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作品名:トマトを食べる話 もしくは愛してると言うだけの話 作者:しまうま

最終回   1
熟れたトマトの肌は何の色にも似ていないなとノブアキは思った。
赤く艶光りしたそれは狭い台所で輝いていた。冷たい表皮は触れるたびにつ
るりと滑り、柔らかく儚い中身をしっかりと閉じ込めている。へたの濃い緑か
らは土の匂いがした。拳よりも少し大きくてずっしりと重たかった。
極上の黄色を再現したゴッホはなぜトマトを描いてくれなかったんだろうと
も思う。肘の長さ程度しかない蛍光灯が点滅した。午後を迎えたばかりの休日
は、影が静かに部屋を埋め尽くしていた。
「何してんの?」
「んー」
肩で挟んだ携帯電話の受話器口からナミの声がした。
表で豆腐屋のラッパが鳴っていた。
「外、なんの音?」
「なんでもないよ」
ノブアキは包丁の刃先でへた..をくり抜く。柄は固定してトマトを動かす。網
戸を抜けて聞こえてくる車のエンジン音が遠かった。
「ねえ」
ナミのナ行の発音は猫のそれに似ている。猫と電話しているというのは少し
滑稽な姿だなと思ったりもした。
「何してんの」
「なんだよ」
「なにをしているの?」
「トマト切ってる」
テーブルの上に置いているメトロノームはいつかの誕生日に彼女が送ってき
たものだった。カツン、カツンと足を鳴らしている。秋がゆっくりと歩いてく
る。リズムに合わせるように、刃の柄に近い部分でトマトを刻んでゆく。まな
板の上に8個の赤い三日月ができた。日が射した。
「ドレッシングはかけないの?」
「かける必要があるのか?」
食器棚は何も喋らなかった。流し場は押し黙っていた。1畳分のクローゼッ
トは口を閉じていた。白樺の机は無言のままだった。会話は月曜の雨降りのよ
うに限定されていた。レースのカーテンが揺れていた。ノブアキはトマトを一
切れつまむ。
「うまい」
「いいなぁ」
「いいだろ」
いいなあ、ともう一度ナミは呟いた。ノブアキは窓から外を見下ろした。一
台のリムジンが向こう町の坂を下ってこっちに向かってきていた。蛇のように
長いやつだ。それは坂の麓に着くと止まった。最後尾はまだ坂の頂上にあり、
一人の太った男がそこから降りてきた。丸い影がこちらからでも覗くことがで
きた。境界線の波打った黒い影だ。ノブアキは干したままにしておいたポロシ
ャツに手を当てる。ベランダはない。
「今日って雨降るっけ」
「予報では降らないって」
他の上着やタオルは乾いていた。携帯電話を右手に持ち替えて左手でハンガ
ーを物干しざおから降ろす。デニム生地のブラックジーンズを手にとろうとし
たところで止まる。白いカスがこびりついている。
「あ」
坂の上にいた男は札束の紐を解いてばら撒き始めた。それまで静まり返って
いた街が大騒ぎになった。養殖場の鮭のように、紙切れに群がる人々が坂を駆
け登っていた。
「どうしたの?」
「ティッシュ入れたまま洗濯してた」
「ばーか」
その言葉はカップに入れたままにしておいた冷めたコーヒーにぽとんと着地
した。短い波紋が部屋の中に拡がった。一度転んだ人間はたくさんの足に踏ま
れていた。悲鳴とも歓声ともとれる叫びにまみれていた。リムジンを飛び越え
ていく人影もいたが、すぐに群衆の濁流に呑み込まれていった。赤い何かしら
が飛び散っていた。
「汚いな」
フックからジーンズを外して何度かはたいてみる。ついでに皺も伸ばすがテ
ィッシュは縮れて至るところにくっついている。
「とれないでしょ?」
受話器の向こうでほくそ笑んでいるナミが想像できた。
「他のもダメかな」
汚いな、ともう一度吐いた。
「きれいはきたない、きたないはきれい」
鼻歌を口ずさむようにしてナミが言った。
「シェイクスピアだっけ?」
「禅の言葉よ」
サビついた鉄骨の手すりについた水滴をなぞった。大きかったはずの粒は肌
に触れてただの水に変わった。光を反射して自分の皮膚が鱗のようにそこだけ
きらめいていた。雄叫びがここまで届き、その鱗を震わせていた。坂の上は潰
れたトマトのように染みになっていた。
「ゴッホもがっかりだ」
「なに?」
なんでもない、とノブアキは湿った指をシャツの袖で拭うと、台所に戻って
やかんに水を入れる。側面のステンレス材に映った部屋は透明で、何の匂いも
しなかった。
「きれいなものってゴースト的よね」
「丘の上にある樹の話?」
美しさの話題になると決まってナミはとある絵本の話をした。
丘の上に一本だけ、何かの角のように突き出ている樹があった。少女は彼に
恋をした。暇を見つけては頂上へ行き、彼と話をした。ある日、少女は訊ねて
みる。
――あなたは樹そのものではないのね。
――僕はいろんな記憶をもっているだけ。誰のものでもない幽霊なんだ。
その話のラストは覚えてないとナミは言う。ノブアキはそれは嘘だと思って
いる。コンロのスイッチを捻った。
「結局、彼という存在は単なる心でしかなかったのよ」
だから美しいの、と彼女はつづけた。
トマトをまた一切れつまむ。
「テクストではないから意味は一つしかないのかな」
「どういうこと?」
「声しかないっていうことは、その場にいる者しか彼を証明できないってこ
と」
残りのトマトを平皿に盛りつけて窓辺の椅子に腰かける。白いキャンパスに
トマト色が寝そべっていた。固い背もたれにノブアキも寄りかかる。いつの間
にかリムジンは消えていて、人だかりも無くなっていた。遠くの景色は蜃気楼
のようにぼやけていた。塀の上を一匹の猫が歩いていた。
「じゃあ今もそうね」
「今も?」
「今アタシの存在を証明できるのはノブアキだけね」
「なんか違う気がするけど」
メトロノームがゆっくりとリズムを刻んでいる。空に浮いていた円盤が向こ
う町の建物に突っ込んだ。低く鈍い破裂音がした。猫があくびをした。
「ホットケーキが食いたい」
「パンケーキじゃなくて?」
「どう違うんだ」
「バターを添えて蜂蜜をかけるのがホットケーキ、メイプルシロップをかけ
るのがパンケーキよ」
「両方かけたら?」
返事はなかった。
ぶつけられた建物は食べかけのパンケーキのようにひどく中途半端な代物と
なっていた。消防車のサイレンが鳴っていた。後ろを振り返りながら坂を下っ
てくる者が何人かいた。やかんの表面が汗で濡れてきた。
「喉乾いたな」
「お茶作ってるの? アタシも」
ちょっと待ってて、という言葉と足音が響いた。受話器口に漂う体温が冷め
ていくのを感じた。トマトをもう一切れつまんだ。冷たさが薄れてほど良い甘
さが舌の上を抜けていった。少しだけ乾きを忘れた。瓦礫の山と化した建物の
すぐ上、粉塵が低い場所を飛びまわっていた。雲はほとんどなくなって日射し
もだいぶ伸びてきた。部屋の埃が照らされて浮かびあがり、風もないのに辺り
を舞っていた。
「きれいはきたない、きたないはきれい」
ノブアキは呟いた。幽霊的なその言葉は誰も聴いていなかった。窓から腕だ
け出してみる。樫の木でできた椅子は動かすたびに軋んだ。
「お待たせしちゃった?」
「身体が腐るほどに」
「身体なんて捨てちゃいなさい」
心の一部でしかないんだから、と続ける。やかんから湯気が吹いていた。慌
ててノブアキは立ちあがると火を止める。素足で歩くフローリングの床は冷た
い。
ナミが言った。
「アタシは畳みのほうが好きだな」
「紅茶派のくせに」
「アフタヌーンテーよ」
下手くそな発音だな、とノブアキは思った。時計は午後3時を指していた。
誰かが部屋で流している音楽がここまで聴こえてきた。何の曲かはわからなか
ったが、ブルースだということは何となくわかった。
「太るぞ」
「午後の紅茶どきくらいお菓子を食べさせてよ」
「そもそも3時のおやつって過食症だったイギリスのお姫様が発端なんだけ
どな」
トマトをさらに一切れつまむ。小窓から眺める表通りに並ぶ街灯は空気のよ
うにひっそりと立っていた。半分裂けた建物は朝のダンスホールのように何か
が終わっていた。
「雨降ってきた」
「こっちはまだ降ってないけど」
裂けたビルの上からきらきらと舞い落ちているのはガラスか何かか。いず
れにしろ雨は降っていない。
代わりにもう一度訊いてみた。
「両方かけるのは?」
「贅沢よ」
「それはゴースト的な美しさではないのか」
「ノブアキもわかってきたじゃない」
コツン、と軽い音がした。受話器口を爪で叩く姿をノブアキは想像した。
点けっぱなしだった台所の電気を消した。明るさは変わらなかった。一目で
見渡せる程度の狭い部屋は決定的に何かが間違っているような気がした。テー
ブルに置き去りにしていたハンガーを元の位置に戻した。カチカチ、とメトロ
ノームが鳴っていた。日射しが斜めに射す場所に手を触れると暖かい。ノブア
キは椅子に座る。猫はすでにいなかった。
すぐそばにあったリモコンの赤いボタンを押すと、テレビにスイッチが入っ
た。午後のニュースには誰かしらのあくびが混じっているような気がする。
――たった今、N国より原子爆弾が投下されました。近隣の県に住まわれる方
なども至急避難してください。
ノブアキは窓から外を見た。遠くでキノコ雲が上がっていた。
「ナミ」
「なに?」
猫はここにいた。いつの間に電話の向こうにいってしまったんだろう、とノ
ブアキは不思議に思った。トマトはまだ半分残っていた。自分の証明はナミが
してくれるだろう、と少しばかり安心した。
そしてノブアキは言った。
それを。



                          おわり


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