏃を外記に見せた。 「鉄か、」鏃がいびつに曲がってしまった先を外記は見ながらつぶやいた。 「そう鉄です。それも鏑矢並の大きいやつ、」 「お陰で立派な瘤もいただいてしまった」 「ふむ。それはともかく、これはどういうことか?」 「うむ、」と外記は考え込むようにして鉄砲を抱いた。「蝦夷はこのクンヌイへ来るまで各地の会所を襲って来たとのこと。なればそこで手に入れたのではなかろうか」と当てずっぽうに言ってみた。 「なるほど、そうか、」 そうではない。アイヌ軍に鉄の鏃があるのは庄太夫がもともと矢師であったためではないか、そんなことは外記らの知るところではないのだが、こうなると鉄砲というさらに鉄の矢に比べようも無いほど破壊力の武器を持った幕府連合軍がどれほどのものであったか、この先、アイヌ軍の受けた衝撃も想像できるというものだろう。 「蝦夷は会所を襲ったとき鉄砲も手に入れたのではなかろうか?」 「さすれば鉄砲でわしを仕留めたであろう」 「どうかなあ。あれらは匹夫じゃないか、鉄砲などむずかしくて使えませぬて」 「ふむ。そんなものか?これがむずかしいか、」 箸を持つより先に鉄砲を持って育った外記である。どうしてもこれが難しい道具とは思えない。そう思って己の鉄砲をなぜまわした。 「あれらなど、鉄砲を天秤と思ったかもしれない」と夏目はクスクス笑った。 準之助に限らず、この時代の人は識字能力が有るか無いかで人と獣ほどに差をつけたのである。 しかし庄太夫も鉄砲のことはよく知っている。ただこれほどの数を敵が用意していたとは思わなかった。これは大変なことになる、と内心肝が冷えた。アイヌ軍には準之助が馬鹿にするようにおそらく初めて鉄砲を見る者も多いだろう。これではまずい。庄太夫はそばにいるシャクシャインに耳打ちした。 「我らもこれまでに奪った鉄砲を撃ちましょう」 「しかしあれは弾数も少なければ、もっと近付いてから使うのではなかったのか?」 「景気付けですよ。われらにも鉄砲があることを敵に報せ、味方も鼓舞するためです」 「なるほど」と云ってからシャクシャインは後ろに控えていた十名ほどの鉄砲隊を前に出させた。 彼らは不器用に慣れない鉄砲を操作させて勝手に砦へ向って発射させたのだが、敵の鉄砲の数の前では何の意味もなさなかった。敵もアイヌ軍から鉄砲が発射されたことに気付いた者は誰もいなかった。それほど辺りは硝煙で何も見えず、射撃音で何も聞こえずということである。庄太夫は舌打ちすると、またシャクシャインに次の案を言ったのだった。 「みんなに鬨の声を上げさせ鼓舞させましょう」 アイヌ軍にもともと鬨を上げる習慣はない。しかし鉄砲に驚く味方は消沈している。これを払い去るにはいい考えだとシャクシャインは思った。彼は軍の前に進み出ると、先が二股に別れた自然木の杖を高く掲げ、 「みなの衆、吾のように叫べ、」と怒鳴った。「いいか、それっ。オッ、オッ、オウ、」 庄太夫も前に飛び出し音頭をとるように両手を脇に上下させて叫んだ。 「オッ、オッ、オウ、」 「オッ、オッ、オウ、」 叫び声は次々と連鎖していった。ついに二千の軍はみな合わせるように叫んだ。まるで踊っているかのように足を踏みならし唱和するように叫んだ。 「オッ、オッ、オウ、」 「オッ、オッ、オウ、」 鬨の声は地鳴りを帯びて山々に響き反射して砦に籠る兵士達の鼓膜を破るほどに響いていった。何事か、砦側の銃声は一斉に止んでしまった。気負わされたのである。広林は慌てて土手の上にあがって見ると凄まじい蝦夷の雄叫びがいっそう彼の耳に飛び込んできた。できるものなら自分の耳を覆いたかったほどである。山野を揺るがすアイヌ軍の雄叫びは砦の誰にも恐怖を与えた。誰もが此処から逃げ出せるものなら今すぐ実行したいと思うばかりに異民族の叫び声は異様であった。民兵軍の連中もこの奇妙な叫び声に自分の欲の深さを呪ったのであった。命あってこそ人生なのだと改めて知るばかりで、地獄の鬼どもが叫んでいる様に初めて震え出した。こんな恐ろしい戦の場などさむらいに任せておけば良かったのだ。なんて自分は愚かだったのだろうか、後悔が身体中の血液を全部足の爪に集めていると感じがするばかり。 「あ、あ奴らめっ、」広林は憤怒の形相で蝦夷を睨むと振り返って味方に叫んだ。「われ等も負けじ。鬨を挙げよ、」 土手に伏していた兵はその合図に一斉に立ち上がった。銃を掲げ、 「エイッ、エイッ、オウ」 「エイッ、エイッ、オウ」と叫ぶ。 内側の犬走りにいる槍組も唱和した。 「エイッ、エイッ、オウ」 両軍の鬨の声は近隣の山々に反響し、アイヌ軍の足踏みは大地を振るわせていく。誰もが戦の前の不安に怯えていたがもうその恐怖もない。あとは全力で戦うだけだ。早く始まらないのか、ゲートの中の、競走馬のように皆勇み立っている両軍の兵士たち。 矢倉の上にいた井上外記も同じ気持ちで在る。立ち上がると弾の入っていない鉄砲を両手で高く掲げ、みなと同じように叫んだ。 「エイッ、エイッ、オウ」と、言葉が終わらぬうちに馬鹿めとばかりにヘカチの二の矢が飛んできた。 兜を着けていない外記の目に、矢は丸太ほどの太さに見えてまっすぐ向かってくるのがわかった。彼は反射的にヒョイと首を右に傾けた。矢は左の頬を掠めて後ろの柱にビイーンと音を立てながら突き刺さった。矢はスズメバチのように矢羽をまだ震わせている。外記は後ろに尻餅をつくようにして倒れた。 「糞っ、あやつわしばかりを狙ってくさる」 「だんな様は立派な具足を着けているから総大将と間違いなされているのじゃ、」と五平は夷矢を避けるため腰を低くして笑いながら近づいてきた。 アイヌ軍の鏃には毒が塗ってある。と外記は思っている。しかし鉄の鏃にはその仕掛けが無い。それでも彼は火が着いたような頬の痛みに叫んだ。 「五平、毒じゃ、」 五平は外記のそばによると手で頬を挟むようにして眺めた。すでに矢がかすったところが出血の中ブス青くなって腫れてきだした。 「まずいですね。これは、」 「すぐわが頬から毒を吸いだせ」 げえっ、五平は心の中で叫んでしまった。誰が男の脂と汗で汚い頬に口付けするか、と一瞬思ったが主命には逆らえない。急がなければ毒が回ってしまうと彼も本気で思っているのだ。そうしなれば頬の肉を切り落とすだけではすまなくなるのかも、これはふざけている場合ではないのだ。意を決するように外記の顔を抱えるとやけくそになりスイカを丸ごと食べるようにして喰らいついた。何度か血と唾液を吸出し梯子口から外にぺっと血塊を吐いたので気のせいだが傷みは和らいできたのであった。 「五平もういい、いつまでも女子のように抱きつくな気色悪いわ。あとは犬のように嘗めて消毒せよ」と外記はからかいながら言った。 「ご免こうむります」五平も笑い返しながらわざとふて腐れたような顔をしてみせた。 「この薬を塗りなされ、」夏目準之助が外記に近付いてきてそういいながら腰の袋から蛤の薬容れを取り出すとそのまま頬に塗ってやった。 「痛いっ、くは無いぞ」 痩せ我慢こそ武士の最初の心得なのだ。 「よう沁みますでしょう。それが効くんです」ザマアミロと準之助は他人の不幸を楽しんでいる。 「しかしなあ、」と外記は言って頬の傷をそっと触った。傷口は痺れている。塗り薬のおかげで血はすでに止まっていた。「この傷消えなければ良いがのう」と可笑しなことを言った。 「なぜでござりまするか?」五平は傷を覗き込むようにして見た。 準之助も見ている。傷は浅い、やがて消えるだろうと思った。他の三人もよってきて覗いたがやはり誰もかすり傷にすぎないと思った。 「わしが老いたらなあ、この傷見せて孫子に語るのじゃ、蝦夷が如何に恐ろしい敵だったかをさ、」 他愛もない、みんなはそう思い五平以外は自分の持ち場に戻っていった。 「なるほど、男振りもあがりましたなだんな様、奥方様も惚れ直しますぞ、これは。上手く行けばまたお子様に恵まれまするな」と五平だけは相槌を打つようにそう言ってやった。 「呆けたことを、」と言いながら外記は妻のしなやかな太腿の奥を想像して顔を赤くした。 「それにつけてもタンコブもいつまでも残ればよろしいのでしょうな」と五平は余計なことも言ってしまった。 六人は吹き出すように笑いだした。 まったく、と夏目準之助は守備位置にかがんだまま呆れ果てて笑いながらふたりを見ていた。それにしてもまだ戦は本格的に始まっていないというのにこの幼馴染はもう二度も怪我をしている。いったい何を考えているのだろうか、と馬鹿にしながらも可笑しな男だと思った。 ふたりは同じ鉄砲方の家に生まれ、似たよう年頃だったからいつも供に鉄砲の練習、学問所での学習、町道場で剣の修行とこれまで日々を重ねて来たのである。仲のいい友達というよりも兄弟のようだった。だから今、三度めの矢が外記に飛んで来たなら自分が楯になって守ってやろうとさえ思ったが、ただしそれは本気ではない。 両軍の雄叫びは競い合うようにまだ続いていた。外記は今度は背を低くして狭間に近づくと森の方を覗いて見た。森のそばに矢を射た大男が見える。彼も、銃眼から覗く外記が見えるのだろうか、弓を天に翳すとニタニタ笑いながらこっちを見ていた。 「くっそっ、見てやがる」と吐く様にほざいた。「五平、弾を込めよ」と言って空の銃を五平にではなくもう一人の従卒左武衛に投げ渡した。 五平は別の銃を外記に投げた。 受け取った左武衛は素早く銃口を掃除すると今度は五平にその銃を渡したのである。五平は受け取るとさっそく腰の胴乱から早盒をひとつ取り出し銃口から弾と火薬をあっという間にサク杖を使って詰めた。火皿に炸薬も詰めると外記にいつでも渡せるように銃を抱いていた。その時間十五秒慣れたものである。外記は左武衛からもらった銃を立てると火縄をクルクル回して狭間を覗き頃合を待っていた。やがて慣れた手付きで火鋏をカチリと起こす。火縄を挟めてから狭間に据えると火蓋を切り、右手を十分頬付けして狙う間もなく引き金を落とした。ドンと重い響きが鳴り渡った。それと同時に森の向うのヘカチは叩き飛ばされたように後ろへ仰け反った。 「当たったか?」 硝煙で確認出来ない外記は隣の銃眼から覗いている夏目に聞いてみる。 「当たりー、ですな」と準之助は矢場の妓のような言い回しで報告した。 外記はしてやったりという顔で空銃をまた左武衛に投げ渡すと狭間から下を覗いた。すると同時に弾を込めてある銃が五平から飛んで来たので、それを彼は下を覗いたまま見もしないで受け取ったのである。 五平はこの気合が好きで片目をつぶって喜ぶと左武衛の掃除した銃を受け取りまた胴乱から早盒を出してあっという間に弾と火薬をサク杖でしっかり銃口から詰めた。 「死んどらんなあ、」と銃眼から覗いている夏目は敵に目を向けたまま外記に言った。 外記も硝煙が消えるのを待って覗いて見た。ヘカチはゆっくりと立ち上がると尻の埃を払っている。そして外記のいる矢倉に向かって腹の辺りを指差しながら彼は着物の前をはだけて見せた。中には何処で手に入れたのか鉄の胴丸を着けていた。おそらく指差したところに銃弾が当たった凹みでもあるのだろう。 「距離が遠すぎるのだ」 六匁銃でも具足を抜けるのは二十五間くらいだ。あそこまでは倍の五十間はある。 「それにしても蝦夷の弓が鉄砲より強力だという事が有り得るのかよう?」 「鉄の大鏃は重い。十分よく飛ぶ。なんにしても戦の場はこの世の外にあるのさ、あんな怪物がいてもおかしくは無いってことだなあ」 ふたりはいつもこんな話をしている。 「ふむ、そんなものかね」 ヘカチは矢倉を見ながら大げさに笑って見せるとプイっと後ろを向いて今度は着物の尻を捲くった。前かがみになってケツを高々と上げると汚い肛門を見せてここに当てて見よと指差して挑発しているのだった。これがヘカチの悪い癖で、この悪戯心が命取りにならなければいいがとシャクシャインはいつも心配しているのだが。 「おのれは、」 外記は腹が立って狭間からまた銃を出した。そのときを待っていたかのようにヘカチは見逃さず振り向き様にヒョッと矢を放ってきたのである。矢はまたまっすぐ飛んで来て外記の狭間の上、一寸のところにドスンと鈍い音を立てて刺さった。外記は思わず首を引っ込めた。 「敵に強弓の名手がいるならばこの狭間は大きすぎる」 鉄砲の名人と言われた自分でも、一辺が一尺の狭間ではあいつは難なくこの中に矢を射込んで来ることの出来る男に違いなく、奴こそは恐るべき射撃の名手だと思う。まず今のはわざと狭間の上を狙った脅しの一矢としたのであろうか。こうなると鉄の鏃は面当てをきちんと装備してないかぎり顔面に突き刺さること間違いなし。これはまずい。外記は何と言う恐ろしい奴等かと改めて眼下の敵に恐怖を感じた。つまりは松前藩が目覚めさせてはいけない虎の尾を踏んでしまったに違いないということか、馬鹿者め、そのために松前藩とは関係無い自分は今命を縮めようとしているのじゃなか、何てこった。外記はうめく思いだった。美しい妻や可愛いい子供の顔が脳裏に浮かんでは消える、最早二度と家族に会えないかも知れない。もし此処を無事に出ることが出来たなら二度と戦になど来るものかとも思った。夏目は外記のそんな心を読んだのか、 「戦はこれからですぞ、狭間の出来など是非もない」と笑いながら外記に声をかけた。 「左様、左様、」外記は自分に言い聞かすように何度もうなずいた。 愚痴などこぼしているヒマはないのだ。戦はまさにこれからなのだから、 「どちらにせよ、この狭間では矢を射込まれることもある。どうも素の頭では心許無いし、かといってこの瘤では兜もかぶれぬ」 外記は五平を見た。五平は出陣するとき、祝いにといって外記の隠居している父から鉢金を貰ってきていた。それは朱の漆で塗られた派手なものだった。 「五平はわしの兜を着けよ。その鉢金はこっちに貸せ」 「それはかまいませぬが、朱は目立ちまする。今度はおでこに瘤が出来まするぞ」 「ぬかせっ、」 外記は鉢金をもらうとゆっくりとかぶった。左頭部に鎖布が当たって痛かったが今はそれどころではない。 「よき武者であられる」夏目は世辞を言った。 下では両軍の雄叫びは終わっていた。蛎崎広林はさらに陣太鼓を鳴らさせた。ドン、ドン、ドン、太鼓は一定のリズムで静かになった森に響き渡っていくのであった。 シャクシャインは横に控えている若者に目で合図を送った。若者は前に出ると全軍に向かって手を口に喇叭のように覆って奇声を発した。 「ホオ、ホオ、ホーッ、ホオ、ホオ、ホーッ、」それは梟の鳴き声を真似た攻撃の合図だった。 合図は全員に届いたのか、アイヌ軍はザッツと一斉に一歩前進すると弓に矢を繋ぎ目いっぱい絞った。矢先は砦のほう斜め天空に向けられている。 「オオ、オオ、オーッ、オオ、オオ、オーッ、」ついで鷲の鳴き声を真似た射撃の合図が叫ばれた。 矢はブンと弦を離れる音を発すると一斉に放物線を描きながら砦へ向け放たれた。 「何百本の矢が夕立でも降ってきたかのように一度に上からそそがれた」と広林はのちに泰広に語っている。 砦の鉄砲方はその矢雨の激しさに誰も反撃出来ず身を最小限に縮めて災難を避けようとしていた。 「ホオ、ホオ、ホーッ、ホオ、ホオ、ホーッ、」再び一歩前進すると二の矢はつがれた。 「オオ、オオ、オーッ、オオ、オオ、オーッ、」スズメバチの大群のように矢は激しく弓を離れて空気を切り裂きうなるような音を発しながら砦に向かう。 犬走りで待機する槍組もしゃがんで出来るだけ身体を小さくし、落ちて来る矢に当たらないようにしているのだが、それでも矢は兜や二の腕を守る袖板に当たって跳ね返っていった。三歩前進して射撃、四歩前進、また射撃。矢は近づくにつれ激しく強く降り注がれた。みんなは地面にへばりついて兜や具足で凌いでいたがやがて首やわき腹当たって怪我する者が出てきた。彼らは毒にやられ一様にもがいていた。その度に番屋から義勇兵の町人が戸板を持って駆けつけ彼らを乗せると避難所へ運んでいった。そんな町人たちの背にも毒矢は容赦なく襲った。怪我人を乗せて走り逃げる担ぎ手に矢が当たると仰け反るように倒れた。戸板の怪我人もその度に叩き落とされた。いまや砦の後方部隊も騒然となっている。五歩、六歩、アイヌ軍はじわじわと矢を放ちながら国縫川に近づいてくる。 「撃つなよ、まだ撃つなよ」外記は下の者には聞こえないのにひとり事のように自制の命令を出していた。 彼は狭間から片目だけを出してアイヌ軍が近づくのを耐え忍ぶように待っている。あの怪物は何処にいるのか?すでに矢倉の壁板にもおびただしいほどの矢が刺さっていた。射撃が行われない間、五平たち従卒は空になった早盒に分量の火薬と弾を詰めまた胴乱に収めていた。脇には火薬樽と弾丸の入った箱が置いてある。一目で間違わぬように玉薬は樽、鉛弾は箱と昔から決められていた。今回井上は一万発の弾と火薬を江戸城の武器蔵から持ってきた。忠清は二百丁の鉄砲とは言ったが銃弾のことまでは言わなかった。それで泰広は井上に言って出来るだけの弾薬を運ばせたのだ。なんとも忠清の渋い顔が頭に浮かんだが知るものかと思った。泰広はそれを有るだけの早盒に入れさせ胴乱に収めさせた。だから射手に対し二人いる従卒は腰にありったけの胴乱を付けていたのである。銃の数からいっても信長のように三人交換法は使えない、しかし早盒と専任の弾込め人、掃除人がいれば理論上十五秒に一発づつ銃は射撃が可能になる。泰広も外記も競技と違って実戦ならそれで十分だと思った。もしその間に敵が土手を越えたなら槍部隊が抑えれば良いのである。 じわっ、じわっと激しく矢を放ちながらアイヌ軍は川に近づいてくる。 「もう少しだ。奴らが川に入るまで待つんだ」外記は矢倉の仲間しか聞いてくれない命令を独り言のように繰り返すのみだが、大勢の敵が攻めて来るのを待つほど恐怖感が湧くものはないだろう。互いに恨みもなければ初めて会う相手と殺しあう、一方が生き残る、人が人を殺す、相手の人生のすべてを抹殺するとはどういうことか、、それらが外記も準之助も生涯初めての経験になるのだから 川の側まで来るとアイヌ軍の半数は弓を背に負うと、すでに夜半に前もって其処に置かれていたのだろう弓持つ手を槍や簡易ながらも丈夫そうな盾に替えた。そして彼らは一歩前に出た。奇妙な合図が再び山に木霊した。次いで前者の盾に隠れるように後列の兵らが矢を土手へ向かって一斉に射る。と同時に前列の槍と盾を持ったアイヌ軍は全員奇声を発すると思いっきり川に飛び込み水しぶきをあげながら突進してきた。 「今だっ。撃て、」外記は思わず矢倉から身を出すと下の配下に向かって叫んだ。 「危ないっ、」夏目は、ひとりだけ走りながら矢をつがえてこっちを睨んでいる大男を見て叫びながら銃を発射した。 ヘカチはずっと北の矢倉だけを見つめて走っていたのだ。準之助は慌てたため弾はヘカチの肩をかすっただけにすぎない。彼は怒りを顔に現すと狭間の中の準之助に狙いを替えた。準之助も油断した。果たして当たったのかを確認するため真日差しを上げて狭間から顔を出すようにしてヘカチをよく見ようとした。硝煙が晴れたその時、あっという間のことである。 「ぐえっ、」夏目準之助の口から妙な声が発せられた。 夏目の叫び声に驚いたままの外記の横へ、顔を射抜かれた準之助が弾かれたように倒れてきた。 「準之助っ、」 外記は叫んだが、準之助は眉間の骨を太い矢で射抜かれたまま何か言おうとしてこときれた。 「わっ、」と外記は泣いた。「おのれっ、」自分の銃を取ると立ち上がって川の大男に狙いを定めた。 火蓋を切った。ヘカチも素早く背の韜から二の矢を引き抜き様に弓を絞って狙いを定めている。引き金が落ちると同時に矢も放たれた。 ドン、今度こそは鉄の胴丸を六匁玉はぶち抜いた。矢もまっすぐ飛んで外記の鉢金を思いっきり叩いた。朱の鉢金はある意味では幸いしたかもしれない。ヘカチは本能的に目立つ朱の部分を狙ったのである。外記は再び飛ばされて気絶してしまった。それにしても何度も同じところばかり狙ってくるということはどういうことか、もう少し下を狙えば確実に外記を殺せたものを。ヘカチも初めての大掛かりな戦場で興奮していたのであろうか。あるいは遊び心が有り過ぎたのかも知れない。彼はもともと童心の強い男だった。こうしたことは後に落ち着いて考えればああすればよかったと思うものであるが、彼にはその次の機会はもうない。ヘカチも凄まじい水音をたてて倒れていった。福山で子供たちを脅かして大騒ぎを起こしたイタズラ好きのヘカチ。しかし彼の名はどの史書にも刻まれることは無いだろう。仲間の誰からも好かれた男ヘカチの、彼のさほど長くない生涯もこうして国縫川に流されて行った。 五平は主人も夏目も殺されたと思い、床に落ちていた主人の銃を取ると玉を込めるが早く火蓋を切り、 「仇めらが、」と叫びながら仕切り越しに発射した。 アイヌ兵のひとりが川中で水飛沫をあげて倒れた。 「様こそ見よ、」と叫びながら五平は振り返って仲間に微笑んだ。 このとき五平は剣道具を着けていたのだがそれには背当てはないのである。 すでに人気者のヘカチが殺されて周りにいたアイヌ兵は怒り狂っていたため、これが五平に災難を呼んだ。無防備な背に六本の矢が飛んで来て突き刺さり五平は笑ったまま倒れた。 五平とともに江戸からやってきた外記のもうひとりの従者左武衛は悲鳴をあげながら飛びつくと前のめり倒れてくる五平を受け止めた。 「あにさん、兄さん、」左武衛は叫んだ。 五平は毒に痺れながらも相棒の声が聞こえたような気がする。しかしいま彼の目の前には小奇麗な着物を着た禿頭(かむろあたま)の童女がふたり立っているだけだった。ここは戦の場ではなかったのかと疑いながらもそのことに何の違和感もなかった。何が起きたのだろうと、どういう訳なのか五平は思わないのであり、夢なのかとも考えないのであった。 彼女らは優しく手を差しのべると茫然としている五平を誘った。いつの間にか五平は長い石段の連なる大きなお寺の前に立っていた。少女達は微笑むと五平の手を引いてその石段を登り始めた。石段はとても長くて上が見えないほどだった。それでも不思議なことに幾ら登っても疲れるということは感じ無いのである。石段の両脇は鬱蒼たる杉林になっていて、深い緑が目に優しく五平はえにも言えぬほど気分が安らいでいくのを感じるまま、吹く風も優しく通り過ぎて行くばかりで、まるで春風のように暖かく爽やかで心地もいいのだった。樹々の枝も囁くようにゆれているだけでいつか子供の頃か見た景色が優しさに満ち溢れている中、やがて高く登り詰めると大きな山門に着いた。山門は巨大な物だった。全景を俯瞰すればその前に立つ五平も童女らも蟻のように小さく見えるのである。話に聞く奈良の東大寺南大門とはこのようなものかと五平は思った。 「此処はどこなのです?」と五平は少女に尋ねたかったがなぜか声がでない。なぜだろうと考えているうちに彼らはいつの間に門より中に入っていた。 そこには五平が見たこともない数の桜が咲いていたのである。見渡す限り、いや見えない彼方までも淡い色彩の桜花が咲き乱れている庭園だった。桜はすべて一種類のもので、よくよく見れば枝も幹もなく花だけが宙に浮いているだけなのだ。色は白色なのか赤なのか桃色なのか五平は記憶しようとするのだがどうしてもわからない。ただその一色が絨毯のように連なる花々、なんという美しさか、しかし思うにこれはこの世のものではないのではないか、それに今は春ではないだろう、そう思ったこのわずかな一瞬が五平にとって生き返ることの出来る最期の時だった。彼は思わず後ろを振りかえったが、童女たちは門をふさぐように立っているばかりで、彼女らは胸の前に当てた小袖に両手を隠しわずかにかむりを横に振っており、その切り揃えられた短い髪が少し揺れると、幼い顔は見る見る青ざめていくのがわかった。五平は恐ろしくなり再び前を見た。するといつの間にか大きく煌びやかなお堂がそこにある。その濡縁にひとりの小太りで地味な風体の僧らしき男が座っていた。男は七十を過ぎているだろうか、汚い着物をまとい、顔も垢じみて黒かった。しかし和やかな瞳の奥には賢者らしく鋭く冷たい光がみえて、その形(なり)とはおよそ遠った世間を惑わす高僧なのかもしれない。目が合うと彼は遠くから優しく微笑み五平においでおいでと手招きしていた。誰だろう?五平は知り合いの者だろうか、といぶかったがそろりと向って歩いてみた。さらにもう少し近付くと顔もよくわかるようになった。「あれま」と五平は思う。この人は、どうやらわが家の神棚におわす布袋さんに違いない? いや、と彼は驚いた。唖、このひとは弥勒菩薩様ではないか、と気付いた時、五平の命はこのときその身体からほわりと消えたのであった。左武衛はだらりとした五平の頭を抱きかかえて叫ぶように泣いた。 北東の矢倉は司令塔でもあったが、ついに沈黙した。 庄太夫は砦の様子をひとめ見て、自分達が攻めて来る方向を、この砦を縄張りした者は見抜き、この矢倉に司令官の一人を置いているに違いないと思った。すぐにそうだとわかったから、これを重要視してアイヌ軍の中でもヘカチのような弓の達者を配置し攻撃をかけていたのだった。矢もみな、少ない鉄器を使わせた。それが功を奏しわずかな時の間に六人のうち、二人は死に、一人はのびている。ヘカチがその役目を果たしたことは間違いないだろう。たとえ外記は殺せなかったけれど、もう一人の射手を殺し、いま北東の矢倉は確かに誰も声を出す者も、撃って来る者にいなくなってしまったことは間違いないのである。 下の土塁でも兵士が目と銃だけを安土に出して射撃を繰り返していた。この時使用された六匁銃は戦国時代一番使われた銃身長一メートルの火縄銃である。持って歩くにもその殺傷力も適当であった。今回泰広はすべて六匁銃にした。銃を統一することによって弾も火薬量も同じとなる。これを大量に使用する場合素人でも取扱を間違うことはないと読んだ。そこに射撃は玄人にやらせても助手に素人を大勢使わなければならない事情があったのである。泰広はよほど鉄砲に執着していたといっていい。 当時の火縄銃は鎧を着けたまま操作するため現代の銃のように肩に当てて安定させる銃床がなかった。銃は左手で先台を握り右手を頬に添えるそれだけで安定させようとしたから命中精度はよくない。長い間抱えて射撃することも困難であった。だからこうした狭間や土塁に直接銃を立て掛けて射撃することは長時間の戦闘にも十分耐えうるというもので、命中率も良くなり効果は大であった。このためアイヌ兵の多くは狙い撃ちにされ、川中に倒れた。おびただしい血が川に流れた。この小さな川の水よりも流れる血のほうが多いのではないか。まるで鮫に襲われたように血は川面を染めて流れていった。鉄砲の恐るべき殺傷力がここではっきりと示された。 アイヌ兵はこの時不思議な行動にでた。仲間が倒れるとそれが死体となっていてもかまわず引き取りに来るのだ。次々と危険を顧みずに川に入って来ては担いで行く。怪我した者を救うためならわかるが、明らかに死体と分かるものまで取りに来る。なんて馬鹿な奴らだ。土塁の兵士は狙い易いそのアイヌ兵にまで銃を向けて撃っていた。が、やがてこのアイヌびとの律儀さに心を打たれるようになった。死んでも仲間は仲間か、その思いは和人とて同じであろう。ついに遺体を取りに来る者には砦側の誰も銃を向けなかった。敵同士でも互いに通じ合うものはあるのかもしれない。だが戦は過酷であり、殺し合いはその外で相手が滅びるまで続けなければならないのである。時が経つにつれ、アイヌ側に川を渡って向う岸の堀までたどり着き、その窪みの水中に潜んで盾を翳しながら銃弾を避けている者も増えてきた。しかし銃弾は盾を簡単に弾き飛ばすほど強い。このため彼らはせっかく川を渡りながらも虚しく引き戻らなければならなかった。見た目で思うほど、このような低い土手など簡単に駆け上がれるという訳には行かないのである。銃の威力はとても弓の比ではないのだ。人間の力では考えられないほど強い。まるで馬にでも蹴られたよう。土手を駆け上がる者は盾に弾丸の衝撃を受けると踏み堪えきれずに転げ落ちていった。アイヌ兵は土塁の半ばまで駆け上るとコロコロと弾き飛ばされている。砦側から見れば面白いように転げ落ちていく。盾も二度銃弾を浴びれば使い物にならないほど破壊されてしまう。中々銃弾をまともに受けて死ぬ者はこの時点になると少ないが、それでも鉄砲は圧倒的に役割を果たしているといっていい。だから一気に土塁を乗り越えることが出来ず攻撃軍はここで多いにあずってしまった。だがアイヌ軍の北と南の兵士達は川を渡ると大きく弓なりに展開し、やがて砦を取り囲むように陣立てしてきた。それに釣れられるように北と南の土塁の鉄砲方も射撃が激しくなってきた。硝煙で周りが見えなくなると矢倉の上の鉄砲隊が活躍した。アイヌ軍も目障りな矢倉をなんとか沈黙させようとして盛んに矢を射込んだ。だが高い矢倉は下からは攻めずらく板壁にしっかり阻まれている。しかもこの戦いが必ずしもアイヌ軍に有利だとはいえない。砦は東側だけが前面に山とそれに連なる森があるけれど南も西も北も小木も生えていない草原である。アイヌ軍には何処にも銃弾を避けて隠れる場所がなかった。砦の外にかつてあった住居も今は焼き払われて何も無い。せっかく砦を囲んでも平原にいては遥かに遠ざからなければ鉄砲に好きなように狙われっぱなしのままだった。このため、この方面の攻撃軍の死傷者が東側より遥かに多くでた。一時的に激しく攻めてはみたが堪えることが出来ず兵は大きく引かざる負えなかった。そうなると結局は川を挟んだ森の中に主力を置いて攻めなければならない。一方面のそれも邪魔な川を越えて攻めるという嫌な条件にアイヌ軍は立たされている。 「上手い処に城を築いたものですなあ、」庄太夫はこの砦をここに築いた男の知恵に感心したが、内心腹もたった。「それにしてもこれほどの数の鉄砲を揃えているとは思いませなんだ。敵は松前藩だけではないようですね。前もって作った盾では銃の力にかないませぬ。もっと厚く補強せねばなりませんね。これはちと拙うござりまするやも知れませぬ」 「盾は順次厚く作るとして、あれらの鉄砲などと侮って、この程度の砦なら一気に攻め滅ぼせると見込んだのが間違いでござったなあ、最初からこんなものという考えを持たせておいて、攻められても鉄砲を巧みに使えば十分戦えると踏んだ城造りだったのだ。なんと言う知恵か、巧く吾らを騙しましたなあ」シャクシャインはしきりと感心している。 シサムにも優れた者がいる。この世に知恵者は庄太夫だけではないのか、これは大変なことになるかもしれない。シャクシャインは背筋が寒くなる思いがした。森も矢の届かぬほど木は刈られている。草原に至っては鉄砲の届かぬところまで引くとなれば遥かに下がらなければならない。そこで進退するだけでも兵は疲れてしまう。庄太夫は悔しくて、ぺっと唾を吐いた。砦は鉄砲の運用を最重点に考えられていた。アイヌ軍が四方を取り囲んでも攻撃面の厚い所には他所から鉄砲隊が駆けつけて来て五月蝿いくらいに撃ってくる。見通しのいい各所の矢倉からの指令が実によく行届いているのだ。 矢倉は最初からそうした仕組みで作られたのである。すべては江戸から亀田に来るまでの船中で泰広と外記が何度も話し合ったことであった。外記はそれを各鉄砲隊長に言い含めていた。合図の仕方も船上で何度も練習していた。黒紅無の一尺四方の板三枚を使いどの合図で兵はどう動くか鉄砲足軽の端々すべてが理解するまで訓練していた。この時代、命令系統は、下は小頭までが知っていればすむことだった。身分制の厳しい時代兵卒まで軍の運用を知らせるということはないのが当り前で、命の重さはまことに軽く、彼らは将棋の駒程度にしか思われていないのである。しかし泰広だけは歩が金に成ることを知っている。だから泰広は船上での訓練にも自ら立ち会い、兵士全員にこの戦いが自軍にとって如何に不利で困難な戦であるか事細かに説明したのである。まさに異例のことであったが兵全員がその緊張感を持って敵に向かわなければ勝ちはおぼつかないと彼は考えた。給金を貰って言われたことだけをしていればいい、と兵が思っていればこの戦は負ける。誰もが自分の命を懸けた恐怖の戦いだと意識しなければ遥かに強い敵には勝てないのだ。そのため、たった一人でも組頭の命令を間違えれば砦は崩れるだろう、泰広はくどいくらいに説明した。こうして兵卒の誰もがこの戦がただならぬものであることを知り皆緊張したのである。それが実際には兵士のひとりひとりがよく現場を理解し、きびきびと命令どおり動き大きく功を奏したといえるだろう。泰広は城造りから兵の運用、さらにシャクシャインの始末まで寝る間を惜しんですべてを考え抜いていたのである。 敵が一枚上手か、シャクシャインは仲間が撃たれるたびに、自ら傷ついたような痛みを感じるのである。彼は乞うように庄太夫を見詰めた。庄太夫とてこのままでは、勝ったとしても自軍の損害が多ければ、次の進軍に差し控えるだろう。 「こうなれば取り囲んだ軍を何度も進退させるわけには行きませぬな」庄太夫は硝煙の立ち上る砦の矢倉を見ていった。「あんなもので負けるわけにはいきませぬ。今より二度攻めてケリを着けましょう。まずは全員で森の木を使って沢山の盾を作らねば。それから松脂を、」 そういうと庄太夫は各方面隊に伝令を走らせた。アイヌ軍は新たな攻撃のため全軍森へ戻ったのだった。砦側は何があったのかわからないまま唖然としている内に一刻もしてから彼らは順次森から何かを持って出てくるなりまた砦の上にそそり立つ各矢倉へ向かい始めたのだがそれは細木を蔦で編み上げた大きな盾を並べたものであり、なんともぎこちなく押進めるように近付いて来るのである。鉄砲隊がその盾に向かって一斉に射撃したのだが、盾は細木を編んで重ねているため、突き通ることが出来ず、途中で木に食い込んで止まるばかりで、破壊された部分は網目のため一部分が折れても盾全体に影響はなく、この盾は重さも適当で二人の男で運ぶに十分であった。まさに動く壁である。後ろには数名の射手が控えて続き、比もよしというところで、最初の合図がでると、全軍一斉に各所の矢倉に向って火矢を無数に放ってきた。 砦側は火矢に関する対策はなにもしていなかったといっていい。鉄砲隊の咆哮も空しく火矢はことごと矢倉に当たり、屋根、壁、柱と処かまわずやがて燃え始めた。たまりかねて中に居る者が物を取って消そうとするとそれらに向って蝦夷の矢は容赦なく飛んで来る。火矢を受けて矢倉から悲鳴をあげて落ちる者もいた。庄太夫が矢倉から吐き出る鉄砲の硝煙を見て思いついた作戦による第一波の攻撃は巧くいったと言っていい。各矢倉へ十分に火矢を放つとアイヌ軍は盾の損傷を恐れてすぐに引いた。 庄太夫は、やがてぐるりと取り囲んだ砦を見て西側が一番弱いと睨んだ。土塁を築くときどうしても心理的に敵より一番遠いところ、逆にみれば、福山に近い方は手抜きになってしまう。時間が無かったせいもあるだろう。西側の土塁はやや三尺ほど低い。そこはたった一つの出入する楼門があり、ほとんどが松前藩の鉄砲隊で守っていた。庄太夫はもう一度、四方から盾を近づけさせて敵の守りを各所から動けぬように攻撃させている。この時には火矢は用いられなかった。火矢は鉄の鏃でなければならない。その板付から射付節の手前には普段から付火に使う樺の皮など巻いてそのうえから松脂を塗り火をつけるのだが、これに使う鉄鏃は充分にあったわけではなくて、もともとメナシウンクルが持っていたものと各商い場を襲って手に入れたものしかないのであった。これが第一の火責めで使い果たした。それでも充分砦は燃えている。 第二攻撃は普通の矢を使っても充分敵の反撃を抑えた。庄太夫の狙いは門にあるから、思惑通りに事は進んでいるといっていいだろう。作戦三ともいうべきはこの門の破壊にあり、特別に二百名ほどの突撃隊を引き連れて庄太夫が掘に架かる楼門前の、丸太を並べて土を載せただけの簡易な橋から正攻法で挑んだのである。本来なら広林は橋を落として堀切にしておくべきだった。しかしアイヌ軍の進軍がそれをさせないほど早かった。 すでに門の上の長屋はおびただしい数の火矢を射込まれて炎上しており、黒煙が、砦そのものが燃えているかのように立ち昇り天を覆っている様は凄まじく、当然上には非難して誰も居ない。 アイヌ軍は大きな丸太を抱え込んだ数名が門に向かって突進して行った。その両横に大きな盾を二重にかさねて持った連中が丸太組を守りながら同じように進んでいった。他のアイヌ兵も彼らを援護するように盛んに盾に隠れて矢を砦に射込んでいる。ドオーン、ドオーンと何度か丸太は門にぶつけられた。門はそれほど立派なものではなかったから簡単に破られたのである。 「ワアーッ」とアイヌ軍から歓声があがった。 破れた門を蹴飛ばすようにしてそこから二百名のアイヌ軍は突入しながら、みな奇声を発し武器を翳してなだれ込んでいった。砦の中にはすでに二十名ほどの鉄砲隊が二列に整列して待ち構えている。彼らはアイヌ軍が門を突破してくると一斉に銃を放った。轟音と硝煙がそこだけ一段とすさまじくあがったが、これを庄太夫は予期していた。盾を持った者が先駆けていたのだ。それでも近間からの強い弾圧の衝撃を受けて十名ほどが盾ごと仰向けに転んでいた。それを乗り越えるように向うから硝煙を突き切ってアイヌ兵らが走って来るのだが、彼らは弓を水平に構えながらそのまま射てきた。鉄砲隊は無防備のままである。前列の十名が毒矢にバタバタと倒れた。 しかし彼らの後ろには松前藩士と民兵三百名が待ち構えていた。平民軍は金堀、鷹待、漁師、商人などで構成されている。手に持っている武器はほとんどが鎌、鍬、鋤などの普段仕事で使っている道具だった。皆、必死の形相で踏み込んで来たアイヌ軍を睨んでいる。さらに会所や長屋の屋根の火を消していた連中も屋根を滑り降りるようにして駆けつけてきた。庄太夫らは、取り囲むようにして待ち構えるこれらの松前藩士と民兵の群れの中へ飲み込まれるかのように突進していった。 その最先端を紅い風が走った。 サポである。彼女が赤い片鎌槍を振り回すと周りの兵がその円周分だけ水に落とした油のように散った。サポはそれが面白いのかなにやら大声でわめき散らしながら走っている。すると、 「おお、サポではないか、」と敵兵の中から親しそうに声をかけて来た者がいる。 「ん?」誰だ、敵のくせに、サポは走るのをやめると、眩しそうに眼を細めると声のほうを見た。 「わしだ。忘れたか、」 サポは埃でよく見ない前方に怖れることなく進んだ。声の主に近付くと、 「おお、」と驚きの声を挙げ、「文四郎どのか、」と叫んだ。 「そうよ、我さ。久しいのう」 「ふん、」とサポはうそぶくとトンと槍を地面に突いた。 「それにしてもよき武者ぶり哉。その赤備え、ウトウが福山でおぬしのために買うたものであろう、この前、このクンヌイで会うたとき自慢しておったわ」 ウトウは福山で浮気したあと、サポにばれることを恐れて何か高価な物を土産に買おうとしていた。男というものは旅先で浮気した時後ろめたさから妻に高価な土産を買うという習性を持っているらしく、ウトウもそうだった。何かサポに喜ばれるいいものはないかと福山の大路をうろついていたところ丁度通りかかった道具やの店先にその具足が置いてあった。サポはいつも赤いアイヌ弓を愛用しているので、それと同じ色の具足だからきっと喜ぶに違いないと彼は思った。すぐ店に入って売ってくれと声を掛けたら奥から出てきた主人はウトウを一目見るなり蝦夷か、という顔を露骨にすると、 「三十両だが、負けぬぞ、」と愛想も無い。 亭主にすれば、供を連れた身分のある男であるらしいがやはりたかが蝦夷である、としか見えない。どれほどの分限者か、と亭主は値踏み心をそのままに顔に表した。しかしウトウもそんな扱いには慣れているので、腹の中ではいまに見ていろという気分がある。 「これで足りるか?」そう云うとウトウは砂金のたっぷり入った皮袋を主人の前に無造作に投げた。 ドスンという重い響きが良く磨いた水面のような床板に広がった。それを見たとたんに亭主は人が替わったかのようにもみ手をするといやらしく笑いだした。ほら見ろ、とウトウは心の中で手を叩いて喜んだのであった。 「結構でござりますとも旦那様、これはいい買い物をなされましたな。この具足、何とあの紀州雑賀党の大将鈴木孫市様が所持していたものですぞ。ほら前に大きく鈴の紋がある。ね、」 「そんな男知らんなあ、」とウトウはにべもない。 でも金色の鈴紋は雅ているではないか、これならサポも喜ぶだろうと思った。 「そうですか、知りませんか」亭主は蝦夷じゃ孫市など知らぬかと思ったが、この上客を逃す手はない「ああ、少しお待ちくださいまし」そう云うと何かに気付いたのか一旦奥へ行くとすぐに同じ朱色の槍と刀を持って戻ってきた。 「この槍を見なさい。これは加藤肥後守様のご愛用の十文字ですぞ、」 「ああ、それなら知っているわ。槍で虎を退治なさった殿様かえ?」 「そうです。その時、虎がかじって折ったから片鎌になったのです。これもおまけに付けましょう」亭主の狙いは砂金の袋の中身全部であった。 しかし今でいえば国宝級の槍がおまけか、清正もこの会話には苦笑せざるえないだろう。どうも槍も刀も具足と一式の物であったらしい。ウトウの投げ出した砂金は一式買っても充分おつりがくる。また兜が無いのは、それだけが先に単品で売れてしまったからであろうか。それにしても雑賀孫市や加藤清正の物が古道具とはいえ三十両で買えるはずがないのだが、ただ関西との廻船航路が開けて来つつある今、そうした道具が北の果てまで流れて来ないとはいえないのである。このあと開ける江差の文化にしても京の文化を色濃く吸収しているのだがそれは先の話。ともあれウトウはこれで五月蝿いサポの口が塞げると思ったから意気揚揚として供の者に鎧櫃を担がせ槍を持たせて帰国しようとした。その途中クンヌイで文四郎に会ったのであろう。 「ところでウトウは元気か?ここに来ているのか?」文四郎はここが戦場でお互い敵味方に分かれていると言うのにまるで挨拶でもするかのように訪ねた。 「なにをほざくか、」サポは槍をドンと激しく地面に突くと、「おぬしが我が夫に毒を盛ったのであろうが、えん、そう松前の殿様に頼まれたのだろが、」と叫んだ。 「なんと、ウトウが毒殺されたと、」文四郎は信じられないという顔つきだった。 「なにをしらばっくれて、おぬしでなければ誰がするか、」 「馬鹿を言うな、ウトウとはずうっと仲間ではないか。仲間にどうしてそんなことをするか、」 「我らを仲間だと、ふざけるな。仲間の女房に手を出すのがおぬしの仁義か、」 「あれは…」と言ったまま文四郎は声が詰まった。 言い訳のしようもない。以前、たまたまウトウが留守のとき文四郎はサルの長の家を訪ねたのである。そのときサポはひとりだった。サポは単に美しいだけではなく妖しい熟女の色気もある。つい文四郎はその色気に目が眩んでしまったのか、まあ大抵の人間は理性では動かず感情のほうが優先するものなのだが、文四郎も修行の足りない人間である。だからサポに無防備に近付いて言い寄った。サポは顔色一つ変えず、異常に接近してきた文四郎の股座に手を入れた。そこには褌からはみ出た皺袋が片方垂れ下がっている。サポはそれを力の限りおもいっきり握り締めたのだ。これほど男にとって辛いものはない。文四郎は人間の声とは思えないような叫び声を挙げるとそのまま気絶してしまったのである。やがて気が付いたとき、いったいサポはどうやって肥えた文四郎をそこまで運んだのか、誰もいない野原に寝ていた。ぼおっとする頭を振って目をあけると、周りに五六匹の山犬がうなり声を挙げて今にも飛びかかろうとしていた。山犬にすれば半月は食事に困らないほどの獲物である。剥きだす牙の間からだらだらと涎が汚く垂れていた。可哀相に山犬は何日も食べていないのだろう。文四郎はわっと我にかえると急ぎ腰の脇差を抜いて山犬を追い払った。くそっ、なんて女だい、冗談もわからぬのか、ちょっと手を出しただけでわしを山犬の晩御飯にしようとした。サポの恐ろしさは噂に聞いていたがこれほどとは思わなかった。まさか頭の自分にまで手加減しないとは、いったいどういう女なのか、文四郎はやっと立ち上がるとつぶされたほうの玉のある足を引きずって情けなさそうに帰って行ったのである。と言うことが以前にあった。何と言う嫌な思い出か、そのことを今またサポは責めているのだ。あの玉の痛さとともに羞恥心が頭を過ぎった。 「助平が、まだわしが欲しくて夫を毒殺したか。てめえ、ついにわしを本気で怒らせたな。わかっているのか、それが大それたことにもなったのだぞえ。おぬしの性で松前の殿様の首も申し受けるわ、」 「なんと、なにが、馬鹿なことを、」文四郎はうろたえた。 「ふん、残りの玉も取られたいか、」サポは槍の穂先をわざと文四郎の股間へ向けた。 文四郎は恥ずかしそうに穂先へ眼を落とした。すでに気が動転している。そのときサポの鎌槍が再び上にあがると太い首筋めがけてすうっと横切った。槍の穂先は首をわずかに外れて通りすぎたかに見えたのに、しかし文四郎の白い肥えた首には赤い一筋の線が浮かんだのである。文四郎は何が自分の身に起きたかわからなかった。首はゆっくりとスライドするようにして前に落ちた。いかにも重い物が落ちたようにズンと地響くかのようだった。土ぼこりが激しくあがり、無くなった首から血飛沫が飛んだ。それがサポの頬にかかると彼女は細長い舌を出してゆっくりと嘗めったのだが、すぐにぺっとその血を吐いた。 「こやつ、血まで腐っておる」とついで罵った。 夫殺しの誤解はともかく誰でも彼女を見れば欲しいと思うだろう。文四郎にすればそんな男の悲しい本音を突かれ思わず視線をそらしたのが失敗だった。サポはその隙を逃さない。彼は戦の場に居ることも忘れ、サポを仲間と錯覚した。サポにはもうかつての仲間意識がないばかりかむしろ文四郎を恨んでいる。夫を福山に連れ出し直接毒を盛ったのはこの男だと信じて疑わないのであった。ところが文四郎はそれが濡れ衣で誤解は話し合えばわかると思っていても、しかし世の中正しい方が通るとは限らないのだ。誤解は永遠に誤解のまま終わることもある。文四郎の油断は相手が蝦夷だから説得できると心の奥底でほんの薄皮ほど侮蔑していたことにもあった。蝦夷などどうとでも言い含めれるさ…か、甘い考えだ。もはや落ちた首は元に戻らないのである。片鎌槍の鎌は眼にも留まらぬ速さで文四郎の首を削いだ。文四郎は自分が死んだこともわからなかったに違いない。そのためか首の無い死体はまだ立ったままだった。サポは不思議そうに首無しを眺めながら、 「さっさとケノマイに戻っていればいの一番におぬしを殺したものを。思い知ったか、」と言うなり長い足で首無しを蹴った。 文四郎はゆっくりと後ろへ倒れていった。彼こそいい面の皮であろう。日頃えばっていたとはいえ殺されるほどのものではないだろう。しかも今回は負けているシュムウンクルのために遠く福山まで走って骨を折ってやったのだ。それなのにシュムウンクルの実力者は逆恨みをして自分を殺してしまったのである。文四郎にも知らないことだが、あの馬鹿ウトウが浮気さえしなければと今は思うばかりである。それでもサポの怒りはこれで納まるわけではない。血を見て益々激しくなった。この砦の全部の者の首を撥ねなければ気がすまないのであって、いやもっと血が欲しい、福山にいる者すべての血が欲しい、夫を殺し仲間を辱めた。それだけで、シサムというだけでみな殺してやろうと彼女は思っていた。戦場こそはその怒りで誰もが満ちていたのである。サポだけではないのだ。彼女は首の無い文四郎を蹴倒すとさらに敵を求めた。側には文四郎の手下が槍を突き出して今しも主人の仇を刺そうとしていた。サポはそれに対し難なく突き出た槍を鎌槍で上から押さえた。この片鎌槍は実戦の中から工夫されて出来た槍である。使い方さえわかれば実に面白い。そのあと相手の槍の柄に絡んだ鎌の刃はすうっとそのまま男の槍を掴む手に向って走った。あっと相手が気付いた時にはもう遅い。握っていた親指がポロリと落ちた。わっと男が槍を捨てたときサポの穂先は跳ね上がって一気に相手の喉を突いたのである。片鎌槍は鮭を突くマレク(鉤銛)に似ている。だから子供のときからこの得物に馴染んでいるように思えた。つまらぬ男ではあったがウトウも最後にいい物をくれたとサポは思った。 「次は誰が相手か、」サポはニヤリと笑って敵を睨みつけた。 誰もがぞっとしてサポから離れた。 「ふん、汝らはそれでも男か、」といつものようにうそぶきながら遠くに敵を探してみた。 すると遥か向うで庄太夫が倒れながらも刀の武士と闘っている姿が埃立つ彼方に見えた。 「けっ、メナシの狐が難渋しておるわ。様こそ見よ」と嬉しそうに悪態をついた。
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