れもんの香りが胸を焦がした。 違う。わたしは千恵子のような死の床を待っているひとではない。ましてや病んだひとでもないはずだ。 なのに、そのしゅっと弾ける香りに全てを攫われる。なぜかわたしにいろいろな事を考えさせている。それはわたしがもうその場に足を置けない、ぼんやりとしたくらい場所についてのことだ。払っても払っても、あとからあとからついてくるべとべとしたもののことだ。 今は会わぬ人たちが挨拶もなしに入り浸っていたあの部屋のこと。 幼い文字が転がったあの手紙のこと。 相手に言った自分のあの言葉。 れもんの香りが起爆剤となって、ひらりとそのシーンがだれの赦しもなく眼の前に閃いた。閃かせた布は隅が結んであって手品師のように次から次へと無造作に繋げた布を取り出される。―一体だれが? わからない。 ただわたしに出来るのは、眼を閉じるか、叫び声を押しつぶすか、体をばたばたと動かすことしかない。そうやってわたしの体に巻き付いてく繋がったあの布の結び目を乱暴にほどくしか方法をわたしは他に知らない。 布切れの一枚がわたしの顔に被さる。 (部屋の電気は橙色に抑えられている。埃と煙草の匂いにむせそうになっていた。あの子たちはもう出て行って、あのひとだけが部屋に残った。そしてあのひとは言った。 「 ) ここでは声をあげることも、暴風のように動くことも、何かを壊すこともできない。瞼を閉じると両足を支える地面が抜けそうになる。 街に出たほんの一瞬だった。誰かがつけたあのひとと同じ香りに、わたしの胸は焦がされた。
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