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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第1回   広大寺
天に逆らう人々

勝野 森Ka tsu no shin



 広大寺

 彼の名は鷹待の庄太夫、または越後の庄太夫とも言われた。
 そのとおりのかつては越後国三島郡寺泊の住人であり、父は代々続く長岡藩や佐渡奉行所に弓矢を納める御矢師を生業とする家の人であった。庄太夫はその四男として寺泊片町に生まれたが、生年月日は定かではない。思うに寛永十一年当たりに生を受けたかと思われる。つまり丁度、荒木又右衛門が鍵屋の辻で新陰流の剣を振り回していた頃であろうか、よくわからないのは彼の死後誰もお上を恐れてこの男の出生を語る者はいなかったし、資料もあったとすれば捨てられたのだろう。生家の檀家寺にある過去帳にさえも彼の名は記されていない。まま江戸時代の罪人とはそうしたものだろう。
 だから話は憶測をまじえて語らなければならない。
 こうして彼は四男であったことから人減らしのため三歳になると信濃川を中ほどまで上った小千谷からさらに五里ほど上流の川沿いにある妻有郷神保村の禅宗広大寺に預けられた。 さて、このまま行けば出家して坊主の端くれにでもなったであろう庄太夫だったが、彼には並の者より才能があって、そうはゆかず奇異な人生を歩むことになる。またこの幼少より庄太夫は学問好きだった。むしろこの才能が彼の運命を変えたというべきかもしれない。名も無き北越の匠の子など庶民の中に埋もれて世に出るべきでないのが封建制度というものであって、見分不相応の能力はかえって悪であると後に村人は彼を罵ったかもしれない。
 ともかくも三歳で寺に入ってからその才能をめきめきと現し彼の未来を知らない廓文和尚を喜ばせたのである。なにせこの子は教える先からそらんじるまでに覚えてしまう。このまま行けば近隣でも名のある高僧になるのではないか、と密かに喜んだが世の中そんなに上手くはいかないというもので、どういうわけか庄太夫は経典が嫌いだった。当時寺は現代の小学校から大学までが一緒くたになったような学問の府である。だからあらゆる書籍が蔵に眠っている。そうした中にあって庄太夫は主に史記や資治通鑑などの歴史書や孫子、呉子、六韜三略などの兵法書を好んで読み漁って、さほどの年月も経ずに読破したのは良いとして、ところが逆に仏教の経典や老子、孟子、春秋などの思想書には見向きもせず、ただ菅子と韓非子は好きな部類に入るのかこれも読破しているという具合であった。これではさすがに、うーむと廓文は腕組唸るしかなくて、このままでは坊主になれぬではないかと彼を困らせた。それでも幼い庄太夫にとって廓文が心の広い人だったことが救いであって、本来ならこの子はものにならぬ、と言われて実家に帰されても仕方ないのだが、廓文はそういう庄太夫を愛し俗体のままで寺男の端くれとして此処に置いてくれた。特に庄太夫は書庫の管理人にしてもらい日々書物に埋もれて暮らすことが出来た。和尚もそのほうが都合良かったのかも知れない。庄太夫は総ての書物に目を通し整理した。これによってそれまで雑然としていた膨大な書物が整頓され常に必要な本を即座に見ることが出来るようになったからである。こうして幼い庄太夫は幾年か平和に暮らすことが出来た。しかし廓文の頭にはこの優れた子をこのまま山奥の寺に埋もらせてしまう事は不憫だという思いが常にあって事あるごとに庄太夫へ、
「坊主になれ、」と勧めたが子どもに未来が見える訳も無くその欲も無い。
 名も無く貧しき者にとって、坊主という技能を身に付けたならそれだけで十分食うていけるものを、と彼よりも何十年も先を生き抜いてきた和尚にはわかることがこの子には通じない。困った子よ、とこのまま成長して行く庄太夫を黙って見てもおれず哀れにも思ったのか、ついにある日、十四歳になった彼を方丈に呼んだ。
 また何か不祥事でもやってしまったか、と少年は恐る恐る襖を開けたが、廓文は穏やかな顔をして狭い部屋に座っていた。いま和尚は背の床の間に掛けてある高祖と開祖の真影に朝喝を済ませたのかそこに天目が二椀杯台に置かれ、香の匂いも漂っていた。
「惜しむらくは庄太夫よのう、」と廓文はそろりと入って来て平伏している彼の稚児髷を眺めながらため息をつくように言った。
 大目に見ても十四歳が子どもでおれる限度である。普通は十二歳くらいで髷を変え働きにでる。もっと貧しければ十歳で大人と一緒に働くことは当り前の時代である。だから廓文はこの子の才能を惜しむ余り甘やかしていたと人に言われてもしかたないだろう。
「汝が唐土に生まれていたならば己の村のすべての者を食わせるほどに出世したものを、」廓文は庄太夫の頭から目を遠くへ眺めるように移した。
 その目先、長押に蝿がとまっている。
「なぜでござりまするか?」庄太夫は少し頭をもたげ、目の前に置いてある木盆のお菓子をじっと見ながら不思議な問いにさらに重ねるように問うた。
「唐土にはのう、科挙という制があるのじゃ。どんな身分の子でも学問が出来てその試験にさえ通れば出世は思いのままじゃ」と杯台に乗っている自分の天目を持ち上げた。
 それから顔を挙げた庄太夫に目でしゃくるようにして菓子を勧めた。同時に蝿がその菓子を狙って降りてきた。
「まことに?」と言いながらも少年は目にも留まらぬ早さで蝿を捕まえた。
「殺傷は好まず」とあきれるようにその早業の見事さに感心しながらも和尚は坊主らしくそう言った。
 庄太夫は素直に握った手を開いて蝿を逃がすと、そのまま菓子を一個掴んで口に頬張れば、甘味がじゅわっと口中に広がり真に幸せな心持となった。
「唐土は良き国にござりまするね」
「ああ、そうよ。じゃがのう、いかんせん本朝ではその制は無い」廓文は茶をすすった。「せめてのう、汝が貧しくとも侍の子であれば殿様の学問方となって出世もできように、」
 へえ、そんなものか世の中はと少年庄太夫は菓子をかじりながら他人事のように話を聞いているのだが、こうした大様さは、大きな寺で育ったことがある意味では世間知らずの富裕の子と変わらないのかもしれない。
「そう言えば、お父も矢師に学問はいらぬわ、と言っとりましたなあ」とわかっていない。
「まあ、それは父上が間違っとるのう。人に学問を必要としない者などひとりもおらぬわ。まして職人も商人もこれを学ばなければ、なんの向上も望めぬぞ」
「まことにそうあられますか、」庄太夫は硬い菓子に難渋しながらもその目は輝いた。
「まことよ」と言って廓文は咳払いをすると、「そこでじゃ、わしは思うのだが、汝はこのままここに居ってもただ腐っていくだけじゃろう。僧にもなれず、この山深き処で寺男として生涯を終わるのも惜しい」とここで覚悟するように和尚は息を止め、庄太夫を睨み据えてから一気に話した。「だからわしは思い切って汝を野に放とうと思う」
 能ある者は大勢の人を苦しめることもあるが、また大勢の人を救うこともある。そういう逸材を見い出した以上、このまま放っておくわけにはいかない。裕福な者、あるいは知恵ある者が人々のために生きるという考えが常識だった時代であって、なんとしてもこの少年を世に出さねばならぬ義務が廓文にある。この子が最初から僧侶を望めばなんの問題も無いのにと、いまさら彼が幾ら溜息をついても詮無いことだった。
 そんな人の心も無頓着に、というよりも、子供はいくら学問が出来たとはいえ、人生の実績がない。当然、和尚がいくら心配したとて自分から欲を出さないかぎり世間のことなどわかるわけもないし、このまま一生寺で過ごすことにまだ何の不満も持っていない。ところがこの子が愚かであれば、それも仕方ないと和尚も諦めたろうけれど、どうにも庄太夫の利発差を惜しむ。この子は逸材である。これを天下のために、とは思ってもどう使うかは和尚にもさっぱりわからない。逆にどこぞの大店に世話したところで、それでもこの子にとっては小さな器に閉じ込めてしまうかもしれないと、和尚にとってはなんとも庄太夫の才能が桁外れのように見えて計りかねるのであった。だから、和尚が決めるのではなく、これほどの子なら、外へほっぽってやれば、自ら進む指針を探り当てるであろうと彼は思うのである。
「げっ、」と少年は驚いて口から菓子を落としそうになって、冗談じゃないぞ、なんとこれは自分を捨てる話ではないかえ、ひとを呼び付けて菓子など食わせるからおかしいとは思ったがこれはまずい、どうしようと食べてしまった菓子を吐くほど血の気が下がる気分に庄太夫は見舞われた。しばらくは驚いて声もなく、あっと言う間に、いつもずっしりと入っていると感じる脳みそがどこぞへ吹っ飛んでしまってそこが空っぽになりすうすうと虚しく風が通り抜けてようで、どうにもこうにも考えが定まらず庄太夫は和尚の左側の襖に目をそらした。もはやまともに人の顔など見ておれる状態ではなくて、それでも早く言い訳の言葉を捜さなければ相手の思い通りにされてしまうではないか、何かどこかに心を集中させなければ、この襖に何かないのか、すると龍がこちらを見ていた。よし、と庄太夫は気を取り直し、そこに描かれている龍を見つめて考えをまとめなければとあせった。それにしても間の抜けた点睛ではないか、ぎょろりと突き出た真ん丸い眼はおどけている様にてあどけなく、だからこの襖画はいつ見ても可笑しくて庄太夫は毎度のことそう思っている。どうして和尚はこれを気に入っているのだろうか、不思議な話で、こうして何年も部屋を仕切るためだけとも言えずにこのまま置いてある。それにしてもよほどへたくそな絵師が描いたに違いなく、こんなものと誰もが思うのに、あるいは師は画などに無頓着なのだろうか、まあ一説には門前通りで豆腐屋を営んでいた男に絵心があってこれを描いた、ということを庄太夫は聞いたことがあって、実はその妻女が庄太夫とも顔馴染みで、また評判の美人であり、まあ子供にはそのようなことは関係ないのだが、よく書庫に顔を出し、彼は甘い揚げが大好きであったからその女将さんが手土産を持って来ると勝手に庄太夫は本を貸してあげていたのである。豆腐屋の女将はよっぽど本好きと見えて、書庫には学問の本しかないのに、素読も出来るほど女には珍しく学に通じていたのであろう。ところがこの本好きであったことが後にこの寺に災いをもたらし、意に反してこの寺の名を全国に知らしめたが、この話よりずっと後の事で、またまったく関係ないことでもある。
 とまあ、この地方では名の知れた寺に素人の絵もないだろうが、龍はくわっと口を開けて隣の襖の虎を上から睨んでいる構図なのだが、眼はいつも画を見る人にそそがれている。それに加え庄太夫には笑っているようにも見えた。「よう、相棒、」龍は、前足を投げ出してやや首をひねるように正面から流し目で龍を睨む虎に、あるいは見る者にそう呼びかけているかのようで、とてもじゃないが竜虎相打つという図にはなっていない。この龍が笑って虎を見下すは、まさに和尚と自分ではないかと思え、龍は笑っていても虎を蔑ろにしようと、高い位置からいつでもその姿を威嚇の形に変えられるようになっている。虎だとて前足を投げ出している様はもう降参するのか、それとも飛び掛るための所作なのかよくわからない。なるほど、あるいはこの絵師はそう意図して描いたから、和尚も気に入ってここに飾っているのか、そう深読みすればこの絵も名ある者の作かと思える。
「飼い猫を野に捨てるのでござりまするか、オラに野良猫になれと、」十四歳の小生意気な庄太夫は襖絵の虎を己にたとえて睨みながら皮肉を込めてそう言い返したが、悔しさもこみあげてか、落涙しそうであった。
 いまここで思いつく言葉はそれしかない。何としてもここは食い下がらなければならないとも思うのだが、この虎では励まされることもなく、それにしても今は捨てられるわけにはいかないのだと思いを繰り返す。とんでもないことを和尚は言い出してきた。「いくら何でもこれはないでしょう」本当は和尚にそう言ってやりたいし、猫でも虎にでもなって引掻いてやりたいくらいであった。
 この話がそこを出れば死活問題になると子供の庄太夫でもそのくらいはわかる。今の庄太夫にすれば寺ほど居心地のいいところはなくて、飯は毎度食えるしなによりも本の中で一日中過ごせることが楽しかった。その総てがなくなる。なんということか、
「そう思うのも人の心じゃのう」と廓文は訳のわからぬことを言いながらも信念は変えない。「汝自身がその身に着けた学問をどう使うかはわしにもわからぬ。しかしのう、人は人のために生きるために居るのじゃ。汝はここに居ってはそれもままならぬ。だからここを去って世に使えよ」
 廓文にすれば庄太夫の才能を惜しんでの親心である。獅子は我が子を千尋の谷へ突き落とすというではないか、まさに禅の修行の根本は其処にあり、寺は修行の道場であって安楽に暮らすところではないのだ。それに庄太夫が優れた子であるからこそ、廓文は断腸の思いで厳しくしたのである。それがためにこの後この子が北に棲む大勢の人々の運命を変えていくとは、さすがの高僧でもそこまでは見えなかったに違いない。
 だから思想というものが嫌いなのだ、と親心も知らずこの時に庄太夫は思った。なんのために人のために生きるのだ。自分を面倒見ることさえままならぬのにまして他人の面倒などどう見れと言うのか、しかもいきなり出て行けという、これまで凡庸と生きてきて、せめて世間を教えてから追い出せというに、お前は大丈夫だからと言われても生きる術がまだわからないのにどうすればいいのか、これなら雲水のほうがまだましだ。せめて世間に就職口を決めてくれてから追い出せというに、ほんに腹がたつ
「オラはたった三歳でお父に捨てられました。いわば余分者でござりまする。余分ものとしてこの世に生まれてきた者がなにあって人のために生きられましょうか」こうなればとことんごねて見るかと庄太夫は思った。
「それも汝の心よのう」と廓文はながく嘆息をつくと、「その心も世に出て改めることこそ修行のひとつと思いなされ、」とにべも無く言う。
 修行か、ここには多くの修行僧がやって来ては去って行く、その人々から諸国の話を聞くのは本を読むのと同じように楽しかった。そうか修行も悪くはないかもしれない。しかしこんな子供ではどう修行すればよいのだろうか、もっと雲水に独り旅で生きる法を訊いておくべきであったか
「しからば、これから先なにをすればいいのかだけでもお教えくださりませ」
「そうよのう、お前は武芸も達者だし学問もできる。俗世ならばそれを人に教えて生業とすることも可能であろうが、しかしまだ若く、たとえ看板をあげたところで誰も客は来ぬな」
 廓文和尚は若い頃、禅の修業に励むと同時に崇山少林寺より伝わる棒術も会得していた。それをこの寺に学ぶ若い僧全員に教えていたのである。庄太夫も寺に預けられた最初から学び、これも性にあったのか上達しており、彼は俗体のままでありながら、他の僧に一目置かれていたのは学問に秀でたばかりでなく武術に達者だっということもあるかもしれない。しかし十四歳では弟子をとるどころか、自分がだれぞの弟子になって修行する年令としか世間は見ない。
「とりあえずはお父上も亡くなされたことじゃし、兄上の仕事でも手伝いなされ」
 結局庄太夫は遠く信州より荷を積んできた川舟に乗せられ信濃川を下って実家に帰った。
 庄太夫の兄は長男らしくおっとりした人のいい男だった。寺から戻された弟をとがめるでもなく好きにさせていた。庄太夫もそうした兄を信頼しよく働いた。が、こうした矢を製作する技術は幼少から学ばなければ向上は覚束ない。このようなことになるはずもなかったから、矢師になるとすれば彼は寺に長く居過ぎたといえる。しかし寺で身に着けた学問と武芸は大人をはるかに凌ぐ、このためもっぱら材料を調達する仕事に徹した。これならさほどの時間はかからないし、なによりもそれが庄太夫には合っていた。農家を訪ね、竹取を副業としているものから竹の目利きの話しを聞いたり優れた竹はどのような場所にできるのかを教えて貰うのが本を読んでいるときのように楽しかった。また矢羽になる鷹を取る猟師と山中を歩き猟の法を教えて貰うのも楽しかった。なんといっても彼はこうした山中にいるのが好きだ。森は木洩れ日のようにマイナスイオンが満ちている。淡い緑の霞の視界に包まれて、少年の意味の無い斜めに世間を見るすさんだ心をそれは慰めてくれる。穏やかな、世知がない世の中とは無縁の世界が森にはあると庄太夫は思った。しかし森は反面その薄暗い奥の果てない不気味さに、そこから今にも大きなケモノが襲ってくるのではないだろうかという恐怖も感じる。優しさと不気味な、相反する雰囲気がここにはある。不思議な場所だ。人は最初この様なところで暮らしていたのだろうか。そう思うと古人がこうした場所に神の存在を感じたことが今の庄太夫にもわかるような気がした。彼は誰も少年期に思うように、この世の不合理に憤っていた。眼に見えるもの、計算で割り切れるものこそ真実であってそれ以外は無能な弱者の空想にすぎないではないか。神や仏も弱き者が圧倒する精神的負荷から逃れるための方便にすぎない。だからこそ寺に居ても経典を嫌い、無知で信心深い村人を秘かに軽蔑していた。しかしこうして森に佇むと、自分の浅慮な知識にうんざりし、この世の広さを感じずにはおれなかった。
 当時島原の乱以後弓矢の需要は多い。戦争が終わって平和になったのに何故かと問うかもしれないが、武士とは単なる無産階級ではない。彼らは領主に雇われている戦闘員である。だから平和なときにあってこそ常に備えを怠ってはいけないという思想がある。いつでも即座に戦場に赴ける。それを整えておれる者こそ真の武士だと日頃から心得を忘れなかった。この意識が先の大乱で大いに見直された。この世は安易な平和など長くは続かないのだ。戦はいつも突然やってくるではないか、だから一見無駄に見える平和時の軍備にこそ彼らは時間と経費をついやさなければならないのである。この消費に応じるために商人も工人も農民も世間は忙しく動いている。それがこの時代の社会の仕組みであった。庄太夫もその中に居る。
 こうした世の中にあって越後の矢は厳しい雪国で育った丈夫な竹を使うため評判がよかった。また佐渡島からさも近い越後の湊として寺泊は廻船の寄港地として古くから栄えていたので、このこともあって関西からの需要が大きかったのである。その中で庄太夫はその廻船の船頭とも親しくなり多くの注文を受けてきて兄を喜ばせた。ただこうした需要が大きくなると矢羽の材料不足という事態にもなった。鷹は越後でもよく獲れたが元々子供を増やす鳥ではない。乱獲は数を減らそうともしていたのである。庄太夫は先のことも考えなければならない。この頃蝦夷地の鷹も矢師のところへ持ち込まれていた。廻船に乗ってくる蝦夷の鷹待(鷹獲猟師)とも何度も話し合った。新しい猟場は蝦夷にある。また鷹待から聞く異国の話は何もかも不思議なことばかりで若い庄太夫の心を躍らせた。封建制度が確立し、鎖国もなされたこの国に唯一若者を男らしく冒険の世界へ導いてくれるとしたら、そこはもう蝦夷地しかない。庄太夫は十八歳のとき、長兄に願い出て蝦夷へ行くことにした。兄は一応止めたのだが庄太夫の決心は強く、何よりも異国へ行って見たいという憧れが彼の全身に充満して、熱気が湯気となって湧き出ていることを兄は感じるのである。
「お前は、きっとそういう子なんだろうね。寺にも居れず、ここでも住むには狭すぎるか」長兄は優しくそう言うと諦めた。
 身内が直接自分の仕事に繋がる仕事を選ぶならそれもいいだろうと思う。もはやこの近辺での矢羽の材料は尽きたといっていいし、またいつまでも同じ家にいるのは弟にしても辛かったに違いない。当時蝦夷へ渡るということは今でいえば南極へ行くより遠く感じたかもしれないだろうか、だから兄弟は水盃を交わして別れた。大好きな兄、大好きな嫂、可愛い甥たち、みんな自分にとって優しいい家族だった。今なぜそれを捨ててまで行かねばならぬのか、後悔が心の底にわだかまるも拭いきれたとは言えず、しかし寺泊の湊には冒険好きの若者がほんの少し歩いて来るだけで未開の新天地へ一気に運んでくれる船が待っていた。
 廻船から手を振る庄太夫は初めて家族と別れる辛さを知って涙が止まらなかった。それでも庄太夫は生まれつき自由人だったのかもしれない。儒教の本家ともいうべきお寺にあっても馴染めず封建制度の故郷も彼を留めることは出来なかった。運命は最初から彼を蝦夷地へ導くよう決まっていたのだろう。


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