小説脊髄
1
ある晴れた日の昼下がり、僕は意気揚揚と高校の教室を出ていく。 向かう先は階段一階駆け降りて右へ90度、はいそのつきあたり。 美術室。
そう、僕は美術部員なんだぜ。
美術部員男子ってひ弱なイメージ?…ノンノン俺は今年になってからやっと油絵描くのを赦された、小学校以来の体育会系です。いやほんとは、中学にあがる時に 美術部にしようと思ったんだけど、いざ『新入生歓迎』とひときわ派手にデコレーションされた部室に入ろうとした瞬間、ほんとその瞬間だよ?小学校から地元 のサッカーチーム『キッカーズ』でつるんでた連中が俺を見つけて、寄ってきて、声かけて来て、連行ーって…で『ようこそサッカー部へ』だったわけさ。
ま、俺はスパルタな野球とかじゃなくて、まあまあゆるくて人気もあったサッカー部だったんで、中学時代時はそれはそれでエンジョイしてたけど。そこそこいい汗流してたし、なによりも女子にモテたしね。 けれども心のうちでは、一番やりたいことができない歯がゆさを噛みしめていた。本当は僕は絵が描きたかったんだ。絵が描きたかったんだ。ずーと。
描きたければ描けばいいじゃないって?
そうもいかないんだこの小中学生男子というカオスは。 小学校低学年の頃はさ、ノートに漫画のキャラみたいなの惜しげなく描いてたんだ。授業中眠くなった時に先生の似顔絵描いて、うまく描けたなと思ったら隣りのやつとかに見せんの。「カトセンって怒るとバンジャラスみたいだよな(笑)」って。これが結構面白くてさ。 そうやって、当時流行のゲームキャラの絵から、妙にリアルなザビエルの頭の輪っかの絵やら描いて、笑いのネタにしてたんだ。 そのうち、前はあんま話ししたこと無かったような女子とかも、話しかけてくれるようになって、「あたしにも〜ぷるるんマカロン、とか描いてよっ♪」とか言われるようになって。そん時はょっとうれしかった。 そうやって不本意ながらかわいいキャラクターも描いてひとに見せるようになったんだ。いや、「不本意ながら」っていいつつほんとは可愛らしい絵もそれ以前からうちでこっそり描いて練習してたんだけどな。 で、 ある日、斜めうしろの席のゆっちゃんからお願いされた「ぷちまかメロン」を例のごとく描いて、ゆっちゃんに見せようとノートを回そうとしたら、隣りのキョ ウスケが「俺にも見せろよ!」って割って入ったんだ。僕はいつものノリで「はいよ」って、キョウスケにもみせたらさ…… キョウスケ、一瞬静止して、 「うわ、きめぇ!!」って。 僕には何がなんだか分からなかった。なんか良く分からなかったけど、泣きたくなった。 すぐにノートは後ろのゆっちゃんに渡って、ゆっちゃんは「きめぇ?何いってるのー?すごくかわいいよ。女の子が描いたのよりかわいい」って、フォローしてくれるんだけれども、最後の『女の子が描いたのよりかわいい』ってのは、ふだんの僕ならうれしく思って調子乗ったのかもしれないけれども、この時ばかりはエラい傷ついた…。
これ以来さ、ひとまえで、絵、描けなくなった。
美術の授業とかでは、皆否応なしに描かされるわけだけど、そんな時でさえ、なるべくてっきとーに、絵…なにそれ美味しいの?興味ねぇよ、みたいなモノトーンの乱雑な線画描いてた。 色は、必ず青か黒。たまに緑とえぐいレモンイエロー、どぎつめな赤。人間の肌にだって、ピンク使うの嫌で、肌色のクレヨンが品切れの時は、黄色と赤でごまかしてた。先生には逆に「じゆうなはっそうによるぜんえいてきなしきさい」ってほめられたけど、全然嬉しくなんてなかったさ。僕はほんとは肌色の上にピンクで頬を縫って本物らしい色で表現したかったんだもの。当時はほんと、周りで、パステルやら水彩やらオレンジやらピンクやら描いてられる女子たちがうらやましかったな。
今考えれば、そこまでする必要なかったのかもしれないんじゃないって思うんだけど、当時は必死だった。 僕が絵を描くだなんて女々しい趣味をもっているだなんて、とりわけ鮮やかな色使いや、かわいらしいほんわかとしたパステルタッチの絵を好んで描いてるなんてことが知られたら、男子グループからは揶揄されてけちょんけちょんにされちゃうんだ、ってそう思ってた。 …実際、けなされたのは、キョウスケからの一度きりなんだけど。 もしかしたら、ほかの男子はきもがらなかったかもしれないし、それどころか、いつもどおり『すげぇ!』てほめてくれたかもしれなかったし、全然自尊心失って描くのやめちゃう必要もなかったかもしれないんだけれども、当時はそんなこと思いつきもしなかったな。
今、絵を描き始めるようになって、イメージと出来上がるキャンパスのもののあまりの違いに、自分でびっくりして、…あぁ、あの頃絵描くのやめてなければ、今はもうちょいましな絵のクオリティになっているかもしれないのにってさ、昔の俺の決意ってばかみたいだったなって思うことも、あるっちゃあるんだけれども。
ま、後悔しても仕方ないことさ。って割り切ってる。
当時、描けなかったからこそ、今こんなに描くのが楽しくて仕方ない、ってのもあるんだし。
高校入ってさ、未知の人達のブラックボックスのごった煮のなかに放り込まれて、やっと、無理に気張ってた小学校以来の俺じゃなくて、ほんとの絵が好きな僕に戻れたってた感じ。
これからは思う存分、誰の目も気にせず、描きまくってやるんだー!絵筆を持って画面の四角い区切られた空間を縦横無尽に暴れてやるんだー。もちろんまだ絵筆の握る手つきはおぼつかないし、線は揺れるしで、絵の出来はとても褒められたものじゃないってのは自分でもわかってる。けれど、やる気だけは他のどの部員に負けず一番なんだって自負してるよ。文化祭前とかには学校に3日も4日もこもって油絵具の臭いと格闘してやるんだって。せっかく鍛え上げた足腰が台無し??運動音痴になっちゃうって??構わないさ、なにせ自分でえらんだ道だもの。 何よりも絵が描きたい。
僕は美術室の赤茶けたトタン補修の扉の前に立った。 ガタンと取っ手を掴んで押し開けると、あまり上品な響きではない摩擦音を立てて、扉が外れる。そして、そこにはコンクリ打ちっぱなしの上に簡単な塗装をしただけの部屋が浮かび上がった。 建てた当初はきれいな白だったのかもしれないその白色塗装は、今はもう、すすけた茶褐色に変色してるわ、ところどころ塗装がペラってはがれかけてるわで、もう、長いこと皆に気に掛けてもらえなかったのがばればれ。擬人化するのも変なのかもしれないけど、ラピュタのうち置かれた巨兵みたいな感じ。 その部屋の手前と奥ででは机イスの配置ががらっと意図的に変えられている。手前半分には重たげな石でできた薄暗く黒光りする作業机六隊、所狭しと詰め置かれていて、そのかわり奥の方にはすかすかで がらんとした空間がぽかんと空いてる。で、向こうの壁際には鮮やかすぎる「汚れ」にまみれた洗浄台が合って、その脇には絵を描くのに使う木枠の台が、立て掛けてあるんだ。どこの世界にも順番を守れないはみでっこはいるもので、木枠の台にも斜めになって周りを押し分け、自己主張しちゃってるやつが今日も何台かいるんだな。 僕はその手のかかるはみ出っこちゃん達をきちんと整列をさせてやり、それから、あたりを見回す。何はともなくぼおーっと。
今日は左右の壁際にある削り機が目にとまった。 そいつらは計三匹居て、機械しか持ち得ないめっきの緑で、あんまり錆びてなくて、嫌な音を立てる60センチぐらいの新米だ。…いや、入って三カ月の僕に新米呼ばわりされたくはないか。 ただ、そいつらの機械的な響きと、でかい黒いしかくい机達と、まわりの壁の持つ歳月の記憶は、限り無く不調和。
言うなれば古城ホテルのアンティーク家具の中にちょこっと覗く動力機械、そして高価な香水の匂いに町工場の錫の香りが混じるんだ。わっけわかんない。けどそんな感じ。
その時ばかりはその不調和な空間が素敵だと僕には思えた。何でかは自分でもよくわからない。不調和もたび重なると調和するというか、なんかの不思議な旋律を奏でるんだ。でも、たぶん一瞬だけだけど。そう、ほんの瞬く間しかその不思議なハーモニーは姿をなすことができない。そして、ばらばらとすぐに壊れ、何事もなかったかのようにそれぞれが元の場所に戻る。なぜかわからないけれど、僕はそう確信した。
ふと、まるで詩人みたいな言葉を脳内に垂れ流してインテリぶっている自分がばからしくなった。眼をこすると、僕の眼に映るのはただの汚らしい彩度の低い原色の壁と、木工用に使う黒い頑丈な作業台と削り機になった。 僕は緑の新米削り機の方にずかずかと歩いて行った。それら削り機の奥のブロック棚には僕の赤い合皮の絵の具ケースが入っている。それを取り出そうとしたんだ。かがんで削り機をうまく避けて絵の具ケースの方に手を伸ばす。するとそのとき、削り機の横に置かれている金網のラックの中段に、乾ききっていない油絵が一枚置かれているのに気付いた。 四つ切サイズ。絵画の世界では決して大きい方でもないけれど十分な威圧感を誇る大きさでダイナミックに描かれている。
ある女の肖像画だった。
腰から上の半身像でどこかの椅子に腰かけているらし、黒髪を後ろに束ねた襟の大きな白いシャツの女。左を向いて、どことなく画面の左側のどこか一点を見つめている。 その瞳は恐れを抱いているようにも、また、何かに羨望を抱いているようにも見えた。そして、その女の瞳は十歳の少女のようにも、また齢を重ねた老婆のようにも感じることができた。
僕ははっと息をのんだ。たぶん僕が息を呑んだのなんて生れてはじめてのことだと思う。記念すべき初【息呑み】だ。
先に言っておく。僕は別に絵の中の女に惚れこんだとか、そういうんではないから。
むしろ絵のモチーフがどうとか、この作者がどのような思いで彼女を描写したのか、それ以前に彼女が実在する人物なのか架空の夢の人なのか、そんなことは僕にとってもはやどうでもよかった。ましてやその人物が美しかろうと平凡な顔立ちであろうと、そんなこと僕にとってははたまたミジンコ以下の些細な違いにすぎなかった。
僕の魅かれたのは、その、『画面』であった。 その物悲しい情感、息のつまるような孤独、どこにもそんな解説文はついていないけれども、僕はその絵に載っている『雰囲気』をそう読んだ。 こんなに奥深さを感じさせる『画面』、そしてこれほどまでに奥行のきある『瞳』を絵筆と油のインキだけ、こんなに不自由なツールだけで表現できるのかと、心底驚いた。そんな人、見たことがない。それは、僕の短い人生の狭いリアルな世界のみで言ってるんではない。僕の知る、どんな名画や無名だけれどセンスある映画のポスターや広告、どんな媒体にもここまでのものは見たことがなかった。
そして、感動した。
ものの10分、僕はこの油絵を我を忘れて眺めていた。すると突然腰が痛くなって、現実に引き戻された。考えてみりゃ当然だよな。かがんで右肩を不自然な方向に捻じ曲げて、手を伸ばしたまま10分も硬直していたんだもの。 背筋がきしんだ。そのことに我ながらちょっと驚いた。ちょっと体勢をなおす、そんな基本的なことすら忘れさせる、身体をわずかに動かす猶予すら与えない、そんな作品に出合ったのは初めてだった。
ふいに、急に創作意欲がかき立てられた。
僕は、絵具ケースを棚からぱっと引っぱりだし、もうさっきの絵の方を見ないよう、敢えて逆の方を向いて、向かって左にあるさっきとは別の金網ラックから今度は僕が描いた描きかけのキャンバスを掴む。そしてそいつをひっつかんだまま、木枠の台をもう一方の肩にひっさげて、洗浄台の手前の広いスペースに移動する。僕はその後、丸椅子を持ってきてそこに置き、木枠の台を組み立てた。僕はその位置で絵を描くのが好きだった。ここからだと、外の木々がよく見えるし、そのわりに直射日光はささない。僕にとってそこは最上の『特等席』だった。 そして、そこで、絵を描き始めた。
描き始めのうち、まだ油絵具がパレットの上でチューブから出したままの色をしてたうちは、よかったんだ。僕は自分の絵に、自分の描こうとしているものに集中できていたんだ。 けれども、絵に没頭していくうち、不思議なことに僕の脳内に今描こうとしているものとは別のイメージがちらっちらっと時折浮かぶようになって、僕は戸惑った。 さっきの誰かの描きかけの油絵だ。 もうさっきの作品のことは忘れろ。そう自分に言い聞かせ、自分の表現に没頭するように自分を仕向ける。けれど、やっぱり筆を動かしてる隙にさっきの絵が脳みその片隅を侵食してくる。 ああ、僕もいつかこんなすばらしい作品が描きたい。描けるようになりたい。だからめっちゃ描いて描いて描きまくってやるんだ。 でも、ふと思う。描いても描いても僕には到達できない次元の世界なのではないか。妙に客観的に自分のセンスを判断して、すこし虚しくなった。 ああ才能がほしい。この人の才能を盗みたい。
気付いたら筆の動きが止まっていた。 だめだ、今日はやめだ。他人の絵のことばっか考えてるようじゃ自己表現もくそもないじゃないか。絵の続きはまた今度描こう。
僕は立ちあがって一旦伸びをする。そして、せっかくの『特等席』を離れ、作業机の方に向かう。その上には何冊か、A4版の美術情報誌が散らばっていた。 今はぐだぐだと雑誌でも眺めることにしようかな。そう思い、近くの適当な椅子に腰かける。
どれでもよかったが、とりあえず僕はその中の一冊『中越画報』を手に取った。 『中越画報』とは、僕の住んでる地方の自治体公認美術誌だ。自治体公認誌といっても所詮大して通な編集者のいるはずもないローカル誌で、紙面の七割方は、どこどこ区在住の誰それが全国規模の写真展に入賞したとかそんな記事が黒インキで延々とつらなってる代物だ。そのくせ表紙ばっかりは文芸春秋と肩を並べようとしてる、妙に気張って高尚ぶった三二ページ。
正直、中越画報に載ってる絵は大半が上手くはない。絵画素人同然の僕からしても、粗が見えるし、表現がなんか未熟。意図的に崩したのではないのにデッサンラインがどことなくいびつな人体クロッキーなるものとか、もっとこういう構図じゃない方が上手く見えんじゃないの、とか思ってしまう写真とか、そんなんばっか。とはいえ現在の僕よかだいぶん上手いんだけど。…けど、まあ、素人絵だよなって、感じるそんな感じ。 けれど、そんな中越画報でしたが、僕にとってはなかなか楽しめる雑誌だったのだ。なぜってどの絵にも情熱を感じるから。そう、本当は、デッサンがどうのこうのとかって大して重要でもないんだろうなって思う。やっぱりパッションだよパッション。その人の熱い魂の叫びが一つの画面に打ちつけられて外へ放出させる媒体なんて、そうそうお目にかかれるもんじゃない。絵ってすばらしい。 確かにこんな一ローカル誌なんて載ってるのはさ、大抵は『画力が未熟』って切り捨てられちゃうような、無名の画家ばかりだ。けれど逆に、無名で描く時間と場所が限られてるから…そう、限られてるからこそ、その少ないスペースにあらん限りの自分のなかの何かをぶつけながら描いてる。素人だからこそ必死なんだ。僕はその姿を想像しながら絵を眺めるのが好きだった。
だって僕だって必死だもの。もちろん誰よりもへたくそだけど。
なんだかんだで絵を見てるのは楽しい。つい時間が経つのを忘れる。 ……うん、なんていうのかな。 例えばさ、道端をあるいてるただの人、ただすれ違うだけじゃ僕にとってはただの人だけど、絵という内面性を映し出す鏡を通してみれば、それは僕にとって、生き生きした個人、に変化するの。そしたらさ、彼らと絵を通して対話するんだ。 だから、僕にとって絵は心の窓なんだ。 そう、心の窓。
……大袈裟だなあ、俺、我ながら恥ずかしい表現つかうなあ。もう。 そんなことを頭の片隅に浮かべたり浮かべなかったりしながら、手はぱらぱらと ぺらい冊子のページをめくる。 それをなめる僕のまなざしは至って真剣。自分でも僕が僕じゃないみたい。 ぱらぱらぱら、はっ。 僕の目はあるページに釘付けになった。正確には僕のまなざし、その眼球の動き は右側のページ中央にある一枚の写真、その中の額縁内を行ったり来たりするよ うになったのだ。
それはある川の風景画であった。いや、それを風景画と呼ぶのは適切ではないか も知れない。画面の左端には一人、女の子が川遊びしている。澱んだ空気のなか で濁った川の水面に顔を近付けて何を見やるのか。 この深い情感、質感、苦い味わい、こういったものを切々と訴える絵は、僕は他 に一つしか知らない。例の乾燥だなにうっちゃられている肖像画だ。 僕は直感的にその絵の作者は同一であると悟った。 そして、雑誌中の名前欄を見やった。 三隅 透 (16) 横須賀私立橘台高校二年
…やっぱりだ。 僕の予感は当たった。
そして、この三隅 透とは何者なのか、どんな人物なのか、すごく気になり始めた。 ぜひ会ってみたい。
そう強く思った、その時……
ばすん! 肩に衝撃を感じた。僕の腕は予期せぬ振動に驚嘆して、掴んでいた筆を取り落とす。痛みはないがなんか肩に鈍器が乗ったように重たい。 「今日もシュールだなあ、北原!」
斜め後方に振り向くと、イモっぽい出で立ちの、スカートはいてる上級学年が居た。それはわが美術部の誇るべき長だった。 部長……僕が冊子に見入っているうちに美術室に来てたのか。絵に夢中になりすぎて気付かなかった。 びっくりさせるなあ、もう。
「何すか部長!肩チョップとかマジびびるんすけど!」
目の前の芋女(=部長)は悪びれもせずけらけらと笑っている。これがなかなか人懐っこい笑みで、芋のくせに妙に憎めない。 けれど僕は一応ふりだけでも突っかかっておく。 「ていうかシュールだなとかわけわかんないすから!」 「えー北原、『シュール』の意味分からないん?」 「そーゆー意味じゃ、ないっすよ!」 「ああ、何がシュールかって?北原すっごい真顔(笑)で真剣なのなんのって、部員の中で一番美術部らしくない出で立ちなのに、熱心だよねーてとこだよ。シュール!」
しかし、外見のことを部長に指摘されるとは心外だな、もう。 だって部長の外見ってのは、上級者ルックスの猛者だから。つまり、具体的に言うと、無造作に一つに束ねた黒髪、イマドキ丸めがね、きっちりスカート膝丈、ここだけ純白の白ソックス何をとっても最近の流行という流行をアンチテーゼとしてるとしか思えない敬愛すべき着こなし。よくいえば流されない、悪く……っていうか普通に考えればただのダサ女ってこと。ある意味猛者とも言える。 ぼろ糞に言ってるようだけど、いや、ぼろ糞っつぅか真実なんだけど、けど僕はけっして彼女の雰囲気、嫌いじゃない。普通の男子学生だったら多分引くだろうね。でも僕なんかには、流行など気にせず、周りの視線がどうあるかなどおそらく考えもせず、誇らしげに振る舞う様子が逆に格好良く映るんだ。 僕も周りを気にせず振舞えたらいいなって思うことはある。けれども、とても僕にはそんな堂々とした真似できない。ほんと部長の度胸というか逞しさがうらやましい。
「何がシュールすか。失礼なっ!」 「だって、金髪ハリネズミヘアのあんたが、ペンギンジャージすそ引きずって、誰もいない美術室で何やってるかと思いきや、絵筆持って真面目に静物画描いたり校庭の風景描いたりしてるんだよ。挙句の果てにはあたし以外誰も読まないようなお堅い冊子『中越画報』を真剣な顔して読んでる!シュール!あたし、そういうシュール大好きだよ。」
部長は僕の様子を茶化しながらも、同時に、僕に対して或る種の敬意を持った口調で語りかける。 周りから見たら、僕がこれを読んでる様子ってそんなに『しゅうる』なのかな。そんなにギャップがあるのかな。と思う。逆に僕にはそう不思議がる部長の方が不思議だ、「いろんな人の描いた一生懸命な絵がいっぱい載ってる」、それだけで十分有意義な、誰にとっても眺めてて楽しい冊子じゃないか。って僕は思うんだけど。 てそんな風に思うのは、僕だけなのか。世間からしたら、この中越画報なんて冊子は『ただのつまんねえお堅い雑誌』、なのかもしれない。
「別に真剣じゃありませんて。描くのに疲れたからてきとーにダラダラ休憩がてら手にとっただけスよ。」
そう答えると、部長はポカンと驚きあきれるような顔をした。まん丸の眼鏡がさらにその表情のコミカルな感じに拍車を掛ける。もう、ちゃっぷりん。
「 え、なにいってんの!さっきめっちゃ真顔で食い入るようにながめてたじゃない!」 「そうでしたっけ。ああ、コレっスよ!」 そういって、僕はさっき見てた川原の絵を指し示す。 「この作品描いた人ってこの学校の人なんスねぇ。さっき後ろの乾燥ラックに似たタッチの絵をみつけたんっスが、同じ作者のっスかね。」 「ああ。そうそう。三隅さんね。うちのクラスの子だよ。なんか、家にアトリエがあって、普段はそこで描いてるそうなんだけど、今改築中らしくて、あの子にはその間特別に美術室で作品製作するのを許可されてるの。もちろん美術部に入部したわけではなくてね。」 「へぇ、あの規律に厳しい鈴形顧問がそんな個人的理由で美術室貸出しOKするなんて…」 「なんか彼女、絵画に於いては、昔から実績が優秀で、その道ではもう既にそこそこ名が知れ渡ってるらしくて、いろんな展示会からお誘いがかかるほどの人材なんだって。鈴形先生も、もともと知ってたみたいで、あたしが、三隅さんのことを先生に打診しに行った時、あの先生にしては珍しくーていうかみたことないぐらいにニコニコして「もちろんOKですよ。」って言ってたもん。ああ思いだすと気味悪いわあ。あの笑顔ー。」 「へぇ、まあ、そりゃそうっすね。俺もあの自画像見て、びびりましたもん。まだ描きかけなのにすげーって…。ていうか、家にアトリエかあー。羨ましいっすね。」 「そうかあー?羨ましいなんてのは北原くらいっしょ。この油絵おたくめがあっー。」 そう言って原口部長は豪快にけらけら笑う。はたから聞いたらただのさげずみ文句に聞こえるのかもしれないが、僕はそれも原口先輩のようなかにも美術オタクなような人から言われるとなんか妙に誇らしかった。
「北原さ、三隅さんの絵になんか魅かれる所あるの?」 「そりゃもちろん…ってか、原口先輩は何とも思わないんすか?」 「んなわけないでしょ。あたしも三隅さんの絵、凄い魅力的に思う。なんか、決して迫ってくるような迫力があるわけじゃないんだけれど、じっと見ていると作者の感情が嫌という程画面を通して伝わってくるというか……こんなの、凡人じゃあ描けないよ。」 「そっすよね!すげーっすよね。俺も描けないっす!」 「ま、あたしはそもそも『絵』自体ロクに描けないけれど〜……。ま、なんも描けないあたしからしたら北原だって十分凄いけどねっ♪」 原口先輩はお茶らけた調子で言う。その表情はニコニコしているけれど…こういう時なんて返したらいいんだろうか。普通は部長が自分が絵が描けないんだって自虐的な感じで言ったとしたら、それは単なる卑下だから、適当にスルーして流しておけばいい。
しかし、原口先輩の場合はそうはいかなかった。いくはずもなかった。そう、原口先輩は、部員の誰よりも絵を愛する原口先輩は、ほんとに絵が描けないみたいなんだ。他の部員に混じってスケッチブックになんかしら構想メモみたいなのを描いてるのを見かけるんだけど、後ろから覗くとラフスケッチの枠の外には文字がびっしりある割に枠の中は大抵真っ白。白紙。なんでそうなのかは僕にはわからない。僕だったら、なんでもいいから思いついたものをがーって描いてしまうのにと思うんだけれど。先輩はなぜかそうしないんだよね。 僕が見るに、原口先輩は、完璧なの目指し過ぎてるのかな、と思う。僕みたいに適当な思い付きじゃ満足できなくて、立派なの描こうとしてるのはいいんだけど、作ろうとしているものが立派でありすぎる分、上手くイメージを形にできなくて、悩んで悩んでラフすら描くまでに至らなくて、結局辞めちゃう。そんな感じかなって。 多分、部長は僕なんかよりいろんな絵を観てて、センスが磨かれてるから、自分の絵にも厳しくなっちゃうんじゃないかな。ほら、よく、腕のいい演奏者ってシロートが気にしない程度の音程の狂いですら気になるって言うじゃん? …ま、そんなわけなので余計に僕には何も言えない。
ちょっと困惑してる僕の様子に原口先輩は気付いたようだった。そして、場の空気を少し濁してしまったかと思ったのか、ちょっと慌てて原口先輩が続ける。 「そうそう、三隅さんはさ、放課後は部活の活動日以外は毎日、つまり、月水金だね、ここ美術室に来てるから、そんなに三隅の絵に心酔してるなら活動日外も部室来てみなよ。描いてるところが見れるし、もし、仲良くなれたら本物に教えてもらえるかもよ。」 「え、来ていいんすか。マジすか。俺なんかがあんなすごい人の描いてる場に居ていいんすか?」 「そりゃあそうでしょ。なに畏まってんの?だってなんだかんだいって同じ学校の高校生同士なんだし。」 「そうっすか…。もしいいんなら俺めっちゃうれしいんすけど…、本当にいいんすね?俺、その三隅さんとか言う人全然面識無いっすよ。」 「うん、面識が無いのは大丈夫だと思うよ。三隅さんうちのクラスだし、あたし、伝えとくから。」 「え。マジっすか。」 「うん、『マジ』、まじ。なんか北原本当ボキャブラリ足りないなあ。」 そういって吹き出す原口部長。そういわれると僕は返す返す返答に苦戦する。そんな僕の様子を見据えて、原口部長はにこりとしていう。 「まあ、表現したいことはありそうだから、『バカ』とは言わないけどね。」
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