江戸から蝦夷へ
侮れぬ、あの民族は侮れぬ、泰広は少年の時のこの小さな体験が大人になり忘れていたかに見えたが、今、本当に彼らを相手に戦うと決まれば、突如としてそのことが脳裏に焼きついたやけどの痕のようによみがえった。まずは古傷が痛みだしたというところであろう。果たして勝てるのか、絶対に勝てると粥川翁から設楽が原のことを聞いたとき確信を持っていたものが、たかが夢から子供の時の体験を思い出しただけで虚しく崩れ始めた。 泰広は横になった身体がまるで畳から離れて宙に浮いているような不安定感になっている自分に気が付いた。なんとも不気味な一瞬で元に戻そうとしても自分の意志ではどうにもならないもどかしさに苦しみのた打ち回ろうとしてもどうにもならない。「鉄砲がそれほど凄いものと己は本当に信じているのか、」あのアイヌ少年の嘲る声が耳の奥に響いて、泰広はやりきれなかった。彼は何度も冷静になろうとして、自分に言い聞かせるのだが上手く行かず、鉄砲戦の利点のみを何度も反芻し、さらに練り直してこれで絶対勝てると信じても、やはりアイヌ少年のことを思い出せば、その全ての作戦が空しく崩れ去るのだった。なぜそうなる、あんな子供になにを怖れると言うのだ、とぼやきながらついに泰広は一睡もせずに鶏鳴を聞いたのである。
その朝も昼に近い頃、再び泰広は登城した。 今度は幼い松前藩主の志摩守矩広を連れていた。正式に幕府へ蝦夷の反乱を報告するためである。この時期泰広は寝る間もないほど忙しかった。ま、昨夜は実際に寝ていないけれども。 さて、二人が将軍家に拝謁するため登城したのであったが、当時の四代将軍家綱は病弱な人であった。彼は、結局早折した父家光よりも長くは生きられず、四十で亡くなっているのだが、この日も体調が思わしくなく大名との面会は控えられていたのである。泰広にすれば、儀式的なものであったから、あえて家綱に会う必要は無いと思っている。代わって面会してくれた大老はあの井伊掃部頭直澄ではなく、酒井雅楽頭忠清であった。大老は本来、大災害や大事件が起きたときにのみ設置される臨時職である。二代秀忠以来幕府最高機関である老中の決定は全員の賛成をもって決めるという慣わしがあった。これではいざと言うとき時間がかり、へたをすれば小田原評定にもなりかねず災害や事件では急ぎ決めなければ間に合わない事が多くあるからして、それで指揮権を一本化して難事に当たるというのが大老職の目的であった。あの明暦の大火は未曾有の災害である。当然大老をきめて復旧にあたるべきであったが、当時の老中首座であった松平伊豆守信綱は島原の乱や慶安事件で実績をあげていたのであえて大老に就任しなくとも誰もが彼の指示に従ったのである(後に大老は井伊、酒井、土井、堀田の四家から出す規まりとなった。もし信綱がなっていれば松平も入れた五家であったかもしれない)。これを見ても大老職は飾り物でないことがわかるというもので、伊豆守の利発さは、あえて大老にならずとも、そのような権力をわざわざ光らびかせ無くとも十分難局を解決する自信があったということであろう。いかにも実務家らしい人であったが、しかしその信綱も寛文二年に六十七歳で亡くなってしまった。江戸再興はまだ半ばである。将軍家も激務に耐えられる身体ではない。そこで大老職が必要となり、老中から選ばれて酒井忠清が職に赴くこととなって国難にあたった。ところが忠清は後に下馬将軍と呼ばれるようになかなかの曲者だったのである。家綱も暗君どころか、父からも認められるほどの人物であったが、なにせ身体が弱かった。信綱健在であればなんともそれでおぎなえたのであったが、彼が亡くなると待っていたように、信綱を補佐して多くの難局を乗切った忠清が頭角を現し始めたということになったのでる。そして彼は大老になると幕政を専横し始めていった。江戸の再興には巨額の財力を持って大工事を何度も発注していかなければならないのであって、それを決定する権力が忠清に集中していたから彼は当然のようにその力を私物化していったわけである。そう意味では、忠清は信綱と比べようも無い凡庸の幕吏であったのだが、ついに目に余る様になり、それを溜間詰の心ある大名達が危機感を感じて彼の汚職を追及し出した。特に岡山藩主池田光政はその先頭に立ち、意見書まで忠清に突きつけて汚職の回答を求めている。彼らはこうした忠清の横暴を阻止するため、老中からではなく溜間詰から新たにもうひとり大老を任命させた。それが彦根藩主の井伊直澄である。だからこの時代、大老は二人いたということになる。つまり大老の本来の意味がなくなってしまったといえるだろう。それが光政らの狙いであったことは確かである。こうした非難の中にあっても忠清はしぶとく大老の座に居続け、やっと五代将軍綱吉の代になって罷免された。 綱吉はよほど忠清のことを腹に据えかねていたのか、新将軍になって待ちかねたかのように第一の仕事として彼の罷免を実行したのである。その四ヵ月後、忠清も忠清でその腹いせに腹を切って新将軍への面当てにした。 もともとの始まりは病弱な家綱に子が出来ず、また早折したこともあり、跡目がきちんと定まっていなかったので、彼が綱吉の将軍職選任に反対し京の公家から選ぼうとしたことにある。権力に驕れる忠清は下馬将軍に本気でなろうとし、そのためには見せ掛けの操り将軍人形がほしかったのであろう。これを老中の堀田正俊らが反対した。当然のことであり、忠清は愚かにも自分の力を過信していただけである。結局、忠清の画策は失敗し綱吉が五代将軍になった。綱吉はすぐ忠清を罷免しただけでなく、露骨にもその下屋敷を召し上げて堀田にくれてやったのである。忠清はこれを恨みこんな将軍のもとで生きているもバカらしいといって腹を切ったのだった。綱吉はまた人伝に忠清の、主を怖れぬ話を聞いて怒り、彼の不敬の切腹を証拠として酒井家を取り潰そうとした。さっそく大目付に忠清の検死を命じて酒井家へ行かせた。ところが酒井家では、 「病死である」とし、頑として遺体を見せなかった。 大目付の彦坂九兵衛は虚しく帰ってきてそれを綱吉に報告したところ、綱吉はさらに怒って、 「何が何んでも検死して来い、」と再度命じた。 やむなく彦坂がまた大目付配下の手勢を連れ戦覚悟で酒井家を訪ねるとすでに忠清の遺体は寺に運ばれていた。おっつけ九兵衛が寺へ行って見るともはや忠清の遺体は焼かれてしまっていたのである。これではさすがの綱吉もどうにもならない。酒井忠清とは、死してもなほ、そういう男である。 その男が今、平伏している矩広と泰広の前に招き猫のように鎮座している。 「志摩守殿にはこの度の件ご苦労様でありますな」と少年に忠清は優しく声をかけた。 が、その声には妙な艶があり、まるで汗ばんだ手で握られたような嫌な感じが泰広にはした。こいつ衆道か、と一瞬思ったがすぐにその考えを頭から打ち消した。それよりも矩広の挨拶が気になるのである。 「お気遣いまことにありがとうございます。このたびはわが領国の遥か東で夷どもがお上の御威光を恐れず一揆を起こし候ことまことに遺憾に思いまする。ここにご報告する次第であります。つきましては夷どもを成敗するに当たりましてわが藩の者はもとよりこの志摩守も弓をとって助力承りますれば、何なりとお申し付けくださりませ」と、この短い言葉を棒読みするようにしてたどたどしく少年藩主は言った。 矩広は泰広から貰った紙に書かれたこの言葉を昨夜何度も三郎と練習していたのである。 「おお、おお、まことにご殊勝でありまする。公儀はいますぐにでも彼の地へ行って夷どもに鉄槌をあたえますれば、志摩守殿はまあ弓など置いてごゆるりと御館でご見分なされよ」と言いながら忠清は廊下に控える茶坊主のほうを見た。 「ささ、慣れない登城でお疲れでしょう。お菓子など召し上がれ。ほんにご苦労様でしたな」 茶坊主は忠清の目配せを機にあらかじめ用意していた菓子と茶を蒔絵のたかつきに載せて矩広の前に持ってきた。矩広は目の前に出されたお菓子と泰広を交互に見ていた。泰広はそんな矩広に優しく微笑むと無言でうなずいた。 「利発なお子じゃ」忠清は微笑みながら十歳の子供にお世辞を言った。 泰広は忠清のこの言葉に懐かしさ感じた。彼が十四歳のとき、兄に従って初めて福山から江戸へ出たときのことである。 当時の将軍は三代の家光であって、兄と共に拝謁すると、家光は泰広を見るなり、いま忠清が云った言葉と同じ言葉を言ったのだが、そのあと、家光は気さくにも壇上から降りると拝謁している泰広のところへ自らやって来て耳元へささやいたのだ。 「利発さを簡単に人に見抜かれるようでは駄目じゃ、もっと賢き者は真には呆けて見えるものなのじゃ」 泰広は今、権現様の再来と言われている家光が若い頃、馬鹿ではないかという評判があったことを人伝に聞いて知っていた。だから、少し顔を上げて不思議そうに将軍を見た。すると家光は、 「少しはわかっているようじゃのう」と云って微笑み「余がもっと教えてやるゆえ、ここに留まるがいい」と云ってくれたのが、泰広の人生を大きく変える一瞬であったのだ。 家光にすればこれは人狩であった。賢い者を出来るだけ側に集め手なずければ、徳川家にとって安泰は揺ぎ無いものとなる。やがて彼はこれが縁で旗本になり、ついては松前藩をも救うことになるのである。 「ところで、」と忠清は儀式もこれまでとして泰広のほうへ向き直った。その顔はいつもの大老の顔に戻っている。「掃部頭から聞いたのじゃが、夷のことよくよくわかり申した。しかし八左衛門殿、一万二千は無理じゃのう」と、まるで反乱のことはよそ事のように、物の値段を値切るように言うのだった。 「さればいかほどの軍役でありまするか?」泰広は驚きつつも、話が一気に本題に入ってくれた方がむしろ急ぐだけに良かったと思った。 「奥州の諸大名はみな飢饉で窮しておるのじゃ。おまけに頼みの綱の仙台は何やら揉めていて騒々しい(これより後、寛文十一年に仙台藩家老らは忠清の屋敷で刃傷事件を起こす。いわゆる伊達騒動である)これに軍役を頼めば騒動に利用されかねぬ。ということで秋田、津軽、南部と問いただしたところ、せいぜい七百というところか、」 「各藩でござりまするか?」 「いや、三藩合わせてじゃ、」 「ん?」 「そのような顔をするな。時勢が悪い」と忠清はまたも他人事のように言った。 「雅楽頭様、怖れながら申しまするがあの島原の乱でさえ三倍の軍勢をもっていてさえあぐねたのでありまする。たとえ低く見ても敵の四の一とは、何か他に策でもあるのでござるか?」 「それをのう、」と言いながら忠清は泰広から視線をはずした。持っている扇子を膝に立てると、目をそこへ落とした。「それをそちが考えるのじゃ。掃部頭とも相談して、そちをこの度の蝦夷征伐軍の総大将に決めた」 「えっ、」 泰広の顔は見る見る青ざめていった。このひとは何を考えているのだろと忠清を見つめた。確かに七百の兵であれば二千石の旗本が率いてもおかしくは無いだろう。しかしその兵は奥州各藩である。確かに江戸城に於いては二千石であろうと旗本ならば外様大名とは同格であった。しかし外に出ればそうはいかない。実力だけが幅を利かすのである。二千石は立てたところで二千石だけでしかないのだ。 かつて島原の乱の時、幕府は最初に若年寄の板倉重昌を総大将に任命した。ところが九州の諸大名は軽輩の重昌を馬鹿にして謂う事をきかなかった。このため制圧軍の指導力が作動しないまま戦は停滞した形になって解決を見ないまま時だけが過ぎた。これに業を煮やした幕府は次いで老中の松平信綱を上使として送ったのである。ところが信綱が赴任する前に重昌は責任を感じて功をあせった。このため無理な攻撃をしてしまい、これは敵の思うツボで、制圧軍は脆くも敗退し重昌自らも眉間に銃弾をあびて死んでしまったのである。その例もあるのに、なにゆえ奥州各藩より格下の自分を総大将にするのだろうか。せめて名目だけでも若年寄並から総大将を出して貰いたかった。そうすれば実質的なことは全部泰広がやるとして、総大将は権威をひけびらかして床几にでも座っているだけでいいのだ。それで何もかもが上手く運ぶだろう。しかし大老の口から出た言葉はもはや覆ることはない。こうなれば松前一藩でやるしかないのだろう。この藩の兵をかき集めてもいかほどだろうか、せいぜい三百というところか、まったく話にならない。これはどうみても絶望的である。たとえ奥州各藩の人数を入れても一千でしかなく、願わくばアイヌ勢も一千であればいいのだが、しかしここは直澄の言うように最悪の数字を考えるべきである。泰広は目まぐるしく頭を回転させていたが、身体は鳥肌がたち、どうにもならない恐怖が、重責が身体を支配して知恵を巡らすどころではないのである。 「たかが夷ではないか、烏合の衆にすぎぬて。葵の御旗を見ればただちに蜘蛛の子を散らすように逃げるに違いない」 忠清はそんな泰広の顔色を見ながらも、辺境の地に起きた乱など何の利益もないわ、と言わんばかりの口調であった。 「お前は、馬鹿か、」と思わず泰広は叫びたかった。 葵の御紋など蝦夷から見ればただの葉っぱじるしにすぎない。この権力者は世間のすべてのものが、 「ひかえ、ひかえ、この紋所が目に入らぬか、」と一喝すれば誰もがひれ伏すと思っている。 確かに他藩の百姓ならばそれもあるだろう。忠清の蝦夷の知識などその程度のものなのだ。蝦夷には自分達が徳川の百姓などになったと思っている者はひとりもいないのである。こちらが勝手に家来にしているだけにすぎない。有史以来未だかつてまだ全蝦夷を誰も武力を持って鎮めたものはいないのだ。忠清はそれをわかっていないと知恵を巡らすよりも泰広は腹が立った。まったくこの男は何も知らない。もし蝦夷と和人が同じ人数と同じ武器を持って相闘ったとしたらこの国に彼らに勝てる藩は一藩もありやしない。泰広はそれだけは断言出来ると思った。それは彼が育った松前藩の歴史が教えているのだ。過去に何度かあった蝦夷と松前藩の戦いでこの藩は武力で勝ったことは一度もないのである。その優れた者達を相手に四の一にも満たない数でどうして戦えるか、泰広は菓子を頬張る幼い矩広を見た。何の屈託もなく彼は美味しそうに菓子を食べていた。哀れな子よ。この藩は本当に滅んでしまうかもしれない。そう思うと胃の下が痛み出した。 「どうじゃな八左衛門どの。この任、お受けなさるか」 断わることはさせぬ。という忠清の目付きであった。 「それがし謹んで承りますが、して御公儀の軍勢は?」 「そちの手勢だけでは駄目か?」 「まさか」 「ならば如何ほど必要か?」 「鉄砲方五百人、槍組一千二百人ほどを願いまする」と泰広はどうせ多めに言っても削られるだけなので本当に必用な実数だけを言った。 「それは無理じゃ。いかに直参とはいえ、旗本の身分で率いる軍役にあらず」 忠清は財政難だから無理だとはいえない。しかしそれは本末転倒ではないかと泰広は思った。身分が合わないなら合うものを総大将に決めればいい。 「では如何ほどに、」 「鉄砲方から二百人、槍組五十人でどうじゃ」 「…」 泰広は声も出ない。最初から、自分を総大将に決めたということはそういう腹だったに違いない。アイヌなんぞに金など使いたくないという忠清の思惑は見え見えだった。蝦夷を馬鹿にして過小評価している。とてもこんなもので勝てる相手ではない。生え抜きの旗本でもない自分など死んでも彼らにはどうということはないのだ。松前藩の親戚筋の自分が総大将になれば松前藩は蔵を空にしても尽くすだろう。そうなれば幕府の出費も少なくて済む。だいいち幕府は諸藩の財政を疲弊させ力を削ぐことを政策の初めとしている。それらを見れば忠清の考えそうなことだと泰広は思ったが、気付いたときは遅きに帰した。ついでに自分も松前藩も滅んでも幕府には何の損失もない。取り合えずこの連中でやらせ、駄目ならもう少し大掛かりに取り組むという腹だろう。こうした高級官吏には島原の乱もなんの教訓にもならなかったのだろうか、板倉はなぜ死んだのか、自分の身に起きなければ他岸の火事のように思っている馬鹿者らめ、兵を小出しに使えば戦いは必ず負ける。これは古来よりの兵法の基本ではないか、徳川家といえばまがりなりにも征夷大将軍、将軍とは天下に武を布いて国を治める者をいう。家康は大坂の陣で勝利して天下布武は完成したと思っていたかもしれないが、ただひとつ見落としている地がある。それが蝦夷地だ。米も穫れず言葉も通じない蝦夷地は家康には外の国だったのかもしれないが、しかし今その蝦夷地に武を布くときが来た。幕府はこの機会に彼らを上回る圧倒的な兵力を持って立ち向かい威圧しながら敵に到底勝てる相手でないことを見せ付けておかなければならない。そうすれば蝦夷も二度と反抗しようとは思わなくなる。それなのにこの国最大の軍事組織はなんたる吝嗇、泰広は自分もその組織の一員かと思うと腹が立つというより情けなくなってきた。死ぬか、こんな馬鹿な連中といるよりはその方がましだ。もはや自分は命を捨てて掛かるしかない 「どうじゃな?」 「かしこまって候」当然そう言うしかない。 「では頼みまするぞ」 「ただ、」腰を浮かした忠清を呼び止めた。 「何か?」 「急ぎまする」 「わかっておる。兵は拙速を尊ぶ、であろう。いま直ちに鉄砲方にも触れを出す。案ずるな」 孫子の兵法の一節なぞ唱えても所詮この男は机上の兵法家にすぎない、と泰広は軽蔑した。 「ではこれにて、八左衛門殿、よき首尾待ち申しておりますぞ。志摩守殿もまたその折には遊びにおいでなさい」と言うなり忠清はプイと行ってしまった。 泰広は気落ちしそうな自分を励まし、これでいいのだと思った。この難事をもし上手く切り抜ければこの幼い矩広に悲願の幕閣入りへの道筋を付けれるかもしれない。かえってこれこそは禍を転じて福となす好機なのかもしれない。しかしそれは安易なものではないだろう。賭けに出るとは今が時か、まかり間違えば皆滅ぶ、自分も松前藩も、それは幕府によってではなくアイヌ軍によって滅ぼされるだろう。困難の壁はいつも高くて厚いのだ。この国の男たちは何時の世もこうなのだ。到底成し得ない課題を突きつけられ、それを彼らは血の滲む様な努力と知恵を絞って取り組んでいく。そうした者たちの成果によってこれから先もこの国は発展していくのである。 軍令は下された。泰広はただちに行動を起こした。すでに直澄との話が終わって帰宅した翌日、松前の蛎崎広林に自分が行くまでにやっておいてもらいたい事を記した手紙を早馬で送らせている。緒戦こそがすべての結果を決めることはあきらかで、泰広には時間が無いということが常に頭にあるから準備は十分ではないが、しかし当地に行けば何とかなるという考えもない。泰広は家の郎党や松前藩江戸屋敷の五十人も酷使して誰も眠らないで三日で準備した。もう公儀には泣き付かないと心に決めこの与えられた兵でなんとかしなければ、たとえ勝っても泰広の評価は小さいだろう。どのようなことをしても手柄を決定的なものにして松前藩に貢献しなければならないことは、父が兄がこうした自分を予想して幕府の直参にしたに違いない、となればまるで孫のように可愛い矩広のためにもこれが勝負なのだ。全知全霊をかけてこの戦いに挑む定めに、この一戦に賭けるため自分は生まれたと泰広のような仕事師には困難こそむしろ望むものであった。彼は前途に希望だけを見つめ現実の辛さをすべて捨てた。そして何度も何度も自分に言い聞かせた。おまえなら勝てる。絶対勝てると、そう思っても泰広には一抹の不安があって、あの子供のとき、弓の名手であったアイヌの少年は長じてシャクシャインになったのではなかろうか、ともに生国を照らし合わせればそんなことはあり得ないのだが、泰広にはそう思えるのだ。あの時のあの少年の爽やかな勝利の笑顔が、泰広にはそのときから今に至るまで到底自分が勝てる相手ではないと疑問符を投げつけている。泰広は子供のとき学問所でも武術の道場でも同じ世代の子には一度も負けたことが無かったのに、それがアイヌの少年との弓試合で初めて負けた。生まれて初めての敗北、それはこの世には自分よりも優れている者がどれだけいるのかという世間の広さを初めて知った瞬間でもあった。ゆえに生まれて初めて他人を尊敬したが、それが今一抹の不安となって心の隅を曇らせているのだ。あの少年がシャクシャインであったなら自分はきっと負けるだろう。しかも、これまでに反乱軍よりも鎮圧軍のほうが少数という例はあったろうか、優れた指導者に率いられた数でも勝る相手にどうしたら勝てるというのだ。泰広は生涯でこれほど興奮したことはない。「何としても今度は負けない」あの少年に向かって四十二歳の泰広はそう言った。あの夢の中のように、彼の地で少年が手招きしているかのように、そしてそれに憑かれたように準備は進んだ。泰広の側用人と彼の下僕を残し他の郎党と松前藩江戸屋敷の家老と郎党以外はみな幕府征夷軍に組み込んだ。こうして集められるだけの人を乗せると彼らは江戸湾から幕府の軍船に乗り東回り航路で蝦夷地へ向かったのである。この航路は黒潮が北上しており、北へ向かうには早い。 寛文九年七月の終わり。 船上から岸を望めば靄の海の向うにこんもり飯を盛ったような容の御殿山が視界を覆うほど大きく迫っており、大鼻岬のあたりから湾内にかけてが急激に海に落ちていて、天然の神の要塞のようでもあった。この山は大森辺りから見ると横に長く牛が寝そべっているように見えるのだが、海路を湊へ向うとこのような形に見えるのが面白いともいえるか。 この日の午後も大きく回ってから船は陸とこの山島の間に出来た砂州の湾に入り碇を下ろした。すでに何艘もの小船が陸からやってきていて母豚の乳に群がる子豚のように大船にへばりついて来た。 泰広は矩広を伴なって一番先に小船に移ると陸で待っている広林のところへ向かったのである。広林は不安そうな顔をして浜辺に立っていた。まず二人は矩広を一旦街中にある曹洞派の高龍寺という寺へ休息のため連れて行った。矩広は参勤交代の江戸詰の期間はまだ明けていないのだか蝦夷征夷軍の協力藩として当地で差配をしなければならない事情がある。そのため幕府は帰国の特別許可をだした。だからといって彼を戦の場へ連れ出す気は泰広にない。これから暑くなる時期でもある。そうした意味でも泰広は矩広を蝦夷へ連れてきてあげたかっただけのことである。と本心から泰広は云えなかった。矩広はいわば指揮を高めるための背水の陣であったのである。へたに負ければ矩広とて危うくなるは必定であったが、ここはみなを奮起させるためにもどうしても必要な駒でもあるのだ。殿様が後ろでみているとなれば、武士は倍の力を出すだろう、泰広の見込みはそういうところであろうか。 この亀田には松前藩出張りの会所もあるのだが、ここは狭くて貴人を休ませるには汚すぎるので、だから街中の寺が選ばれたのであって、二人は、矩広を奥の間にくつろがせるとそれから本堂脇の控えの間に行った。泰広は、地味だか小サッパリした鹿の子模様の単衣を着た一人の青年を連れて来た。彼は泰広と広林に遠慮して本堂から中に入らずかしこまってそこに座った。 「この者は、」と泰広は上座に座るなりその青年を広林に紹介した。「公儀鉄砲方組頭井上外記殿である。以後見知りおかれよ」 「はは、それがしは松前藩国家老蛎崎蔵人と申しまする。よろしくお引き回しくだされ」と広林も本堂の方を向いて挨拶した。 「こちらこそ、」青年は人懐っこそうに微笑んでぺこりと頭を下げた。 「この外記殿はね、人の良さそうな顔をしているけれどこれの名人なのですぞ、」と言って泰広は銃を構える格好をした。「三十間離れた木のさくらんぼだって落としてしまうのです。」と笑いながら言った。 「ほう、それはすごい。頼もしい限りですな」 「いやー」と井上は言って盛んに髷を整えるように頭をかいて照れていた。 「さてと、」泰広は真顔になると本堂の青年を無視して本題にはいった。 じっくりとこのたびの報告を広林から聞いたのである。 「蝦夷はどこまで迫っているか?」 「絵鞆と歌棄でござります」 「数は、」 「物見の話では絵鞆に一千、歌棄に一千かと、」 「確かか?」 「向うから来た蝦夷を捕らえて聞きましたところでも、やはり合わせて二千でありました」 泰広は自分の考えが的中したことにむしろがっかりした。最悪か、と腹の中でうめくなりしばらく腕を組んだまま何も言わなかったが、広林は次の言葉が出るまで辛抱強く待っていた。やがて泰広は大きくため息をつき、 「是非も無し、」と静かにつぶやいた。 「勝てませぬか?」広林は幕府軍の数が思ったより少ないことに気落ちし、不安そうな顔をして聞いてきた。 「勝てますよ」泰広はハッとして顔を上げると明るい顔になってそう言った。自分が自信を無くすると兵全体も意気消沈するではないか、大将としての心得を危うく忘れるところだった。「ところで国縫の砦はどうなっていますか、」 「御大将から指図ありましたときより取り掛かりまして、すでに出来上がっておりまする」 「国縫川東岸の木はどうなりました?」 「それもお指図どおり四十間切り取っておきました。切った木で矢倉を組み高見からも鉄砲も放てるよう工夫など仕ってございまする」 「結構です。大変だったでしょう」 「はっ、でも御大将のおっしゃるとおり、金掘りたちが皆励みましてござります。兎にも角にもあれらが土いじりの名人であったことが幸いしました。まさに黒鍬者のごときでありまして、アレよと言う間に盛土つかまつり高い土手も出来ました」 当時、蝦夷地における採金事業の最大の場所はこの国縫川あたりであった。のち大正時代にはここに近い静狩山中に大きな鉱山会社も出来たのだから、これを見てもこの辺りの金の埋蔵量の豊富さがわかるであろう。そのため本州から大勢の金堀人足が入ってきた。この途方もない他国人の急激な渡島が先住のアイヌ民族にどれほど悪影響を与えたかということが何度も言うが想像出来るだろう。またアイヌ軍もこのクンヌイ砦を落とすことを悲願とした理由も想像できるのではないだろうか、彼らにしてみればクンヌイ砦こそ悪の牙城だったに違いない。彼らは、アイヌ民族が各地で蜂起してこうした金堀だけでなく漁師や商人などの和人を襲って殺してもいるが、しかし彼らは怒りに負かせて皆殺しをしたわけではない。日ごろアイヌびとに優しかった和人は殺さなかったのである。それが泰広の『渋舎利蝦夷蜂起に付出陣書』で見れば東蝦夷で十五人西蝦夷で七人いたという。だから彼らは決して凶暴な民族ではないのだ。信義を重んじる人々であった。それはクンヌイの合戦直後にとった彼らの行動でもわかることで、そのことは後に話す。ただ大勢の人はこのことに恐れ皆本州まで非難しようとして近辺から亀田に集まっていた。それを泰広からの指示書を受け取った広林が彼らを説得して再びクンヌイまで連れ戻したのにはわけがあった。つまり彼らの土木技術を頼みとし、こうして、まだ残っていた者も入れて一万人ほどが砦造りに参加させられたのである。それでも彼らはアイヌの蜂起軍が近付いていると知ると砦の完成と同時に皆逃げ出した。が、また反対に多くのものも踏みとどまって籠城に参加したのである。それが五百人いたというから人の業のあさましさを見る思いがする。彼らは命よりも金の魅力に抗し難かったのだろう。逃げ出せば採金の権利を放棄したことになるからなのだ。採掘権はもう早くから満度に達していたから、空きを待っていた者の多くはクンヌイ砦に残った。命など羽毛よりも軽い時代、欲こそが生きる糧なのだ。 泰広は広林にあのとき書いた絵図を見せてもらった。 「この通りに出来ましたか?」 「ええ。柵も出来ております」 「砦の大きさはどうですか?」 「一千は十分に入れます」 そうですか、と泰広は腹の中でつぶやいた。千か二千と言えば人は楽な方の千を取るものだ、と泰広は思った。仕方ない時間の関係もある。現地で指示できなかったことが悔やまれるが、もはやこれでやるしかないのだ。 「よろしいのでしょうか?」何も云わない泰広に広林は不安そうに尋ねた。 「いやすまぬ。他の考え事をしていました」と言い訳しながら懐から例の篭り部屋で書いた朱入りの地図を出した。「さてと、ふたつの大きな部族は互いの縄張りにある商場から和人を駆逐してそれぞれその西端で集結している。そしてこのふたつが合流するのがここクロマッナイとなる。」 泰広は矢立で二重丸のあるクロマッナイを示した。井上外記も本堂から首だけ伸ばして地図を見いっていた。 「そのとおりです」 「ではなぜ未だにここへ合流しないのだろうか?合流して南下すれば国縫の我らの砦が完成する前なら落とし易いと誰もが考えるでしょうに、」 「訳はいろいろありましょう」と云って広林は膝を前に進めた。「ひとつは、あの者どもは信義を重んじます。ゆえに、勝手に内浦の蝦夷の縄張りに武装して入ることは礼に反するとおもったのでしょうな。もうひとつは余市の蝦夷が日高の蝦夷と上手く合流出来なければ少数で国縫のわが軍と戦うことになりましょう。すでに蜂起してひと月は経ちますゆえ、われらがクンヌイに砦を築き迎え撃としていることは知れており、これを撃つには余市の蝦夷だけでは無理でありますから緻密に絵鞆と連絡をとりあっているのではなかろうかろうと思われまする」 「うむ、まことそうであろう」 「また、ひとつ懸念の儀ござりまする。これが釈舎院を絵鞆に留める一番のわけかと、」 「ん?何か、」 「内浦の蝦夷どもが密かに海を渡り絵鞆に合流してるとの話聞きましてござります」 「やはりのう、集結する兵が増せば周りの者どもも吊られてその気になるものだ。それが戦の勢いというものさ。誰も負ける側にはつきやしない。蝦夷どもはこの戦勝つと皆そう思っているのだろう」とこの言葉を本堂の外記に聞かせるようにして話した。 外記は黙ってうなずいていた。たとえ武器が貧弱でも敵より人数が少なくともこの勢いを持った方が戦に勝つ場合が往々にしてある。泰広はそれを恐れていた。もし蜂起初期の段階で自分が蝦夷に駆けつけ松前藩一藩の兵を引き連れてのみ戦ったとしたらどうだったろうか、と思った。鉄砲の数が少なすぎるから多分おぼつかないだろう。どちらにしても確実に勝つとしたら今日の状態しかないのかもしれない。随分と急いだつもりだがやはり江戸と蝦夷は遠すぎるのだ。ついに蝦夷は十分な準備を整えてやって来るだろう。この戦いは双方に大きな犠牲が出るかもしれない、あの設楽ヶ原の合戦のように。泰広はそれだけは避けたいのだが、勝っても犠牲が多ければ忠清の嫌味が聞こえて来そうでうんざりするのだ。だからこちらが圧倒的に勝たなければその後自分の立場が無くなるというもので、しいては松前藩の今後にも影響するだろう。先に信長が実戦による鉄砲戦の見本を見せてくれている。その弱点も長所も実験のようにやってくれた。それを基本にして陣立てすれば決して負けやしないさ。そう何度も自分に言い聞かせた。大将が弱気になれば戦には勝てないのが世の常である。 「この戦、蝦夷が勝つのでござりますか?」広林は言葉どおりに話を理解して不吉なことを言った。 「まさか、わが方が勝つに決まっております。ただ、蝦夷もそう思っているということです」 「戦はまことそうですな」 どうも蔵人は頼りないな、と泰広は思った。 「蔵人殿、国縫の大将はそこもとですぞ。奮起つかまつらなければなりませぬ」 「えっ、」 「驚きなさるな。万が一にもの話ですが、釈舎院は絵鞆から船でまっすぐ内浦湾を渡りこの亀田を襲わないとは限らない。余市の知蔵毛が国縫を襲い釈舎院がここを襲う、二点を同時に攻めてわれ等を混乱させる。なにせ彼らの方が人数は多いのです。敵にはそういう陣立てもありうると言うことです。絵鞆から亀田は海を渡れば余りにも近すぎる。戦は常に悪いほうで考えなければなりませぬ」 「まこと御大将の申すとおりでありますな」 「そこでそこもとが国縫を守り、それがしが亀田を守りましょうということです。もし釈舎院が国縫に現れたならすぐに一報をもらいたい、さすればそれがしもすぐに亀田から船にて馳せ参じる。砦を囲んであずっている釈舎院の後ろから新手が攻めればいかに向うが大勢でもわれ等が勝ちましょう。軍勢というものは横と後ろが一番弱いものなのです」 「まさに、まさにでござりまするな」広林はやっと希望が見えたのか嬉しそうに微笑んだ。 「ただ、蔵人殿は持ち堪えねばなりませぬ。一人でも蝦夷が土手を越えて侵入すれば砦は崩れますぞ。蝦夷を侮ってはなりませぬ。互いが切り結べば我らが負けると思いなされ。侍が一番武芸が達者などという思い上がりは蝦夷には通じませぬ。奴らは実戦を積んでいるのです。敵う相手ではない。とにもかくにも鉄砲だけが頼りです。この井上殿とはここへ来る船中で何度も話し合いました。十分にそれがしの考えは井上殿に伝わっておりますれば、後は彼の指図に従ってほしいのです。従ってというのは言葉に語弊がありまするな、これらを助けてやってほしいのです。鉄砲が一番大事と思いなされ。それを自由に活躍させることが出来ればこの戦、必ず勝ちます」なあ、そうだろうと言う風に泰広は井上を見た。 外記は呆けたように微笑んで愛想笑いをした。 「肝に銘じて御大将の言葉に従いまする」広林は井上の方にも頭を下げた。 「いやいや、そのまま鵜呑みしてもこまります。蔵人殿が常に大将であることを忘れてはいけませぬ。井上殿らはあくまでも鉄砲隊のみでござる。戦は始めて見ないと何が起きるかわかりませぬでな。ともかく砦を破られないためにはあらゆることに臨機応変にたち舞わねばなりませぬぞ。それがしが陣立てしたことなどあくまでも基本でござる。はじまれば蔵人殿の采配ですべては決まる。頼みますよ」 「かしこまりました」 「して軍役ですが、どれほどになりまするかな?」 「すでに国縫には我が藩二百七十が入っております他、金掘りなどの人足どもに商人らが五百もおり、合わせて七百七十人でござる」 「それに公儀鉄砲方の二百に槍組五十人、これで千を越えまするな」 「御大将が連れて来た兵すべて国縫に廻すのでござるか、」 「左様、」 「もし釈舎院が亀田を襲えばどうなりまする?」 「それは心配御無用、すでに津軽藩がこちらに向かっております。秋田、南部もおっつけ来るでしょう。彼らの差配は蔵人殿ではなりませぬからそれがしがここでやりまする。だからそこもとはそれがしの直属と貴殿の配下とであれば思う存分働けるでしょう」 他藩同士では格付けがあって上手く行かないが、泰広は幕閣だから誰も逆らえない。ただし他藩も藩士だけでくれば問題ないが、藩主が率いてくれば、ここでまた格付けがうるさくなる。直参も大名も家光の時代からは同じく将軍の直属の臣下とされている。しかし朝廷から下賜される名誉職によって別の格付けが存在するという複雑な身分制度にこの時代はなっているのだった。このため島原の乱の、板倉の二の舞になるのを恐れて、泰広は忠清に願って他藩の派兵は藩主自らが率いて来ない様工作しておいた。大名の臣下であれば陪臣である。直参の泰広からみれば圧倒的に身分が違う。それこそ顎で使えるのだ。 「御気使いかたじけのうござりまする」広林は深々と頭をさげた。 別にあなたのために気を使って入る訳ではない。クンヌイで指揮が上手く行かずに負けたということだけは避けたかったのだ。決戦はクンヌイになることは明らかである。出来るものなら泰広が現地で指揮をとりたかった。しかし奥州諸藩を広林に預けて自分がこちらに来るわけには行かないのであって、もし上手く防御戦が長引けば、亀田からの援軍が重要なカギになることは確かなのだ。あの強敵を確実に倒すには挟み撃ちしかない。その時もたつけばすべては終わりになるに違いない。だとすれば自分が後方支援に廻った方が絶対いいだろうと泰広は考えた。ようは鉄砲である。若くとも井上外記は信頼出来る男だ。きっといい成果をあげるに違いない。 「もう一度この戦の陣立てを簡単にわかり易く説明したい」そう言って泰広は外記を見た。「井上殿もいつまでもそこに居ないで、もそっとこちらへ、」 外記はこくりと頷くと座ったまま手を足のようにしごいてツツっと中に入って来た。 「蝦夷が国縫であろうと亀田であろうと、どちらか一箇所を襲えば、襲われなかったほうは必ず援軍に駆けつける」 「挟み撃ちですね」外記はそう言って手をパンと叩いた。 「そのとおり、挟み撃ちしかこの戦勝てませぬ。だから互いに連絡を密にしなければならないでしょう」 「もし奴らが個々に襲ってくればどうなります?」今度は広林が言った。 「敵の勢力は分散されます。個々に戦えば勝負は互角となるでしょう。しかし一箇所だけを攻めでくれば大勢を持って力任せに一気に倒せると誰もが思うものです。だから敵は有利な方を取る。がそれは理屈で実は、数はこちらが少なくとも勝ちは大いに望めましょう」 「少なくとも勝てるとはどういうことでしょうか?」 「大きな者は小回りが利かないでしょう。熊でも小さな蜂には勝てないのです。羆は前の敵に捉われて動けない。そこを援軍が横腹を刺せば致命傷になるということです」 「この理屈であれば少ないほうが却っていいのでしょうか、」 「そんなことはありませぬ。攻められる者らは数が少ない分持ち堪えるのは大変なのです。もし援軍が間に合わなければ、それらも返す刀で殺されることになる。これは非情に危険な陣立てで苦肉の策でしかない。敵は豪の者ら、単純に彼我を比べてもこちらに勝機はひとつも無いと云っていい、理屈の上で勝ちはこちらにあるだけです」 「砦の頑丈さだけが頼りとなりますね」 「そうです。亀田もこの裏山を砦として戦えば貴殿らの到着まで持ち堪えられるかもしれない。」 「だから全知全能を酷使して戦わなければ明日は望むべきも無し、」と井上は腕組しながらまじめそうに言った。 「そのとおり、」泰広は微笑んだ。 勝てると言ったり負けると言ったり、いったいどっちが本当なのか、広林はやはり不安だった。彼は本堂の本尊を覗いた。頼みの綱はご本尊様だけか、 折りしも時を告げる鐘が腹に響くように低く静かに鳴った。鐘の音は高い鐘楼から亀田の町の隅々響き渡っていった。夕日が町を覆っていた。真っ赤に、粗末な藁屋根の群落を染める様はまるで町が襲われて炎上しているかのようだった。
|
|