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放課後の美術室。今日はまだ三隅さんは来ていない様子。 三隅さんの代わりに、三隅さんのラックの上の描きかけのキャンバスを真剣に眺めていたのは原口先輩だった。 「あれ、原口先輩じゃないっすか。どうしたんすか。」 「お、北原、来たか!コレ、コレ。」 その手には、美術室のカギの四角いキーホルダー 「待ってたんだぞー。今日、三隅熱で欠席なんだ。だから、誰か鍵開ける人がいないと、北原、入れないっしょ。」 「え、わざわざ俺のためだけに、美術室開けてくれるんすか。」 「そうそう。だって、ノリに乗ってきた作品はさ、勢いで仕上げちゃうのがいいじゃん。途中で製作のブレーキかけちゃうのはやっぱよくないだろうと思って。」 「いや…それはそうなんですけども…。」 意外だった。もちろん僕には嬉しいことだけど、その、なんというか、原口先輩にとって、そこまでして僕のために一時間も待つメリットが思い浮かばなかった。 だって、原口先輩自身は、美術室来たって、絵、描きはしないんだもの。なんでそこまでして、僕のためにしてくれるんだろう。 素直に喜べなかった。
「そりゃ鍵開けてくれるのは嬉しいっすけど……けど、原口部長は絵、描かないんすよね?」 「そうだね、あたし自身は描かないね。いっつも鍵開けて閉めてるだけだね。」 「申し訳ないっすよ。ホント、俺だけのためにわざわざ……。」 「いやいや〜。鍵開けて閉めるだけなのはいつものことだし。待ってるったって、どうせ向こうの無駄にリッチなソファーでゴロゴロしてただけなんだからさ。気にしなくていいって。 鍵開けて閉めるだけでお菓子食って絵眺めてソファーでくつろげるなんてどこの特権階級だよあたし。」 ぜんぜん特権階級なんかじゃない、と僕は思った。むしろ奴隷だ。だってきっと僕だったら、描きたいけれどどうしても描けないっていうスランプの時に、他の奴が意気揚々と描きまくってたらなんか張り倒したくなると思うもの。なんで、お前楽しそうなんだよ、俺は辛いんだよ、描きたいけど描けねぇんだよ、だから悔しいんだよ、お前視界に入んなよ、って。そいつと同じ空気吸ってるってだけでさぞかし息苦しくなると思う。そいつが自分より下手かせいぜい自分と同じぐらいの実力の奴だったらなおさらだ。 しかし、それこそ三隅さんとか別格な人だったら、また話は別だけども。
「原口先輩…何で卑下するんですか?」 「卑下?だから卑下どころか特権階級なんだっつうの!何言ってんの北原!」 「特権階級なんかじゃないっすよ。…先輩、ムカついたりしないんすか?俺みたいなへたくそが楽しそうに描いてるの見てて。」 「え?なんで?」 「なんでって…だって、その…。」 僕はちょっと躊躇したが、やっぱり続けることにした。 「先輩って、今、スランプなんすよね? 「……。」 先輩はちょっと痛いとこをつかれた風だった。 「…たしかにあたしはスランプと言えばスランプかもしれない。否定はしないよ。まあ、一時的に描けないんじゃなくて、ずっと描けない状態だから、スランプっていう言葉は適当じゃないかもしれないけども。 でも、たとえスランプだからといって、あたしは、北原がどんどん描いていくことに対して嫉妬したり、いらいらしたりすることは無いなあ。…これは別に誇張じゃないよ。」 「なんでっすか。」 「…なんでって、そりゃあ。」 言ってから、まいったなという風に髪を掻き上げる部長。そして、わずかな間ののち、何か言いたそうに、でも言いづらそうに口を開いた。 「北原に、期待してるからだよ。正確には、北原の、絵に、かな。」
僕は、言葉を失った。
「……。俺?俺の絵に期待?冗談はよして下さいよ。」 言いながら、先輩の言葉が冗談じゃないのはわかってる。けれど、言わないわけにはいいかないんだ。 「冗談じゃないよ。あたしは本当のことを言ったまでだよ。」 やっぱり、先輩の表情は真剣だった。 けれど、僕は否定したい。だって解せないから。 「何言ってるんすか先輩…。もちろん、例えばこれが三隅さんのために、とか言うなら分かるんすよ。そりゃ三隅さんはスゲーっすから。マジ天才級っすから。パネーっすから。俺だって、サポートしたくなっちゃいますよ。正直。 ですが、俺?ですよ。俺、何も無いじゃないっすか。マジ、絵はへったくそだし、礼儀はなっちゃないし、ロクな後輩じゃないっすよね。 なんつーか…なんでそんな…ええとなんて言うんだっけ…ああ、買いかぶる、そう、なんで先輩は俺を買いかぶってくれるんすか? 正直、わけわかんないっす!。」
「ふーん…あんたも三隅の才能に嫉妬してたんだ…。」 先輩は、ちょっと意外そうに話した。 「あたしなんかからみたら、北原だって「才能の塊」に見えるんだけどな。正直、 うらやましい。」 「え…「俺が」うらやましい?」
「うん。だって、すべての情熱を注ぎこんでまで、『描きたい何か』持ってるんだもの。」 いつになく真剣な口調の先輩。 「『描きたい何か』って、そんな大それたもんじゃないっすよ。ただ、ほら、『絵 、描きてーなぁ!うわぁーっ!』ってなるじゃないっすか!」
「それが出来ないから言ってんだよ!」 ピシャリと言い放つ原口先輩。その剣幕に僕は一瞬息を凍り付かせた。いつもは温厚で、押しても引いても泰然としてそうな先輩だけに、びっくりした。
「できるやつってみんなそう言うよね。あたしもさ、描こうかこうとした事はあるんだよ!でも、いざキャンパスの前に対峙してみても、こう、なんも浮かばないんだ。 インスピレーションが沸かないんだよ! 絵を見て、それを素敵だなと感じる心はある、けど…けど、それを描きたいとか、自分も表現したいとか、そういう気持ちってのが、あたしには欠けてるんだ。パッション?ていうの?絵画に対する情熱?ええ、そういうのが無いの。そう、何かあるものを、どうしてもコレだ!って、コレを描きたいっんだて風には、思えないんだよっ!」 原口先輩の中から棘が出てる。僕は思った。普段は部長の中に引っ込んでる無数の見えない棘達が、今日ばかりは、バシバシ連射されてる。めちゃな軌道で。僕の方にも、僕のいない方にも。この狭い美術室の中、所構わずに。 「あたしは描けないんだよ!描こうとしても、教則本そのままになっちゃうんだよ! くやしいけど、それが現実なんだ。わかるか、北原?わからないだろう。 才能のあるやつってみんなそうなんだ。自分の置かれた境遇の有利さに、みんな気付かない。そんでコンプレックスだなんだっていってぐちぐちいってる。 あほらし。」 「……。」 僕は何も言えなかった。内容に関してもそうだし…何よりも先輩の放射状に発しまくる棘達の悲壮な圧力にただただ気圧されていた。 「だって、北原、今の美術文中では、あんたが星じゃん。あんただけじゃん、期待の星。」 「え…?そんな、大げさな。期待の星なんて…いくらなんでも褒めすぎですよ。」 「褒めすぎじゃないよ。あんたたちって何で自分じゃ気付かないの?だって、他の部員の作品みたことあるっしょ?はっきし言って輝くものないじゃん?ある?」 他の部員との比較なんて…今まで自分が描くのに必死すぎて、全然考えたことも無かった。 「え、だって、他の人は水彩か、アニメ絵、じゃないっすか。ジャンル違いますし。僕の油絵と比べても……。」 「ジャンルとか、そういうもんじゃない。他の子たちのは、どっかでみたような焼き増しばっか。彼らは、ちょっと絵が上手だからって、美術部って立場になって、絵を描くふりして、放課後お菓子食べて、友達作って、遊びたいだけ。 もちろん、あたしもそうやって皆とだべるの、楽しんでるよ。それなりに部活生活は全うしてるつもり。けど、それだけじゃ…なんか、物足りないっていうか。けれどね、他の皆は、そう思わないみたい。もちろんそれが良いとか悪いだとか言うつもりはないんだけどね。でも、所在無さみたいなものを去年はずっと感じてた。あたしだけなんだなーって。 けど、今年になって、あんたが入ってきて、さらに、三隅の絵がラックに並ぶようになって、あ、これだ。こういう世界だ。あたしの本当に『美術部として』望んでいたものは。…って気付けたんだよ。 だから、あたしは、それこそ『美術部長』としての責任というか、 あんたらを、特に美術部員であり後輩のあんたの才能をサポートするって決めたから。 現に、あんた、今日活動日でもないのに、絵、描きに来てんじゃない! そこまでして描きたい何かがあるってのが、すでに才能なんだよ! 畜生!気づけってんだこの野郎!
だから、あたしの分まで、描きまくりなさいっ! これ、命令ね。」
そう言い放って、原口先輩は、目の前の机の上に鍵を放り投げたのち、そそくさと荷物をまとめて美術室からすごすごと出ていった。僕は終始その姿を無言でただただ見守ることしかできなかった。
ガラン。 珍しく威勢のいい音を立てて閉められる美術室の扉。
僕は、その間、何も出来なかった。そして何度も先輩の言葉を反芻した。でもやっぱり、喜んでいいのか微妙だった。 『描けない』あたしの分まで描いて、って…けど、僕は原口先輩も、自分自身の作品、描けばいいのに。って思ってしまうんだけど。そうして、ふと彼女のまっしろなスケッチブックの画面が脳内リピートされるのだ。なんで描かないのかは僕にはわからなかったけれど…ほんとに、ほんとに描けなかったんだ。
描けばいいじゃないっていうのは、僕の素直な感想なのに。 それって。 酷いことなのか。
しかし、原口先輩ってやっぱり凄いな。言葉でここまで云いたいことを表現できるなんて。俺はできないや。 そんなに、絵が描けないなら、小説家にでもなればいいのに。
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