こんなに広い空を見たのは田舎を出て以来だろう。 雲以外に太陽をさえぎるものもない。水を澄ましたような青が伸びやかに広がるのを見ていると、いつのまにかそう考えていた。多分、そうだろう。そうだったと記憶の端で頷いた。 もしそうだとしたら皮肉な話だ。 「よう」 吉田だった。大柄の体のせいで一寸出来た影がこちらの顔に被り、すっと冷たい水が下りる気がする。乱雑に固い地面に座ると、塀に背を預けて立っている自分を見上げるように首を巡らせた。太陽がまぶしいのだろう。その顔は犬の顔を潰せばこうなるといったおかしさがある。自分がそう考えているとも知らず(知られればあぶない)吉田は顔に似合わぬよく通る声で話しかけてきた。 「あっこにも混ざらないで、なにしてんだ」 吉田が言って顎で指し示したのは今ボールが飛んだ場所だ。野太い歓声を上げてゲームをしている一群を見て首を振る自分に吉田はスカした笑いをしてみせた。 「ああ、切れたか」 「あんたじゃあるまいし」 にやっと笑う吉田の口からヤニ色のすきっ歯が覗いて見える。 「なんだ、一昨日の、知ってんのか」 「よくあそこからすぐに出て来れましたね」 「俺だからな」 一斉消灯から数分後に起きたあの獣の声は確かに吉田のものだ。あとで誰かがそれを止める声や何かが砕ける音が混じり、それがよりはっきり聞えると、どさどさという音とともに遠のいていった、あの一昨日の晩。誰かが悲鳴をあげることはない。ここでは誰もが獣になれたので、それが一昨日は吉田だったというだけの話だった。 「ぼっと上を見ているからよ。よくねえぞ。首をくくる前の奴はそうするんだ。前触れだな」 「あの神崎さんもそうだったんですか」 「知らねえよ。あのデブのことなんて」 ざっ。吉田が砂を足で蹴って煙が立った。 「別に田舎の空を思い出しただけですよ」 「いけねえな。そりゃ完全に前触れだ」 苦笑して塀に頭を付けると、固いコンクリから来る振動のせいか、向こうの音がはっきり聞こえるようだ。 「吉田さん、この外ってなんでしたっけ」 「道だろ」 「誰が通ってんですかね」 「おっさんにババア。それとガキ」 「ここ、ふつーに住宅街の側ですよね。あれかな、高校生とかチューボーとかのカップルが手を繋いでこの塀の前を歩いているのかな」 「っへ、そのガキ捕まえてメスはやって男は潰してぇ」 「同感です。制服の人が近くにいなくてよかったですね」 「まったくだ。こんなとこにいたら誰だって思うさ」 吉田が続けていった言葉には何も言わなかった。見上げた空は青い。 「吉田さんはあと何年・・・?」 相手がぶらっと手を振って見えた指の本数に頷くと「お前は?」と吉田が聞くので片手の指で答えた。それに吉田はまたぼろぼろの歯を見せて笑うだけだった。 「わるかったぜ」 空を見てはいない吉田はゲームを見ながらこぼすように言う。 「ちょうどコンビニに停めたのが。いや、あいつらが来たのがわるかったんだ。俺が便所行って戻ってきたら。戻ってくるんじゃなかったぜ。こんなことだったら。いや、一番悪いのはあの女のせいだ」 何度も聞いた話だったが最後の言葉は聞いたこどはない。吉田の方をみると吉田もこっちを見ていた。自分と目が合ってから吉田は言葉を継いだ。 「助けてなんて被害者ヅラしやがって」 ちょうど、重なるように笛の音が鳴る。9回戦までいかなかった野球選手たちは一様にうなだれながら、けれど用具をきびきびと片付け始めた。きびきびはここで叩きこまれたことだ。 「次は夜空をみたいですね」 「やっぱりお前末期だわ」 「ですかね。で、行きますか」 「あーあ」 うん、と伸びをして立った吉田の体は大きい。その体が作り上げた影は時間のせいでより大きく自分に被さった。 一瞬、知らない顔が見えた気がした。 「そういやお前は」 「ああ、俺は」 しゅうごーう!胸を張り、厳粛な制服の管理人が声を上げる。自分と吉田は他と同じに駆け足で集まり列を作った。 「囚人番号!」 1135!順番が来て、声を張り上げた。私語を許されぬ行進が始まる。 「おれのせいじゃない」 吉田が言った言葉が廊下の角を曲がったときに耳の中から聞えた気がする。曲がり終えた時、自分はそっと頷いていた。
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