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作品名:天使は遺伝子(ジーン)で愛を歌う 作者:黒月ゆらい

第2回   レトロウィルス
 最近はだいぶTVなどで紹介されたから、知っている人も多いだろうけれど、僕の仕事場、つまりインフェクションデザイン室にフラスコや試験管はない。一見普通のオフィで、幾台かの大型コンピュータと、映像投影設備が並んでいる。
 インフェクションデザインは、イメージしたグラフィックを、このコンピュータに解析させ、RNAの塩基配列を組むことによって行なう。
 まず、コンピュータが映像から該当するDNAの塩基配列をピックアップする。これから逆に割り出したRNA塩基配列を、ヒトウイルスベクターに組み込み、さらにこれをヒトゲノムに感染させた架空モデルをつくる。この段階ではまだ実際にウイルスを扱うわけではない。このモデルをコンピュータ内の架空空間に投影し、動かしながら修正を加えていき、最終的に塩基配列を決定する。一つのインフェクション完成体−−−リリカのように大がかりな改変だと−−−数十種以上のレトロウイルスベクターの塩基配列設計を造る必要がある。
 この過程までは全て、コンピュータ内の記号だけの世界だ。
 ここでRNA配列を決定したら、初めてA(アデニン)T(チミン)U(ウラシル)C(シトシン)の四つの塩基をRNAシンセサイザーによって合成し、実体のあるベクターウイルスを造るのだ。
 だから、最終段階までは、コンピュータ相手に格闘しているだけで、まるでグラフィック屋そのものの作業となる。
今、僕が手掛けているのは人魚。
 去年、IDLで発表した銀鱗娘のような中途半端なものではなく、ちゃんと下半身が魚の、伝説そのままの美しい人魚をつくっている。
 青みがかった銀色の鱗。
 透き通ったヒレ。
 長くたなびく緑の髪。
 鰓は外からみて、美しく見えるよう、工夫しなくてはならない。
 コンピュータの中でシミュレートされた架空空間の人魚は、投影画面の中で僕に微笑みかけていた。

 リリカ主演の映画は、古典バレエに素材をとった物語だった。
 はっきり言って詳しい内容はもう忘れた。
 ただ、リリカがSFXによって人から鳥へ、鳥から人へ、変化し、最後に二つの完全融合として、ハーピィタイプの
リリカが、その美しい羽を広げて恋人と結ばれる、というようなものだったのは覚えている。
 とにかく、映像がきれいだった。
 妖精そのままに、空を舞うリリカ。
 羽の先まであふれる微妙なニュアンス。
 映し出された繊細な鼓動。
 映画自体は映像賞というものをもらい、話題にもなった。
 野島ハルオミはその映画のプロデューサーとして成功し、事務所を作って次の企画に入っているという。
 女優としても成功したリリカは、マスコミに取り上げられ、映画の成功はまた、IDの促進につながったので、僕も多忙にまぎれた。
 リリカと僕がゆっくり会う時間は、一週間に一度から、十日に一度、そして、二週間に一度、とだんだん少なくなっていった。
 けれど、僕はなんの不安もなかった。
 リリカは僕を愛している。
 彼女の美しい身体を作り上げた僕を。
 だからリリカが野島ハルオミの事務所にうつり、スキャンダルが取り沙汰されても、気にしていなかった。
 その日、久しぶりで僕の部屋を訪れたリリカは、食事の後、しばらくシャワールームから出てこなかった。
 心配した僕が覗きにいくと、鏡の前で、じっと自分の裸体をみつめている。
 白い羽毛に包まれた美しい肢体。
 顔や、手足は、もとの皮膚のままだけれど、背の翼を中心に、身体には柔らかい羽毛が生えている。
 背の両翼を少し伸ばし気味にして、リリカはまるで科学者が観察するように、自分の身体を眺めていた。
「どうしたの?」
「別に何も…。身体をみていたの」
「世界で一番きれいな身体を?」
 僕は言って背後からその華奢な身体を抱きしめる。
 羽毛の下の、細い骨の感触が僕をすっかりその気にさせる。
 強く抱いただけで壊れてしまう、このはかない生き物を、他にどうやったら確かめられるのだろう。
「ベッドにいこう」
 柔らかで温かい首筋にキスしながら、僕はリリカを抱き上げた。
 羽のように軽い僕の天使。
「髪がまだ乾いていないわ」
「熱くなれば、すぐ乾く」
 お預けはゴメンだ。
 僕は気にする彼女を無視して、寝室へなだれこむ。
「じゃあ、早く熱くして」
 ベッドに下りた天使は、くすくす笑って僕の首に両腕を回し、柔らかな褥に僕をひきずり込んだ。
 リリカはリリカだ。
 映画が当たって、女優と呼ばれるようになっても、やはり、僕がつくり上げたリリカは変わらない。
 シーツに広がった銀髪の中で、リリカは高みにのぼりつめていく。
 その白い翼を震わせて。
 そして天上で僕を抱きしめる。

 もしも、とリリカは思い出したかのように切り出した。
気だるさの漂う、地上降下のその後。
「もしも、また身体を変えたい、と言ったら、できるのかしら?」
「もとの身体に戻れることは、術前にちゃんと説明を受けただろう?」
と、僕。
 これは施術前に必ず行なう説明だ。
 デザインされたレトロウイルスを感染させることは、やはり多少のリスクを伴う。だから被術者にはその旨、説明をして、そのオリジナルのDNAを取ることにしている。
 万が一、IDが失敗したとき、元の身体に戻せるように。あるいは、IDをした物が子供をつくる場合、卵や精子の遺伝子もID化されているので、そのオリジナルのDNA情報に従って、卵なり精子なりを再生する必要があるからだ。
「元の身体に戻るのではなくて、別の身体になることはできる?」
「理論的にはね。でも、かなり身体に負担がかかるから、実際にはきれいにできあがる保証はないよ。その身体が嫌になった?」
「いいえ、そうではないの。この身体は素敵だわ。ただ……」
「ただ?」
「こんなにも騒がれると不安なの。真似をする人が多くて、そのうち、飽きられてしまうのではないか、明日にはわたし自身が見飽きて、この身体を嫌いになってしまうのではないかって。」
「そんなことはないと思うけれど、」
 本当に、これだけ美しい身体は見飽きることがないと思うのだけれど、それでも不安な顔のリリカを安心させたくて僕は説明する。
「もしも、どうしてもって言うなら、一度元の身体に戻して、時間を置いてからインフェクトすればいい。それならきれいにできあがるだろう」
「どれくらいかかるかしら?」
「コスト?それとも時間?」
「どちらも」
 コストはID次第だけれど、と保留にして、時間の方は急いでも二年くらいかけないとね、と言うと、リリカはそう
、と小さく言って僕の胸に顔を埋めた。
折りたたまれた白い翼が僕の目の前で震えている。
 こんなにきれいなのに。
 そんなリリカを愛しているのに。
 どうして身体を変えたいと思うのだろう。
 女は自分の容姿に対して、満足という言葉を持たないのだろうか。
「リリカ。愛してる」
 僕は耳元で囁いて、その背の翼をそっとなでた。
「この白い翼も銀の髪も、リリカに一番似合うようにデザインしたんだから、誰が真似をしたって、リリカの美しさに追いつくわけはないよ」
 リリカは何も言わず、僕の腕の中に顔を埋めていた。


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