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ガラス玉
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最終回
1
十五歳の春だった。 母は青くて珍しいダイヤモンドを購入した。 そのときになって初めて、ダイヤモンドの単位がカラットだということを知った。 母は嬉しそうだった。だけど僕には興味がもてなかった。
僕は彼女のことが好きだった。
彼女を初めて見たのは中学校の入学式だった。 教員、全校生徒合わせて七百八十余名が大きくない体育館に詰め込まれていた。 全学年を合わせても二百三十一人しかいなかった小学校とは圧迫感が違う。 僕は、人の多いところが嫌いだった。 緊張してしまう。吐き気すら覚えたこともある。 そして、必然的ではあるが……鼻血は突然やってくる。 朝ご飯がチョコパンだったせいではない。元々鼻の弱い性質なのだ。 僕は唇に伝う生ぬるい感触を覚えた。 鼻血は摩擦係数ゼロの世界からやってくるのかもしれない。昔、『君の知らない科学の世界2』という本を見てそう思ったことがある。 すぐに左手をポケットに進めた。僕にとってそれは条件反射ともいえる。 だが、彼女の方が早かった。 すぐ右隣にいた彼女、相原さんは、僕の胸のあたりに白いハンカチを差し出していた。 一瞬、何が起こったのか理解しかねたが、僕は受け取ったハンカチで鼻を押さえた。 彼女は、とても可愛かった。 肩のあたりで切り揃えられているその髪は、ゆるやかに流れる水を連想させた。一本のくせげもないその髪の間からは、ほんの少し、耳が出ていた。 だけど、彼女はとても無表情だった。 鼻血の出ている僕を見た周りはざわめきはじめたが、彼女だけは静かに前を向いていた。ただ、薄い眉のせいか、どことなくその瞳がはかなく見えた。僕は何かを感じた。
先生に連れてこられた保健室で、僕は赤黒く染まったハンカチをどうしようかと悩んだ。
僕は二組で、彼女は一組だった。 家政婦さんに頼んで新しいハンカチを買ってもらった。それをようやく渡せたのは最初の体育の時間だった。 二クラス合同の体育は男女も混合だった。男子は一組、女子は二組の教室で着替える。 僕は、お礼の言葉とともに、包装されたハンカチをそっと彼女の机の中に入れておいた。 だからといって、彼女を見かけることがあっても何の挨拶もない。
二年生になって、僕と彼女は同じクラスになった。 そして、改めて納得した。 彼女には友人どころか、休憩時間に話す相手もいなかった。気のせいか、授業で当てられる回数も少ない。 いじめられているというわけではない。逆に、彼女は他人に、何というか……親切だった。 入学式の、僕にハンカチを渡してくれたような、あの、優しいと断言するにはためらってしまうというような、そういう態度だ。 必要なときに現れて、必要がなくなったら去っていく。 何やら、一世代前にはやったTVの主人公のようだった。もっとも、彼女の胸にタイマーは着いていない。今もやっているのかな。あのシリーズは。 それから、八方美人の世話焼きおばさんと彼女を比較するのは無意味だった。 彼女はほとんど喋らない。 伝達事項やら緊急の用のときぐらいだろうか。そういうときは彼女から話しかけるし、尋ねられたときもきちんと答える。 そんなときだった。滅多に聞かない彼女の声に喜ぶ奴がいた。
その年の秋、僕は電灯に明るく照らされた廊下を、走りはしないが急いでいた。文化祭の打ち合わせは宿題を済ませる時間すら侵食していたからだ。 教室の電灯は点いていた。 こんな時間、まだ誰か残っているのかと、僕は入る前に開らきっぱなしの扉からのぞいてみた。 そこにいたのは彼女だった。 彼女は自分の席に座っていた。机には何か……茶けた猫が座っていた。ときどき授業中にさえ教室に闖入してくる、先生達には困りものの野良猫だった。 「何を……しているの?」 静かに部屋に入った僕は尋ねた。驚いたのか、猫は逃げるように廊下へと駆け出していった。 「瞳を見ていたの……」 彼女は姿を消した猫から、こちらを一瞬だけ見た。そして即座に帰り支度をはじめた。 「相原さんは、……猫が好きなの? 僕の家の周りには結構いるんだ、野良猫が……」 意味のないことを言ってしまった。僕はそんな気になった。だからといって意味のある会話は何もできそうになかった。 「別にそういう訳じゃないの。猫は……猫の瞳は人間を見ていないから」 僕は首をかしげた。さらに、彼女はもう一言だけ口に出した。 「そこに、変わらないものの欠片を見ることができるから」 言葉の意味が僕には理解できなかった。それについて尋ねようとしたが、彼女はもう席を立って歩きはじめていた。 さよならの言葉もなく、彼女は去っていった。
家に帰る途中、僕は猫を探した。夜はうるさいばかりに鳴く野良猫達だが、探そうとすればうまく見つからない。額にかかった眼鏡を捜すのとは趣が違う。 苦心して見つけ出した猫を、泥だらけになりながら捕まえてその瞳を見ようとした。 だけど、近所迷惑さながらの金切り声に似た鳴き声と、抵抗されて引掻かれるばかりの手の痛みに負けてしまった。 結局、僕は猫の瞳を真正面から見ることができなかった。 意味のないことをした。そういう脱力感のまま、家に帰ってバンソーコーを貼った。 そして二年生だった生活もまた、記憶の中に埋もれていった。
昔、父は名の知れた人形師で、母は売れない女優だった。 今は違う。有名な女優である母がいるだけだった。 忘れてしまった過去の出来事はどこにあるのだろうか。記憶となった六歳の時分を僕はあまり覚えていない。 「あの人は……人間じゃない……生きた人形よ」 自分の作った人形に妄執するかのような夫に対し、母はヒステリー気味になっていたと、歳の離れた従兄弟が話してくれた。 だから六歳の時、家から父の作った人形が全て捨てられたのだと知った。 六歳の僕の大きな部屋に、学習机と、本棚と、タンスと、ベッドしかなくなったその光景だけは、今も覚えている。 いつだったか、友人が「金持ちの割に狭い部屋だな」と言っていた。 僕は「この部屋はとても、広いよ」と答えたと思う。
人形の目を恐がっていた頃があった。 精巧ならば精巧なだけに、言い知れぬ恐れがあった。今思えば、その記憶が群集をして僕を恐怖せしめる所以となったのだろう。 父はいつもどおり、薄暗い部屋で人形を作っていた。 「魂を込めて作られた人形には命が宿る、と。信じられるか?」 父の問いは、小さい頃の僕にはよくわからなかった。 「俺は賛同しかねる」吐き捨てるように父はそうつぶやいていた。 「人形に人間のような命など宿りはせん。宿るのは欠片のみだ、それだけでいいんだ」 幼かった僕はなぜか、それから人形の目を怖がらなくなった。欠片が宿っている人形の瞳だから、という理由だと記憶している。 何故そう思ったのか今はわからない。子供は単純だ。 ただ、命が宿っていると知った人間の瞳を嫌いになったのは、その日以来なのだろう。
中間試験が近かった。 nobodyを調べていたら、たまたまnoncenceの意味を知った。 「生きた人形なんてナンセンス甚だしい」 きざな従兄弟が言っていたその意味がようやく理解できた。 ついでに、inを調べてる時に知ったのはinnocence。 イノセンスとナンセンスはなんだか似ている。
十五歳の春、母が青いダイヤモンドを購入した次の日であって、卒業式だったその日。 僕は相原さんに告白した。 体育館の裏、そのすぐ前はフェンス越しに通行人が歩いている。だから僕は駐輪所を選んだ。 とても怪しげな雲行きだった。次々と暗雲が集まってきている気もした。 どことなく重い僕の言葉に、彼女の首は横に振られた。 「あなたは、わたしを好きになったのではない……あなたが好きな人は、この世にはいないのだから」 馬鹿にされている気分にならなかったのは、僕が元々馬鹿だからだったのか。それとも彼女の口調がとても心地よかったからなのか…… 「わたしは、意味の無い世界に……」 彼女はそれ以上続けようとして止めた。そして、「わたしは、人間でないから」とだけ残して去っていった。 代わりにやってきたのは、あの茶けた猫だった。 僕が近づいても逃げ出すことはしなかった。だから僕は猫の前に座り、その瞳を見た。 もちろん僕の姿が映っている。だけど、何も見ていないのだということも、なんとなくわかった気がした。 この猫にとっては、僕に意味なんて無いのだろう。猫は人間じゃない。 人間がいなければ、猫はいない。 猫がいなくても、人間はいる。
彼女はただ、僕の好きだった人形に似ていたのだろう。
母の青いダイヤモンドが巧妙なガラス細工だったことは新聞沙汰になった。 それ以来、母はガラス玉を集めはじめた。 最初から自分はガラス細工を集めていたんだといわんばかりに。 僕は笑った。
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