「君にはまだ話していないが」 と、20年来の友人は組んだ手に視線を落とした。 「私は昔、若い女を拾ったことがある」 言葉の末尾になって彼は分厚いフレームに覆われた薄い目を私に向けた。丁度、その仕草はテーブルに反射する外光のせいで微妙な陰影を彼の顔に与え、なにかしらの印象を私に与えるようだった。なにかしらの印象を。 私はそれを受けた様子を見せず、友人が入れたコーヒーを口に運んで、顔を顰めた。 酷い味だ。 「いつ?」 「昔だ」 彼は私の眼を見ながら言っている。手元にあるカップに口を付けぬまま。 私は指を顎にやってテーブルに肘を着いた。私の眼はテーブルの上をさまよい、ティッシュやリモコンを通り越す。最後に彼を見ると、俯いた顔は自然相手を見上げるようになった。付き合いが長い彼はそれで気付いたらしく、奥の台所にある冷蔵庫から牛乳を取りに行った。 「若いって、どのくらい」 背を向けた彼を見ながら、私は言葉を続けた。気を付けてほしいのは、私たちの会話は特にこれといった緊張も無く、ただただ単調だったということだ。 「君と私にくらべて随分下だな」 彼は冷蔵庫を開けた。スチールの缶やペットボトルが並んでいる白い空間が、彼の顔を照らす。 私は窓外に目をやった。臙脂のシェードが中途半端にかかったままの窓からみた景色はどこまでもありきたりだ。 友人は扉を閉めた。 「女は金髪か?」 「金髪だ」 「それは・・・最悪だな」 運ばれた牛乳をカップに落として、私はそう言った。 椅子に座りなおした友人は眼鏡のずれを直して、その手をそのままテーブルに落とした。拍子に零れたカップの中身を彼が気にする様子はない。私は味を直したはずのコーヒーに再び舌を痺れさせ、諦めてテーブルにカップを置いた。 「君は昔、随分若く、金髪の女を拾った。それで?」 「それで?」 「金をやって、服を与えて、セックスをした」 「まあ、限度はあるけどね。僕は今も昔も金持ちじゃない」 「セックスは?」 「普通に」 「そう、普通にね」 もう一度、懲りずに牛乳を入れた。 「どこで拾ったんだ?橋の下で落ちてたんじゃないだろ?」 「それは僕がガキの頃に母親に言われたことだよ」 「なんだ、お前もか」 「一度は誰もが言われるもんだ」 彼はふっと息を洩らした。 コーヒーは随分白くなっていた。 「夜、歩いていたら見つけたんだよ。で、拾ったんだ。眼が合ったから」 「へえ」 「まあ、したけどね。で、目が覚めたらいなくなるかと思ったら、まだいた。翌日もそうかと思ったら違う。昔使ってたあのソファの上で座ってたよ。覚えているかな?ほら、あの緑色の」 「知らないよ」 「ああ、そういえばその時は君とは随分間を空けていた」 終わりは随分あっけなかった。 コーヒーをもてあそんでいた私はそれを黙って聞いていた。 「夕方、少し早い時間に帰れたんだ。アパートの古い階段の踊り場で僕は足を止めた。なんだろう。僕があの時見た夕焼けはね、ちょっと思わせぶりだった。で、僕も思ったんだ。女みたいに、なにかあるなって。勘と言うのは当たるもんだ。ドアを開けると女は私よりも随分若い男の上を跨ってたよ。私が買ってやったスカート意外、何も身に着けてなかった。私は何も言わなかった。男は口を開けたが何も言わなかった。若いからな。若すぎたくらいだ。女は肩越しに私を見て言った」 仕方ないじゃない。 「そのまま男の手を握って出てったよ」 バイクが走る音が部屋に侵入し、猛然と去っていった。 「見る限り、その女に君の人生が狂わされたところは見当たらないが。君は借金も何かしらの中毒も酷いほうではないだろう」 「まあね」 「慣れたんだな」 「さて、どうだろう。僕はなんとなく、その結果が見えていた。女が僕にだけ忠実であってくれると思わなかったし。先が分かりすぎる程にありきたりの話だからね。何もない女に男が色々なものを与え、最後は奪われる」 「与えると奪われるじゃ随分違う。で、君は」 「うん。それで、僕はあの女に何を奪われたかわからないから君に話したんだ」 「何年もかかった後で?」 「そうだよ」 私は結局、コーヒーを飲み干さずに友人の家を出た。外はとうに暮れている。友人は私が言ったことに大して心を動かされなかったようだ。言った当人もそれを見越していたから。憤慨もなにもない。そもそも、私と話していた彼の後ろには並ぶ本棚があった。きれいに並ぶ背表紙を背景にしながら話す彼に、私はまじめに聞いていたというつもりはない。 彼も「ありきたりな話」と言っていたのだから。 夜に出会った、若く、金髪の女を拾うこと。 確かにそれは、ありきたりな話だった。
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