冷蔵庫の唸りが止まった。家中が静まりかえる。夏の虫が喚いていたり、サイレンの音が遠くで聞こえたりしたが、無音な暗い箱に閉じ込められた気がして、加奈子はキッチンで立ち竦んだ。リビングに行きテレビをつける。バライティー番組の司会者が愛想笑いをして、けたたましい笑い声が耳を突き刺す。適当にリモコンを弄って消す。押し入れを開ける。いつから存在するのかわからない謎の段ボールや、昔使っていたアイロン台、いつ使うかわからない紙袋。十年住んだ家の、無駄な歴史がここにある。加奈子はキッチンに戻った。自分の家なのに、どこにも居場所がない。落ち着かない。カーテンを開けると駐車場のコンクリートが湿っている。雨が降っているのかと目を凝らしたが、暗くてわからなかった。カーテンを閉めて冷たい床に座り込んだ。どうでもいい。落ち着かない。こんな風になるなんて。急に涙が溢れた。ここにはいられない。どこにも行き場がない。こんな喪失感と生きてゆくなんて。まとまらない加奈子の頭は、つい十時間程前の事を思い返していた。
危篤だと知らせを受けて、十二時間も経ってから、母は死んだ。四十九歳だった。早いとは思わない。人生そんなに長くはないもの。見つかったら怒られるなあ、とぼんやり考えながら院内のトイレでタバコに火をつけた加奈子は、身内が不審がるほど冷静だった。 「お前の、たった一人のお母さんだろう」 そう言って喉を詰まらせたのは祖父だ。なんだこいつ、私より女々しく泣いてやがる、みっともない。加奈子に急に毒が宿った。余命が一年半だと医師から聞いていたから、私はきちんと心の準備をしていたもの。祖父の大切な娘。私の大切な母。悲しみを量りにかける訳ではないが、この世で一番、私が母を愛している。故に最も悲しいのは母と私。加奈子の確信は透き通っていて、また尖っていた。祖父にはまだ祖母がいて、息子がいて、孫もいる。母子家庭の私にはもう誰もいない。お前らにわかるのか、私の気持ち。いや、わかられたくなどない。この孤独を知るのは母だけでいい。乱暴な思いを巡らせていると、擦りガラスの窓の隙間から桜の花びらが入ってきた。こんなに天気がよくて、桜が満開で、いい日に旅立ったねえ。加奈子は声を潜めて笑った。 通夜も葬式も身内だけで、という母の願いは叶った。面倒くさい事は全て祖父母と伯父が手配してくれたので、加奈子は喪主だったが何もしないまま事が運ばれた。助かった。正直、そういう行為に意味はないと思っているし、少しでも親戚と一緒に居たくなかった。早く帰りたい。お経なんてどうでもいいから、早く家に帰して。加奈子は引っ越しの手続きやこれからの事を考えるほうに脳みそを没頭させた。大人は始終、私をかわいそうな目で見る。これからずっと様子を伺われてしまうだろう。最悪だ。でも、母が闘病で長く苦しんだ事を思うと、おあいこな気がする。仕方がない。だって母と私は頑丈な絆で結ばれているんだもの。加奈子は死んでも尚、この絆が永遠に続くものだと思えて酔いしれた。
地獄のような二日間を終えて、家に戻った加奈子はようやく自身の孤独と向き合った。予想以上の絶望だ。これからどう生きよう。自分のためになど、この二十一年間生きてこなかった。気が遠くなるような巨大な迷路に置いて行かれた気分。持ち帰った母の少量の遺骨をテーブルに置いた。生前、副作用で抜ける髪を気にして使っていたバンダナを巻いてあるだけの素っ気ない空き瓶。人ひとりが、たったこれっぽちの代物に変わるなんて。生死って思ったより単純だ。 葬式から五日後、加奈子は新居に移り住んだ。狭い部屋なのですぐに片付いた。本棚に本をしまう作業に追われていると、段ボールの底から母の携帯電話と、祖父母に渡す母の洋服が出てきた。とりあえずどこかにしまっておこう。掴んだ色落ちしたTシャツは懐かしい匂いがした。突然声をあげて泣きだした自分に驚いた。わかった。これが死だ。顔が熱くて、喉が痛くて、頭がぼうっとした。ふと携帯電話を見る。母とのメールのやりとりが恋しく、メールボックスを開いた。男のように涙を袖で拭いながらごめんね、と一応謝っておいた。受信ボックスを見ると加奈子の名前はほとんどなかった。そういえばほとんど連絡とってなかったっけ。落胆したが、すぐにそんな事はどうでもよくなった。送信ボックスを見る。勝彦。誰だろう。知らない名前だったが、この勝彦という男とのやりとりでほぼ埋められていた。絵文字のハートマークが散りばめられた勝彦のメール。それに対し母は記号のみの簡素なメール。だが、短い文面は冷たくも相手を大事にしているという事実がすぐにわかった。別の意味で頭がぼうっとしてきた。勝彦って誰。ねえ、誰。母が死んでわかったのは、生死が単純だって事。私は意外と毒があるって事。母に長い間恋人がいたという事。
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