ファイルNo,2 西野橋
場所及び地域:愛知県村山市 日時:平成十七年六月三十日 現象:単純転移 能動者:井上正也 五十二歳 路上生活者 受動者:古溝 昇 三十八歳 金融コンサルタント
西野橋が木曾川にかかる河川敷に、七人のホームレスが暮らすテント村があった。 七人のうちのひとりが、井上正也である。井上は前年暮れに、それまで勤めていた工場が閉鎖になり、職を失った。と同時に会社の寮も追い出された。独身の井上は安宿や二十四時間営業の店を転々としながら、仕事を探したが、年齢的なこともあり、路上生活せざるを得なくなった。 西野橋のホームレスのリーダー格である篠田幸造が、橋の上で途方に暮れている井上に声をかけたことがきっかけで、井上は西野橋テント村の一員になった。 当時井上は五十歳を超えていたが、テント村では最年少だった。篠田は七十五歳。他の五人も還暦を過ぎている。六人とも、顔に深く皺を刻んだ年寄りばかりだ。生き抜くための知恵と情熱は衰えていないが、体力面、健康面では不安を隠せない。若くて真面目で、気配りのできる性格の井上は、歓迎され重宝がられた。 ホームレスになって井上が一番痛感したことは、「水」の重要性であった。汚れた手を洗うのにも、汗を拭ったタオルを濯ぐのにも、きれいな水が必要だった。路上生活者にとって水の確保は生命線である。しかし近年、公衆便所の洗面所以外、町なかから自由に使える水道水は姿を消した。西野橋周辺も例外ではなく、篠田たちもまた水の確保に苦心していた。 そこで井上は雨水を貯めることを考えた。もともと手先が器用な井上は、廃材を利用して一日がかりで貯水装置を作り上げた。簡易な造作物であったが、終日雨が降り続いた日、それは約二十リットルの雨水を貯めることができた。井上はその水を篠田たちと分け合った。 その日は曇りがちで、時おり突風が吹き冷たい雨がしぐれた。 廃品回収を早めに切り上げて井上がテント村へ帰ると、篠田たちもすでに戻っていた。 「豪雨になるいう話や。ま、大丈夫やと思うが、川が増水せんとも限らんしな。皆はよ帰ってきたんや」 篠田は西の空を眺めた。どす黒い雲が幾重にも重なって流れていた。 「やっこさん、大丈夫か?」 貯水装置にアゴを向けて、篠田が言った。「やっこさん」とは篠田が命名した装置の愛称だ。ビニールパイプとポリバケツと木材を針金で組み合わせただけのその装置は、強風が吹くと倒れ、また強い雨でも悲鳴をあげた。そのたびに井上が修理する。 「もうあそこのパイプ、外れてるのと違うか?」 篠田の指摘に井上が装置を点検した。やはりパイプの継ぎ目が外れていた。雨が降り出す前に補修を済まそうと思いたち、井上が作業に取り掛かったとき、砂塵を巻き上げて、つむじ風が河川敷を駆け抜けた。強い風圧に押された「やっこさん」がグラっと傾いた。井上は全身を使って装置の倒壊を防ごうとしたが、木材の裂ける音と共に、井上の頭上に金だらいやバケツやビニールパイプが落下した。 後日警察が聴き取りしたホームレスのひとりの話では、以下の通りである。 「やっこさん」の倒壊に気づいた篠田が、下敷きになった井上を助け出した。井上は気を失っており、しばらく篠田の小屋で休んでいた。 しかし、井上本人が警察に語った記憶によるとこうだ。 気がつくと井上は西野橋の上にいた。路肩に停めた高級乗用車の横に立ち、片方の手には携帯電話が握られていた。握力が緩んで滑り落ちそうになった携帯電話を反射的に取りとめた。 身なりは擦り切れたジャケットではなく、ストライプ模様のダブルのスーツ。内ポケットには重みのある財布らしきもの。開いてみると高額紙幣が詰まっている。 これは夢ではないかと、井上は手の甲の皮膚をつねったり、耳を引っ張ったりしてみた。いずれも痛みを感じた。これは夢ではない。そう結論づけた。 もしも道端で一万円札がたっぷり入った財布を拾ったらどうするか、テント村の仲間たちと語り合ったことを思い出した。しかしこれは拾ったものではない。上着のポケットに入っているので、もとから自分のものである。ならば自由に使える。 井上は路上生活を始めてからというもの、一度も足を運ぶことのなかった牛丼チェーン店へ駆けこんだ。廃品回収をしながらその店の前を通るたびに、百円玉三枚のお金すら無駄に使えないことを恨めしく思っていた。井上は大盛りの牛丼を味わいながら食し、さらにサイドメニューを片っ端から平らげた。それから持ち帰り用の牛丼を六人分注文した。 牛丼店を出ると、井上はスーパーマーケットに立ち寄り、酒や焼酎、肴を数点買いこみテント村に戻った。 「篠田さん、これ皆さんで」 井上は牛丼や酒が入った買い物袋を篠田に差し出した。 篠田はキョトンをした顔をした。そして毅然とした表情で言った。 「私どもは物乞いではございません。見知らぬお方から物はいただけません」 「見知らぬやて、僕ですよ。井上です」 井上は一瞬、篠田に認知症の症状が出たのかと思った。そうだとしても買ってきたものは受け取って欲しかった。 「遠慮せんと、受け取ってくださいよ」 仲間のホームレスがそれぞれの小屋から這い出してきた。篠田は井上の顔を穴があくほど見つめた後、微笑みを浮かべた。 「どちらの井上さんか存じませんが、遠慮のういただきますで」 篠田は井上から買い物袋を受け取ると、仲間たちに手際よく牛丼、酒、肴を分け与えた。彼らはそれらを受け取ると、感謝の意を示しながらそれぞれの小屋に戻った。井上は嬉しかった。篠田にはとくに世話になったこともあって、井上は左手にはめていたロレックスを篠田に手渡した。初めは拒んでいた篠田であったが、執拗に勧める井上に根負けして、腕時計を左手にはめた。 篠田は観音様を拝むかのように井上に向かって手を合わせた。井上は苦笑するしかなかった。 壊れた「やっこさん」が井上の視界に入った。井上は頭の中で修理に必要なものを思い浮かべた。 「ちょっと買い物に行ってきます」 そう言うと井上は河川敷を駆けのぼった。橋を渡り始めたとき、頭上低く垂れ込めた黒い雲に稲妻が走るのを井上は見た。空一面が真っ白に光った。井上の視界も真っ白になった。
「井上さん、大丈夫か。気がつきなさったか」 篠田の声に井上は我に帰った。そこは篠田の小屋の中だった。自身の身なりは擦り切れたジャケット。 「篠田さん、僕どうしたんですか。何か変な夢、いやええ夢見てました」 「それが、あんたが寝てる間に奇特な方が来なさって、ほんまに世の中捨てたもんやない。突然現れて皆に食い物を下さった。六人分しかなかったから五人には先にやったが、あんたこの牛丼食べなさるか?」 井上は戸惑った。 「おい、こらっ!」 男の怒声がした。井上は篠田とともに小屋の外に出た。ストライプのスーツを着た男が騒いでいた。 「い・の・う・え・さん‥」 篠田が呟いた。 「井上、誰やそれ。俺は古溝。古溝昇や。おっさんところで、この牛丼どうしたんや」 古溝は篠田から牛丼の入ったビニール袋を取り上げた。そして財布に入っていた牛丼店のレシートを篠田の顔に突きつけた。 「俺の財布から金盗んだやろ!」 ホームレスの仲間たちがまた小屋から這い出てきた。牛丼の容器と割り箸を手にしている者もいた。 「違う。あんたがくれたんや。あんたが!」 篠田がそう言うと、古溝の顔が鬼の形相に変わった。 「あほ抜かせ! 俺がお前らみたいな奴に‥」 篠田の左手首の腕時計が古溝の目に入った。古溝は反射的に自分に左手首を探った。腕時計が無かった。すかさず篠田の左手をつかみ、文字盤のロゴマークを確かめた。 「この時計‥」 「この時計もあんたが‥」 「おのれ!」 古溝は篠田の胸ぐらをつかみ、顔を近づけた。井上は慌てて古溝の足元にしがみついた。 「何かの間違いです。年寄りの勘違いです。な、篠田さん」 篠田は恐怖に怯えながら、渋々頷いた。 「時計もお金も返しますから、穏便に、穏便に」 「あっかあ!」 井上は古溝に蹴り飛ばされた。 「警察に言う」 古溝は携帯電話を耳にあてた。
しばらくしてテント村は大勢の警察官に取り囲まれた。 篠田は年配の警察官に懸命に事情を説明した。古溝は警察がきたことで意を強くしたのか、盛んに息巻いていた。 「なんで俺がこんなホームレスに高いロレックスをくれてやらなあかんのや。常識で考えたらわかるやろ!」 篠田の説明と古溝の言い分は真っ向から対立する。警察も状況をつかみかねた。 折から強い雨が降り出した。 「ここでは何やから、みんな署まで来てもらおか」 警察官の号令でホームレスたちが警察署に連行されることになった。 「わしのせいや、わしが迂闊やったばかりに、すまんのぉ、皆」 篠田はホームレスたちに謝罪した。彼らは首を横に振り、おとなしく連行の途についた。 小屋の前で呆気にとられていた井上が警官に腕をつかまれた。 「ちょっと待ってください。井上さんは、この人は気を失っていて何も知らん。この人は無関係なんや」 篠田は井上の連行を阻止しようとした。 「わしが証人や。井上さんは寝とった。何も悪いことはしてない。それやのになんで連れていくのや。その手をはなさんか!」 篠田が警官の手を振りほどこうとしたために、逆にねじ伏せられた。篠田は頭を押さえつけられ、うしろ手に手錠がかけられた。 「そこまでしなくても、相手は年寄りじゃないか!」 今度は井上が抗議にまわった。 「お巡りさん、僕のせいです。僕が皆に‥」 「井上さん」篠田が遮った。「あんたは気を失って眠っとった。なぁ皆」 井上は仲間たちがパトカーに乗せられるのを見ながら。胸が痛んだ。心の中で何度も詫びた。 結局、古溝も含めて全員が警察署に連れて行かれた。「やっこさん」は泥にまみれて跡形もなく踏み潰されていた。
ほどなくして、本格的な事件の捜査が行われた。牛丼店の店員の証言とスーパーマーケットの監視映像から、購入したのは古溝昇本人であることが確認された。古溝は自分ではないと言い張ったが、その言い分は却下された。また井上が話した内容も信憑性がないとして、黙殺された。ロレックスの一件は双方の勘違いということで落着し、篠田たちホームレスは二日間の収監の後、放免された。 ところがこの一件が起きてから、篠田たちは風評被害を受ける。警官、パトカーが河川敷に大挙し、篠田が手錠をかけられたことだけが世間に広まったのだ。テント村にたいして、深刻ないやがらせが何度となく浴びせられた。そんな中、篠田幸造の死体が河岸の葦原の中から発見された。目立った外傷はなく、警察は事件性を否定した。ホームレスの行き倒れが解剖に伏されることはなく、死因は特定されなかった。時期を同じくして行政の介入があり、西野橋のテント村は撤去されることになった。大将を失ったテント村の住人たちは文字通りホームレスとなり、寒空の下に放りだされた。幾人かの氏名と住居地は追跡できた。しかし井上正也の行方ついては、生死を含め、一切情報がない。
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