自分はどうにも恋愛にうとい男だと言われたような気がする。 べつに女を相手にしたことがないという話ではない。経験というならある。何人かと問われれば、成人して久しい自分が指で数えると両手に足りるかというぐらいで、とりあえず自分の年齢なら平均的だと思ってはいる。 気持ちを告げるのは自分からもあったし、女からもあった。成功も失敗もあった。別れから間を空けずに次に渡るときもあれば、何年も空いたときもある。浮気もしたし、された。それが原因ですぐに別れた女もいたにはいた。 そうやって過ぎたけれど、ある日、ふとリモートコントローラーでテレビの電源を消したあと、自分はどの女もよく思い出せないと気付いた。ぱっと画面が落ちた。あの瞬間。画面の黒いスモークにぼんやりと写った顔のない自分の姿を見て、同じように記憶の中の女たちの顔が思いだそうにも彼女たちの顔も容姿も消えてしまっていたのだ。 自分は何も思わなかった。その日は夕飯を食べて持ち帰った仕事を片付けて寝た。 そして自分は先程まで飲んでいた店を出て、一緒にいた気の合う同僚と交わされた会話をぼんやり思い起こしている。 出会った当初よりも随分体格が変わった同僚は、出されただし巻き卵をつつきながら話していた。 「かみさんの友人がよ、どうやら男からdv受けているらしいんだよ」 自分はその時大根の煮物を食べていた。 「旦那に?」 「いや、独身だ。恋人らしいぜ」 「恋人なら別れればいいじゃないか」 「それが、かみさんも本人から相談うけてそう言うんだけどよ。決まって男が変わってくれると信じているから別れないって言うんだ」 「無理だろう」 「だな。けどこうも言うんだ。彼に嫌われたくないんだと。嫌われたくないからって殴られるのかね」 「それでかみさんに電話相談か」 「まいったよ。かみさんも結局本人たちのことで深追いもできんしな。かみさんは友人が殺されるんじゃないかってはらはらしてるよ。旦那としてはちっと迷惑な話だ」 「大変だね、君も」 「まったくだ。だが、まあ、嫌われたくないという女の気持もわかるかもしれんし、殴る男の気持ちもなあ。彼女の前でしか気持ちが出せないといった面では、表現の方法はどうあれ、なんとなくわかるなあ」 「わかるのか?」 自分は一瞬、相手を疑った。けれど眼の前で平和そうに酒を飲む男に暴力の影は見つからなかった。もう一方にもその影が見える事はなく、2人の男はぶらぶらと世間話を続けている。 「ああ、なんとなく。君は?」 「そうだな・・・だが、男の暴力は愛じゃないだろう?」 「なんだい。君にとって、男は同情も許せない存在かい?」 「さてね、自分は処罰するような位置でいるわけでもないし」 「逃げるのかい」 「そういうことにしようか。でも、こんな寂しい世の中じゃ、そんな2人はどこにでもいるんだろうね」 「つまり、そういった男や女の心情は誰もがもっているってことだ」 どうあっても自分の言葉に沿わせたい同僚はしたり顔で分厚いだし巻きを食べながらにっと笑った。自分はそれを酒を飲むことでごまかした。 「やれやれ、やめだやめだ。とにかく俺はさっさと男と別れればいいと思うよ。男なんて他にいくらでもいるだろう」 「どうかな、出会いの場がないなんてテレビじゃよく言われるネタだぜ」 「テレビなんてあれは構成された情報じゃないか」 「そうだな。しかし、その情報をそのまま受け取った女がいたとして、現に出会いもないし、この暴力をふるう男しか自分と付き合ってくれない。自分の価値を認めてくれるのはその男しかいないという考えが意識の底にあったとしたら、男とは別れられないだろう。そうすればかろうじてある自分の価値を捨てることになる」 「そこまで考えているものかね。もしそうだとして、けれど相手は自分の価値をマイナスの底まで減らす人間なんだぜ。女に必要なのは肯定してくれる人間じゃないか」 「今の世の中、自分を認めてくれる人間なんてそうはいないぜ」 「そう思っているんだろう」 「そして自分も認めていない」 銚子の酒は尽きている。 「なら簡単だ。誰も認めていないなら、やっぱり男と別れるのは簡単じゃないか。人を捨てるのは今じゃ簡単にできるから」 注文を迷いながらそう言うと、同僚は食べ終えた皿を向こうにやってから自分に言った。 「だから、女は男と別れられないんじゃないか」 夜道は酒で火照る体を静かに凍らせる。暗い夜道に幽霊のように発光する自販機を通り過ぎ、足を止めた。 殴る男と殴られる女。先程までそれを肴に酒を飲んでいた2人の男。顔の無い過去の女たち。 それらが誘蛾灯のような白い照明の影になって踊っている。そんな錯覚を覚えた時、携帯電話を気がつけば取り出していた。折よく掛かってきた電話を受け取ると相手は今付き合っている恋人からだった。 恋人の話は特にどうでもいいようなことと今日一日あった出来事が大半だった。 それに相槌を打ちながら、ふと自分はこの女を殴りたいと思うだろうか、と考える。けれど殴りたいとも思わなかったし、今ここで冷たい言葉を浴びせたいとも思わなかった。そんなことをしようとは今までも特に思わなかった。それはどの女も同じだったはずだ。 次の日曜が楽しみだと恋人が言った。 同棲をしている訳でもない自分たちが電話越しではなく、直に一緒にいられる日。自分も恋人と予定をぽんぽんと思いつくままに並べている。 もしかしたら、次の日曜で会うこの恋人の肉体は、月曜には顔の無い女たちの仲間になるだろう。 なんとなくそう思ったとき、胸が波打つことはなかった。 つまり自分はもとから恋愛を語る資格がないようだ。 同僚のかみさんの友人がそれからどうなったかは、知らない。
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