遅くに帰ってきた夫はソファに座ったきり一言も言わないでいる。ネクタイを緩めた手もそのまま落とした後は動こうとしない。私は彼の前に麦茶を置いた後は床に落ちた鞄を拾うだけで、あとはとなりでテレビを見ていた。 「なあ」 「ご飯?」と私が目で聞く。夫の視線は私を通り越していた。数秒たってから夫は首を一度だけ振って『いらない』と答えた。 こんな夜がしばらく続いていた。最初の頃、夫は「これが長く続くとおれももたないよ」と苦笑していた。それが随分遠い事に思える。私は子供たちの事や家の事を夫にまだ話してはいない。 「・・・消してくれ」 「なに?」 夫は一度顎をしゃくった。リモコンのスイッチを押すと居間は本当に静かになる。 ふかい、ふかい溜息を夫は長く吐いた。 私はその息が、いつか私の胸を潰すだろうと気付いている。だんだん夫の肉体が知らないものになっていく。私は隣を眺めながらそう思った。 「あら」 私の声に閉じていた瞼を薄くこじ開けた夫が首を僅かに動かして、「なんだ」と聞く。 「あなた頭から芽が出ているわよ」 私の言葉に夫は動かない。けれど確かに、夫の脂っぽい髪に混ざって耳の後ろからひょろりとした芽がでていた。つん、とひっぱると確かに夫の皮膚もつられている。私はそのまま髪を抜くようにその芽を引っこ抜いた。 さすがに痛かったのか、夫が鈍くうめいた。 「血は出てないですよ。ぽっかりと毛穴がひらきましたけど。ほら、見てください、こんなに長いの」 その芽の端を持って夫に見せてやると、彼は耳の後ろを抑えながらそれを眺めた。 「よくまあこんなに伸びますね」 「・・・残業ばっかりしていたからな。この位置ならスタンドの蛍光灯も浴びっぱなしでよく光合成できたんだろうよ」 夫はそれきり言ってソファの上で眠ってしまった。 私はもったいない気持ちになってそれをティッシュを敷いた上に丁寧に置いておいた。 それも翌朝になってみると萎れて枯れてしまっていた。 「なんだ、枯れているじゃないか」 「夜中はきれいな色をしていたんですけどね」 夫は「ティッシュに水を含ませなかったからだ」とぶつぶつ言いながらそれを丸めてゴミ箱に捨ててしまった。 あんな奇天烈な出来事は結局生活に何かを及ぼすことはないのかと子供たちを送り出しながら私が思っていると、洗面所の鏡を熱心に見ている夫がいた。 夫は私に気付くと耳の後ろを触りながらそこから出ていった。 あとから、あれは他にも何か生えていないかを探していたんだと聞いた。 「もし生えていたら、おれは多分ほっとしたよ」 ソファの隣に座る私に、夫は枯れた声でそう言った。
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