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作品名:damp 作者:k.m.14

最終回   damp
かんかん照りの日差しは、何もかもを乾かし、潤いを奪う。公園の広々とした芝生は陽に焼け、青が消えてしまいそうだった。管理人が地面のスプリンクラーを開いた。
自転車で日差しからの逃走を図っていた私にも、勢いよく噴き出される水しぶきの霧が頬を撫でた。
むわっとする鉄錆の匂い。
最悪。
私は自転車をこぎながらスポーツ場を睨む。高く上がる2本の水柱が地面を濡らす。脇道にまで漂う鉄錆混じりの霧は結局不快感しか与えない。睨みつけた地上の噴水の間に、ゆらゆらと黄色いものが浮かんでいた。
「あ」
谷さんじゃん。
私は自転車を止めて、噴水の間に立つひょろりとした男を見つけた。
よれよれのTシャツにジーンズ姿の谷さんが、水に濡れるのも構わず、黄色い凧を空に飛ばしていた。
谷さん。
「なにしてんの?」
「あれ、しょーこちゃんじゃん」
谷さんは近寄った私をちらっと見た後、すぐに凧に視線を戻す。その後の言葉は続かないけど、私も別にどうでもよかった。芝生の上に立つと、余計に錆の匂いが強まった。
谷さんはひょろい腕をただくいくい動かすだけなのに、凧はひゅうん、ひゅうんとさらに高いところまで飛んでいく。
「谷さん、濡れるぜ」
「きもちいいからいいじゃない」
そんなこと言えるのは小学生までだよ。と言おうとして、やめた。なんというか、谷さんに大人って、合わない。
そのまま谷さんと私は、錆び臭い霧の中、黙って上がる凧を見つめていた。
嘘。私は谷さんを眺めていた。
谷さん、というのは不思議な人だった。私たちは清掃のパートでたまたま一緒のシフトだった時からの知り合いだ。ハローワークでやっと見つけた仕事の現実に、そのとき私は打ちのめされていて、休憩所で汚れた畳の上でにこにこしながらパートのおばちゃんが持ってきたおせんべをかじっていたのが谷さんだった。それを見て、私はこの男が大嫌いになった。よくわからないけれど、谷さんの居住まいが私の神経を逆なでにしたのだ。
仕事をしなきゃ、生活をしなきゃ。
そう思いながら毎回休憩所に戻ると、同じく休憩中の谷さんがあの畳の上に胡坐をかいてお菓子を食べているのに出くわすのだ。
バームクーヘン、東京ばな奈、ビスケットにぽたぽた焼き。
なんとなくばば臭いお菓子をティッシュを皿代わりにして膝上の上に置きながら、谷さんはむしゃむしゃ、時にはぼーりぼーりそれを食べていた。
私はその畳のはじっこに座って、120円の無糖コーヒーをちびちび飲んでいた。谷さんには背を向けていた。
私たちに会話は無かった。
思うようにはいかない生活。うつうつとしながら、私は掃除をする。
けれど、耐えられない。
きったない駅のトイレをたわしで擦って個室から出ると、化粧直しをしているOLと鏡越しに目が合った。なんとなく、彼女が笑った気がして、泣きたくなった。
こんちくしょう。
学校を出て、やっと就けた仕事がこれかよ。
掃除道具を入れたカートを押して、走るように休憩所へ戻った。
そして当然のように、谷さんは畳の上でお菓子を食べていた。
私は畳の端っこで体育座りになって膝に顔を埋めた。涙なんて流したくないし、声なんてこの男に聞かれるのはもっての他だった。自然、谷さんがお菓子を食べるぼりぼりぼりぼりと言った音だけが部屋のなかを満たしていた。
谷さんと、私しかこの部屋にはいない。
ぼりぼり、むしゃむしゃという音が延々続いて、私はやっと谷さんのほうに顔をあげた。
谷さんはババ臭いそばぼうろを目を閉じながら、もしゃもしゃもしゃもしゃ食べていた。体はちょっとよこにゆらゆら揺れていた。
私は、これ程までに美味しそうにそばぼうろを食べる人を見たことがない。
端っこをがじっと前歯でかんで、そのまま谷さんの口に吸い込まれる。私はそれをぼーっと眺めていた。
「たべる?」
谷さんの細長い腕がこっちに伸びていた。私は手を伸ばしていた。谷さんの指先は平たい。
「うまいよ」
谷さんはにこにこまたそばぼうろをかじった。
こうして私と谷さんは話をするようになった。ぺらぺら話すわけじゃなく、私たちはぽつぽつと日に2,3の話をするぐらい。谷さんはパートのおばちゃんたちのぺちゃくちゃ話すのをうんうん聞いている。私はおばちゃんたちがいなくなって、一人でいる谷さんに話しかけていた。全然話は弾まなかった。でも、次の日も谷さんに話しかけていた。
谷さんは次の日もにこにこお菓子を食べていた。
「ねぇ、しょーこちゃん」
ひゅうん。黄色い凧が空を飛んでいる。
「なに」
谷さんは私の名前を『しょうこ』と呼ばず、『しょーこ』と伸ばした。そんなとこも谷さんらしかった。私たちは芝の上で凧を見上げている。
「きのう、いやなことがあったんだ」
私は谷さんを見た。谷さんは凧を見上げていた。
「ネコをころしちゃったんだ」
ひゅううううう。凧が滑空する。
「どうして」
スプリンクラーの水が、谷さんのTシャツを湿らせて、谷さんの肉の部分をべたっと浮き出させていた。
いやだな、と私は思った。
「しごとのあと、へとへとでかえってね。ふろにもはいらずに、よこになったんだ。それでも、ねむれなくて。ビールをのんでも、ねむれない。まっくらなへやのなか、めをとじていた。そしたら、そとで、ねこがさかっててさ。ひどいさけびごえだ。あれはどっちがさけんでいるんだろう。ほんとうにひどいこえで、しにそうなこえだったんだ。ぼくはへとへとだった。ねむりたかった。だから、しんでしまえとおもった。そしたら、ねこのこえがきえて、ぼくはやっとねむれた。あさになったら、みちにねこがしんでた」
谷さんは、凧を見上げていた。黄色い凧は持ち直してさらに小さく見える。高い場所へ飛んだのだ。
「谷さん、それは殺したって言わないよ。それなら、私なんて毎日人殺しだよ」
あのOLなんて、何回死んでいるか。
けど、谷さんは子供みたいに俯いて、首を振った。
「ちがうんだ。これはすごくいやなことなんだ。しんでしまえとおもったときは、ぼくはとてもおこっていた。しずかになるとすっとした。あさになってそのけっかをぼくはみてしまった。ぼくはとんでもないことをしてしまった」
私の言葉の番だった。でも、私はそれをパスしてしまった。私たちの会話は、いつも、弾まない。
子供みたいに洟を鳴らして、ひょろりと背の高い谷さんが黄色い凧を見上げた。
「きもちよさそうだね」
糸を持っている谷さんの、平たい指先が手の平から全て離れていくのを私は見た。
「谷さん、離しちゃ駄目だよ」
私はそう言って、谷さんの手と一緒に凧の糸を掴んでいた。私のシャツは錆び臭くて、びしょ濡れだった。後ろで谷さんがうん、とか、そうだね、とか言っている。その顔はどんな顔だろう。私はいつかみたいに谷さんに背を向けていて見えないのだった。


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