ファイルNo.3 第四会議室
場所及び地域:福島県小柴町 日時:平成十年一月十九日 現象:単純転移 能動者:石毛耕太 二十六歳 林業従事 受動者:藤原冶三郎 六十六歳 町長
小柴町は会津磐梯山の東側裾野一帯に広がっている。いくつかの村が合併してできた町である。合併を記念して町役場の隣地に立派な公民館が建てられた。 その日は町長の藤原冶三郎が県会議員選挙に出馬する報告会が公民館で予定されていた。公民館の館長である山岡順平は、その準備に追われた。 公民館の大会議場は最大800人を収容することができた。隙間なく整然と並べられた800脚のパイプ椅子の大半は、いまや藤原の登壇を待つ支持者で埋め尽くされている。開始時間が迫るにつれ、会場は熱気を帯びつつあった。 藤原は緊張の面持ちで、盛んに控え室の冷めたお茶で唇を湿らせた。やや血の気が失せたような表情になっていた。会場の準備をひとしきり終えた山岡が藤原を励ました。 「もうすぐ塚本先生が到着されます。県議会議長の塚本清先生が町長の後ろ盾になって下さるとおっしゃっておいでですから、鬼に金棒。安心して私らの神輿に乗ってください」 藤原は間を置いて吐息をついた。 「塚本なぁ‥」 塚本と藤原は同郷の同窓である。塚本は年内に行われる国政選挙に出ると宣言しており、当選後は、ひとつ空く県議のポストを幼なじみの藤原に託すつもりだと公言している。 日頃から体調のすぐれない藤原は任期満了とともに、一切の公務から身を引く覚悟だった。実は体調面だけではないもうひとつの理由があった。塚本である。同級生でありながら、県議長という権力を笠に着て横柄な物言いをする塚本のことを、普段から鼻持ちならない奴だと周囲に漏らしていた。ところが県と町は上下関係である。塚本に対して、面と向かって藤原が非難することはなかった。それがストレスになっていた。 町長から県議に転身すると、またその構図に悩まされる。そう思うと藤原は辟易した。だが、周囲の声に圧しきられた。ご多分に漏れず山間部の町や村は、過疎化対策や新たな産業育成が急務である。そのための補助金、公共工事予算獲得の重要性は充分承知していた。塚本が国政入りし、さらに県議会に後釜として小柴出身の県議が居座れば、小柴町が今以上に潤うのは目に見えていた。 山岡は公民館の正面玄関に立ち、塚本の到着を今や遅しと待った。闇夜を白く彩ってボタン雪が絶え間なく降り続いた。一方控え室では、藤原が浮かぬ顔で演説原稿に目を通した。
公民館の敷地の一角に物置小屋があった。そこは第四会議室と呼ばれていた。利用者のほとんどは地元出身で都会からUターンしてきた若者であった。彼らの唯一の利用目的は音楽である。最初のうちは本館内の正規の会議室を貸していたが、あまりに騒がしく他の利用者に迷惑がかかるということで、山岡が空き家同然の物置小屋に目をつけた。内側に防音効果のある合板を張り合わせて、音楽スタジオ風に改装した。過疎地に若者を引き留めておくための窮余の一策であった。 正面玄関で山岡が腕組みをしている頃、第四会議室には五人の若者が集まっていた。 「耕太さんのスタイルは、はっきり言って古いんですよ」 「何が古いんだ、言ってみろ」 「ほら、そうやってすぐ怒る」 「怒っちゃいねーよ、知らねーよ、間違いねーよ、足りねーよ」 「‥‥」 「即興で韻を踏む。エミネムスタイルだ。意味は通んないけどな」 「わかんないですよ、誰も」 「わかった、わかった。だから当日の選曲は電撃なんとかでいくから」 「電気グルーブ」 「それ、ばっちし決めてやるから。頭からいこう」 ボーカルをとる石毛耕太は、林業に従事する二十六歳の若者だ。東京でアルバイト生活をしていたが、チェーンソーを振り回せるという理由だけで、故郷に戻ってきた。ラップとヒップホップ系の音楽に心酔している。石毛に意見を言うのは決まって井筒大介である。年齢が近く、同じ製材関係の仕事をしている。音楽的センスと技量においては、井筒のほうが一段上と自他共に認め合っている。 第四会議室には空調設備がない。暖をとるため電気ストーブとファンヒーターが常時フル回転している。それでも寒くて気分が乗らないと感じる時、石毛はアルコールを口にした。また銘柄の怪しいタバコを吸うこともあった。 石毛たちの足元はトラップの山だ。楽器やスピーカーの電源コードやケーブルが、まるで絡み合うツタのように這い巡っている。石毛が特にケーブルによく足をとられるのは、ラリっているからだと誰もが密かに思っていた。 ボタン雪は降り続いた。積雪の影響か、塚本はまだ到着しない。開始予定時間が迫ってきたため、山岡は一度館内に戻ろうか思案を始めたとき、どさっという音がしてスパークが二度三度閃いた。そしてあたりが暗くなった。
井筒のリードギターのアームから火花が散った。耳をつんざくハウリングが起きて、第四会議室の照明も落ちた。
山岡は建物の裏手に廻った。案の定、崩れた雪庇が架線を直撃していた。館内に駆け戻ると、懐中電灯を手に右往左往する職員のひとりに指示を出し、その足で大会議室に飛びこんた。ざわついている聴衆を前に、山岡は冷静に振舞うよう、大声で呼びかけた。 「もうすぐ、自家発電で電気が点きますので、今しばらくお待ちください」 「縁起が悪いのぉ、こんな日に」 不安や不満を漏らす町民の相手をしているうちに、電気が回復した。山岡は町民の相手を職員に引き継ぎ、控え室に向かった。 「町長、藤原町長、大丈夫ですか。お怪我はありませんか」 開口一番、山岡は藤原の安否を気遣った。 藤原は山岡の心配そうな眼差しをキョトンと見つめたあと、背後を振り返った。 背後には白い壁しかなかった。もう一度山岡を見る。その視線はしっかりと藤原自身に突き刺さっていた。藤原は自分の鼻づらを指さした。 「オレ?」 「ほんとに大丈夫ですか、町長?」 「オレは大丈夫だけど、オレは町長じゃないよ」 「何を言っているんですか、任期満了までは町長ですから」 藤原は話が見えないという風情で首を大きく左右に動かした。 「ここはどこ、っていうか、すっごく焦点がぼやけるんだけど」 「町長、眼鏡がホラ、頭のとこに」 「オレ、眼鏡かけてない、かけてない。わっ、ほんとにあった」 藤原は額に跳ね上げた眼鏡をおろして、掛けた。 「よく見えるわ。って、マジ、オレ、ローガン?」 その様子を見ていた職員が山岡に耳打ちした。 「町長、様子がちょっと変ですね」 山岡は喉の奥で否定でも肯定でもない相槌を打つしかなかった。
「石毛さん、石毛さん!」 灯りの消えた第四会議室。井筒が叫ぶが返事がない。目を凝らして見る。石毛はマイクを握ったまま、横倒しに倒れている。近寄って肩を揺するとだらんと大の字にのびた。口から泡を吹いている。 「誰か、戸を開けてくれ」 井筒は仲間に叫んだ。戸が開け放たれると、わずかな雪明かりが室内に忍びこんだ。石毛は白目をむいて、幾分痙攣しているようだった。腕と足にケーブルが絡みついていた。胸に耳を当てる。心拍が弱い。 「人を呼んでくれ、救急車だ救急車」
「山岡さん、救急車呼びましょうか?」 職員が山岡に囁いた。藤原は「チョウチョウ、タンチョウ、ニチョウチョウ」と口ずさみながら、身体を小刻みに動かして眼鏡を上げ下げした。 「どうなってるんだ?」山岡は頭を抱えた。藤原の行動は明らかに奇妙だ。「だめだ。こんなところが人に知れたら、選挙に差し支える。院長に直接連絡をとれないか? 今の時間なら自宅にいるはずだ」 「やってみます」
「石毛さん、石毛さん、しっかりして下さい。石毛さん」 仲間たちが口々に石毛の名前を呼び、勇気づけた。 「石毛さん、あんたがいないと、このバンドは成り立たないんだよ。何のために今まで練習してきたんだよ。町民フェスに出て、主役を取るためだろ。目を醒ましてくれよ、石毛耕太。MCコータ」 井筒は石毛の頭部を腕に抱きかかえた。 「コータ、コータ、コータ、コータ!」 仲間たちは祈るような気持ちで、石毛を励まし続けた。
「町長、僕が誰だかわかりますよね」 山岡が恐る恐る尋ねた。 「わかるに決まってるでしょ。公民館の偉い人」 「名前は?」 「んーん。わからんね」 山岡の期待は無情にも打ち砕かれた。 報告会が一向に始まらないことに業を煮やした支持者の女性が、控え室に乗りこんできた。 「どうなってるのよ、まったく!」 藤原の眉頭がピクと動いた。 「どうなってるのよ、まったく」と鸚鵡返しの呟いたあと、小刻みにリズムを取り始めた。 「どうなってるのよ、まったく。いいフレーズだ、使えそうだ。井筒に言わなきゃ。 チョウチョウ、タンチョウ、ニタンチョウ、ドウナッテルノヨ、マッタク♪」 口ずさみながら立ち上がろうとする藤原の肩を、山岡が抑えつけた。 「藤原町長、どうかしちゃったの?」 「いや、なんでもありません」 「MCコータ、シンガソング、MCコータ、シンガソング」 「コー、コー言ってる。何か憑いたんだわ」 「奥さん、違います」 「藤原町長に何かとり憑いたんだわ。大変!」 女性支持者は慌てふためいて廊下を走り去った。救急車のサイレンが聞こえた。 「誰だ、救急車を呼んだのは?」 山岡は収拾のつかない事態に困り果てた。
吹雪の中、救急車が公民館正面に停車した。職員が、通報が間違いである旨を隊員に告げていたとき、第四会議室から井筒が飛び出してきた。 「こっちです。友だちが倒れています。息がありません」 救急隊員は、ぐったりと倒れている石毛を診て、直ちにストレッチャーに石毛を乗せ、救急車内に運びいれた。 「助かりますか?」 「わかりません。最善を尽くします」 救急車の後部ドアが閉じられた。 「石毛さん、石毛さん!」 「コータ、MCコータ!」
「今、誰か呼んだ?」 「いいえ、誰も」 「でも、確かに」 藤原は首を伸ばして、くもりガラスの隙間から外の様子を窺った。井筒と仲間たちが救急車の傍に立っているのが、ぼんやりと見えた。 「何かあったんだ、仲間に」 「町長、お願いですから、ここにいて下さい」 山岡が抑えつけるのを力づくで振りほどいて、藤原が立ち上がった。 「行かなきゃ」
「チクショウ、マジかよ、なんでこんな歩きにくいんだ」 痛む足腰に悪態をつきながら、藤原は壁づたいに歩を進めた。エントランスホールから井筒たちの姿を認めると、声を掛けようとした。しかし、大きな声が出ない。 救急車が動き出した。井筒たちは吸い寄せられるように、救急車のあとをついていく。道路に出てもあとを追うのをやめなかった。 「石毛さーん!」 井筒たちが救急車に向かって叫ぶ。藤原は奇妙に思って、彼らの後ろ姿を追って道路に出た。 「井筒!」 藤原が声を絞りだしたとき、連続したクラクションの音とともにヘッドライトの強烈な光が、藤原の肉体を背後から包んだ。
石毛の目が開いた。かと思うと、石毛は軽々と上半身を起こした。 「ここは?」 「救急車の中です。気分はどうですか?」 「えっ。オレ、車に轢かれたんですか?」 「いいえ、小屋に中で倒れてました」 「小屋の中? 憶えてない、オレ。車に轢かれて‥。すぐ公民館に戻って下さい」 「しかし‥」 「オレは大丈夫です。誰かが事故に遭っているはずです」 救急車は一時停車した。降りしきる雪を振り払いつつ隊員が救急車から降りて、来た道を眺めた。遠くにヘッドライトが点いたまま停まっている車が見える。その光の中で、多くに人影がうごめいていた。
藤原冶三郎の直接の死因は、大動脈破裂。ほとんど即死であった。 車は藤原の寸前で停車した。車を運転していたのは、塚本清の秘書。もちろん後部座席には、塚本が乗っていた。
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