和夫は集中しなければ箸を持つ手が震えそうで、眉を寄せて漬物を口に入れた。力が入って箸を折ってしまいそうだ。味がしない、と妻に文句を言いそうだったが、口内で砕かれた大根と一緒に思い切り飲み込んだ。米もイワシの煮付けも無味だ。娘を亡くしたショックで味覚が麻痺しているのか、それとも明日の葬式の段取りに気を取られているからか。どっちでもいい。なぜ娘の葬式を自分が取り仕切るのか。こんな親不孝があるものか。憎しみすら感じられた。妻とて憔悴しているようだが自分はもっとひどく混乱している。今日は和夫の中にあるすべての感覚が一気に身体から引っ張り出され、それを理性と戦わせる事に終始目が回る思いだった。女は理性が強いらしく、妻はその奈落に突き落とされた衝撃と悲しみをひらすらに眼の奥に閉じ込めている。病院で久しぶりの再会を果たした加奈子もそうだ。まるで演技でもしていたかのように、死んで間もなくして加奈子の眼には「飽き」が生じていた。その場に居た息子夫婦も、妻も、悲しみ以外の感情がインプットされていないかのように泣き、放心していたのに。和夫は食べ終わった茶碗に米粒が乾いてひっつかないよう水を張った。溢れる水。自分が干からびるのでは、と思えるほど泣き喚く事を止められない自分達を加奈子は見ようとしなかった。この世から人間が一人いなくなったのだ。それも大事な大事な人間が。それなのに。和夫は解せない表情で思わず大声が出た。 「お前の、たった一人のお母さんだろう」 喉に引っかかって言葉がうまく出ない。黙ったまま加奈子は背を向けてどこかに行ってしまった。理性などという問題ではない。人間の最も大きなストレスは肉親の死だと、心理学の先生が言っているのをテレビで見たことがある。加奈子はまだ二十一歳だ。細く小さい身体のどこにも、悲しみをしまう場所などないだろう。冷たい態度に怒りを感じながらも、孫が可哀想でまた涙が溢れた。
夢を見た。昔住んだ家で、ぺしゃんこになった古い座布団に座り新聞を読んでいた。なぜか新聞はすべて中国語で書かれていて、読んでいるというよりは眺めていてページを捲りはしない。「尻が痛い」としきりに呟いていると死んだ娘が背後に立って肩を揉んでくれた。しかし全く力が入っておらず、体調でも悪いのかと心配になっていたら、急に仰向けにされ首を思い切り強く絞められた。頭に血が上って突き返し、今度は自分が娘の首を片手で押さえつける。 「畜生。いつもそうだ。親不孝、恥知らず。」 罵る和夫は支離滅裂に言葉を垂れ流しながら、空いている手で娘の額も床に力強く押し付けた。苦しそうな顔もせず、真っ黒な眼は和夫を通り越して天井を仰いているようだった。薄紅の唇が僅かに動き何か呟いた。和夫は怒り心頭で聞こえない。 脂汗が耳に入って気持ち悪く、和夫は眼を開けた。なんと卑劣な夢を見たのだ。自分に嫌悪感を抱いて唸った。自分は娘を殺したのか。いや違う、病気で死んだ。でも首を絞めた。酷い言葉を吐いた。いや肝臓癌だった。 激しく混乱すると気分が悪くなり、便所に駆け込んで嘔吐した。口内の気持ち悪さが気にならないほど、胃の辺りがむかむかとしていた。手を胸にあて、水を求めてキッチンに向かう。時計の音が響いていた。冷蔵庫の明かりに眼が開かない和夫は半ば手探りでペットボトルの水を取りだし、湯呑みいっぱいに入れて一気に飲み干した。まだ気分が悪い。もう一杯水を飲もうか、やめようか、寝ようか。少しも動きたくない、面倒くさい。和夫は次第に無心になり、暗闇の中立ち竦んだ。
なんまいだぶ、なんまいだぶ。お経が終わった。涙が止まらない和夫はお坊さんに気を使う事もままならず、俯いたまま動けない。妻と息子の嫁が食事の段取りをしている間も微動だに出来ずにいた。小学校三年生と一年生の孫娘達は加奈子とトランプをして遊んでいる。加奈子は相変わらず普段と変わらない表情で、履き慣れないのかストッキングの爪先を何度も引っ張って伸ばしている。お前は何を考えているのだ。加奈子が得体の知れない生物に思えた。
「じゃあ、仕事があるから。帰るね」 加奈子がさっさとタクシー会社に電話をした。十分くらいで来るって、と話しているのを横目で見た。異物。急に眉間の辺りが熱くなった。 「おい。」 加奈子がこちらに来た。一瞬嫌な顔をしたのを見逃さない。和夫はやりきれない、という風に両手で膝を覆って前に屈んだ。 「もっと電話をよこせ。顔も見せろ。お母さんに頼まれたのだから。わしらは家族なのだから。」 説教をしてやろうと思ったが、葬儀の場なのでやめた。できるだけ簡潔に、労わって言葉を伝えなくては。少しの沈黙の後、加奈子は短く「わかった」とだけ呟いた。去ろうとする孫の顔を見ようと顔をあげると、加奈子はとっくにどこか別の所に視線を向けていた。その横顔は別人であった。和夫は仰天して涙が止まった。もしかしたら、娘と共に死んでしまったのでは。今、目の前にいる加奈子は偽物ではないか。畳に触れている部分が急に冷たくなった気がして立ち上がる。足元が冷えて気持ちが悪かった。あの夢を思い出す。娘はなんと言っていただろう。加奈子から視線を外せないまま思いを巡らす。加奈子の黒目が僅かにこちらを捉えた。 「ふたりだけのひみつ」 驚いて振り返る。娘の笑った写真が佇んでいた。耳元で確かに娘の声がした。ふたり、とは誰の事か。お前は本当に死んだのか。加奈子を連れて行くな。親不孝者。和夫は叫びだしそうになった。現実と幻が行き来している。タクシーの到着を待ちわびる加奈子の足音すら、遠くで響いて聞こえた。
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