20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
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作品名:潮風のセレナーデ・・・会いたい気持ち・・・ 作者:HAPPYソフィア

第1回   たった一人の大好きな人のために・・・



   潮風のセレナーデ〜
   
           たった一人の大好きな人の為に・・・
              
     


   どこからともなく風に吹かれてシャボン玉が飛んできた。


            私は一人、冬の海辺に来ていた。

      そう、ここで大好きなテファお兄ちゃんと

            帰国のお別れをした場所・・・


   テファお兄ちゃんは「別れじゃない・・始まりだ」と言ったけれど・・・


           私は首にかけていたペンダントを外し、

                太陽の陽に翳してみた。

             テファお兄ちゃんと、私との再会の印

                 =証しのペンダントだ。



     テファお兄ちゃんは、日本に来る前に、軍隊の兵役をしていた。

 兵役を終えた韓国の男子が、その証しとして軍隊から貰えるペンダントを、

 直角三角形に2等分し、更に、二人がどんな時でも、二人で1つだと言う事で、

  「TEFFAR」と言う文字を「TEF」と「FAR」に分け、

        私の名前である「花音=カノン」を「お花」と

        「音=♪」のデザインした物を、半分ずつに分けた。

     お兄ちゃんは、軍隊の三角形の半分と、

   「FAR」と言う文字と「音符=♪」のマ-クのデザイン、

      私は、軍隊の三角形の半分と

   「TEF」と言う文字と「お花」のマ-クのデザインを貰った。

        テファお兄ちゃんは、

    「どんな時も、どんな事があっても、このペンダントは

             二人の証し」と言って

            渡してくれたものだった。
 
      私は、テファお兄ちゃんが、韓国に帰国してから、

    寂しくなると、良くこの海に一人で来て、テファお兄ちゃんの事を

            思い出すのだった。


   「オッパ・・・、会いたいです。オッパ、今は元気でいますか?

           私は心が潰れそうな位、苦しいです。」

             そう思いながら、涙が流れた。


       するとペンダントがキラキラと海と太陽の陽で輝いた。


  「カノン、君は一人ぼっちじゃないよ、、、帰国して、落ち着いたら、

           必ず僕から連絡するからね」っと、、、、

           テファお兄ちゃんの声がした気がした。

 
  シャボン玉が、また1つ2つと風に揺られながら飛んできた。

  テファお兄ちゃんは、この海で、別れの前にシャボン玉を吹いて、

  一つ一つのしゃぼんを、私たちの想い出の話にしてくれたっけ。。。。


          そして、最後のシャボン玉が壊れると

    「想い出は、シャボン玉のように脆くて直ぐに壊れてしまうけれど、

             心の中には、ちゃんとずっと残るもの・・・

                 だから悲しまないで・・・

      僕は過去の想い出よりも、カノンとの、未来の想い出を、

           これからも沢山、作って行きたい・・・

        カノン、これは別れじゃないし・・始まりの一歩だよ。」と、、、

                   言ってくれたっけ・・・・


            私は涙を拭いて、笑顔を作った・・・

                
      そうだ!テファお兄ちゃんは、メソメソした私は嫌いだ・・・

         いつも元気で明るく笑っている方が好きだから・・・

         そう思い直して、今日も、一人で家路に帰るのだった。

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          夕暮れシャボン
                    
                     作詞・作曲:川野哲司
                       
                       歌: TSUKASA


 
         
 1 空色繋がってく 言葉を超えて 僕の想いも

   
   風に揺られながら 壊れない様に ほら 、ほら

    

       そっと秋の空 哀しみが 色付き出せば

       

       きっとこんな風に オレンジ一人 包まれてく

      
         会いたいこの想いは 会えない時だけだって

        

        あんなに分かっていたのに あんなに繰り返したのに

        
  2 波音にそっと 耳を澄ませたら

      
     隣で笑う あなたが見えたよ

      
     夢だとしったって嬉しすぎたから 今日は笑顔です

     
     いつもこんな風 あなたを傍で 感じられたなら


      もっと上手に 羽広げて 飛んでゆけるかな

      


        会いたいこの想いを あなたに届けたくって

      

       あんなに傍にいたのに あんなに笑っていたのに      

       
   

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     私の名前は「鈴木 花音=SUZUKI KANON」、大学1年生です。

    港が良く見える横浜で生まれ育ちました。

    家族は会社役員の娘に甘いお父さんと、同じ大学で大恋愛で結婚した

    優しい美人なお母さん(=その昔は大学のミスキャンパスにもなったり、

    出身が福島なのでミス福島にもなった、女優の黒木瞳似のお母さん)、

     今はボストンに駐在しているIT会社勤務の兄、生意気で我儘な高校生の弟、

     ゴ−ルデンレトリバ−のプリンちゃんと私の5人と1匹の家族です。


      私はとても恵まれた環境や家族で、何不自由なく育てられたと

思っています。

    特に女の子が少ない親類縁者なので、私が生まれた時も、家族は勿論、

    親戚まで大喜びし、皆が皆、愛情を沢山くれた事を、実感しています。

    特にお父さんは、私に物凄く甘く、欲しい物は、何でも買ってくれたり

    揃えてくれたり・・・

    洋服も毎日、ファッションショ−が出来るくらい何回も着せ

替え人形みたいにしていました。

     幼いころ、私は「キティちゃん」が好きだったのですが、部屋中、

     キティちゃんのぬいぐるみだらけだったし、世界中のDFSで売られている

     キティちゃんのレアなお土産も、タイムリ−に揃えて貰えたりと・・・

     本当に幸せな毎日でした。

     学校も私達、兄私弟は、受験の厳しさを知らず、

     幼稚園から大学までエスカレ−タで上がれる学校へと入学し、

     私は両親が女の子だからと言って、自由で・楽しく・

      ノンビリ暮らせるようにと、兄や弟とは違った、

      附属の学校へと進みました。


      本当に、楽しく、毎日があっと言う間に過ぎて行った、高校3年の時、

      大学進学の事で、家族と話し合いがあったのですが、

      私は、本当は、家庭科が凄く好きで、推薦で女子大の家政学部に

      行きたいと言いましたが、父は、家庭科は趣味で留め、

      きちんと学問を学んでおきなさいと言いました。



      母親は、折しも日本は「韓流」大ブ−ムで、

           李ビョンホンさんの大ファンの為、

      「カノちゃん、このまま大学に行って韓国語学部に行きなさいよ」と

      強く勧めたのだった。



           韓国・・・・っと、聞いた時、


      私は、高校2年生の春に行った韓国はソウルの修学旅行を

      思い出したのだった。

      本当に楽しくて、想い出深いものだった。

         5泊六日の修学旅行で、キムチ作り体験をしたり、

      ロッテワ−ルドで遊んだり、寺院や博物館観光や、

       野球観戦もしたり・・・


           1番の想い出は「板門店」だった・・・・

     私たちのクラスを担当したガイドの田さんは、

                ご老人ではあったものの、

    日本語が上手で、一見、日本人に見えた、とても優しい

              おじいさんでした。

    田さんは、いつも笑顔で優しく、楽しい話を沢山して下さった。

     私たちは、直ぐに打ち解けていった。


      ただいつも田さんは、食事の時に、ご飯を半分残すのでした。

     私達、生徒は「ご飯は残したら良くないですよ。特にお米を残すと、

     目が見えなくなると言われてる位です」と言うと、

     田さんはニコニコするだけで、それでも残していました。



     板門店には、朝早くからバスで出かけて、

           お昼に着く事になっていました。

     私たちは板門店がどんな場所かも知らずに、

           恥ずかしい話しなのですが、


 お昼に着くから、中華料理のお店?と言うくらいにしか

                 考えていなかったのです。

  バスを降り立った瞬間、お喋りを弾ませていた私たちも、

  シ−ンと静かにしなければいけない厳粛な雰囲気になりました。


          そうここ板門店は、、、、

  
       北と南が分断された場所で、

           戦争の傷跡や悲しい過去が色濃く

           残された場所だったからです。

              田さんは、

  私たちのクラスを引き連れて、汽車がある所に案内しました。

  
            看板には英語で

     「私は、もっと北に走りたい。。。
          
           でも線路が切れていて、

            これ以上、走る事が出来ません。」

          I want to go ,but I can't no more.
                         

              と書いてありました。

        
 田さんは、帽子を胸にあて何かをひたすらに祈っていました。

見学が終わって、バスに乗り、そして食事場所へと移動となりました。

     その時に、田さんは、今までずっと食事を残していた話を

             私達にしてくれました。



   「北に残してきた家族が私にはおります。その家族を思って私は、

    いつもご飯を残しています。罰あたりかもしれませんが、

      皆さん、許して下さい・・・」

                       と言いました。



      私たちは、そんな事はないと何度も言いました。

       寧ろ、私達の方が恥ずかしい気持ちになりました。
  
      事情も知らないで、良い気な気分で意見をしていたのだから・・・ 

         そして、ドイツが東西が一つになった様に、

         きっと、韓国と北朝鮮も一つになる日が来ると思います・・・

         だから田さんも元気を出して下さいと皆で言いました。


      田さんは涙を流して何度も嬉しそうに頷いてくれました。


    修学旅行が終わる、別れの際、田さんは、自分は88オリンピック

    競技場の近くの高層アパ−トメント3棟の803号室に住んでいるから、

      また良かったら、いつでも訪ねて来なさいと言いました。

         私は、、、おそらく私だけでなくクラスの皆も、

         もし、今度、韓国に行く事になったら、ちゃんと言葉や、

         文化や歴史など、キチンと学んで行きたいと、

          思ったに違いないと思いました。



             私はお隣りの国なのに、全く韓国の事を知らずに、

          唯、韓国に修学旅行だと言う事で、観光気分で、

          訪れていたからです。



       顔も姿も、同じアジアだし、凄く良く似ているのに・・・

             それでもよく知らないでいました。



         言葉も、文字も全く分からないし、

          旅行中も日本語で通していました。。。

        母に「韓国語学部」と言われた時に、私の頭の中で、

               「コレダ!」

       と思い、韓国語学部を選び、附属大学の

             韓国語学部へと進んだのでした。

 

     長野県の親戚で、鈴木サヤカと言う子が、私とほぼ同年代で、

      丁度、私と同じ大学の英文科に入学すると聞き、

     私達は、東京の世田谷に二人でマンションを借りて貰って

      住む事になりました。

      それは、親離れをする意味での私のチャンスだったのかもしれません。

      父親も母親もかなり心配性で、反対をするかな?っと思いましたが、

      サヤカの家族が、説得してくれて、良い経験になるだろうと言う事で、

          OKを出してくれた事でした。


     サヤカは、国際キャビンアテンダントになりたいと言う事で、

               東京の大学を目指していたし、

          私の大学の英文科は、就職率が良く、毎年、何人かは

    キャビンアテンダントで採用されているから定評があったからです。


     サヤカの家は病院をしており、本当は、サヤカには女医になって

            欲しいと思っていのですが、

       サヤカは夢を諦めたくないと言う強い希望を通し、

            女医は妹の花廉(=カレン)に譲るとし、

       折角、受かった東北大学医学部を8か月足らずで中退して、

             再受験となったのです。



       幼い頃から頭の良いサヤカにとっては、英文科への変更は

        簡単なものだった。

 

       テキパキしていて、男勝り・・・

              更には豪快な性格のサヤカとの二人暮らしは、

      楽しくもあり、家族の干渉から離れて気楽な部分でもありました。




       サヤカは幼い頃から、勉強ばかりしていたので

            掃除・洗濯・裁縫・料理などは、

                  いつも人任せで、何もできなかった。



         なので、家庭科が大好きな私は、

             それが思う存分できるので楽しかったし、

                 やり甲斐もありました。


      韓国語学部に進んではみたものの、生徒の殆どは、

         韓国語が初めてと言う子も多く、私はほっとしました。




          多少、中には、韓国語が出来る子もいましたが、

               お母さんか、お父さんが韓国人だったり、、、

                  在日の子もいましたが、皆、韓国語は

           さほど抜きんでて出来ると言う子はいなかったかと思います。


         「アヤオヨ」っと、文字から始まる授業が始まりましたが、

            最初は、象形文字のような丸っこい文字が

         何で、こう読むのか?チンプンカンプンで、

          良く分からなかったのですが、、、

     学んで行く内に、なるほど・・・なるほど良くできているな・・・っと

          思うようになって来ました。

       学んでから数カ月もすると、簡単な挨拶の会話もできるようになったし
       
        韓国語や、韓国の事が面白く学習出来、もっともっと学びたいと
     
         思えるようになってきたのでした・・・・






     時々、横浜の実家に帰ると、お母さんも、イビョンホンさんの為に、

      韓国語会話の教室に通っているので、一緒に勉強したり、TVを見ながら、

      ドラマに出て来る景色の看板や、人の名前の文字をタドタドしく読んで

       みたりして笑い合ったりもしました。

          そんな時に、母親の通っている語学教室で事件が起こりました。


 



                 それがやがて、大きく私を韓国へと

                    関わりを持たせるとは、

                その時は、全く予想をしていなかったのでした。


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