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作品名:よつあしのひと 作者:たぬき

第1回   第一部
 そこにあったはずの静かな朝は、絶え間ない雑踏に踏みにじられた。人々の活動の始まりが、新しい空気に刻まれる。
僕は電車に乗り遅れまいと、人波に埋まる階段をできる限りの速足で登った。そしてホームに流れ込んできた電車に乗ると、いつものことだが食い入るような視線が僕を射た。
僕が電車に乗り込むと、僕以外のあらゆる事象が問題でなくなる。座席に座り、頁に顔をうずめるようにして文字を追う人の首がゆっくり持ち上がる。彼の驚きはもはや表情に追いつけず、本に添えられた指先は、熱のような緊張と好奇に震える。
 向こうはこちらを見慣れていなくても、僕はそういう反応を飽きるほほど見て、嫌になるほど感じてきたからすぐにわかる。何度と経験してきたことなのに、いまだに僕は、誰かの視界に足を踏み入れる時胸の底がざわつくのを感じる。
 細く、密にめぐらされた視線の網に、毛の先、皮下に巡る血液までが翻弄されるようだった。ざわめきは僕の機嫌や体調によって神経質に尖った気配を帯びたり、激しい混乱をともなうものになる。無意識に溢れる鈍重な怒りが、理性の底を流れることもあった。
 そういう時でも、僕の表情は穏やかで、充分な眠りを満たした人のように落ち着いていた。何年とこの状況に生きて、瞳の色と気持ちの浅いところは、平穏の波を泳ぐようになった。
 感情が枯渇したわけではない。それは僕の奥深くに、怯えるように潜んでいる。その存在を忘れてしまうのが、生活するには好都合だ。
 僕は少しく姿の奇異なこの世の生活者だ。
恨めしいほどに力強い四本の足とその蹄が、僕を支える全てだった。手の指は腕の筋肉に導かれて、僕の意図する通りになめらかに動く。
 僕の上半身は人間、下半身は馬の姿をしいている。ちょうどギリシア神話に登場する、半身半馬の怪物ケンタウロスそのものの格好だ。馬の半身には柔らかな毛が生え、人間の半身にはワイシャツを着ている。しかしズボンを履かないので、なんとも中途半端な装いになってしまっている。
 なぜこんなことになってしまったのか。そんなことは僕にはわからない。きっと、考えるのも愚かなことなのだ。とにかく生まれた瞬間から、生まれる前から、僕はこういう風にできていた。何の抵抗も許されず、暴力的に与えられた運命だった。もちろん僕は、その運命に納得することができない。
 もし普通の人間の形に生まれていたら。もしこの先、人間の姿になれたならば。
 僕は過去への仮定と未来への仮定を繰り返した。その虚しさだけが充積する想像をやめることを幾度も試み、失敗した。不可能とわかりきった希望さえ、失くしてしまうのは辛かった。だから僕は、今日まで不毛な仮定と希望を積み上げ続けていて、ふと振り返る度に、自分の愚かな心を情けなく噛みしめている。万回願っても変わらない現実を飲み下す。仕方のないことを仕方がないと諦める強さを、こんな姿に生まれてきたのに、いや、こんな姿に生まれてきたからだろうか、僕は持ち合わせていなかった。その力さえあれば、どんなに楽になれただろう。
 ありがたいことに、両親は僕を受け入れてくれた。奇跡のような人たちだった。
僕は母が大好きだった。幼い頃、母は僕の体に触れるたび不思議だ不思議だと呟いていた。母が言うとそれは不快ではなく、むしろ気持ち良いほどに優しい言葉だった。母は不思議な僕の存在を丸ごと認めてくれた。母は自分の納得を得るために、妙な理屈をつけて僕を世界の規範に合うようにねじ伏せたりはしなかった。
 母ほどに、僕を愛してくれる女性はいないだろう。なぜなら母は、この世で唯一僕を生むという経験をした人だからだ。
 母は昨年亡くなった。
 風をこじらせ肺炎にかかったのだ。元々強い体ではなかった。病院のベットに横たえられた彼女は、弱々しい呼吸でこの世界につなぎとめられていた。死の予感を間近にして、時計は残酷に進んでいった。一分が、一秒が、秒針の微かな揺れが、どれだけ貴重なものか、悲しい有限を支配しているのかを僕は知った。


 
僕の仕事は小学校の教師だ。こんな体ではあるがちゃんと務まっている。
 子供は恐れの表情も親しみの表情も素直だから好きだ。それでも年齢が上がるにつれて妙な気遣いの習慣を身につけてしまうから、一年生や二年生のまだ小さい子供がいい。僕を見て泣く子は何度と見てきたが、毎日過ごしているうちに、障壁は薄くなっていく。
 僕は日々授業をして彼らと話し、生徒の質問に答える。それはとても時間のかかることだけど、それでも生徒は、僕が何の問題もなく学校の先生であること、彼らの日常の一部であることに気付き始める。日常はいつまでも驚きと興奮に満ちてはいられず、全ては適応と慣れの方向に落ち着くものだ。
 僕がこの仕事で苦にしているのは、保護者に会うことだ。
 授業参観や、学期に一度行われる生徒の様子を報告したり学習状況を話したりする面談で、その機会は訪れる。僕はそういう時、出電車に乗っているのと同じような心持になる。
 普段面識のない人と、一定時間同じ空間にいるのは多大な緊張を強いる。初めての人でも、その後何度も会う機会があり親しくなって、僕の容姿へのヤジ馬的な好奇が薄れる時がくると思えるならいい。しかし保護者一人一人と特別懇意にするようなことはないから、僕は中途半端な姿をさらしただけで終わってしまう。せいぜい親たちは、僕が半分馬であるにもかかわらず毎日授業をこなし、ネクタイをし、社会生活を送れていることに感心する程度だ。立派ですねえと言われたことも何度かある。
 自分はそんなことで感嘆されなければならないのかと、苦い気持ちになったのを覚えている。その時感じた気持ち悪さは今も僕の心にぬるぬると残って、僕の何かを深く陥没させている。
 もうひとつ僕が苦手とするものは同僚の木内先生だ。
 他の先生とはうまくやっていて仲が良いのだが、彼とはどうしても馴染むことができない。不幸にも、彼は職員室で僕の隣の机だ。
 木内先生は書き物をしている途中、何か考えるべきことが浮上し手をとめる必要が生じると、ペンの後ろを口に持っていって噛む癖がある。
 それから彼の机は職員室一綺麗だ。美しいというより、異常なまでに清潔なのだ。規則に反するものを徹底的に排除することで成り立つ、独裁的な清潔さだった。余計なものは一切置かれていない。本などが横倒しに置かれることは許されない。全ては机の上に設置された小さな棚に、きっちり収まっていることが求められる。
 以上のことからわかるように木内先生は神経質だ。彼のちょっとした苛立ちや焦りは鋭利な棘を帯びて、一息一息こちらにまで伝わってくる。彼は考え込むと表情を硬くして眉間に皺を寄せるが、それがまた彼の性質を際立たせているようだった。
 彼は時折憂えるような目で僕を見る。狭い場所ですれ違ったり、僕の馬の半身に接近せざるを得ない時には、露骨に嫌そうな顔をして他の先生の方を見る。自分の抱いた嫌悪に同意を求めているのだ。彼はいつも、自分を後押しするものを他人に求める傾向にある。
 ただ僕の半身にだけは、誰に共感されなくても確固とした嫌悪を示し続けてくる。君は人と違うから大変だとか、口調からして嫌味としか思えない汚れきった同情を浴びせてくる。多分彼は、僕を自分より相当下に見ていて、僕に対する彼の発言は彼一人の確証のみで十分だというのだろう。
 僕は過去こういう人に、種類は違っても似たような居心地の悪さを起こさせる人に会ってきた。何度も、数多くだ。いい加減慣れて、受け流せるようになるべきだと思う。
 でも僕は、この体とうまくやっていける心を身につけていない。人の悪意に、汗まみれの吐き気を覚えることがいまだにある。
 駅から学校は少し離れている。僕は登校する生徒たちに混ざりながら、冬の風景を歩いて行く。葉を落とした木々の姿は、夏からは膨大な時間を過ぎてしまったように見え、春に辿り着くにはただ茫漠と長い時を待たなければならないように見えた。断固とた冬が、己の支配を証明するように絶え間ない北風を吹かせた。
 学校に着くと、長い廊下を歩いて職員室に向かう。廊下の壁には生徒が図工の授業で描いた絵が飾られている。この前あった運動会を題材にしているらしく、色とりどりの絵具が奔放なうねりで紙の上を踊っている。
 そういえば僕は子供の頃、運動会が嫌で仕方がなかった。奇異な姿が注目を集めるのが恥ずかしかった。僕は走るのは速かったけど、徒競争で一位になるのは避けたかった。僕に一位を獲らせるのは四本の脚の力だ。僕はこの半身から何の成果も得たくなかった。いつも僕を困難に追い詰める半身から喜びを得るのは、あまりにくやしくて不条理で、納得のいくことではなかった。自分を構成する一部として馬の半身を認めてしまうのは嫌だった。 
 僕はもはや、僕の体と無関係でありたかった。僕に好意を持たない人がそうするように、自分を嘲弄していたかった。僕は僕でありながら、僕でない人間の側に立っていたかった。何億人という人間の中で、自分だけが並外れて、奇妙な格好をしていることに当惑以外の何も感じられなかった。
 自分の半身は嫌いだ。その確信を深めていくことで、自分の感覚が人と違っていないことを確認し、安心することを求めていた。僕は人が僕に向ける認識や理解に違和感を覚えることを封じるように努めている。それは難しく、完全に達成することはできないかもしれないが、僕の方が人の僕を見る目に合わせて、人のやり方に合わせて僕を見るようにしていた。僕には自分に対する自信も信頼もなかったからだ。
 すれ違う生徒に朝の挨拶をしながら、職員室の扉を開けた。


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