向かいに座る男が誰なのか、私は知らない。 時間は既に夕暮れに差しかかっていた。気温は移動せずとも太陽が沈む時間に関して言えば季節は移り変わろうとしているらしい。前はまだ真昼のようだったこの時間も、既に紫が空を塗り替えている。 私は街のすみに置かれた古びた喫茶店で窓際のテーブル席を一人独占しながらアイスコーヒーを注文していた。他に客はスポーツ新聞を読んでいるサラリーマンしかいない。その客が時々せき込みながら大きな音をたてて新聞を捲っているのが気になるが、それ以外は特に何もない。主人の趣味でかかるジャズのサウンドも聞き流した。 顔にぽつぽつと浮かんでいる汗をハンドタオルで押さえるように拭う。化粧は既に崩れているが、直す気にもならなかった。熱帯の夏に立ち向かえるのはアマゾンの戦士だけだろう。 そんなわけでそのときの私は暑さに大分やられていた。蒸し暑い外気から一時避難して冷たいクーラーで急激に冷却された頭は作動するはずもない。窓を透かして見る熱帯の夕暮れの街をぼんやり見ながら、私は夜が来るのを待っていた。 「勿体ない。この時間が素晴らしいのに」 頬づえをついて見ていた景色を窓から移した向かいの席に知らない男が座っていた。誰、という言葉は口から出るより表情が先に出た。しかし空気を読まない男はべらべらと喋り続ける。 「夜は暗すぎるし、長すぎる。そんなものは魅力もなにもないよ」 こんな店に女一人で来るんじゃなかったと既に後悔していた。テーブルを立ち去るにしても注文したアイスコーヒーはまだ来ない。出ようかどうしようか腰が落ち着かないままに私は男に中途半端に相席を許している。暑さで注意する気力もなかったことも否めない。 さて、ナンパか勧誘かと作動しない頭でもそれなりに警戒していた私だが、男はそれきりいっさい口を閉じてしまっていた。そうされると気になるもので男のほうを盗み見ると男は外の景色を只一心に見ているようだった。誰かを待っているのか。そんな特定の何かを待っているかのような姿勢で彼は窓外を眺めていた。薄紫の影に覆われた街と行き交う人。熱気が遮られた窓から私が見えるのはそんなものだったけれど。 「だめだ、今日はない」 言うなり男は急に席を立って行ってしまう。あっさり背を向けた男に唖然として彼を眼で追おうとすると「お待たせいたしました」と店主がアイスコーヒーを運んできてしまった。店主の髭を生やした顔から男の方に目を戻しても彼は既に居なかった。窓外にも歩く姿は見えない。 そういえば、私が入った後で一度でも店のドアベルは鳴っただろうか・・・・。 サラリーマンががさがさと忙しなく新聞を折りたたむ。 アイスコーヒーを飲む前に随分体が冷えた気がした。手をつけられないドリンクは氷が溶けて薄まってしまう。 何が起きたのか確かめようともう一度窓を見るが、外は既に夜が落ちている。
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