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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第10回   長篠合戦の真実
 長篠合戦の真実

 泰広が屋敷に帰ると家人があわてるようにして玄関先に彼を迎えに来ようとするのが見えた。良家のお姫様として育った妻が、もどかしそうに廊下を早足でそれでも早く歩くを悟られないようにある意味懸命だったその姿が、待っている泰広には可笑しかった。この時代、女性は決して走らない、なのにあわてないように努めてあわてている妻を見ていると、人の苦労も知らず、のほほんと育った女が今日だけはなぜか違ってお人形様にかけられた呪術がやっと解けて人間になったようでそれが面白いのだ。
このような夫の思惑などつゆ知らず、家人はなんとかたどり着くように泰広の前までくると礼儀正しく座り直し毎日の儀式、帰宅にたいする挨拶をしてそれから小声で矩広が来ていると囁いた。
 なるほどあわてるわけか、しかしこのことは泰広が事前に本家松前藩江戸屋敷に命じていたことだったのであるが、たかが子供が来るだけなので家人には知らせていなかった。それで悪いと思ったのか懸命だった妻に報いてやるため彼は大げさに肯いた。
泰広は裃を着けたままだったので、刀を家人に渡すとそのまま客間へ急いだ。
 矩広は幼くとも松前藩当主であるため儀式上蝦夷の蜂起を幕府に報告しなければならない。たまたま藩主は江戸詰の年にあたっていたので、都合もよけれとそのために急ぎ泰広が呼んだのだ。泰広が慇懃に客間に入ると五代藩主松前志摩守(従五位下)矩広はチョコンとあどけない顔を見せて上座に座っていた。此の年彼はまだ十歳にすぎない。泰広は叔父であることを別にしても旗本であるため、矩広とは対等の身分であったが、ここは彼の家来も同行しているので矩広を上座に置き型通りの挨拶をすませて見せたのである。矩広はお忍びでやって来たから家来は十人ほどしか連れてこなかった。泰広はそれらと頭を付き合わせて明日の打ち合わせをした。松前藩江戸屋敷から江戸城へ行くよりもここからの方が遥かに近いことと、泰広が同道する都合もあるので藩主は今夜泰広の屋敷に泊まるように言った。矩広はつまらなそうに大人たちの神妙な顔を眺めている。やがて打ち合わせが終わると家来らは明日の登城の準備のため帰った。泰広は立ち上がり矩広の頭をなぜてから、息子の三郎兵衛を呼んで彼に矩広の遊び相手をするよう命じたのであった。矩広はそれを聞くなり嬉々として飛び跳ねたのである。
 あと自分は家人のところへ戻り一旦衣服を解いて寛げる着物に替えてから、ひとり書斎へ向った。泰広の書斎は八畳間。離れにある。飾りは何も無い。壁の三面は本棚になっており、諸本がびっしり棚を弛ますほど納められているので部屋は実状、六畳間であった。あとは廊下側に文机がひとつあり、部屋の真ん中には町屋で見られるような箱火鉢が置いてあって初夏の今は炭が入っていないが、それでも喉を湿らすためか箱棚の上に茶碗が置いてあるのは、これも五徳に載せた釜から水を汲んで飲むためだろう。泰広はこの部屋に籠るとき家の者が出入りすることを嫌うため、だからひとりで大抵のことは出来るように夏でもこうした水の使える道具を置いているのだった。箱火鉢は便利な引き出しが沢山ついていて、泰広はこうした機能的なものが好きなのだ。それが町人の物でもかまはない。なにせ他人を寄せ付けないこの部屋は別に格式を重んじることもないのだから、これ以外部屋にはなにも無駄なものはないというのが彼らしい。ただ几帳面な泰広にしてはめずらしく今部屋は散らかったままだった。たぶん昨夜もここに籠っていたのだろうか、沢山の地図や手紙や本が畳の上に散乱していた。そのほか朱墨の入った赤漆で塗られた矢立と黒墨の入った黒漆で塗られた矢立が地図の上に文鎮のように置かれている。まさに雑然としている。しかし、如何に夫人が牧野氏でもこの部屋を勝手に片付けることは許されない。
 泰広は早足でここまで来ると急ぎ部屋に入り障子を閉めた。箱火鉢のそばの蝦夷地の地図の前に座ると上から覗き込んだ。そして昨夜の続き、現地から来る報告書に照らし合わせて地図に朱で書き込んでいった。ひとつの油断も見逃しも許されないと決めているかのように集中していた。口では侮っていても、泰広はこの度の敵がただならぬ者達だと深く感じているのであった。そしてわが軍の誰が総大将になろうと自分は必ず参謀として呼ばれるに違いないと信じている。なにせ泰広ほど蝦夷に詳しい旗本は、他には絶対いないのだから。
 泰広は銅製の矢立でポンポンと肩を叩きながら何箇所かに朱の入った図面を覗いている。頭の中で、これから起きるであろう蝦夷との戦いの作戦を独り練っているのであった。たぶん狩猟民族である蝦夷は山岳戦に優れていることは間違いないと思うのだが、これ、もし山中で出会えば、たとえ彼らよりも三倍の兵力を持って戦ったとしても自軍の勝利は覚束ないであろう。だからといって平野での会戦もこちらが圧倒的な戦力でなければ勝てないことも確かで、つまり体格、持久力、闘争力を比較すれば彼らの方が勝っているのは、泰広が身を持って知っている事ではある。しかもこの時点では幕府がどれほどの軍役を施すのかまだ泰広にはわからなかった。直澄の言い様を真似て考えれば、わが軍が最低に考えて六千だとしたら、強兵の蝦夷が相手ではたとえ勝っても多大な犠牲をこちらは強いられるに違いない。敵の命は虫より軽くとも味方に犠牲者が多ければ勝っても遺族が騒ぐ、これには幕府も困る事態になるだろう。ま、そんな先のことばかり思えば戦など出来るものではないのだが、しかもこの戦いでは完膚なきまでに蝦夷を叩き、幕府の強さを知らしめておかなければその後この地を統治することはできないのである。
 泰広は考えた。
 過去に自軍よりも強い相手と戦って完全に近い勝利を得た合戦はなかったろうかと、そのような都合のいい話はあるわけがないと思いつつもそうした固定観念が知恵を鈍らせるのだと戒めて、箪笥の奥の小物を探すように考えを巡らしてみれば、人の脳ミソほど良く出来たものはなく思考して結果の出ないものはないのである。
そしてついに閃いた。
わずか百年も経っていない頃、しかもわれら徳川家が大きく関与した合戦があったではないか、当時日下最強といわれた武田軍を織田・徳川連合軍が破った合戦が、そう設楽ヶ原の合戦がある。この合戦は徳川の歴史でも輝かしい一戦であったから今でも江戸城ではよく話題になっているのであるが、しかし百年近くも経つと語られることに信憑性は無く伝説的なものばかりだった。つまり有名な話となれば三千挺の鉄砲を三段に構え間段なく弾は武田軍にそそがれたなど、である。泰広は実務的な男であったから実際にはそうした操銃は無理だとわかっていて、本当はどうだったのか、どうしても今すぐ真実を知りたいと思った。そこで泰広は、当時織田軍の鉄砲隊長だった金森長近の子孫(美濃郡上藩)の江戸屋敷を訪ねて話を聞いてみようと思った。きっと誰か、何か、たとえ真実でなくともそれに近い話があそこには眠っているに違いない。掘り起こさねば、大事は乗り越えぬ。
 外の陽は落ちていたがさほど訪問に遅い時刻とも云えないだろう。
泰広は行動を起こすのが早く、文机に向うとさっと手紙をしたためた。内容は金森家にこの度の蝦夷の反乱を説明し、これを鎮めるには鉄砲を効率的に使うしかなく、それにはどうすればよいのか設楽ヶ原での御家の活躍をぜひとも知りたし助力を乞うというような意味のものであった。障子を開けて小者を呼ぶと急ぎ金森家へ走らせた。返事に相手の有無は必要ない。公儀を盾の質問である。小者が帰ってくる間に泰広は外出の仕度を終えていた。当然金森家からは「諾」の返事が来た。
「急ぎまする」籠に乗るなり泰広は用人へそう告げた。
用人はさらに先棒へ、
「急げ、」と顎をしゃくる様にして命令した。
 揺れる籠の中でも泰広の思考は休まない。
 日下最強の軍団、当時の武田も現在の蝦夷も共通するのは旧世代の運用を重んじた軍であることで、それに対し信長は近代兵器を装備した軍勢で戦ったため勝敗はあきらかだった。戦争は武器の優劣も大きく関わることは当然である。
 当時街道筋にあって京にも近い尾張美濃などの国は商業が発展し領民は利に聡いがため、こうした人々はこらえ性が無く兵には向かなかった。だから兵は鄙ほど強いと昔から言われている。甲斐、越後、そして同盟国の三河などがそうだった。この最弱の織田軍に対し信長はその弱点を補うため新兵器で装備した。女や子供でも扱い方さえ知っていれば、鉄砲は一瞬にして相手が天下の豪傑であろうと倒してしまう。これがために時代は殺戮技能の優れた者が優劣をきめるのではなくなり、兵個人による戦の場での優美な殺人もまた強弱の差も無くなってしまったのである。まさに鉄砲は神の雷を人間が手に入れたわけで、しかし戦闘全般に於いて信長が、そのいかずちをどう使いこなしたのか泰広にはよくわからない。すでに百年近くも経つと事実は風化し、華やかな伝説だけがもてはやされる。人は言葉を用いて嘘を付く唯一の生き物であり、故に事実よりも派手な話を好むことを楽しみとする傾向がある。だいたい千挺の鉄砲を狭い設楽ヶ原に並べること自体が無理である。また戦線を細長く横に配置することは臆病な愚将がよく取る布陣であって、回り込まれることを恐れるのはわかるが、もし敵が一丸となって一箇所のみを攻めれば布陣は簡単に破られてしまうのだ。だから歴戦の将である信長は、そんなことは決してしない。では信長は三千の鉄砲を本当はどう使ったのか、金森家にはその真実が百年近く経っていても正確に伝わっているに違いないと思いつつもそれ以上の思考は進めなかった。頭を無にして相手の話を訊いたほうが素直に、真実に耳を傾けることできるのではないか、無かと禅宗の好む言葉を頭で反芻している自分におかし味を感じてわずかに苦笑し、今は執着こそが一番の課題なのに、あれらに絶対勝つにはこだわりを持って、ついには鬼となり執着しなければおぼつかない、と決意も新たにしていると、側を早足であるく用人が目的の屋敷が見えてきたことを知らせてくれた。
泰広はわずかな供回りと供に郡上藩江戸屋敷に入った。
 藩では相手が直参でもあることから江戸家老の粥川仁兵衛が自ら門前に出てきて泰広を迎え入れた。泰広は突然の訪問を詫び慇懃に礼を言った。そのあと彼は小奇麗な書院に通された。
 時は無い、ということが常に泰広にはある。彼は下座に座る人の良さそうな初老の小柄な仁兵衛へ事件を簡単に説明し、過去のあの有名な設楽ヶ原合戦における当家の鉄砲戦を教えてほしいと頼んだ。仁兵衛は目をくりくりさせると、えたりとした顔つきで講釈師もここぞとばかりにその質問に答えてくれた。
「こほん」とここで仁兵衛が咳を入れるのは常套として「まず巷で言われる織田徳川軍が三万五千、武田軍が一万五千で合い戦ったとうのは嘘でござりますな」老人は楽しそうに話し始めた。
「ほう、」と泰広はこれも常套として相槌を入れて話を合わせた。泰広にしても当時の武田家の勢力を思えば、あり得る話であると信じた。「して如何ほどでしたか?」
「織田徳川で一万七千、武田が六千でしたな」
「それがまことでしょうな」蝦夷の反乱にしても最初は十万余といわれた。広い蝦夷の大地で各地から一斉蜂起すればそのような数に見えるのだろうか、それとも話は大きいほうが人は驚くと語部は法螺をふくのだろうか、ただ一万七千でも実際に現場で見れば気の遠くなるような人数であり、敵の六千も決して、恐怖心を通して見れば味方の数が勝っているとは思えなかったに違いない。しかも家康はかつて三方が原で完膚なきまでに叩かれ、信長は端から怖れ、外交手段の全てを使って、時には媚びてまでもへつらい甲州から動かすまいとした敵であった。如何に子の代となっても、日本国最強の軍団の名は今も響き渡り、その怖れは一万七千全員が持っていて、しかも六千という数はこの時点では誰も知らず、味方のほうが多いかも知れないという程度の情報しか入っていないのである。まあ、わが軍は六千で攻めますので、そちらは如何ほどの数で守りますか、などという話はないのが当たり前で、むしろ軍役は秘中の秘であった。後に三万五千とか一万五千などと言う数字が出たのは、員数は戦後も秘中のままだったろうし、また戦前に故意に広報した数が後々まで信じられたとも思われる。だから目の前の武田軍はまさに山が動いているように感じるほど威風堂々として、織田徳川などどれほどのものかと相手を呑み込んで意気盛んであったに違いなく、この雰囲気を見たこともない人に伝えようとしたなら語部が大げさに言わなければ現場の実感はわかないのかもしれない。「して戦はどうなりましたでしょうか?」と、息を呑むように集中し、泰広はこの先の話が一番知りたいのだ。
 このとき小者が入って来てふたりの前にそれぞれ酒器を載せた膳を置いた。それから粥川が酒瓶を取ると泰広に酒を勧めた。泰広は仁兵衛に一礼すると盃をとった。ふと膳を見れば塩豆の皿が載っているだけだったが、これは別に金森家が吝嗇しているわけではなく、当時としてはこの程度が普段のお茶代わりの酒盛りなのだ。
「さてもでござる」と言いながら仁兵衛も盃を取って小者に注いでもらった。「この戦にはわしの祖祖父が行ったのじゃが、我が家に伝わるはその祖祖父の話でこれがまことかどうかはわかりませぬ」
「いえ、きっと貴殿の家に伝わる話こそまことと思われまする」たとえ法螺話が混ざろうとも真実を持った家の話ならばこびり付いた苔を落として元話はそこから探れると泰広は考えた。
「そう思うてくれますると話もし易うござりまする。さてご先祖様らは、設楽ヶ原に着くと当初は足軽はもとより騎馬武者までもが黒鍬者のように百姓道具を持って連吾川沿いに溝を堀り、土を掻き揚げて土塁を半里も築いたと言うとりました。このことは戦場で首を稼ぐより辛かったらしいですな。えらくぼやいていたそうです、大爺様は。まあ確かに土木作業は我ら侍にはきつくてしかも味気なく地味で楽しいものじゃないのは、拙者も若い頃は道普請などで狩り出され、時無ければ人夫どもに混じってやってみるが、辛いことよくわかり申す」
 いかにも当事者の親族の話は本人が実際語っているようで泰広には面白かった。おそらくは夕餉の際に先祖代々語り継がれてきたのだろう。
「それは急ぐものだったんでしょうな。総見院様自ら馬を駆って半里を見回り、これも功名の内ぞ、励めっと叫んであるいたので皆懸命だったそうです」
 泰広は懐紙と矢立を出すと、土塁と書いて丸で囲んだ。
 信長の天才性はこの鉄砲というものを髄から熟知していたことにあるのではないか、この塹壕のようなところ(この場合穴ではなく土塁だが)に兵を伏せて敵に射撃するという考えは当時西洋でもなかった。この時代、平野で行われる会戦には互いに全身を剥き出しにして密集軍団を形成して撃ち合うというのが常識だったのである。戦は弓矢の時代を受け継ぎ鉄砲時代になってもまだ身を野にさらけ出したまま縦隊になり射撃した。これは弓が寝転んで射るこのできない時代の名残でもあるといえるか、と同時に矢に身を晒す度胸を見せる痩せ我慢でもあったろう。信長は天性の合理主義者であるから痩せ我慢はいらない。だから鉄砲の、弓など比べるべくも無い破壊力を恐れて地面にへばりつくよう命じたのである。戦の美を捨て実戦の効率のいい方を彼は取った。まだ死に様に美しさを見た時代、名こそ惜しむが侍の意地とした時代に人を人とも思わぬ信長だからこそ出来たことではある。
 しかし操銃はこの時代世界中で織田軍以外、東洋でも西洋でも立ったままだった。是より後になってさえも互いに遠くから密集軍団で近づき射程内に入ると同時に一発一斉射撃を行い後は弾を込めるヒマはないから(器用な者は進軍しながら二発目を込めて撃ったりはしたかも)両軍がぶつかる様にして銃の先に付けた剣を頼りに白兵戦を行うのである。これは元込め銃の開発によって銃が連射されるようになるまで続いた。(ただ塹壕から飛び出して突撃するという鉄砲初期のやり方は第二次大戦まで続けられ兵士は大きな犠牲を強いられていたのである)ただしこれは西洋や中国での話し、広い平野に恵まれない日本では明治以後他国で戦うまでこうしたやり方はあまりなかった。広い平野で戦を展開できない日本は、その戦闘体系も鎌倉時代からさほど変わらず集団の中に居ながら個々に戦って手柄を競うというものであった。この国では御家人ひとりに数人の陪臣が付き添いその小単位が主家に対して功名を請け負う仕組みになっている。その中でも石高の高い者は鉄砲を購入し家来に持たせた。鉄砲は強敵に対し遠くから狙撃してこれを仕留められるという最大級の利点があり、このため危険な格闘をせずとも手柄を簡単に手に入れることが出来るのである。これが日本の戦場に於いての鉄砲の使われ方で、あくまでも個々の持参品でこの程度の使い方だった。また鉄砲は緒戦において発射音と破壊力で脅しに使うという方法もとられたが、本格的に勝敗を決めるのは今までどおり槍仕事である。だから当初、鉄砲はその本来の威力が発揮されずにいた。それを信長は西洋の運用方法をバテレンなどから聞き、その人命を無視した英雄的な操銃よりも、まあ彼も人命に重きを置いてはいなかたが、ただ味方を武力として損耗を防ぐために彼らしく改良して独自の作戦に仕立てたのであろう。鉄砲を個々のものから団体のものに変えた。もともと威力のあった鉄砲はこれで集団化することによって途方も無い力になるということを信長は頭の中で描き、その実行を何よりも楽しみにしたに違いない。最早、鉄砲は個々のものではない。このためそれ自体が独立した軍団となった。しかも信長は西洋のように緒戦でのみしか鉄砲が有効にならないという欠点を克服しこれを近代戦と同じく連射する方法を考えついたのである。だから信長の陣立ては近代戦そのものだったといえる。近代戦の塹壕に匹敵する土塁に隠れて敵に射撃するという方法も信長が世界で最初に考案したかもしれない。
「総見院様はこの土塁に鉄砲組を伏せ武田軍を待ち構えたんだそうですな。どうも土手に這いつくばり目と鉄砲だけ地べたより出してまるで蛙のような撫様な姿であったとご先祖様はえらく嘆いておられたらしい、本当は堂々と戦ってこその武士ですからな。どうも総見院様の考えでは、その格好で三人一組になり鉄砲を次々と放つようにしたのでござりまする。まあ、それもこれも元は雑賀衆の考えたものなんですな。こう、」と言って老人は伏せる格好をして見せ雑賀衆の三交換撃ちのやり方を説明した。
雑賀衆は紀州を根城にした最初のプロの鉄砲軍団でその技術を売り物して諸大名に仕えるという戦国独自の自由な集団であった。同じようなものに伊賀甲賀の忍者集団がいる。彼らは一大名に生涯仕えるのでは無く、その技術を買ってくれるのなら何処の大名にでもその都度就いたのである。こうした特殊技術を売り歩くのは乱世ならばこそで、一般の武士にしても優れた戦闘力を持った者は自分を高禄で雇ってくれる主家を探して何度も鞍替えしたりもしている。七度主家を替えて一人前の武士と言われたくらいだから当時は戦闘技術を商売にする自由な空気が強かった、こうしたことは、強力な王がいなければ、己の技に頼るしかないということも逆にいえる時代なのではないだろうか。
そうした雑賀衆が考えたのが火縄銃の速射であった。当時火縄銃を連射するには二十五秒の時間がかかると言われた。雑賀衆はこれを三人一組にして一銃を発射したあと次の発射までの時間を十秒で行えるようにした。すなわち射手をひとりとして三挺の銃を使い、助手二人が交互に射手が撃った後の鉄砲の弾込めをして順にまた射手に渡して行くという方法である。信長はさらに早盒(はやご)(細い竹筒にあらかじめ一発分の火薬と弾丸をセットしておき使用時一挙に銃口から入れる)を使って五秒に一発撃てるほどスピードを上げたと老人は説明した。泰広はそのあたりのこと詳しく懐紙にメモした。
「しかしね、思考と現実は違うようで、なんともはや、これは思うようには行かなかったようですな」と老人は以外な事を言う。
「その雑賀衆のやり方で弾を途切れなく放ち甲州軍を倒したのではないのですか?」
「左様、ん、そう云われておりますが、本当の戦はそれほど甘くはないのでしょうかの。総見院様の理屈は確かに間違ってはいなかった。だから後の世でもあの戦は鉄砲の勝利だといわれたのでしょう。ところが戦というのは生き物なんだということでしょうか」
「どういうことですか?」
「最初は確かに甲州軍は低く攻め易い原の中にある連吾川を渡り土塁に向かって寄せてきたのじゃが、これが後で言われるような騎馬武者の突撃などではなかったのでござる」
「ほう、」
「実は原とは拙者の適当な言いまわしで、狭い国では元の原はみな開墾されているのが当り前、故にこのあたりは田んぼが多いのでござる。しかも前日に雨が降って地面は余計にぬかるんでいたらしいとなれば、馬鹿でもない限り、ここへ馬など入れて走れる訳が無いと思うでしょうな。ま、それでも甲州者は馬を捨て這うようにやって来たそうです。それに向かって鉄砲を放ってもたいした当たらなかったそうですな、つまり甲州者も蛙のように泥をはいつくばってるわけで、わが軍と同じでありまする。しかもです、一度に二百三百の鉄砲を放ったため辺りはものすごい硝煙でまるで煙幕を張ったようになったしまったわけで、まったく何も見えなくなった。それでも鉄砲隊は射撃を止めなかったと言われています。これは隙間なく弾幕を張るという、当初の考えが全鉄砲隊に命じられていたためなんでしょうからね」と言いながら老武士はくすくすと笑い出した。「まあ、合図の頭の旗振りが見えないもんですから、初めに言われたとおりにやりゃいいなんてみんな思ったんでしょうか、もう、やけですわ。ほんとのところ、生の戦というものは如何に普段心掛けていても実際には違うのでしょうね。どうしても早く敵を倒そうとする気持ちが強く、特に攻めてくる敵は怖いですからね。落ち着いて狙い済ませば一発でいいものをあせって早め早めに数多く撃とうするんですな、人は。おまけに最初の一発で前が何も見えなくなる。そうなるとその煙りの中からいつ敵が飛び出して来るだろって誰しも思いますわ。これは怖い、益々焦りますなあ」
 計画と実際は大きく違うときがある。確かに黒色火薬は凄まじいくらいに硝煙が出る。一銃でも前が見えなくなり二の矢はすぐに放てない。泰広は鉄砲には当初から連射は無理だったのだとこの時初めて知った。
「かえってこの煙幕は甲州軍に幸いしたようで、彼の者どもは煙の中を土塁までそれほど損害を受けずにたどり着いたそうですよ。たどり着けば甲州軍の方が強い、鉄砲隊は離れていてこそ力を発揮できるが接近戦となれば、これではどうにもならない。ご先祖様も鉄砲を捨て腰の刀を抜いて戦ったそうですわ」
 仁兵衛は何度も首を横に振りながらため息混じりに話していた。
「それにですな、松前殿。誰も土塁を築き鉄砲で固めたところ、いくら平で歩き易いように見えても、敵がその土手を盾に待ち構えている一番攻めづらいところへ進んで行くなんて馬鹿なことしやしませんでしょう。しかもその前はぬかるみになっているのですからねえ。だから大半の甲州軍は土塁を避けるようにして北側の織田軍、南側の徳川軍へとかかっていったそうです。総見院様もこのことは知っていたらしく、権現様と二手に分かれ、それぞれがここに主力を置いて待ち構えていたんです。わしは今になって思うのですが、馬防柵は設楽ヶ原の馬が走りやすい原っぱのところを囲って、わざと敵をこの方面から攻めさせないようにした。山側の方で総見院様は最初から戦うつもりだったのでしょう。この方が城に籠って戦うようにやり易いですからなあ。敵は面のように固まって攻めることが出来ない。山あいを棒になってくるしかない。そこを上から下へ有利に攻める。まして敵は得意の馬が上手く使えないですからな。しかも甲州軍は相手より少ない数をさらに南北二手に分かれて攻めなければならないことになり、さもなければ挟み撃ちに合うことにもなりますものねえ。六千が二手に分かれて単純に三千としても戦場(いくさば)はあの里山の狭いところですからねえ、もう足軽のごとき戦いですわ。両軍は敵も味方も入り乱れて訳も分からなくなり大混乱になってしまった。あとから死んだ者の数を数えたなら織田徳川軍も武田軍も共に一千人だったそうです。わずか半日の戦で二千も死ぬなんて尋常ではありませぬことで、まさか総見院様も自軍の損害がこれほどになるとは思わなかったでしょう。この戦、力押しでやっと倍の人数のいる方が勝ったというところでしょうか、ただね、鉄砲が多かったことが勝ち負けを分けたと言えなくも無いんですな、これが。なぜなら混戦の中でも皆それぞれ勝手に鉄砲は撃っていたらしいのです。それでずいぶん鉄砲で騎馬武者を狙ったらしく武田の名だたる武将が大勢このとき亡くなりましたことは有名な話ですが、どんな槍巧者でも周りに配下を取囲まれていても、遠くから鉄砲で撃たれりゃ、これは堪らんですよ。撃つ方は煌びやかな具足の騎馬武者を選んで狙えばいいから簡単に大将をやっつけれるてなもんでさあね。これで甲州軍も持ち堪えることはできなかったと大爺様言っていたそうです。それはそれがし思うのですが、鉄砲隊が当初の陣立てのように、世間で言われる三段構えってやつが実際はわずかしかなかったことを気にして、たいした役にたたなかったんで言い訳がましく祖祖父は家の者に言ったんじゃないでしょうかね」と仁兵衛は照れくさそうに泰広を見て微笑んだ。
「いや、それもまことのことでありましょう。むしろ土手際で使うよりもこの混戦でやるほうが、三人一組の鉄砲隊ならひとりが弾込めしている間に二人が守り、二の矢を放つまで十分敵を凌げる。出来ないことではありませんな」
 あるいは信長はこのことも考えていたのかもしれない。至近距離では防御に薄い鉄砲をふたりの兵が盾になって守り射手を仕事に専念させれるようにする。こうすれば白兵戦でも十分鉄砲は使える。しかも強兵である騎馬武者も難なく殺せるのだ。騎馬武者は周りを自分の家来で守っているからそう簡単には倒せないのが常識。これを槍などで攻めるなら周りの兵卒を倒してのちやっと本命にたどり着けるのだが、鉄砲ならいきなり遠くから本命を倒せるではないか、しかも主人が倒されれば、従卒は稼ぎの保障を失うので無駄な戦闘から離脱する者が多いこととなり、これで敵の戦闘力は大きく低下してしまう。まことに鉄砲は大きな威力を持っている。何事も常識破りの信長らしい鉄砲を用いたこの作戦は、ひとつはあまり上手くいかなかったが後世の戦術に先駆けたことは確かである。そしてもうひとつの白兵戦での鉄砲の運用は泰広には目を見張るほど素晴らしい作戦だと思った。
泰広は多くを得た。
 そのあともしばらくは仁兵衛の話を聞き、まもなく何度もお礼を言ってそこを辞した。仁兵衛は実直な泰広に好意を持ったのか、門まで送ってくれたのだが、このような昔話がいったい何の役に立つのだろうと、仁兵衛は不思議でもあり、それが顔に出たのか別れ際に気の毒そうな表情になるとわずかに咳篭り、そして言った。
「貴殿も大変なご災難に見舞われましたなあ。何もお手伝い出来ずお悔やみ申すとしかいえませぬが、」
「いえいえ、この話で十分助力を乞うたつもりです。まこと多くを得、感謝にたえませぬ」
「そうですか、蝦夷などたかが百姓ではありませぬか、きっと上手く片付きますとも、」とまた寂しそうに仁兵衛は微笑んだ。
 ところが世の中皮肉なもので、そう言った老人の金森家もこれより八十五年後に増税に反発した自国の百姓が一揆を起こすという事件に見舞われるのであった。世にいう『郡上百姓一揆』がそれである。
 泰広が金森家を辞して帰宅しようとした頃、夜も深まろうとしていた。帰途の籠の中でも泰広は先ほど聞いたばかりの話を思い出し整理して考えてみた。本朝の戦の作法というものは騎馬武者(上士)ひとりに対しこれを守るように五六人の家来が周りを囲む。これが最少単位である。禄高の高い武士になればなるほど、細胞分裂をおこしたように形は変えずに員数が多くなるのだ。これが餡を包んだ饅頭とすれば領主はこの饅頭を入れた菓子箱を持って戦場に行くという形になる。
さすれば蝦夷軍はどのような軍団を組んでくるのか、と泰広は帰り際に仁兵衛から貰った塩豆をぽりぽりかじりながら考えた。そのとき仁兵衛老は「わが藩は痩せ地にてこんなものしか採れぬ」と嘆いていたが結構美味しい豆ではないかとおもうのだが。さてアイヌ軍だ。松前藩はその創成期から何度もアイヌと戦っているのだが、それなのにこの宿敵に対し何の資料も藩の書庫にはないのであった。つまり恥になることは残さないと決めたのであろう、なんと言う愚か者か、と泰広は思った。それだけいままで彼らを侮ってきたのであろうか、内乱は何度も起きているのに、鎮める度にもう興らないだろうと安易に考える、相手を下等な民族だという思い込みがそうさせるのだ。そのツケを今払わなければならないとは、泰広はプッと口のマメガラを籠の外に飛ばした。豆はざっと採って炒めているから中には小石も混ざっていて、気を付けなければ歯を欠いてしまうことになる。
 しかし自分もその一族のひとりなのだと思うと泰広は苦笑せざるおえないか、思うに、アイヌは少数の部落単位で暮らしているのだ。それも血族で固めているという話はかつて蝦夷地に住んでいたから泰広も聞いていたのだが、つまりは武士団と何ら変わらない集団ではなかろうかと想像出来るのでは、きっとそうなのだと彼は思った。さすれば信長が用いた騎馬武者を鉄砲が狙撃するという方法をそのまま使えるではないか、マメをカリッとかじった。狙撃か、泰広はマメの袋を探った。もうマメは無い。籠は屋敷に入った。供の者が大声で主人の帰りを伝えているのが、夜半ゆえ耳障りであった。あんなに大声でなくてもいいだろうにと泰広は思った。気の毒に屋敷に入ると家族が出迎えていた、まあまあ遅くまですまぬことではあると心で思っても、主人である以上、口には出さない。良く見ると矩広もいるではないか、この屋敷内では彼も家族の一員にすぎない。泰広は彼を抱き上げると自分の孫のように頬擦りしてあげた。矩広は泰広を親のように慕っていた。だから江戸詰のとき用務がなければほとんど泰広の屋敷で過ごし三郎をも兄のように思っていた。そこには福山で味合えない家族の団欒があると矩広は知っているのだ。彼は父を亡くした可哀相な子なのである。ゆっくりと矩広を下ろしてそれから、彼は小柄な家人の心配そうな顔を上からじっと見つめた。妻は夫の熱い視線にたじろく様に髪を入れず彼は、
「握り飯を頼む、」そう云うと刀をあずけた。
 着替えている間に家人は握り飯を用意してくれた。それを自分で運んで再び書斎に籠ったのである。泰広はどさりと座るなり素手で握り飯を頬張りながら、別の手で釜から柄杓もろとも取った冷たい白湯を飲め、かつ手についた飯粒をしゃぶる。誰も見てないところでこういうだらしないことをするのが、実は好きだった。そうしていても目だけは畳上の図面にあるのだが、
 金森家の家老に聞いた話を基に泰広は蝦夷の地図を前にして陣立てを練り直して見た。まず松前藩から報告のあったアイヌ軍が蜂起して襲った地に朱を入れていき、次に犠牲者の数字も横に小さく入れた。その内訳は以下になる。太平洋側の東蝦夷地ではシラヌカ(白糠)十三人、オンベツ(音別)十五人、トカプチ二十人、ホロイズミ(幌泉)十一人、ミツイシ(三石)十人、とここまではシャクシャインの縄張りであるメナシウンクル部族の勢力範囲である。ついでウトフが副酋長を務めたシコツ(千歳ではなく苫小牧)十七人、シラオイ九人、ホロベツ(幌別)二十三人などのシュムウンクル部族の勢力地になる。この地域全体は日高アイヌ族の勢力圏である。そしてそれに呼応するように日本海側の余市アイヌ族も蜂起したのであるが、すなわち、マシケ(増毛)二十三人、シュクツシ(小樽)七人、ヨイチ四十三人、フルヒラ(古平)十八人、シリフカ(岩内)三十人、イソヤ(磯谷)二十人、ウタスツ二人と彼らも自らの勢力圏内の和人を襲っている。その犠牲者は東蝦夷地で百三十人、西蝦夷では百四十三人と云われた。双方で二百七十三名である。このうち、武士はわずかに五人でしかない。ただこの中の百九十三人は砂金のため本州から近頃渡ってきた他国者だったということを見ても、彼らが何に対して怒りを爆発させたかわかるというものではないか。また日本海側に犠牲者が多かったのはこのあたりの交易地は歴史が古くそれだけ大勢の和人が住んでいたためである。大陸に近く内海的に航海が容易だったから交易品も多種で、加えて海岸線は岩礁が多く海産物もよく取れた。そうした意味でも人口が多かったのである。それに対し太平洋側は、多くは採金場や鷹待ちの狩場などがあった地で比較的新しい和人の居留地だった。このような被害者の数や場所が正確に後世にわかるのは実はいま泰広が図面に入れている数字と場所を整理して事件後幕府へ提出した『渋舎利蝦夷蜂起に付出陣書』のおかげである。(ただ東蝦夷の遭難者が十一名ほど足りない。これはどういうことか、)こうして見るとアイヌ軍は日高アイヌと余市アイヌの連合軍だったといえる。この他に大きな部族としては増毛から石狩川中流に勢力をもつ石狩アイヌ族といわれた人々がいた。これを束ねていたのが大酋長ハウカセである。彼の傲慢な性格からこの縄張り内では和人商人もさすがにあこぎな事が出来なかった。おかげで石狩の民は松前藩の圧力をさほど受けていないのであった。よって蜂起するほどの憤りは彼らにないということになり、それにハウカセにすれば同じく英雄として知られているシャクシャインにさらに名を成すだけだの蜂起などに興味はないという腹もあったかもしれない、という事情で彼らはこの蜂起には参加しなかった。さらに道央からオホーツク海側に棲むアイヌ族は大きな部族にまだまとまっていなかった。福山から遥かに遠く果てにいるからこそ束の間の安眠を貪れたのだろう。また彼らは大きな山塊にはばまれ和人など今だ見たこともなかったかもしれない。しかし時代は早い風に乗って彼らをもやがて悲劇に巻き込もうとしているのだった。
 まさに悪徳商人の非業に耐えかねて蜂起するのは主に余市アイヌ族であり、金堀人の自然破壊によって漁労生活が脅かされ堪りかねて立ち上がったのが日高アイヌ族であった。このことから見てもシャクシャインたちが何のために蜂起したのかわかるというものだろう。
 泰広は朱筆を口に咥え、正座している膝に手を置き覗き込むようにしてじっと地図を眺めている。彼らが初めから呼応して蜂起したことはこの地図を見てもわかるというものだ。ならばこの二つの部族が合流して福山に向かうとしたら何処になるだろうか、まず余市族は襲撃地の赤丸から見てウタスツの平野部に集結するだろう。その後ここから長万部岳と幌別岳の間を流れる朱太川を遡るようにして川沿いの道を抜けて太平洋側のオシャマンベへ出る。そこから駒ヶ岳の西辺街道を駆けて亀田を襲い次いで福山へも攻め上るに違いない。では日高族はと見ればこれも襲撃地の赤丸から見てエドモに集結するだろう。その後これも亀田と福山を突く。この経路を求めるとするなら幌扶斯山と幌内岳の谷間を流れる朱太川支流を下るようにして川沿いの獣道(現在ここは高速道路が通っている)を抜けてオシャマンベへ行くしかない。これらの経路にそれぞれ朱を入れて線を引くとひとつに重なるところがある。それが朱太川の支流と本流が交わるクルマッナイという谷合の平野部である。両者はここで合流するに違いないと泰広は読んで丸を付けた。そして彼らが最初に目指すはクンヌイであろう。なぜならここから長万部川沿いに太平洋へ向う道が開けているからである。こうして彼は再び筆を取ると長万部平野のクンヌイに二重丸を付けた。クンヌイは大採金場として近年飛び抜けて発展し交易地としても大きい。当然大勢の和人が住むからアイヌ軍は狙ってくるのは必定なのだ。ただここは内浦アイヌ族の縄張りだった。彼ら内浦アイヌ族は松前に近いことから早くに和人と接触しトラブルも昔から多く何度も反乱を起こしていたのだが、そうした歴史は逆に早くから松前藩に対し帰属されてしまったともいえるだろう。このため日高や余市のように不満を持っていてもすぐ呼応するというわけにはいかなかった事情を持っていた。
 逆にここに住む和人も松前藩の領地に近いので、砂金取りたちは侍の後ろ盾がそばにいるという心理もあってか結束して自分達の利益を守ろうとしていた。だからクンヌイや亀田などの大きな交易地に避難して来て松前藩の救助を待つという者が多かったのである。しかし不穏な空気は此処も変わらない。アイヌ軍の数がどれほどなのかわからず、次々と襲われ各地の交易所は悲惨な情報だけが飛び交い風聞は襲いくる民族の数を想像以上に膨らませているのだった。
 もしシャクシャインたちがこのクンヌイを攻めて陥とせば、この戦の勝機は大きくアイヌ側に傾いたと誰もが見るに違いない。そうなれば当然この地の内浦アイヌも一気に蜂起するだろう。それだけは避けたい。少しでも敵軍が増えれば我らの勝利はそれだけ遠のくのである。これはシャクシャインの方も同じ考えに違いないと泰広は思った。クンヌイを落とすことによって、内浦族の蜂起を促せばあとは難なく福山までの道が開けるのだ。クンヌイこそが寛文蝦夷の乱の『設楽ヶ原』だと泰広は思った。ここで抑える。もともと泰広には山岳戦だけは避けようと思っていた。たとえ万の軍勢がこちらにいたとしても見通しのきかない山中では鉄砲を思うように運用できない分不利になる。しかも相手は猿のように山を自由に走れる者たちだ。あえて敵に有利な場所で戦う必要は何処にもないのであり、戦はゲームではなく、ルールもないのだからして出来るだけ有利に展開した者が勝利を手に入れるのだ。泰広には最初から彼我の武器の違いを検討し彼らが持っていない鉄砲で勝敗を決めるという考えがあった。圧倒的な勝利を得るためには鉄砲の圧倒的な威力に泰広は頼るほかないのである。弱軍の織田勢を率いた信長のように、
 弓や刀で人を殺すということは、実は難しいのだ。もしこれらで致命傷を与えるとすれば何度も撃ち込むか斬り付けなければならないだろう。それほど人の力で繰り出すものは非力であった。ところが鉄砲は一発で人体を軽く撃ち抜き骨をも砕くほどの力がある。真っ赤に燃える弾丸は内臓を焼き尽くし、くどく云うが人力から発する弓や刀の何倍もダメージを与えるものだった。しかも弓や刀のように襲われる者はその武器を視認することができない。弾丸は人間の残像視力を遥かに超えるスピードで飛んでくる。弾が見えないということは、撃たれる側は何処から飛んでくるかわからないことになり、敵兵はこの鉄砲の恐怖に晒されながら戦場を徘徊しなければならないとなれば、相手が受けるこの精神的リスクはそれだけでもかなり大きいといえるだろう。こうしたことから見ても鉄砲はこれまでの武器に比べれば心理的にも圧倒的なものであったといっていい。戦はそれまで相手の戦闘力を無くする事で勝敗が決まった長閑なものだったが、鉄砲の出現によって大量殺戮の場に変わっていった。このような恐ろしい武器を大量に戦場へ持ち込めるのは信長のように非情な武将か、泰広のように異民族が相手だからかまわないという考えを持つしかないと当時の人は思ったろう。泰広は考える。有利な位置に立ち有利な武器で戦う。そうでなければ戦をすべきでない。あの民族にはそれでなければ勝てないと思った。平地で戦う。しかも設楽ヶ原の信長のように戦う。クンヌイには設楽ヶ原の連吾川のように国縫川が流れている。ここに信長がやったように泰広は川沿いに土塁を築くことを翌日使者を通して広林に命じた。 ただアイヌ軍が武田軍のように土塁を避けて回りこむことを恐れたため、土塁を四角く囲む砦のようにせよと付け足した。その規模も千人、出来れば二千人は篭城できるものにしてほしいとも云った。本来なら予想される鎮圧軍六千が入り込めるものがいい。しかし時間的にそれを構築するのは無理だろう。六千の兵が現地に赴いてから時があれば友城としてそれなりの規模のものをその兵たちによって築造させればいい。もし間に合わなければこの砦を盾にして兵を展開させるしかないだろうと泰広は考えた。陣立てはこれでいいだろう。泰広は長火鉢の上に置いてある握り飯をまた頬張りながら筆を持った。懐紙に大きく四角を書き横に国縫川に見立てた線を入れた。おそらく川の対岸は森になっているだろう。鉄砲も弓も正確に相手を仕留める射程距離を三十間とすれば、対岸四十間の木はみな切り払はなければならない。アイヌ軍を対岸に導き隠れ場所の無い彼らに不利で、こちらからは十分に狙い撃ち出来る環境を作る。そのため絵図の国縫川の横に朱で線を引き四十間の幅で木を残らず切る、と書いた。そして絵図の下にこの木で砦の中に矢倉を作ること、と書き砦の中に矢倉の位置も記した。また木が余るようであれば土塁上に柵を設けることと事細かく説明書きを入れた。この絵図も指示書と一緒に早馬で蛎崎広林宛にわたそうと思っている。これで勝てるという確信を泰広は持つことが出来た。彼はごろりと仰向けに寝転ぶとじっと天井を見詰め、粥川仁兵衛が云っていた言葉を頭の中で反芻していた。
「一斉射撃はこちらに不利になる。か、」と独り言をつぶやいた。
その不利を克服するのが矢倉なのだ。その矢倉は狙撃にも適している。泰広はきっと上手く行くに違いないと思いながら安心したのかそのまま眠ってしまった。
夢の中にアイヌの少年が現れた。
またか、とこれが夢なのだと眠る泰広には分かっていた。昔から見るなじみの嫌な夢なのだ。あいつが、そのアイヌの少年は鼻の下を指で擦りながら、
「早くおいでよ。また互いに競い合おうか、」と云ってニヤリと笑っているのだった。
 ここで泰広は目を覚ました。
 そのまま天井の節穴を見つめて子供の頃を思い出していた。彼はいかにアイヌ民族が闘争に優れているか身をもって経験したことがあるのだ。あれは幾つの時だったろうか、
 蝦夷の子は小さい頃からよく弓で遊ぶ。泰広も侍の子だから同じく弓の技術は大人から指導を受けていた。
 彼が十二歳のとき、道端で弓を持って歩いているアイヌの子をからかったことがある。そのとき相手の子は怒ってそれならお互いに腕を競い合おうということになった。二人は互いの仲間を見届け人として連れて愛宕神社の境内へいった。そこには祭りのときに奉納試合をするためにあつらえてある弓場がある。まさに弓競いとしてこれほどの場所はないだろう。さて子供だから的は十間先におかれた。的は並べて二つ。勝負は三本の矢を次々とふたり同時に放ってどれほど的に当てるかで決めることにした。泰広も弓には自信があった。二人は満月のように弓を絞ると立会人の合図を待ってひょっと放った。次いで矢をつがえ放つ、合わせて六本の矢はほぼ同時に放れたといっていい。競技はすぐに終わった。泰広の矢は三本とも的の中央黒丸にどれもが当たっているのが確認できた。さて隣の的を見ると当たっているのは一本しかない。あとの二本は何処へ放ったものか周りにはなかった。
「わしの勝ちじゃ」と泰広は満面の笑顔で得意になって勝ち誇ったのだが、
「ははは、おぬしの勝かえ?」アイヌの少年は癖なのかまた鼻の下を指で擦りながらニヤニヤと笑いながら嘲るように言った。
「何が可笑しいか、ここから見てもわしは三本とも的中しているではないか、己のは一本ぞ、あとの二本は津軽までも飛んでいったのかえ」
「ほざくも今のうちさ、目は顔の飾りでは無いぞえ」
「ふん」
 と、いつまでここで口争いをしていてもしょうがないので二人は互いの的を確認しに行った。そこで相手の的を見た泰広は唖然としてしまった。なんと一本の矢だと思っていたのに的のど真ん中には三本の矢が膠で付けた様にピッタリとくっ付いて同じところに刺さっていたのである。それ以来泰広は蝦夷を馬鹿にする和人の大人を軽蔑していた。少年にしてあの腕、大人ならばどれほどのものか、四十を越えた今も蝦夷は恐るべき民族なり、と泰広は思う度に冷汗が脇の下から出るのである。


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