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作品名:トランシング・レポート 作者:J・トークマン

第4回   4
ファイルNo.4 ドリー・ラスゴ

場所及び地域:米国西海岸
日時:平成十五年九月中旬
現象:単純転移
能動者:ドリー・ラスゴ 三十八歳 ミュージシャン
受動者:ロバート・ウッドソン 二十八歳 大学生


二〇〇二年九月十四日発行のポートランドタイムズ紙に以下の記事が掲載された。

ミュージシャンを騙った男は、本当に記憶喪失か?

 九月七日十七時頃、セーラムから南西へ五十キロ離れたマルビナスという港町で、事件は起きた。男はアムトラックに乗ってセーラムまでやってきた。マルビナスで職にありつくためだった。男を雇う約束をしたのは、マルビナスでジャズクラブを経営するエディ・マーシャル。ピアノとバイオリン両方を演奏する専属ミュージシャンが高齢を理由に引退をほのめかしたため、後釜を探していた。そこでドリー・ ラスゴに白羽の矢が立った。
 エディとドリーは十五年前一度顔を合わせたことがある。ニューヨーク・セントラルパークで行われたチャリティコンサートでのことだ。当時、エディもまたミュージシャンを目指していた。しかしドリー・ラスゴをはじめ、ジュリアード音楽院卒のミュージシャンと同じステージに立ったとき、エディの中で希望の灯が消えた。特にドリーの演奏は素晴らしく、握手をし、記念に写真を撮った。その写真をエディは今も持っている。そんな縁でエディは、ドリーに打診することにした。
 男はロスアンジェルスから十六時間かけてセーラムに着いた。セーラムからエディが手配した車に乗り替えて、マルビナスに。そしてエディのクラブ「エル・テンポ」に現れた。
 男は自分がドリー・ラスゴだと名乗った。ドリー・ラスゴの名前が刻まれたバイオリンケースを持っていた。しかし、エディは俄かに信じられなかった。印象が大きく違っていたからだ。写真のドリーとも何か違う。
 結局、男がドリー本人ではないと判断したエディは、男からバイオリンを取り上げた上に、店から男を追い出し、警察に通報した。翌朝、男は漁港の物置小屋で酔いつぶれているところを警察に発見され、保安官事務所に連行された。
 酔いが醒めるのを待って、取調べが始まった。エディからバイオリンと十五年前の写真の提供を受けていた保安官は、バイオリンの入手経路について男を厳しく追及した。しかし男は、「俺のバイオリンだ」という主張を曲げなかった。そこで保安官はドリー・ラスゴ本人にコンタクトを取ることにした。しかしドリーがどこに住んでいるのかわからない。居所を調べるあてもなく、念のため男が喋った現住所を当たるしかなかった。その住所地が本当に存在するか否か、フェニックス警察に調べてもらった。そうしたところ、確かにその住所地にドリーは居を構えていた。地元警察に頼みこんでドリーの自宅を訪ねてもらった。だが、あいにくドリーは出かけていて留守だった。周辺の聞き込みをし、同居人の女性がいることを突きとめた警察は、女性の勤め先であるダイナーに向かった。すると女もまた、仕事を休んでいて、いない。店のオーナーの話によると、男がロスアンジェルスで倒れて入院したという連絡が入ったらしい。男の看病のために、LAに行っているということだった。
 保安官は今度は、ドリーが入院している病院を突きとめるため、LAPDに連絡を入れ、頼みこんだ。最初は断られたが、保安官が丁寧に説明したところ、翌朝になって一枚のファックスが送られてきた。病室で眠っているドリー・ラスゴの写真だった。かたわらに女性の手が写っていた。
 ドリーはユニオンステーション構内で倒れているところを駅員に発見され、そのままUCLA病院に運ばれた。生命には別条ないが、昏睡状態のまま、一度も目を開かない。もちろん、ベッドから抜けだせるはずがなかった。
 ドリー本人から事情を聞くという、保安官の目論見は絶たれた。ドリーのバイオリンに関しても、現在に至るまで盗難届の類は出ていない。同居の女性が何か事情を知っている可能性は低いだろう。であれば、あとは男から真実を引き出すしかない。
 保安官は病室のドリーの写真を、男に見せた。すると男は愕然とした。写真を食い入るように見つめ、震える唇で「ジャッキー」とひと言発した後、何も言わなくなった。まるで保安官の言っていることがまったく聞こえていないかの如く、一切口を開かなくなった。
 保安官の取調べは暗礁に乗り上げた。拘留期限が迫っている。犯罪の事実がなければ、このまま釈放しなくてはならない。少なくともこの男が何者なのかくらいは解明しておかなければ、市民への説明がつかない。
 そこで保安官は、セーラム中央病院のコンラッド医師に電話を入れた。コンラッド医師は精神病理学の権威である。翌朝、マルビナスに到着したコンラッド医師は早速、男と面会した。丸一日かけて男と面談したコンラッド医師は、男が記憶喪失であるとの診断を下した。
 男が記憶をなくしたのは、おそらくアムトラックに乗ったとき。不安にかられた男は座席の上にあったバイオリンケースの名前が自分だと思いこみ、その人物像を心の中で形成していった。それが医師の見立てであった。
 残念ながら、男の本当の正体は明らかにならなかった。身長六フィート、痩せ型で金髪のその男は、今もマルビナスにいる。果たして男は本当に記憶喪失なのか?
                        (トニー・フレミング記者)

 この記事が掲載されてから一週間後、つまり男がマルビナスに現れてから二週間後に、 短い続報が同紙に掲載された。

“記憶喪失”男の身元判明
“記憶喪失”男の身元が判明した。UCLAに通うカナダ人留学生だった。現在記憶は回復し、通常の生活に戻っているが、マルビナスでの記憶は一切ないらしい。


“記憶をなくしたピアノマン”が一時、世界中で話題になったことがあった。似たようなことは世界各地で起きている。この記事がその証左だ。
 我々はこの記事を丹念に読み解き、この記事を執筆したフレミング記者とも電話連絡をとった。そうしたところ記事には書かれていない様々な事実があることが判明した。
「実は続報をもっと詳細に記事のしたかったのですが、あまりにつじつまの合わないことが多すぎて、こんな具合になってしまいました」
 この件に関して、さらなる現地調査が必要との結論に達した我々は、フレミング記者のほか、エディ・マーシャル、コンラッド医師、シザーズ保安官、そしてロバート・ウッドソン、ドリー・ラスゴとその妻、その他関係者と直接会って話を聞くことができた。以下はその事実経過である。



 ドリー・ラスゴを名乗る男が「エル・テンポ」に入ってきたとき、エディは思っていた印象と大きく違うことに驚いた。男は最初に、エディからもらった手紙を失くしたことを謝罪した。訝しく思ったエディは、念のため、バイオリンを奏でるよう男に言った。男は「何がいい?」と軽口をたたきながらケースからバイオリンを出し、肩に構えた。「アイリッシュローズ」。エディがそう答えると男は微笑みながら、弓を弦に当てた。弦と弓が響き合ったとき、男の表情が強ばった。まったく音楽にならない。弦を押さえる左手の二本の指がピクリとも動かなかった。
 エディは舌打ちをし、男からバイオリンを取り上げた。
「あんたには必要なさそうだ。その手じゃピアノも引けまい」
「待ってくれ、まともに演奏したことがなかったから、少し緊張しただけだ。もう一度やらせてくれ」
 エディは男の左手をつかんだ。
「こんな手で弦を押さえることができるのか」
 エディは男の左手の薬指を折った。カランと空虚な音がして、指先がカウンターに転がった。
「造り物の指だ。中指もそうだろう。もう一本折るか」
 エディは凄んでみせた。男は指先のなくなった薬指を見て、震えた。
「まさか、嘘だろう」
 男は中指の指先をつまみ、自ら引き抜いた。義指だった。
「とっと失せろ。それとも警察を呼ぶか」
「待ってくれ、エディ」
「気安く呼ぶな」
「待ってくれ、ミスター・マーシャル。昨日自宅を出たとき、指はなんともなかった」
「じゃあ、何か。列車の中で指を切断し、列車の中で造り物の指を調達したというのか。誰が信じるものか」
「ミスター・マーシャル。お願いだ、何でもする。俺をここで雇ってくれ」
「だめだ。出て行け」
「頼む。片道切符できた。帰る金がないんだ」
「知るか。とっとと失せやがれ」
 男はそれから従業員と少し揉み合ったが、結局「エル・テンポ」を追い出された。
 男は行くあてもなく町を彷徨った。クラブでの一件を聞きつけたシザーズ保安官が、事の子細をエディに尋ね、男の保護を決めた。
「素性の知れない男が俺の町を勝手にうろつかれたら、目障りだからな」
 夜通し捜索が行われた。明け方、男は漁港の物置小屋で眠っているところを発見された。傍にウイズキーの空き瓶が転がっていた。保護された男は、保安官事務所に連行された。
 鉄格子の中に収監される前に、
「ちょっと小便」
と男が申し出たため、男をトイレに連れていった。
 保安官助手がトイレの扉の前に立っていると、中からガラスの割れる音と男の大きな叫び声が相次いで聞こえた。助手がトイレに飛びこむと、額から血を流した男が呆然と立っていた。見ると、トイレの鏡が蜘蛛の巣状にひび割れていた。男が自らの額を鏡に打ちつけたのだった。慌てた助手は男を取り押さえ、単独の留置場に放りこんだ。

 コンラッド医師は、その男のことをよく憶えていた。
「まったくおかしなケースでしたよ。今まで診たどの患者とも違う。質が違うというか。実は催眠療法も試みましてね。憶えている一番古い記憶を探ってみた。するとそれは戦争下にある町だった。幼い少年が暮らす家族のもとに、軍人である父親が休暇のため、帰ってきた。そこに敵の戦車が現れて砲撃を始めた。応戦した父親は、家族が見守る前で爆死したそうです。それがトラウマになっているのでしょう。それがもとで今回のことが起きたのかもしれない。ただ、おかしなことにロバート・ウッドソンの両親は健在です。義理の父というわけでもない。彼の過去に何があったのか、私にはわかりませんが。
 結局のところ、催眠療法でも男の身元の手がかりになる潜在記憶につながるものは何ひとつ引き出せなかった。完全に記憶が消失したとしか考えられなかった。それで私は、逆向性健忘、いわゆる記憶喪失という診断を下したのですがね。それがわずか一週間足らずで以前と変わらぬ大学生活ができるほど、すべての記憶が元に戻ってしまうとは。いやはや、まったく謎です」

 ユニオンステーションの三番ホームで、ロバート・ウッドソンは友人のアブドゥル・ムハマド・カーンと待ち合わせしていた。列車で景色を楽しみながら、思い立ったら停車駅を降りて町々にある歴史的建造物を見て歩く。そんな気ままな旅の予定だった。ロバートはバックパックを足元に置き、友人が来るのを待った。
 ドリー・ラスゴは列車の中にいた。バイオリンケースを膝の上に抱いて、発車の時を待った。車内に乗客はほとんどいなかった。使い古したバイオリンを盗む不心得者はいないだろうと、ドリーは膝のケースを網棚に載せた。そして上着の内ポケットからバーボンの小瓶を取り出した。ほとんど残量がなかった。
「連結器の故障で発車が約十五分程度遅れます。お急ぎのところ申し訳ありませんが、今しばらくお待ちください。なお到着時刻に変更はございません」
 アナウンスが車内とホームに流れた。
 ドリーは大きく溜息をついた。バーボンを口に含むと小瓶が空になった。ドリーはバイオリンケースを車内に残したまま、列車を降りた。売店を探し、酒を買った。
 ホームにあるベンチの腰をおろすと、そこで発車まで寛ぐことにした。そこからは今しがたまで座っていた座席と網棚がよく見えた。盗られる心配はない。そう高を括って酒瓶の封を切った。ふとあることを思い出し、ドリーは酒瓶をベンチの上に置いた。内ポケットから手紙を取り出す。エディ・マーシャルから送られてきたものだった。封筒に重要な手紙が入っているのを何度も確認した。それを大事に内ポケットにしまうと、あらためて、酒に口をつけた。
 カーンはなかなか現れなかった。ロバートは焦った。
「こんなときに携帯が通じないなんて、最悪!」
 ロバートはスタジアムジャンパーを脱いでバックパックの上に置き、つま先立ちで何度も周囲を見回した。人ごみの中に友人の姿は見出せなかった。
 ヘルメットを被った作業員が数人ホームを横切った。最後尾の作業員は台車に重い機材を積んでいた。彼らは線路に降り立ち、なにやら作業を始めた。
 金属がぶつかり合う大きな音がホームに木霊した。それから発電機のモーターが、唸るような低速から高速に回転音をあげたかと思うと、今度は鋼鉄のグラインダーの刃が金属に接触する摩擦音。ホームにいる誰もが一様に不快な表情をあらわにした。    列車内の戻ろうと、ドリーが立ち上がったときである。眩暈がして、ホームの柱によりかかった。目が自然と閉じてきた。
 気がつくと、両手で耳を押さえ、つま先立ちで立っている。
「間もなく発車いたします。ご乗車の方はお急ぎください」
 アナウンスが流れた。ドリーは慌てて列車に駆けこんだ。そして座席に座ると網棚にバイオリンケースがあることを確かめた。

 カーンがホームに現れたのはドリーが乗車して、すぐのことである。ロバートのバックパックとスタジャンがホームに放置されているのを目ざとく見つけ、すぐ近くにいるに違いないと思った。柱の影に人だかりがしていた。近寄ってみると、人が倒れていたが、ロバートではないと確認した。カーンはひと安心した。
 荷物がホームにある以上、ロバートはまだ列車に乗っていない。きっとほんの些細な用事でこの場所を離れただけだ。カーンは携帯電話をフライトジャケットの袖のジッパーから取り出して、電源を入れた。
 カーンが携帯電話の電源を切っていたのには理由があった。待ち合わせ時間に遅れたことにも関係している。実は駅の公安官に呼び止められ、別室で質問攻めに遭っていたのだ。駅などでは外見から度々呼び止められ、名前のわかる学生証を提示するとさらに別室に案内される。そんなことの繰り返しだった。質問攻めに遭っているとき、携帯電話が鳴って一度取り上げられたことがあった。それ以来、彼は、駅や空港では携帯電話の電源を切っていた。
 カーンの携帯電話がロバートの携帯につながると、その呼び出し音はバックパックの上のスタジャンから聞こえてきた。
「だめだ」溜息をついたとき、
「ドアが閉まります。ドアが閉まります」
 列車の車両ごとに、乗車を急がせる駅員たちの姿があった。
 友人が駅のどこかにいる限り、自分だけ列車に乗ることはできない。カーンはロバートを待つことにした。警笛とともに列車は動きだした。

 半日、待った。現れなかった。夜遅くまで、カーンは駅構内とその周辺を探したが、ロバートを見つけることはできなかった。カーンは仕方なく学生寮に戻った。手当たり次第、友人知人に電話をかけ、メールを送り、ロバートの居所を探し続けたにも関わらず、誰も彼の行方を知る者はなかった。
 三日後、大学の勧めに応じて、カーンは警察に相談に出向く。荷物はともかく、携帯電話を置いてどこかに消えるなど考えられない。なんらかの事件に巻き込まれた可能性がある。警察にそう申し立てたが、担当者は邪魔くさそうに書面に必要事項を埋めるよう指示するだけで、真剣に受け止めてもらえた様子はなかった。
 カーンや友人たちは、ロバートが立ち寄りそうな場所を片っ端から訪ね、情報を求め歩いた。
 五日経って、大学側が動いた。ロバートの両親に連絡をとり、両親は警察に正式な捜索願を出した。ロバートの顔写真入りのチラシが作成され、各署に配布された。ロスアンジェルス市内の主要なショッピングセンターや映画館にも貼り出された。
 ロバートの情報が、マルビナスの保安官事務所に届いたのは、ロバートが蒸発してから十三日目のことであった。
 シザーズ保安官が偶然取り寄せた行方不明者リストの中に、それはあった。“記憶喪失”男によく似ている。そう思った保安官は、釈放されて以来、男が一日のほとんどを過ごしているという海岸に向かった。男は精気のない目で、海を眺めていた。無精ひげは伸び、頬はこけていた。保安官は送られてきたロバートの写真を海岸の男とを見比べた。
「どう、思う?」
 保安官は男の監視にあたっている助手に感想を求めた。助手はわからないと首を振った。
「あいつの写真、撮ってこい」
 保安官は助手にデジタルカメラを手渡した。

 男の写真は、ロスアンジェルスに送られた。ビバリーウィルシャーホテルに滞在しているロバートの両親によって確認された。
「息子さんは記憶喪失になっていらっしゃるようで、ご自分が誰なのか、わかっていない」
 保安官は電話で両親にそう伝えた。
「息子に、何があったのですか」と尋ねられたが、答えることができなかった。
その日の列車で、男はロスアンジェルスに送還されることになった。保安官が同行した。
 翌日午後、列車がユニオンステーションに到着すると、ホームにはロバートの両親とカーン、その友人たちが出迎えにきていた。列車を降りると、男は無表情のまま、彼らの抱擁に応えた。続いて降りてきた保安官の労をねぎらって握手を交わした後、父親が尋ねた。
「どんな具合ですか、息子は?」
 母親は、やつれた我が子の姿を見て、ハンカチで目頭を押さえていた。
「お電話で話した通りです。ほとんど口をきかない」
「そうですか。UCLA病院に予約を入れてあります。そちらに連れて行ってもかまいませんか」
「ええ、大丈夫です。LAPDには私のほうから連絡を入れておきます」

 男を乗せた車がUCLA病院に到着した。
 両親に伴われて、男は心療内科病棟に向かった。両親がナースステーションの看護士と話をしている間、男は手持ち無沙汰そうに、近くにあるソファに腰かけた。
 廊下の両側に病室のドアが等間隔に並んでいる。ドアにはそれぞれ患者の名前を記したネームタグが掲げられている。そのひとつに目を留めた男は、ふらふらと立ち上がり、吸い寄せられるようにその病室に近寄っていった。
“D・ラスゴ(M)”
 男はそのドアのノブを握り、細い隙間を開いた。その隙間からベッドの患者と傍に寄り添う女を見たとき、男の頭の中で、何かが弾けた。

「ロバート、そこで何をしている!」
 父親に呼び止められて、ロバートは慌ててドアを閉めた。ナースステーションの前にいる両親を見て、ロバートは驚嘆した。
「父さん! どうしたの。あっ、母さんまで」

 ドリーは目を見開いた。永く息を止めていて、ようやく水の上に顔を出したときのように、ふぅうと息を吐いた。天井の白い壁だけが目に入った。
「ドリー。ドリー」
 天使が囁くような声が聞こえた。柔らかな手がドリーの左手を包んだ。ドリーがその感触を忘れることはない。ドリーは五本の指に力を込め、その手を握り返した。そして視線を左斜め上にあげた。カールした栗色の長い髪が胸元に揺れていた。
「ジャッキー」
 ドリーは呟くように、女性の名前を呼んだ。
「ドリー。お帰りなさい」
 女性の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「ジャッキー、ジャッキー」
 ドリーは身体を起こそうとした。だが背中に力が入らず、起き上がれなかった。
 ドリーの意図に気づいて、ジャッキーはベッドのハンドルを廻した。
 ようやく上体を起こしたドリーは、ジャッキーの顔を見つめた。そして左手の二本の指で、ジャッキーの頬をつたう涙を拭った。
「おいで」
 ドリーはジャッキーを抱き寄せた。両方の手でジャッキーを強く抱きしめた。

 一ヵ月後、ドリーは生まれ故郷であるボスニアに帰った。サラエボ郊外に住まいを見つけ、すぐにジャッキーを呼び寄せた。
 現在ふたりは、午前中はパン屋で働き、午後は近所の子供たちを自宅に集めて音楽を教えている。ジャッキーはクラブ歌手だった経験を生かして歌を、ドリーはバイオリンとピアノ。ほとんどボランティアだ。決して豊かな暮らしではないが、ドリーは満足している。
「あの港町で僕の人生は一度終わった。ここには美しい妻がいる。子供たちの笑顔がある。それに何より、この町には、僕の肉体がある」


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