20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
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作品名:ネイルアート 作者:中野 一司

最終回   1
加代子は男勝りな女だった。
子供の頃は、その肉付きのよい風体と逞しい脚力で野山や畦道を駆け廻り、日がな泥だらけになって遊んでいた。
加代子は、僕らやんちゃ盛りの男の子の集団にまじって、日が暮れるまで外で遊んでいた。当時のことはさすがに大方忘れてしまったが、一つだけ、日に焼けた加代子の肌がきれいな小麦色をしていたのは覚えている。小学校中学年になると、僕らの集団の中にも自然と序列ができてきた。そのなかで加代子は、人一倍大きな体躯をしており、さらには機敏で、足も速かった。加代子には、かけっこや取っ組み合いにおいて僕らの中に敵うものはなく、女ながらがき大将の座に居座っていた。しかし、がき大将と言っても、自分の力にかまけて、好き勝手を働き周りの少年に粗暴をはたらく類のがき大将ではない。加代子は人一倍正義感も強かったため、けっして僕らに不利益が生じるようなことはしなかったし、させなかった。そして、僕らの中で悪さをした者がいたら、諭すように、しかし手厳しく糾弾した。加代子は周りの僕らをまとめ、導く真のリーダーであった。

僕はそんな加代子に幼いころから侍従のように付きまとっているうちの一人だった。
腕っ節の強い加代子とは対照的に、僕自身は、どちらかと言うとひ弱な体質で、争いごとを好まぬ内気な子であった。そのためか、小学校に上がるくらいまでは、やんちゃ盛りのいたずらっ子に、おもちゃを取られたりちょっかいを出されたりして、しょっちゅう泣かされていた。そしてそれに見かねた加代子が、僕が泣かされる度に、僕を泣かせた連中に、よく『成敗』をしにいっていたものだった。
実年齢では、加代子は僕と同い年であったが、僕は加代子のことを尊敬し、一つ二つ年上の姉のように慕っていた。それに、加代子の方もそのことを承知していてやはり僕のことを弟のように気にかけていた。そのためか、幼い時分は、よく周りの大人達から「どっちが女の子かわからないね」と言われたものだ。

僕らの地元は四国の片田舎で、都会と比べて学校の数が少ない地区で、僕と加代子の通った学校は小・中・高とずっと同じ学校であった。いくら学校数が少なめだったとはいえ、けっして辺鄙な山の中で学区に高校が一つしかないといった程ではなかったため、小学校以前からのつきあいでずっと同じ学校に通っていた例はそこそこ珍しかった。たしかに、僕らの幼馴染の中でも、高校まで同じ学校に行ったのは、僕と加代子ぐらいのものだった。当時はどうと思いもしなかったけれど、今考えてみると奇遇といえばなかなか奇遇である。

中学時代の加代子はバスケットボール部に所属して活躍した。その女子としては飛びぬけて強固な体躯と、的確な判断力、幼いころから兼ね備えていた正義感とリーダー的資質により、入部してすぐさま女子バスケットボール部のエースになった。そして、人望も篤く、先輩たちの引退試合が終わると加代子はチームのキャプテンになった。その後、高校に入ってからも、引き続き加代子はバスケットボールを続け、ますます熱を注ぐようになった。言うなれば、加代子は中学・高校の六年間、青春の大部分を、バスケットボールに捧げていた。短髪に170cmの長身で、鍛えられた筋肉質のたくましい体をバスケットチームのユニホームに身を包み、ゴール目がけて跳躍し、シュートを叩き込むその姿は、男の目にもうっとりするほど真摯で清々しく、恰好良かった。そういった加代子の一生懸命な姿は、その辺の男共よりもよっぽど逞しく、男性的魅力を兼ね備えているようで、当時の、運動の方はからきしだめだった美術部の僕は、そんな加代子にちょっぴり嫉妬していた。

いっとき、僕が冗談で「加代子は男に生まれてくればよかったのに」と言ったことがあった。すると、加代子は、「そうやなー。あたしも自分でも『男に生まれてくれば、さぞかしモテたやろなぁ』って思うもんなぁ」と妙に神妙な顔をして頷いていた。僕は、その加代子の普段見ない真面目くさった顔と、すぼめて突き出した唇の様子に、つい吹きだしてしまった。それにつられて、加代子も笑っていた。
しかし、後から思い返せば、あの時の僕はもっと真剣し加代子の話を聞くべきだったのかもしれない。当の加代子の身になって考えれば、こちらは真剣に自分のことを話しているのに、相手、すなわち当時の僕は笑って適当にうやむやにしていたのだから、心のうちでは良い思いをしていなかったに違いない。

こう書いてきたが、僕らは学校では会って話すことはほとんどしなかった。たしかに廊下などですれ違うことはあったが、加代子は僕に挨拶や軽い会話を交わす程度で、そそくさと去っていく場合が大半であった。加代子は人気者だったので、学校でいるときはたいてい誰かしら、取り巻きの女子が加代子に付きまとっていた。そして彼女らは、いわゆる「きゃぴきゃぴ」といった形容詞が似合いそうな女の子たちで、僕はそのようなタイプの女の子たちが苦手だった。当時の僕は、内気で陰気な印象を持たれがちな少年であって、彼女らのような、元気はつらつで、何かにつけて黄色い声を上げたがるタイプの女子とはろくに話したことが無かった。だから、学校では加代子を見かけても、僕は加代子に話しかけることができなかったし、加代子もそのことを知ってか、あえて話しかけてくることはなかった。
加代子に対して僕のできるコミュニケーションは、せいぜい体育館のわきを通った時に、声援を受けてボールを追いかける加代子の姿を遠くから眺め、周りの観客に混じって声援を送ることくらいであった。そのため、僕における加代子の学生時代の印象は、バスケットボールをやっていて、しょっちゅう表彰されていること、それくらいしかなかった。逆に、それ以外は、学校での加代子について何も知らなかった。

しかし、学校の外では、僕らはしょっちゅう顔を合わせていた。
僕らは家が近かったので、ふらっとちょっとした買い物をするために寄った商店街でばったり会って立ち話をすることもしょっちゅうあったし、犬の散歩中に、子供のころから慣れ親しんだ近所の公園や原っぱでみかけることも多かった。そういった時の加代子は、子供の頃と全く変わっていなかった。少なくとも、僕にはそう思われた。
だから、僕の中での加代子の印象は、依然として小学校入学以前からの、がき大将でありつづけ、正義感が強くて誰よりも男らしく逞しい加代子のままであった。おそらく、加代子の方も、僕に対して、幼い時の僕のままであるといった印象を持っていたに違いない。加代子は相変わらず僕を「洋ちゃ」と呼んでいたから。

 しかし、それは限定的な場所での話なのである。
学校の中では、それぞれの友好の輪が出来上がっていて、顔を合わせることがあっても、すぐさまどちらともなくそれぞれのグループに戻ってしまう。僕らは別々の世界の住人であった。
それは何となくはわかっていたけれど、高校三年で初めて加代子と同じクラスになってから、僕は痛切にそのことを感じるようになった。

実は、僕らは付き合いは長いものの、小中高と十二年間にわたる学校生活の中で、加代子とはずっと別のクラスであった。だから、学校という社会、クラスの中での加代子の姿を近しく見るのはこれが初めてであった。

その年度初めての学校で、朝、教室に入ると、ブレザーにミニ・スカートを履いた数人のこぎれいな女の子たちがいた。そして彼女らと同じブレザーを着てミニ・スカートを履いて、同様の恰好で加代子が彼女らの輪に混じってきゃっきゃいう姿を見た。そのときは実に不思議な気持がした。そして、同時に言いようのない淋しさがよぎった。もう、それは僕の見知った、がき大将の加代子、ではなくて、顔はそっくりだけれど別の人生を生きてきただれかなのではないか。加代子はその見知らぬだれかと僕の知らぬ間に入れ替わってしまったのではあるまいか。では、僕のよく知っている本当の加代子はどこに居るのだろう。もしかしたら、本当の加代子はどこか遠い星に行ってしまって、目の前の加代子は抜け殻でしかないんじゃないか。そんなきちがいな錯覚さえ真に受けられる気がした。それくらい当時の僕にとっては大きな衝撃であったのだ、と思う。

今までは。僕は思った、今までは同じ学校であったとはいえ、同じ学級で席を並べて勉強してきたわけではないから、僕は加代子と学校では大してかかわらずにいたし、そうすることができた。つまり学校の中での僕の知らない別の加代子の面を知らずに済んでいたんだ。
けれど、同じクラスになって、否応がなしに大して広さのない教室という箱に詰め込まれて、僕は現実を突き付けられてしまった。見せられてしまったのだ。
きっと加代子の方だって、もう僕がひ弱な小柄な少年ではなく、声の太くなった自我を持ったいっぱしの青年で、本当は加代子より背が高くて、いくら加代子が逞しいからとてきっと喧嘩をしたら僕が勝つんだろうなという事実、そういう現実を認めたくないんだろうな、と思った。

だから、僕らはクラスでは全く見知らぬ誰かのふりをして暮らした。お互い、暗黙の了解で、そうすることにしたんだ。

 しかし、相変わらず家の近所では加代子とはよく会って、そして会うたびに面白おかしく話をしていた。それらの話のうち大半は、当事者以外はどうでもよいような身近なちょっとした出来事であったが、僕らはそのどうでもいい話をするのをそれなりに楽しんでいた。逆に、同じクラスになってから、学校で共通する話題もできたのだが、僕らは無意識に、しかし注意深く、その話題を避けていた。もし、そういった話に話の流れが向きそうになったら、そのことに気付いたどちらかがなんとはなしに、学校のことに触れないような方向に舵を切った。そうやって、僕らの関係は何事もなく無事に、平穏に保たれているかのようだった。


ある夏休み前の日、たまたま加代子と学校で話す機会があった。そしてこの日は、僕にとってある種の衝撃的な日となった。この日以来、僕にとっての加代子の印象はがらりと変えられてしまったのだ。
この日は土曜日で、校庭では様々な部活動の感性が響いていたが、校舎には進路指導のための面談に来た三年生のほかには、だれもいなかった。僕らの名字はどちらも「か」で始まるため、年度によっては出席番号が隣になることもしばしばあった。そして、今年も僕らの出席番号は隣であり、よって僕の次の面談者は加代子であった。僕が面談の後、昼色をどこで摂ろうかとぶらぶらとしていたら、面談が思いのほか早く終わって教室から出てきた加代子と、ちょうどはち合わせしたのである。そして、周りに他の生徒がいないことを確認すると、加代子はせっかくだから一緒に昼食を食べようかといった。僕らは久々に屋上で昼食を取ることにした。

屋上にでると、僕は余りの照り返す陽射しのまぶしさに、目元を手で覆いたくなった。それくらい、コンクリートブロックの床に差し込む、焼けるような日差しは強烈であった。そのなかで、僕らはやっとのことで日陰になっている場所を見つけ、そこに並んで腰を落ち着けた。
ふうと一息ついて、下敷きでばっさばっさ自らを扇いでから、それぞれの弁当を開け、食べ始める。最初のうちは無言だった。加代子とこうして並んで弁当を食べるのは何年振りだろう。ひょっとしたら十年ぶりかもしれない。
そのうち、どちらからともなく話しだした。それは、普段地元であっている時の会話そのままの様で、しかし、どこか違った。僕らは、その日はいろいろなことについて話した。普段は絶対しないような学校のことについての話もしばしば登場した。そこ=屋上は、僕らにとって誰の目も気にせずのびのびと話せる魔法の場所となった。そこで、僕らは幼い無邪気な少年に戻り、どうでもいいことやら公共の場で語るには余りにも幼稚すぎてしかし純真な探究心から来る疑問のようなことまで話題にした。
しかし、一方で、僕らは子供の頃だったら絶対にしなかったような話もした。
進路の話である。

たしかに、僕らは高校三年生だったから、それぞれ進路についてそれなりに悩んでいる時期ではあった。しかし、今まで家の近所で話していた時は、僕らは学校の話題を避けようとするあまり、自らの進路について語ることも控えてきた。話題が進路がらみになっていくにつれ、僕がいかに加代子のことを知らないかを思い知らされた。僕は、加代子が将来どの道に進もうとしているのか全く知らなかった。見当すらつかなかった。加代子のことを良く知ってると思っていたのはやはり思い違いだったのか。
先に、加代子のほうが僕の進路について尋ねてきた。
「洋ちゃは大学行くの?」
「ううん、行かないと思う。就職…かな。」
「そうかあ。地元に残るん?」
「うん、そうすると思う。」
「そっかぁ。じゃあ、就職活動たいへんやな。これから本番やろ。」
「うん。」
「がんばりいや。」
加代子は遠くを見て言う。
僕らの通う学校では、生徒のうち半分ぐらいが県の中心部の大学や専門学校に行き、残りの半分くらいが地元の企業に就職していた。親の後を継ぐものもあった。県外に出る生徒はめったにいなかった。なぜなら、僕の住んでる地方ではまだまだ不便なものもあれど、県庁の辺りまでいけば、インフラは十分整っていたし、大抵のものがそこで充足していたから、わざわざもっと遠くの東京や大阪などに下宿してまで行く必要が無かったのだ。たまに、そうした大都会まで出て行こうという生徒は居たが、そうした場合は、よっぽど出来がいいか、または何か強い意志と目的を持っている野心の持ち主であった場合のみだった。
もちろん、僕はそんな野心もないし、大して勉強も好きでなかったので、高校を卒業したら地元の中小企業に就職することを考えていた。それは、僕のみならず、僕の周囲の大人達にとっても、十分予想を裏切らない程度の結論であった。周りの大人たちは僕の地元企業に就職したいという意思に賛同したし、僕もそのことに何ら違和感も無かった。いうなれば、それはある種の予定調和であり、僕は自分の将来を作っていくことに対して多少投げやりになっていたのかもしれない。
加代子はどうするんだろう。あの逞しくて努力家の加代子のことだから、すごく勉強して僕なんかじゃ到底入れなそうな有名大学に行ったり、僕なんかには到底なれそうもないすごい業界に飛び込んだりしてしまいそうだなあ。
 そう思って、僕は加代子に尋ねた。
「加代子の方こそどうするんや?さっきからの感じだと、就職はしなさそうやけど。大学にいくんか?」
「いや、大学はいかんわ。」
「へぇ、意外やん。じゃあ、この辺で就職するんか。まさか嫁入り修行なんかじゃあるまいよなあ。」
「まさかぁ。といってもこの辺で就職する気も無いけど。東京に行くんや。」
「へぇ、やっぱり加代子すごいなぁ。東京かあ。」
 僕は感心した。同時に、さすが、加代子だなと思った。東京かあ。さっきも言ったように、僕らの周りで東京に行くというのは、強い意志を持っていることと同義語であった。逞しいなあ、加代子。けれど、そこまでして加代子がやりたいことって何なんだろう?
 「なあ、加代子。」
 僕は、尋ねる。
 「加代子が、東京まで行ってやりたいことって何なんや?さっき大学ではないと言っていたよなぁ。何か特別な仕事があるんか?」
 「ん…まあ…。仕事っちゅうか専門職やけど。」
 珍しく加代子がためらうそぶりを見せた。何だろう?もしかしたら、僕が突っ込んでいけないことなのかという不安が多少よぎったが、
 「専門職?何や。」
僕は聞いてしまった。
加代子は僕の方を向いて、僕に対していつになく真剣な眼をして僕の目を覗き込んだ。
「洋ちゃ、笑わない?」
「ああ、笑わない、笑わない。」
 僕も、僕なりに加代子に対して真摯に答えたつもりだった。
 その様子を見て、加代子は安心したのか、表情を和らげほっと一息ついてから語りだした。
「あたしね、ネイルアートに興味があるんや。それで、親に無理言って、東京にあるネイルの専門学校に行くことにしたんや。」
加代子は、俯きがちに眼を伏せながらそう言った。
「ネイルアートお?」
僕は目を丸くした。
「さっき、笑わない、約束したでしょ!」
「うん、笑わない、笑わない…けど、お前がネイルアートなんて言いよるなんて…ほんまか?」
「もちろんやぁ。ほら、これ。」
そう言って、加代子はそれまでポケットに入れていた手を出して、指先をこちら僕の方に向けて手の甲を見せる。
 加代子の開かれた指の先には、整えられた、流線型でとがった形の紅く塗られた爪が、それぞれの指先にきれいに整えられて乗っていた。その紅い下地の上のには銀色のビーズか何かが無数にちりばめられていた。そしてそれは、コンクリートの隙間から差し込む太陽の光を反射してきらきらしていた。綺麗だった。
「きれいでしょ。」
加代子は、ほほを微かに赤らめながら、静かに言った。それは、ためらいがちではあったが、しかしある種のささやかな喜びを裏に秘めていることを容易に想像させる物言いだった。その見なれない表情の加代子の横顔を、僕は正視することができなかった。
今まで僕は何を見ていたんだろう。加代子の手は、僕の想像していたような、バスケットボールをむんずと掴む、汗ばんだごつごつした手ではなかった。僕は勘違いしていた。本当の加代子の指先は、僕が勝手に思い込んでいたような、ささくれだって竹のように節々が目立つ硬い指ではなく、すごく繊細ではかなげな印象すら漂うような、うっとりするような、少女のそれだった。

僕は驚きと戸惑いを隠せなかった。
僕は加代子のことを今まで誰よりもわかっていると思っていた。理解していると信じて疑わなかった。もちろん、教室には僕の知らない加代子が居たが、それは、加代子の「本当の姿」では無いと思っていた。教室での加代子は、きっと周りの女の子たちに合わせているだけなのだ。きっと。僕はそう思い込んでいた。そして、加代子が僕に見せている面の方が素顔なんだと信じていた。
しかし、それは僕の思い上がりに過ぎなかったことを、今日、今この瞬間で気付かされた。
まるで、今さっき、これまで僕の前にずっとあった、もやもやとしたうすぼんやりとしたブラインドをいっきに取り去られ、僕が見てこなかった、いや、あえて見えないようにしていた、現実の姿を突き付けられたかのようだった。
何よりも、そのはにかむような笑み。
こんなにはかなげに、可憐に笑う加代子を見るのは初めてだった。
だってそもそも、加代子がこんなに可憐に笑うことのできる人間だとは、思いもしなかったのだから…。
彼女の心のうちの見てはいけない部分を初めて覗いてしまったのではないか。僕は戸惑うと同時に、ある種の罪悪感すら感じ始めた。
僕は、何も言えなくなってしまった。
そうして、しばらくの沈黙ののち、やっとのことで発した一声は……
「加代子、やっぱり女の子やったんやなぁ…。」
「何言うとるんや。あたりまえやないか。」
 そう言ってけらけらと笑う加代子。その様子に、さらに僕はどうしていいかわからなくなってしまった。
 「そ…そうやな。」
 「そや。何、神妙な顔しとるん。ほら、食べ終わったし、そろそろ行こ。」
 加代子は立ちあがった。気付けばあんなにまぶしかった太陽が、もううすら傾き始めている。
 僕も、多少ふらつきながら、立ちあがった。そして、校舎へと下ってゆく加代子に多少距離を取りながら、ふらふらとついていく。
僕の思考はまだ一向に整理がつきそうもなかった。

あのあと、僕らは何事もなかったかのように、それぞれの部活動に顔を出して、そして別々に帰った。

その晩、初めて見た彼女の表情を思い返しながら、僕は湯船の中で考えた。

確かに子供の頃から加代子はずっと逞しかった。頼もしかった。そして僕らの中の誰よりも、理想の漢像を具現化しているかに思われた。僕らはそんな加代子を尊敬していたし、僕らの仲間であるとお互い認め合っていた。
僕らは加代子を男友達のように扱っていたが、加代子自身はそのことをどう思っていたのだろうか。

僕らからしたら、仲間の一員である彼女を、女だからとて、特別扱いをしたくはなかった。
きっと、加代子自身も、僕らが考えているように、腫れものを触るような女扱いよりも、本心をぶつけ合う男同士の友情関係が結びたいのであろう、そう考えていた。
しかし、それは僕らの理屈である。僕らの独断と偏見である。彼女自身もそう望んでいるだろうと本人の了承も得ないで決めつけるのは、僕らのおごりのほか何物でもないのではないか。
本当は例え腫れものに触られるような扱いであっても、外遊びで手加減されたとしても、それでも女として扱ってもらいたかったのではないか。
いいや、加代子に限ってはそんなことあるまい。好き好んで毎日汗水垂らして炎天下駆けまわる加代子が、そんな特別扱いを喜ばしく思うものか。それも、子供の頃のみならず、今だって毎日のようにトレーニングに励んでいるし、それに誰よりも逞しい。
しかし、考えてみれば、加代子が熱く走り回り、ぶつかり合うのは、今となっては女子だけのバスケットコートの中だけではないか。
そのほかの世界―つまり教室の中なり近所の公園なり―では、加代子はそんな姿をけっして見せはしなくなった。僕と居るときだけを除いて。
もしかして、僕といる時だけ、加代子は無理に「昔の加代子」を演じてくれているのではないか。僕を失望させないために。そして、僕からの一方的な「友情」に応えるために。
だとしたら、今までの関係は、加代子にとって、ある種の苦痛だったのか。子供の頃の加代子はもう居ない。そんなの当たり前だ。僕らは互いに成長している。僕らの距離が近すぎて、近視眼的になっていて、その成長に気付かなかっただけなんだ。
そう言えば、最近公民の授業で習ったどこかの哲学者だかその夫人だかの言葉で、「女は生まれつき女であるのではない。女になるのだ。」というワン・フレーズがあった。その時は僕はどうとも思いもしなかったけれども、今考えてみると、加代子がそうだったのかもしれない。僕の見ていたのは、「生まれつき」のままの加代子で、しかし僕の気付かないうちに、加代子は「女になって」いたのだ。
僕は、今までの僕の無知さを恥じた。そして、同時に、むしろこんなことは知らないままの方が良かった、とも思った。
これからどうすべきなんだろう。

僕にしては珍しく、加代子との今後の関係について、いろいろ悶悶と考えていた。挙句の果てには、僕はもう、しばらく加代子と話をしない方が良いのではないかとさえすら思うようになった。
結局以来、家の近所で見かけた時ですら、今まで通り加代子に気安く近づくことができなくなった。いつしか、僕は無意識に加代子を避けるようになっていた。

夏休みの半ば、八月の第一週目の或る日ことである。この日の夕暮れ時、僕は商店街から買い物袋を提げて帰ろうとする時に加代子に遭遇した。僕は、この商店街前の出たすぐ脇にある自販機で、地域特有と銘打った妙な柄の缶の果肉入りのジュースを買うのが好きだった。僕が自販機の前で財布から小銭を探していると、後ろに誰かが並んだ。それは加代子だった。加代子は部活の帰りらしく、体操着姿でさらには首にタオルを巻いたままで、学生鞄の代わりに、大きなビニル製のスポーツ・バッグを肩にかけていた。加代子の顔は、普段より若干赤らんでいるようで、顔や腕からは汗が滴っていた。しばらく経ってから、加代子が声をかけてきた。
「おう、洋ちゃやないか。ひさしぶりやん。」
加代子は相当疲れていたらしく、僕が誰であるか気付かなかったようだ。
「あ、うん。久しぶり。」
「聞いてや、洋ちゃ。今日は地区大会やったんだけど、リーグ戦二試合目にして、メンバーがうっかり反則してしまったんや。そこですっかり皆の士気が下がってしまってな。その試合はなんとか勝ち上がれたものの、結局次ん準々決勝で敗退や。あーあ、こんなに早く引退試合になってしまうなんてなぁ…。」
「そっか…それは残念やなぁ。」
「そうやぁ。落ち込むわぁ。あたし、バスケなくしてこれから何を支えにしていけばいいんやろ。」
その時、僕が次の言葉を言いかける前に、ごとんと自販機の内部で飲み物が落ちる音がした。加代子は受け皿から清涼飲料水のふたを開ける。
僕は言葉を再開する。
「何がって…ネイルアートがあるんやろ?」
「それはそれ、これはこれや。」
加代子はぐびぐびと音を立てて清涼飲料水を飲む。
僕はますます加代子がわからなくなった。
「あの…さ、この前、ネイルアートに熱中してるんやって、加代子言ってたけど、その熱中と、スポーツの熱中って加代子にとっては別物なん?」
「あたりまえやん。」
加代子は清涼飲料水を飲みほした。
半透明だった清涼飲料水のペットボトルが、さらに完全な透明になった。そして、ごみ箱に捨てられた。すると、加代子の意識が僕の方へ向いた。
「…ん?なんか今日具合悪いんか?洋ちゃ、返事が妙によそよそしいなぁ。」
ああ、もう逃げられない。
「そう…かな…。」
 「そうや。しばらく会わなかったからか?」
 
 「あの…さ。加代子も無理せなくていいんよ。」
 「無理?…しとらんしとらん。なんで、昔からの付き合いの洋ちゃに無理せないけないんや。」
 「その、昔から変わらない風にしてるのが、無理してるように感じるんよ。」
 「はあ。」
 「だって、もう、本当は加代子は昔のままの加代子やないんやろ?」
 「なんの話や?」
 「だから、男らしくさばさばとしてるの、本当は無理してるんやろって。本当はクラスの女子とかときゃぁきゃぁいってるのがいいんやろ?」
 「はあ?なに言ってるんや。なんか、今日の洋ちゃ、変やわぁ。」
 「変やない。こう見えても俺、真剣や。実は…俺、最近加代子のことどう扱ったらいいんかわからなくなってんのや。
俺ら加代子のことずーっと男仲間みたいに扱ってきたけど、本当は加代子はそんな扱い嫌やったんやろ?
なんだかんだいったって加代子は女の子やないか。ネイルアートなんてするような女の子らしい女の子や。結局俺らみたいな野蛮な男とは違うんやって。本当はさ、加代子。もっと女として扱ってほしかったんやろ。外で泥んこで遊んでなくて、もっと女らしく、ままごとしたいとか、思ったこともあるんやろ?ちがうんか?俺あもっと加代子に優しくすべきやったっていまさらやけど反省しとる。ごめんな。」
僕はそこまで一気にまくしたてるように話した。ここまで言葉が流暢に口から飛び出してきたのには自分でも驚いた。
そして沈黙があった。
横を向いて俯いた加代子の表情は、こちらからはよくわからない。
何分か経っただろうか。加代子がようやく口を開いた。
「あんた、あたしのことを、そういう風に見ていたん…。」
加代子はきっとこちらを見据えた。その顔面は紅く染まり、目にはうっすら涙すら浮かべてさえいる。そして、加代子は叫んだ。
「そんな風に見ていたんか!ずーとずーとそういう風に、所詮あたしなんて雌やって、思ってたんか!あたしは、洋ちゃんのことを、気の置けない親友やて、思ってたのに…。洋ちゃんは、そういう目で見てたんか!もう、絶交や!洋ちゃんとは、絶交や!」
そう叫ぶなり、加代子は振り返って駆け出した。
気がつくと、加代子は遠く向こうの方に居た。

それから卒業までの数カ月の間、僕らはたまに顔を見かけることはあっても、ろくに挨拶も交わさずに過ごしてしまった。
僕は、就職活動が本腰に入って今までのように近所をぶらぶらすることは少なくなったし、加代子は加代子で、進学のための学費をためるために多くの時間をアルバイトに費やしていた。互いに忙しかったし、忙しいからこそ、お互いを見ないで済んだ。むしろ、意図的に忙しいという状況を作り出そうとしていたといえるかもしれない。なぜなら、忙しくしている間は、僕は加代子のことを忘れることができたし、加代子もあの日の嫌な出来事を思い出さなくて済んだから。その証拠に、僕は就職が決まってからも、今度は車の免許代を貯めるという名目で、また昼夜アルバイトに勤しんだ。
そうして、六か月が経った。僕らは互いの間のうやむやを晴らさぬまま、卒業式に臨ん。そして、そのまま卒業した。その日、僕らが一緒に写っている写真は、ただ一枚、クラスの集合写真だけとなった。

卒業後数日目に加代子は、東京に引っ越してしまった。
僕への挨拶は無かった。
僕の方も、来る新生活と就職の準備に追われて、そのうち加代子とのごたごたも記憶の片隅に追いやられてしまった。

*  * *

それから久しく二十数年になる。

今朝、ポストを見ると、一通の手紙が届いていた。
裏に返して差出名を見ると高校の同級生からであった。そう言えば彼は当時学級委員をしていたな、と久々に懐かしい記憶をたどりながら封筒を開けてみると、それは高校の同窓会の連絡であった。
高校のクラス会と言えば、加代子のことを思い出した。
一体あいつは今どうしてるんやろか。
もちろん、今の僕が加代子の所在を全く知らないといえば嘘である。加代子からは、毎年手書きで一筆添えられた年賀状がきちんと届いている。それに僕も毎年同様の年賀状を彼女宛てに送ってはいる。しかし現在の僕らの間のつながりと言えばそれだけ。「連絡を取り合っている」と言うには余りにも心許ない。
僕の知っているせいぜいの情報は、加代子は高校卒業以後ずっと東京に住み続けており、東京で知り合ったメーカーの営業マンと結婚して、今は一児の母となっていること、仕事は初めのうちはネイルアートの専門職に就いていたが、結婚とともに一旦辞め、現在はパートとして職場復帰し、お菓子工場で働いていること、ぐらいだ。
加代子は女性になってしまった。
当たり前のことだけれども、やはり一抹の寂しさがよぎる。僕にとっては加代子は男勝りで泥だらけな顔でにかっと笑う加代子のままでいてほしい。妻であり、母である加代子、家庭の主に仕える女房としての加代子など想像できない。

どうしようか。行こうか。やめようか。

久々に加代子の顔を見て話がしたい。しかし、きっと加代子は高校の時より、さらに変わってしまっているだろう。そして、僕は再び創造と現実のギャップに戸惑い、どうせ虚しさを覚えるに違いない。
しかし。僕はこうも思う。加代子とは長年の友人でありながら、関係の修復するタイミングを逃してしまって、電話をすることは出来ない仲だ。もちろん、しょうがないことではある。しかし本当は、そんな状況を変えたかった。僕は、関係修復のためのきっかけがほしかった。
このクラス会を逃したら、もう、しばらく加代子と出会えるきっかけはやっては来ないかもしれない。
加代子のことは記憶の中にのみ留めておくべきなのか。
そうだ。もう、加代子は普通の女性なのだ。僕の会いたい加代子はもうどこにも居ないだろう。
ボールペンを欠席の欄に滑らせかける、しかし、はたと流れた歳月を思い出し、気持ちが変わってさっき引きかけた薄い線を消す。
加代子と最後に言葉を交わしてから、もう二十余り年、僕らはもう立派な中年だ。人生の半分に差し掛かろうとしている。ここで、加代子と会うきっかけを逃したら、やっときたチャンスを逃したら、もう次はないかもしれない。そう、次はないかもしれない。

加代子に会いたい。

期限日までさんざん悩んだ末、僕は結局出席することにした。

会場は、県有数のパーティーホールであった。
僕は、その会場に入る扉の前で、情けないながら一瞬しり込みした。四十にもなる男が子の体である。僕の芯は、相変わらずひ弱らしい。情けないこった。このざまを加代子が見たら笑うだろうなぁ。
しかし、もう、それを笑う加代子は居ないのだろう。いや、気にしても何にもならない。歳月はもう戻らない。
扉を通ると、洒落ている装飾のされたホールの中心にある二列の長いテーブルの周りに、皿を持った正装した人々が三十人ほど、ひしめき合っている。その顔触れを見てから、急に懐かしさがこみ上げてきた。
「おお、みんなぁ。ひさしぶりやぁ。」
昔の顔馴染みの面々に、片っ端から話しかけていった。懐かしかった。高校の頃は全く口を利いた事の無かった人も、快く話してくれた。すっかり忘れていた高校の風景がありありと目の前によみがえってくる。なぜ、僕は出席を渋っていたのだろう。これだけでも来る価値が十分じゃないか。
奥を見ると、ゆるくウェーブのかかった茶色い髪を肩まで降ろした紅い服の女性がこちら、僕の方へ向かって手を振っている。最初は彼女を誰だろうかと思った。けど、
「洋ちゃ。元気だったかー。会いたかったわぁ。」
昔ながらの加代子がそこに居た。


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