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僕がこの大学に入って二年もしないうちに、父は海で死んだ。 今、この話をしている時点では父はまだ生きているのだが、父は常々、「おまえが大学に入れば取り合えず俺の人生も一幕は終わったな」と言っていた。 父は両親のいる子と変わらないようにと言いながら僕を育ててくれて、だから今まで特別家事を手伝わされることもなくクラスの友達と同じように学校から家に帰って来ても遊ぶか勉強するかのどっちかあるいは両方をやって過ごす日々であり、父はゲーム機も買ってくれたしそれで十分遊ばせてくれもし、まあ夜の茶わん洗いや時々どうしても父が行けない時に買い物へ行ったりくらいはしたけれど、そのくらいなら両親のいる子だってしているに違いなく、ただ父が出来なかったことは両親と遊園地に行ったり夏休みには家族キャンプに連れて行くということだけで、それはモウちゃん(父の妹)が十分過ぎるくらい補ってくれたから僕は不満がない子供時代を過ごしたといえるだろう。 色んなことがあった。 ある日、父と車に乗っている時、歩道をお母さんと手を繋いで歩いている子を見て僕は、あの子のような記憶は僕にはないんだと寂びそうに言ったら父は寡黙になってずっと前を見たまま運転していたが、それでも僕はこの人—彼女、やくざの娘—から見ればずっと幸せだったんだと思うし、子供は誰も意志を持って選択しては産まれて来れないのであって、だからこの人のように過酷な人生もあるのだろうか、運命を信じる、信じないなどと僕は偉そうなことを言ったけれど彼女にすればチャンチャラ可笑しかったに違いなくて、運命はある、と断固として言った彼女の方が正しいのかも、それは視野の狭い考え方かもしれないけれど彼女に於いては間違いなく運命はあると僕は思う。 「君って死にたいって思ったことある」彼女は相変わらず美しいポーズで三本目のラークに火を着けた。 「はい、ありますけど」って僕は素直に答えてしまった。 また父の話に戻るけれど、父も死に直面したとき、「死んでもいいか」と諦めの気持ちをもったのではなかろうか、という考えが常にその後の僕の頭の何処かに張付いて取れず、つまりあの事故は、父はもともと土建屋だったが、その延長線上に潜水士の免許も持っていて、特に僕が大学に入ってから世の中不景気となり、それは、この今の現状だが、職もろくになくなっていた事情もあって、父は転々と職を変えなければならなかったが、やがて少しでも金になる潜水士の仕事につき、まもなくホッキ貝の養殖の仕事で14mほどの深さの海中でひとり作業中、エアホースがスクリューにからんで切れて窒息し死んだのだが、葬式の時、僕は潜水士仲間の会話を偶然聞いてしまい、それで父は死にたかったのかもしれないと知り、愕然として身体の震えが止まらず、涙も止まらず流れて、その彼らの会話はこのようなことで、つまり14mの海中なら空気が無くなっても這い上がってこれるはずだと、そう言っており、父のその時の気持ちを僕はともに鬱病であったからわかるような気がしてならないが、でも僕はその話を聴いて、父に対し悔しい気持ちでいっぱいとなり、父にはずっと生きていてほしかったと切ないほど思うし、なぜ生きる望みを捨てて僕を置いていってもいいと簡単に思ったのか、僕が大学に入ったからもう僕に手が掛からないと勝手に思って、確かに労災や生命保険のお金が僕に入り、それを使えば大学院までも十分卒業できるけれど、父はそれが望みで命と引きかえたのかもしれないが、僕にはどんなに貧乏でも生きている父と一緒のほうがどれほどいいか、でもこれはこの話とは関係なく当時としては未来に起きる事件で、それをなぜこの時点で話したのかというと、鬱病には自殺願望があり、またこの国で自殺する年間3万を越す人々はみな何らかの事情で鬱病になっているということであって、今彼女に質問されているのは、過去の僕のその鬱病の話なのである。 だから彼女の声で我に返った。 「どんなときだったの、その死にたかった時って?」 今度は僕が身の上話しをする番かよ、そのとき僕は思った。 「あれは僕が中学2年も終わろうとしていた2月になったばかりのときだったんじゃないかなあ」この話は冒頭の僕が鬱病になった話なのだが、彼女のために僕はもっと詳しく話したい「父は川崎のペンキ屋さんの友人の手伝いの依頼があって大田区の小学校の塗装作業の品質管理の仕事のため出稼ぎに行ったんです。父は色んなことが続いて鬱病でしたけどそれで新しい仕事を試みても長続きしなくて、収入も余りないような状態でしたから、この仕事はどうしてもやりたかったんだと思います。父はそれでも本当は僕が心配だったけれど、川崎の仕事の給料が高いので、金のために気持ちは僕より給金に傾いたと思う。父はそれでも僕に念を押したんです。一人でも出来るかって、一人で買い物へ行き飯を作り朝自分で起きて学校へ行き帰って来たら塾へもいってなんてこと全部父さんが居なくても出来るかって。僕は父さんの気持ちが良くわかっていたから自信を持って出来るって言ってしまった。本当は出来るかどうかわからなかったけれど、冒険心もあってひとりになる自由にも憧れたんだよね。あのときの僕は」 「素敵じゃない。私なんか中学の時は夜になると二階の窓から抜け出して遊びに行ったもんよ」 「あなたと一緒にしないでくださいよ。あなたは少女Aだったんでしょう」 「少女Aか、君って古いね。中森明菜じゃない」 「僕ってこれでもアマチュアのミュージッシャンじゃないですか、明菜くらい知ってますよ」 「学生のくせにミュージッシャンときたわね。演歌かい?」 「違いますよ。ロックです」 「ロック!それこそ少年Bじゃないの」 「大人ってロックといえばすぐこれだもんね。ロックは立派な音楽なんです」 「バカ言ってるわ。私だってまだ二十二よ。ロックくらいわかるわよ。でも私は演歌が好きなの」 「そうですか、でも僕は演歌をバカにしませんよ。年寄りの歌だなんてね」 「君って以外と根に持つ性格ね」 「そうですか」僕は憮然として言った。「それでは話を続けてもいいですか、」と、 このとき彼女と目が合った。 彼女は返事をする代りにラークを挟んだ右手の平を僕のほうへ突き出して“どうぞ”というような身振りをして見せ、僕はコホンとせき払いをしたのだが、恐らくテントの外側では先輩達が聴き耳を側立てているかと思うと自ずと声も小さくなりテーブルに膝を付いて彼女に話し掛けると、彼女もキスを迫るかのようにテーブルに身を寄せると僕に近付いてきて、タバコの煙りがモロ僕の顔にかかって僕はむせた。 「ボク、大丈夫?」彼女は意地悪そうにそう囁いた。 「大丈夫な訳ないじゃないですか、これって受動喫煙なんだから」 「あんたが小さい声で話そうとするから仕方ないじゃない」と言いながら彼女も小声だった。 「小さい声は」と言って僕はテントの外を指差し耳に手を宛ててみせた。それから「タバコなんか止めればいいのに、時代に合わないですよ」と毒付いた。 「これってガキに言われたくないわね。それに私って演歌好きの年寄りなんだから」 僕がクスリと笑ったら彼女も笑っていた。 「それで僕は一人で絶対やってけれると思ったんだけど、父さんは二ヶ月だけの辛抱だからと言ったしね」すっかり彼女に茶化されたけど僕はまた話し始めた。「最初はねあなたの言うように楽しかったよ。土日は友達なんかも泊まってくれてさあね。でもだんだん日が経つうちに御飯を作るのも嫌になり学校の帰りにコンビニ弁当を買って来たりしてさ、食べていたんです。朝御飯はまるで食べなくなった。というよりも朝起きるのがだんだん嫌になって来たんだ。これって夜遅くまでゲームなんかしてるからね。僕は自由を得たということばかりに夢中になって、ひとりになったならばの義務や責任というものが同時に付いてくるって事をまるっきり考えもしていなかった。今までは父さんがそれをさり気なく管理していてくれたからこそ僕はきちんとした生活が出来ていたんだよ。どうしてあの時それを気付かなかったのか今思えば不思議な気がするんだ。やがて塾どころか学校へも行かなくなった。もう完全に鬱病状態だった。父さんがいない、一人じゃ何にも出来ない。毎日不安で、僕は心の落とし穴に自分が落ちたことをはっきりわかったけど何もかも手後れだった。そして父さんが帰って来る日が近付くと嬉しいというよりも約束を果たせなかった自分が嫌でたまらなかった。鬱病だからね。マイナス思考なんだよね、これって。死にたいと思ったのはそんときだよ、父さんががっかりするとか、怒るだろうとか、そんなこと考れるなら、死にたいと思わないんだろうけれど、ただすべてがタイムオーバーだった、漠然と死にたい楽になりたい自己中でそう思った。父さんが言ってたけど自殺する人は全員鬱病だって、それって本当だと思う」ここまで話して僕はため息をついた。 「でも君は死ななかった。そうでしょう今ここにいるんだから。それで帰って来たお父さんに叱られたの?」 「いや、父さんはいつも優しいんです。だから僕の方が先に“鬱病になったから病院に連れて行って”って頼みました。父さんも二年間病院にも何処にも行けなくて閉じ篭っていましたからね。それでふたりで病院へ行って父さんも診断してもらった。今じゃ治療のお陰で普通の人と同じように暮らせるようになった。父さんも僕もです」 「うまくいったんだ」 「いや、そんなに簡単じゃなかったんですよ。僕は苫小牧で一番の進学高校を目指していましたからね。それなのに塾も学校も休み過ぎた。でも薬が効いて来て僕は頑張って勉強したんだ。だから高校の受験後に塾に集まって答え合わせをしたとき塾生のなかでは自分が一番でその高校に入ったことがわかったんです、やったって思いました、そん時は」 「君ってすごいじゃない、変てこりんな占師の格好してる割にさ。だいたいロックなんて落ちこぼれがやるんじゃないの?」 「また偏見ですね」 「そうか偏見ね、私もヤクザの子だから人一倍偏見を受けて来たのにね」 「自分でそんなこと言ったらダメじゃないですか」 「あら、君のような子供に慰められたくないわね、これって」 「“生まれいずる悩み”ですもんね」 「有島武郎ね」 「ええ?本読むんですか」 「坊や、バカにしてると痛い目に会うわよ。なんてたって私はヤクザの娘なんだから」 「それって恐いですよね。本当の話だから」 「そうよ、君、いい物見せてあげようか」そう言うと彼女はエルメスのバックから小さな鉄製のような小物を取り出してテーブルの上にコトンと音を立てて置いた。 「あっ」と僕はそれを見るなり叫びそうになった。 それは西部劇で賭博師なんかがベストのポケットに忍ばせているあの有名なピストルでレミントン製41口径、通称オーバー・アンド・アンダーと言われる当時15万挺以上も売れたという名銃で上下に短い銃身が二本付いていて木製のグリップが施されており、それは、口径の割に大人の男の手の中に隠れるほどの大きさで、にぶい重苦しい光を放って不気味だった。 「こんな旧い型の銃って今でもあるんですか?」 「バカね、これって今製なのよ。日本は銃規制が世界一厳しい国でしょう。だからヤクザにはこういう隠し易い小さな銃が喜ばれるの。つまり誰もが欲しがっているから何処かで今も造られて密輸されて来るってことね。こんなに小さくて薄いとこうしていつでも持って歩けるんだから便利よね」 「なにが便利ですか、やばいじゃないですかここは学校ですよ。早くしまって下さいな。僕は見なかったことにしますから」 「なにさ、意外と男って度胸ないんだから」と彼女は蔑むように言って拳銃を取上げて、引金のストッパーの右上に付いている柿の種状の安全ロックを左手で外して銃をふたつに折ると、中から空の薬莢をひとつ抜き出して、それをテーブルの上に置くと今度はバックから新しい弾丸を取り出し詰め替えて、その鮮やかな手付きに僕は見とれてい仕舞い、さすがやくざの娘か、と思ったりしたが、そのときまだ空の薬莢が何を意味しているのかもわからず、その銃も彼女はバックにちゃんと仕舞ったかのように見えたが、はっきりと確認はしていない。 「あなたって本当に別世界の人ですよね」僕は汗ばんでいる自分に気付いた。 これってマジヤバじゃないですか。 「さあ話を元に戻しましょうよ学生さん。君はうまく受験を抜け切って楽しい高校生活に入り大学受験も何とかこなして今こうしてここにいるって訳ね」 「それがそんなに簡単じゃなかったんです」僕は今の出来事が、つまりここにふさわしくない銃があることも忘れ、どうでもいい自分の回顧録をまた話し始めた。「高一のときまた鬱が出て学校へ行かなくなりました。何ヶ月も朝になると身体が動かなくなって、父さんがいくら慰めても怒っても病気ですからね。頭でわかっていても身体が動かない、どうしようもなくどんどんと落ち込んでいくんです。それでも不思議と午後からは元気が出る、まったくおかしな病気ですよ鬱病は。やがて学校の先生からこれじゃあ留年になるっていう手紙がきたりして父さんも焦って病院の先生に掛け合ったりして僕自身はすっかり落ち込んでいましたからこのままもう絶対ダメだ、総てが駄目だと、もう最悪の気分でした。だからこんときも、いつ死んでもいいとさえ思いました。父さんも僕が小さい時から勉強に関してだけはいつも粘り強く説得していたのに、今回はあきらめも早く、病気だからしょうがないか、まあもう一年やり直した方がかえって二度勉強できていいかも知れないと前向きに、はたしてこれは前向きっていうのかな、ま、僕に言ってくれたんです」実は父のこの諦めの早さには理由があり、この頃の父の心理状態は最悪で、母とも離婚してしまい、その訳は、調子がよくなってきたかのように見えた母は実に大人しくなり、晩御飯も僕らと一緒に食べるようになり風呂にも入ったりして、冷蔵庫や押入れに鍵をつけたこともあってか、滅茶喰いもせず、リズムがとれて日々の生活が人間らしくなって、僕にも父にもすっかり治る兆しが見えたかのように思え、それで父はひどくなった僕と良くなりそうな母を病院へ連れていったのだが、そのとき母は素直に診察を受け、医師からも投薬を続ければ入院しなくても治ると言われ、僕の事で落ち込んでいた父にはこの事が十何年ぶりかで光明を見た気持ちだったんだろうけれど、ところが母は本当は少しも治っておらずしたたかで、一ヵ月後の再診まで薬も飲み大人しくしていたが、やがてその日になると病院へは行きたくないと言い出して、父は根気よく母に病院へ行って先生と話すだけ、薬を貰ってくるだけだから何も嫌なことも怖いこともないからと説得したのだけれど、母は頑として譲らず、ついに父は怒って母を無理やり車に乗せると三人で病院に向かったが、待合室で父も僕も母から目を話した時に、彼女は昔のように逃げてしまい、それから三日ほども行方がわからず、そんな折、以前、母が昔入院していて何度も脱走した植苗の森林の中にある精神病院の同室だった人から電話が来て、それは困っている母を一晩泊めたが、自分も生活保護を受けている身だから長くはここに置いておけないので引取りに来てくれという話だったので、父はその市営住宅へ行って母を連れ戻そうとしたが、母は決して帰ろうとはせず、思い余った父はそれなら離婚しろといって脅して見せたが母はそれを簡単に受け入れてしまい、父は十五年も母を愛し続け、待ち続けたが、この意外な結果にも父はめげず、逆にここで彼は母を助けるため思い切った手を打ち出し、それは離婚してでも、母が家に戻りたくないというならその後も困らないように、このおばさんのように市営住宅に入って生活保護を受けれるようにと考え付き、母の友人にもそのことを話し、父は離婚届けを役所に提出するとそのまま生活保護課へ足を運び係りの人と相談したなら、市営住宅は満員だけれど、家賃が二万九千円以下のアパートを探して、そこに住んでいるという証明が出来ればこの事情なら生活保護は受けられると彼は言ってくれたので、それから母にそのことを説明し、父はすぐ適当なアパートを見つけて母に見せても、母は何度変えてもどの部屋も気に入らないと父に難癖をつけて困らせ、中々アパートへ入れて生活保護へと父の皮肉の構想は実らず、そのうち父が生活保護課でうっかり母が生活保護を受けている弥生町に住む友人の市営住宅に泊まっていることを話していたため、その地域の保護司の人が友人宅へ調べに来たので、母は誰にも何も告げず、忽然とそこからまた姿を消してしまい、彼女にすればホームレスのように生きるほうが性に合っているのかも知れず、常人から見れば馬鹿げたことで、アパートに入ることも生活保護を受けて、外から父に見守られて生きるという安全な道も望まず、野生へと母は帰っていったのだろうか、父はずっと母がいつか治って昔の優しい妻に戻ってくれることを信じていたが、この時から十五年の間に何度も通った警察の生活安全課へも、気落ちしたのかもう行くこともなく、それは他人となった母を行方不明者として届けることも法的にままならいと父は知っていたのか、彼はまさに僕の鬱病の再病と母の家出が離婚したことによって彼女を助ける手立てを失い、この裏目には、本当は当時の僕より父の方がよっぽど落ち込んでいたに違いなく、その気持ちはずっと続いてやがて海底で父は生きる気力を失ったのかもしれないが、これは後に僕が父を失った時に考えたことで、この時点では父の気持ちもわからず、僕は目の前の危機に絶望していた。「それでも先生は諦めず冬休みと春休みを返上して全部出席すれば、単位は不足だけれど学年末の職員会議で実力さえつけば留年は免れるかもしれないと望みはまだ消えたわけじゃなく、しかしそれは本当にわずかな針のように細い希望です。そして一日でも休めば、たとえ風邪でもダメになりますが、と言ってくれた。進学校の冬休みは3年の受験生のために休み抜きで授業があるんです。だからそう言う先生達が合間をぬって僕に教えてくれました。また父はゲーム機やパソコンから出る電磁波が脳に悪いといってゲーム機もパソコンも外してしまい、テレビすらも観ないようにしたんです。それから僕は父が朝毎日車で学校まで送ってくれましたので、そうした先生からマンツーマンで授業を受けることが出来たんです。これって最高でした。いままでわからなかったことも一対一ですから細かく教えてもらえこっちの質問にも深く意味が分るまで教えてもらいました。ピンチだったけど僕には充実した日々でしたね。僕は病院から特別に出された強い薬も効いて、この期間は楽しいとも感じるようになったんです。そして学年末の職員会議で全員一致で進学を認めてくれました」僕は話し終えた。 「君って恵まれているわ。よいお父さんと熱血先生。運のいい人には周りにも恵まれるってことよ。それに比べ私なんか最低の環境と最低の親父なんだから」 「僕は運がいいんですか」 「今まではね。先の事はわからいけど」このとき彼女は意味ありげに笑っていたが、どこかそれには深い意味がありそうなのだけれども、その時の僕はこれが何か気付くというよりも考えもしなかった。「私も札幌に来た頃は、まあ一月くらいして慣れた頃だけど幸せだった。叔母さんはいい人だったし、仕事を終えて託児所に赤ちゃんを迎えに行く時なんかワクワクしたものよ。まるで恋人に逢いに行くより楽しかったわ。私の可愛い赤ちゃん、いつもニコニコ機嫌のいいときばかりじゃないけれどそんなに病気もしないですくすく育ってくれた。子供を育てるのって最高の気分だった。始めて自分の母親にも感謝したわ、私を産んでくれて育ててくれたから、こうして自分も母親になれたってね。君もお父さんに感謝しなきゃ駄目よ。男手ひとりで子供を育てるなんてもっと大変なんだから」 「僕はいつだって感謝してますよ」 「それならいいけれど。でもね私ってやっぱり運の悪い女なのよね。半年もした頃、様似から父の子分が小頭の村下って凄みのきいた男なんだけどさ、札幌にやって来たのよ。私を連れ戻しにね。あの男ったら“社長にこれ以上恥じをかかせちゃだめですよお嬢さん”だってさ、ヤクザの世界って江戸時代なのよ。頭の身内に夫を捨てて家出した娘がいるなんて話が他の者に聞こえたら、家族もまとめれないダメな親分だって、それだけで勢力をなくするんだから。それだけの為に父は私を故郷に連れ戻そうとしたの、あのバカ亭主ともう一度やり直せっていうのよ。あいつも反省しているからだってさ。あいつのどこに反省する頭があるのさ。競馬と女で脳みそは満杯なのよ。でも村下は危険な男だったから叔母も“そうしたほうがいい”って。叔母は、本当は私が戻ること反対だったんだけど父の意向には逆らえないのよ。私だって叔母さんに迷惑かける訳行かないから村下の言うことに従ったのよ。それでも様似に帰って私は家に戻らなかった。村下にまっすぐ父のところへ連れて行けって言ったの。そして父に夫が如何に暴力的で女たらしか訴えたのに、そうしたらあのバカ親父、私になんて言ったと思う」 「何て言ったんですか」僕はおうむ返し訊いた。 「“おまえは堅気の女房じゃなんだからそのくらい我慢出来なくてどうする”ですって、自分がそうなら男はみんなそうだと思ってるのよ父って。バカにはバカしか見えないのね。これって江戸時代よ、呆れて次の句もでなかったわ。それでも私、気を取り直して言ったのよ。夫に離婚届にハンコを押してくれって親父から言ってよ、ってさ。そしたら父は“おまえ離婚する気か”って言うから違うっていったの。家に戻ってまた暴力振るうようだらその離婚届を役場に出す、こうして脅さないとあの男、反省してると言ったって信用出来ない。そう父に言ったら、父も“もっともだな”って納得して決めてくれたわ、この時だけは少し娘のことも考えたのね。提出届け日の入っていない双方の印が押された離婚届は私の手に入った。これさえあれば私はいつで自由になれる、赤ちゃんとふたりで生きて行ける自信はもう札幌で付いていたからね。でも夫は相変わらずよ、低能ってどうしようもないわね。私の上に乗っかて、私がよがり声をあげたらもうこの女は俺の物だって錯角してんのよ。汚ったない精子なんかぶっかけて“もう俺から離れられない身体だよな”ですって、ふざけんなってんだよ。女を何処までバカにすれば気がすむのさ。それでもしばらくは父の手前や母が父からなじられるから私は我慢したわ。でもついにあいつは調子に乗って、ほら君なんていったけ、ドメス…えーと夫が妻に暴力を振るうやつよ」 「ドメステックヴァイオレンス略してDVですね」 「そうDVね。酔って帰って来てあいつ暴力を振いながら離婚届を出せって迫るのよ。そしてタンスをひっくり返したり家中探したわ。ありっこないじゃない。私はバカじゃないわ。こんなふうになるのは戻った時からわかっていたからとっくの前に離婚届は役場に出していたの。住民票はそのままだからあいつにはわかりっこなかったわ。どう私って賢いでしょう」 「そうッスね」 「これで決まりよ。父だって文句をいえないわ。DVがあれば別れる約束ですからね。私はその日の内に赤ちゃんを連れて札幌へ向かったわ。清々した。嬉しかったホントにね。なんであんな男のために何年も人生を無駄にしたかと思うと今でも口惜しいわよ。でもこれで終わった」 「まあよかったじゃないですか。なんだかんだあっても終わったから」 「そうね、でも終わらなかったの」 「ええっ」 「あいつは鬼よ。二年も経ってから、何を思いついたのか突然札幌へやって来て、育てる気もないくせに“俺の子だ”って私の娘を取りに来たのよ。きっと村下のバカが私の住んでるアパートを教えたんだわ。私から娘を取り上げれば私も戻ると思ったんでしょう。短絡的な阿呆なんだから、それにしてもなぜあいつは二年も大人しくしてたんだろう」 「なぜでしょうね?」 「よくはわからないけれど、父が歳で、跡目をそろそろ誰かに譲るって話があったのかもしれない」 「なるほどね。それでどうなりました?」 「あいつは身長が180もあるの、女の私じゃあどうにもならない」 「じゃあ娘さん取られたんですか」 「さあ…」と言ったまま彼女は目を充血させていた。 「いったい何があったんです。さあ、とはどう言う意味なんですか」僕は嫌な胸騒ぎがして、テーブルの上に置かれている空の真鍮の薬莢をみつめ、そのにぶい紫色に先のほうが焼けたような部分がなにを語るのか、気味悪い胸騒ぎを拭えずにまた彼女を見た。 「私だっていつもあんなバカにやられてばかりいないわよ。いくら身体がでかくたって、男だって、なにさ方法はあるのよ、女でも勝てる」 「さっきのオーバー・アンド・アンダーを使ったんですね。そうに違いない」 「あれは元々あいつの物なの。あんな小さな銃でさえあいつは警察に見つかるのを恐れて家に隠していたの、見つけるのは簡単だったわ、隠す場所なんてみんな見つからないところって考えるからおのずと場所は逆に分かり易いところになるのよ」 「そんなことはどうでもいいじゃないですか。それよりもその拳銃を使ったんですか」 「あいつはね、娘を私から奪ってこれ見よがしに言ったのよ。“返してほしけば様似まで来い”って、あり、こんなの。私だって切れたわよ。バックからあいつのピストルを出して、そしたらあいつ鼻で笑ったわ“お前に出来るか、人殺しがよ”私は言い返した“あんたなんか人じゃない”って、そしたら“撃ってみろ、娘に当ったらどうする”だってさ。悔しいったらありゃしない」 「銃は使わなかったんですね」 「あいつはね悠々とドアへ向かって笑いながら出て行こうとしたわ。私は頭の中が真っ白になった。様似へ戻ればまた地獄よ。でも娘無しの生活も考えられなかったわ。そして娘が、娘が抱かれているあいつの肩越しから悲しそうな目で、私に助けてって、言うそういう目で泣きそうな目でじっと私を見詰めてたの、私は何が何でも助けなきゃって、だからあいつの背中へぶつかって行った。そして同時にピストルを背に押し付けて引き金を引いたの、音はほとんどしなかった気がする。なぜこんなことを覚えているのかしら」 「男を殺したんですか、それって最悪じゃないですか」これってまったく本当に最悪だよ、どうなっているんだ人殺しがこのテントの中にいるなんて、しかも僕の前に 「なに言ってんの、あんな男は死んで当り前よ。それより最悪なのは弾があいつを貫通して娘に当り娘も死んでしまったことよ」そう言い終わらない内に彼女は両手に顔を埋めて肩を震わせていた。 その悲しみと重苦しい沈黙は長かった様な気がする。 僕は何も言えなくて、いったいどうして娘さんまで死んだのかと考えれば、つまり四十一口径の拳銃でこんな撃ち方をすれば、重い弾丸は被害者の身体で止まるなんてことはまず無く、たとえ体内の骨にぶつかってもそれを砕いて貫通するほどのパワーがあり、小さな拳銃だが二列の銃身は銃のバランスに合わず太く、弾が手に入り易い共通の軍用拳銃と変わらないから、ただ銃身が短いためせめて1mくらいの距離でなければ実用的ではなく、西部辺境の賭博師がテーブル越しに撃つには十分適しており、だから小さい型から威力はおもちゃほどのものだろうなどと見くびってはいけない、と、こんなことに詳しいのもCSIを観ていたせいだが、そのようなことはどうでもいい話で、僕はこの偶然のふたりの殺戮に驚いてしまい、どうしてこんな話が学園祭の遊びのテントに入り込んで来るんだと、これってマジヤバじゃないですか、いったいこの先どうすりゃあいいんだろうかと僕は戸惑うばかりで何をしていいのかまるで考え付かないまま、取りあえず、 「それっていつのことなんですか?」と自分に冷静になるよう戒めて問うた。 「今朝のことよ」彼女は顔をあげるとー蒼白となったーそう言った。「そしてここへまっすぐ来たの。占師を探すために」 占師を探すためだって、なんのことだ、占師なら駅前にいけば居るかも知れないけれど、なんで学園にいるとこの人は思ったのか、どうも言っていることがおかしい、こういうあたりから、彼女の顔は先ほどまでの人を見下し、美人を鼻にかけ、ちょっとばかりのユーモアと怒りを持った誰もと同じでは無く、何やら人間性が薄れ変わってしまい、それはどこかで見たような魂のないただのボデイであって、気が狂った僕の母と、とてもよく似ていた。 「占師なんて、それより警察に届けなければだめじゃないですか」そういう常識をヤクザの娘には初めから無いのか、あるいは人を殺し娘も死んで、ただ動揺しているのか、まだわからない。 「だからそれをどうするか、占ってほしくて今ここにいるのよ」彼女の言い回しは乾いた声色で先ほどと同じ人間なのかと疑うばかりであった。 恐ろしい告白は人格を変えたのだろうか 「あなたはどうかしています。僕らは素人の占師で、これは学園祭の余興みたいなもんですよ」 「わかっているわよ。だから占いは私がやるわ。私って香具師の娘よ。香具師は辻占ないもやるの。叔母のスナックで働いていた時は客を喜ばせるためよく占ってやったものよ。そう私は坊やなんかよりよっぽどプロなの」そういう彼女の瞳は猫のように黄金色に光って見えた。 「ならばここへこなくとも自分で占えば良かったんじゃありませんか」僕はだんだん不安になって、いったいこれから何が起きるのか先がまったく読めないのである。 「自分の未来を占うのは人に任せなきゃ意味ないのよ」彼女は口の筋肉以外は何処も動かさず、瞬きもせず僕を見詰めてそう言った。 相手が美人なだけにその表情には凄みが増して、妖気が漂い初めて、テントの中の空気は益々重くなって行くように思えた。 「じゃあ、僕が占って、そしたら警察へ行ってくれますか」 「あんたってバカよね。警察へ行くか、私の娘のところへ行くか、今の私はそれが知りたいからここへ来たのよ」 「死ぬなんてそんなの駄目ですよ。警察へ行くべきですよ。裁判になってもあなたの事情を判事が知れば罪はそれほど重くないと僕は思います」 「君、法科なの?」 「僕はまだ教養部ですけれど理系です」 「ふーんどっちでもいいけれどさ、私は占いに託すわ。君、私がオーバー・アンド・アンダーを持っていることを忘れないでね。もうこれ以上の説教は沢山、私は子供もバカ亭主も殺していらだっているのよ。今ここでは余計なことは言わない、しないってことを考えたほうが君のためよ」こういう人間性を取り去ったヤクザの冷酷な目付きは長年かけて工夫されたのか、確かにプロによる素人への効果ある言い回しであった。 その凄みは十分僕に伝わった。 マジでこれって脅迫なんだ、まさにオーバー・アンド・アンダーってことか、彼女は確かに僕の運命を本当に握るそいつを持っていて、さっきはこのためにわざと見せたのに違いなく、彼女はここへ来る初めっからこうなるように話を進めていて、僕みたいな子供を操るなんてこの人には朝飯前か、ススキノに勤めている女性は都会慣れしているから気を付けろって先輩が言っていたけれど、いったい何を注意して入ればいいのか田舎者の僕にはわかる訳がないじゃないか、 これじゃほんとに殺されかねない、何か手を考えないと 「じゃあ本当に占いが出来ない僕にどうすれとあなたは言うのですか」そういう僕の声はわずかに震えていた。 「まずトランプを私に貸しなさい」 彼女の顔は益々青ざめていた。 死なんとする人はみなこのような顔付きになるのだろうかと思え、僕は背筋も凍るような思いでトランプを渡したら、彼女はそれを受け取ると見事な流れるような手さばきで操り、一連の流れはトランプの一枚づつがまるで繋がってように放物線を描きながら、左から右へスムーズな流れを持っているようであり、手品師のように鮮やかな手さばきで、山形に盛り上げながらサラサラと規則正しい気持ちのいい音を発しながらシャッフルして見せてから、大きく三つに分けそれをランダムに繰り返し、今度は1枚1枚が機関銃の弾のように規則正しく左から右に飛びかい、生き物ように踊って、赤の女王の命令に従うように右手にきちんと納まり、また三つに分けてから順不順にひとつに重ねて、さらに二つに分けて、トンとテーブルに叩くが早く両手の輪の中で交互に眼にも留まらぬ速さで二つを重ね、そしてニヤリと笑うとやはりまたテーブルにトンと叩いて揃えてから僕に返してよこした。 僕はその手並みに唖然と見とれていた。 「さあ、坊やの番よ」 「坊やとは言わないことにしたんじゃないんですか」まさかこの人は僕まで殺すわけもないだろうと思いヤケクソでむっとして言った。 「あら、ごめんね。じゃあ君の番」 ごめんといっても言葉に謝っている風はなく、威圧的な態度は変わらないまま目だけがよりいっそう鋭くなって行くばかりであった。 「あの、どうすればいいんですか」 「君がシャッフルしながら何かを念じるのよ」 僕は言われたとおりに“このバカ女死ね、このバカ女くたばれ、このブス”と三回念じながらへたくそなシャッフルをした。 「終わりました」といってトランプをきちんと揃えて、一応彼女の真似をして角をトンと叩いて「テーブルの上に置いた。「次はどうするのですか」 彼女はこのゲームを楽しんでいるのだ。 だからすぐには指図をせず、またタバコに火を着けると煙をわざとこっちへ吐いて、薄暗いテントの中では、その小さな赤い光がやけに虚しく光り、その弱い光が僕の小さな命の運命を暗示して点滅しているように見える。 「その中から適当に一枚引いてみてよ」とやっとじらしてから彼女は言った。 その顔は益々蒼ざめていた。 何か周りの雰囲気がまるで命を掛けたカードゲームをしているような緊迫感漂い、実際それは命を掛けたゲームでそれでも僕はまだ知らず、僕は深く息をして吐いてから汗ばむ手を道服で拭き、置かれたカードのまん中あたりからそっと一枚を震える手で引き出して、裏表紙のアラベスク模様のカードをそのままテーブルの上に置いた。 この1枚のカードはいったいどちらの運命を示唆しているのだろう。 「これでいいんですか」 「ええ、さあそいつをめくって見せてよ」 僕はちょっと躊躇した。 それからゆっくりカードを裏返してみると、それは黒い服を着て無気味に笑っているジョーカーで、いくら素人でもこのカードが縁起悪いことは知っていて、思わず彼女を見あげるとその顔に色がまったくなくて、幽霊のようであった。 「これがあなたの運命ですか」 「いえ、わからない。君の運命かもしれないわ」 「どうしてそう言えるのですか」僕はドキリとして、脇から冷汗が流れているのをはっきりと感じた。 「私も君の運命を念じてシャッフルしたからよ」 「それってルール違反じゃないですか」 「そうね、でもこれには君の運命もかかっているのよ」 「ええ!どうしてですか?」と言いながらも心では人生最悪の何かが起きる不安を拭いきれなかった。 「今にわかるわ。だからもう一枚引いてみてよ」 「それはないでしょう。今度は貴女が引く番だ」 「バカね。占師は君よ」 そう言われて僕は仕方なく今度は少し上の方のカードを抜いて、またテーブルの上に置いてそっと手を離した。 「抜きましたよ」 「わかっているわ。これって恐いわね」何が恐いのだろう「さあ、めくって見せて」 再び僕は違うカードをめくったら、この時、ふたりは同時にあっと声を出してしまい、なんと表に出たカードは前と同じジョーカーで、それも白い服を着てそいつは笑っていた。 「ええっ、これってありですか」 「ええあるは、買ったばかりのトランプにはもう一枚予備のジョーカーが入っているものもあるのよ。君、最初に抜いておかなかったのね」 「そんな、そんなの知りませんでしたよ」 「だから素人なのよ」と言って彼女は立ち上がった。「これで互いの運命は決まったわね」と言いながら彼女は僕の方へ近付いて来た。 僕は唖然として背の高いすらりとした細身の彼女を見上げていると彼女は赤いスカートの裾をぎりぎりまでゆっくりたくし上げるなり僕の膝の上に長い足をあげて跨いでそして彼女は僕のひざの上に座った。 目の前にはワンピースから漏れた胸の豊かな谷間があり、そしてそこからあの昼食へ行く途中、通りで嗅いだ香水の匂いがして、むせるような官能が僕の心をこじ開けるように気持ちが高ぶり彼女は左手を僕の首の後ろに回すとぐっと引き寄せるなり、ゆっくり薄い唇を近付けて来て、その唇は僕の唇を包み込むように回り始めると僕は何も抵抗出来ず、また抵抗する気もなく、やがて彼女の細い舌が僕の口の中に入って来ると、その舌はのたうつように僕の舌にからんで、蛇がウサギを絞め殺すように締め付け、そして彼女の腰はさらに僕の欲情をうながすように前後に心地よく怪しく揺れて僕はもうこれ以上我慢できないと思った時、左のこめかみに堅い鉄のようなものが触った。 彼女は左手だけで僕の後頭部をなぜ回していたが、じゃあ右手はどうしているのか?わからない、彼女はキスを止めてその口を僕の右耳のそばへ持って来て、そして囁いた。 「私ひとりで死ぬのが恐いの、だから坊や、付き合ってよ、お願い、いいでしょう」声は濡れてか細かったが断固とした意志を感じとれた。 彼女はピストルの引き金に力を入れた。 いまさら後悔しても遅いけれど彼女は最初から僕を道連れに死ぬつもりだったので、間違いなく彼女は狂っているに違いなく、夫だけを殺したのならこうはならなかったろうけれど、ただ最愛の娘さんを間違いとはいえ死なせてしまったことで彼女の右脳は激しいショックで完全に破壊されてしまったに違いないと、あと彼女に残された感情は子供を追って暗黒の世界へ旅立つしかないというものだけになったのか、そう決めたのだろう、ならなんで関係のない僕が道連れにされるのか、これとて狂人に意味を質しても無理な話か、彼女はもし僕がジョーカーを二枚間違わずにトランプの中へ入れてなかったらこんな暴挙に出なかったのだろうか、もうこの瞬間では訊く術もなく、すべてが読めた時は手後れか、鬱病で死を恐れずむしろ望んでいた自分は何処へいったのか、鬱病は治ったとでもいうのか、僕ははっきりと自分の心臓が止まっているのを知り、クッソ、冷汗よりも震えて行く自分を感じるのだが、死に直面したものだけがわかるこの世の終わりと己の脳みそが四十一口径のデカイ弾丸で吹っ飛んでしまうことが想像できて、死界へと向かう興味と恐怖が入り交ざって、そしてついに大きな衝撃で僕は弾き飛ばされてしまい、そのあと真っ暗闇に落ちていく自分を感じた。 終わったのだ。
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