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作品名:ロースト 作者:k.m.14

最終回   ロースト
川面を撫ぜる風に私は身を竦ませた。川面を撫ぜる、という表現は正しく無い。私の背後で聳えている建造物の防壁が届かない広広とした水の平地を、凍える大気を纏う風は疾走していく。風は進む先を邪魔する遮蔽物にその冷気で持って容赦なく熱を奪い去る。それは川辺にいる者もその矛先から逃れる事は出来ない。もう着始めて4年以上経つこのコートは盾にもなれず、冷気はひっそりと沁み込んでいき、私の手足どころか背骨まで冷え込んでいく。手をコートに突っ込み、背を丸めてベンチに座ったまま川面を眺めているが、そろそろ私の体は限界だった。早く体を温めたい。けれど私はここにいる。ごうごうと流れる川をただ眺めるためだけに。体のなかに生じた何かしらの詰り(ストレス、と私の家族は表情を何処となく暗くさせて言った)を流すために。そして川でしかこの詰りを流せないために私はここにいるのだ。
「すっごく、寒そう。」隣に座る女が言う。
「あなた顔が酷いことになっているわよ。知ってる?顔があまりにクシャクシャになっちゃうと、あとでお湯につかっても何をしても皺がとれないんだって。」
私はその言葉に化け猫に食われそうになった2人の猟師(正確にいえば彼らは趣味で猟にやってきた金満家ども)が浮かんだ。(クリームや塩で彼らは自分で自分を調理していた)彼女は私の硬く寄せあった眉間の皺を指差し、ここはもう線が入ってしまっているだろうと予言して見せる。
私はその指を払うようにゆっくり手を振る。かさつき、節が強張った手に、滑らかで温かな手が触れて離れる。私はそのことに対して特に何も思わない。
「さっきまではまだマシだったんだよ。誰かさんに懐炉をとられるまでは。」
「懐炉って、これのこと?」
彼女は手に持ったものを見せつける。それだって今はもう温度など無いようなものだ。その中身の最期の一粒を彼女はさっき食べ終えたのだから。
「栗は食べるものよ。懐炉じゃないわ。」
「焼き栗なら十分懐炉になるさ。食べるのは冷めてからでいい。」
彼女は私の意見に呆れているようだ。(冷めたら美味しく無いじゃない)栗を包んでいた新聞紙を両手でクシャリと丸める。
「まさか、新聞の記事にまで用があったとか言わないわよね。」
「まさか。」
実は私は、屋台の老人から渡されたときにその包み紙に何が書かれているだろうか察知していた。折られて抽象画になっていたが、上等そうなスーツの縞、禿げあがった頭髪、皺だらけの瞼から覗く鋭い瞳。その写真の人物が関連した事件はここ数日どの新聞も1面記事にしている。
「良かった。」彼女は立ちあがる。
「時事ニュースなんて話題にしたら殺したくなるから。」
放り投げられた新聞は走る風によって斜めに空を飛び、川へ落ちた。
「怒られるぜ。」柵に手を置く彼女の傍へと、私も重くなった腰を上げる。
「誰が見てるっていうの?」
確かに彼女の言う通り、私たちの傍を通りすぎる人間は己を苛む寒さとの格闘で忙しそうだ。俯き足早に歩くことに必死で、川に違法投棄する人間を見る余裕はなさそうだった。それに新聞はプラスチックと違い腐敗する。沈みもせず水と風に流される紙屑は滑るように遠くへいってしまう。(完全犯罪を共犯者兼唯一の目撃者は黙して見つめる)
行きましょ、と彼女の先導のもと私たちは橋を渡った。石の、人も疎らな橋の上で我々は北風の洗礼を受ける。(橋の下の川がごうごう流れている)
隣を歩く彼女は私と同じように黒のコートに手を入れてはいるが、背を丸めず胸を張りチュチュを思わせる紫のスカートに7インチのブーツをカツコツ鳴らしている。私は彼女の素肌のままの足や、マフラーも巻かずにコートの開いた襟ぐりから覗く華奢な金のネックレスをつけた首や鎖骨に、彼女が言ったクシャクシャの顔をさらに皺にする。革命後に流行した神話時代の肌着だけを身に付け、肩掛け一枚で外出した婦人方。その多くが結核に倒れ、望んだ儚さを手に入れ血を吐き死んでいく。流行にのった生き方・・・。
「いま、変な事考えていたでしょ。」
私の視線に気付いたのか、彼女が睨む。私は肩をすくめるポーズをとった。(最もこの亀のような姿勢ではポーズになったかどうか・・・)
「変なことって?」
「例えばセクシーだな、とか。」
「それは無い。」
「あら、残念。」
 そう言う彼女は全く残念がっていないようだ。鋭い視線もすぐに失せ、柔らかいものに変わる。隣を歩く私を見るせいで風に吹かれる髪の毛が顔にかかる。
「断頭台で死ぬか、病で死ぬか。どっちがいいかと思って。」
「は?」
「君の格好を見ていたら、そういう考えに行き付いた。」
「やっぱり変な事考えていたんじゃない。」
「変じゃないさ、つまり君がすっごく寒そうだっていうこと。」
この言い方では、さらにイコールがついて彼女の死を考えているようなものではないか。
「じゃあ、温めてよ。」
彼女は気に留めなかったようで、私の腕を引く。その頼りなげだと欺き、現実剛健な足で橋を一気に渡り終える。
「・・・呆れていたんじゃなかったのか。」
私の言葉を流し、彼女はさっさと注文する。焼栗は向こう岸でも売っているのだ。ドラム缶の蓋のような平たい巨大な鉄皿の上で熱された栗を若い男が新聞紙を折った袋に詰め込んでいく。我々はそれをコートのポケットにいれ(料金は当然のように私が払わされた)、体を微細な熱で暖めながら川沿いを歩く。
「さっきのあの男、私の足ばっかり見てたの気付いていた?」
勿論、私はそれに気付いていた。
「胸とかもきっと見ていたわ。ごまかしていたけどわかるもの、私そういうの。」
彼女と私は前を真っすぐ見ている。灰色の川、灰色の空、灰色の石の道。
「でも、貴方はどうとも思わないのよね。」
「君と、君の格好なら焼栗売りの眼も引くだろうさ。」
「でも、その焼栗売りが私に対して思ったことと、貴方が思った事は違うわ。」
「君に対して同じ思いを抱くことが出来ないからね。」
「そう、だから貴方がいいの。」
それは、我々のこの永劫的な関係を言っているのだろうか。何をしようと試みても、それ以上踏み越えることが無いという。
彼女が言っていた通り、彼女の住み処は川沿いにあった。思えば私があの石橋を渡って、対岸へ行く事はあまり無い。ただ頑固に川の片岸でさまよっていたのだ。その姿をよく見かけていた向こう岸の住人の彼女が声を掛けて来、図らずも私たちはどちら側の岸でも無く、両岸を繋ぐ橋の上で交流を始める事になる。ぽつぽつと会話を交わし(彼女の第一声は「あなた変わっているわね。」だった)、相手の姿を認めると手を振ってみたり、そのうち相手のいる対岸へと行くように(主に彼女の方がそうであり、私は大体橋までしかこない。何故なら彼女もまた対岸へ向うから)なった。
以前、何故川辺に来るのかと彼女は私に訊いたことがある。私が体に度々出来る栓の存在について話すと彼女は気のせいだと言った。
「だって、貴方が閉じ込めているモノについて貴方は奥さんにも言っていないんでしょう?」
「言ったら最期、離婚だろうね。」
「どうして結婚したの?」
「それが流れだったから。大学を出て、就職し、30を過ぎる前に結婚しなければいけなかった。社会の暗黙の了解だ。少なくとも、僕の母と父はそうだからだ。」
「奥さんは?」
「有難いことに家事に勤しみ、暇を見つけてはフラワーアレンジやらヨガやらに行っているよ。彼女の時間を潰す子供はいないから。ああ、気付いているか?それは彼女が幸せかどうかわからないのと同じだね。」
彼女が案内した住み処は、存外広く、置かれているものも質が良いと傍目で分かるものばかりだった。彼女は革張りの、これも高級そうな巨大な2人以上座れるソファに座るように言う。コートを脱ぎ、シャツとセーターの袖口の僅かなずれを直しながら彼女の言う通りにしている私に、彼女は湯気を立ち上らせたマグを用意してくれた。
ガラスと鉄の曲線で出来たローテーブルの上には、冷めた焼栗と熱いココアのコントラスト。
「昔ね、ここで洪水がおきたの。」
私は一つ頷く。隣に腰掛ける彼女がココアを両手で持ちながら話す。
「多分街に越してきた貴方は知らないわ。だって堤防が決壊して、こっち側も向こう側も水と泥の侵入を、それも酷い侵入を許したのなんて私が生まれる前だったもの。私がお腹にいるより前よ。でもその時の話をよく聞かされていたわ。泥がね、地下を簡単に埋め尽くしてしまうんですって。それも何が入っているのか分からない泥が。マネキンの足を泥から見つけたとも言っていたわ。それより恐ろしいのが泥と流れが滞った水が起こす腐敗だったって。」
腐敗。と彼女はもう一度言う。
「洪水にさらされたここが広大で痩せた畑とかだったなら、沢山の微生物を含んだ肥沃な泥は豊饒をもたらすものになれたかもしれないけれど。」
残念ながらここは人が住む為だけの街だ。
「それで。そう言われながら、しかも眼と鼻の先に川があるものだから、結構川の傍には来ていたわ。でも、だからナニ?って。今に比べてみれば関心は薄かったわね。」
つまり、昔の彼女は岸辺に座っていることは無かったということだろう。ぼんやりと、川面を、水の流れを見ている彼女は。
見れば、彼女が持つマグも満たされたままだった。そのまま、熱が空気中に放散されていく。
「流れっていったわね。私も確かにそれを感じる。歴史とかの事を言っているんじゃないわ。例えばちょっと傍を通り過ぎた人やこの街にいること、今、人が生活を送る上で起きていること。
「私はそこから外れている。わかるの。普通の人ならばしないことをしてしまうもの。」
彼女は短く深い息を吐き、結局口に付けなかったマグをテーブルに置くと私の肩に寄りかかってきた。
「どうしてかしら。パパもママも普通の人なのに。普通に私を育ててくれたのに、どうして私はこうなったのかしら。」
どうしてなのだろう。どうしてそうだったのか。私がなぜそういう行いをするのか。原因もわからずに、ただそうなのだという結果だけが残される。
「パパもママも愛してくれているわ。でもここにはいない。困惑しているの。私がそうだったから。愛してくれているわ。でも、私は普通じゃなかった」
彼女の体は冷たい。彼女はコートを脱ぐべきじゃなかった。そんな服では体は温められない。(流行のシュミーズを着る夫人は生きたまま死に化粧をした・・・)彼女はますます強く自分の頬を、やや頬骨がでた頬を私の肩口に押し付ける。強く、強く。
「いつもね、機会を狙っているの。」
「機会?」
「そう、私がこうなってしまった時にその洪水の話を思い出したの。この川はまた溢れるのか。」
「そして肥沃な泥で街が浸食される事を?」
「違うわ、私をこの街から流してしまう事故が起きることをよ。」
私は、彼女の肩を抱く。彼女を抱きしめる事は出来ない。けれど、彼女からの行動を私は許した。なぜなら私たちが今の関係以上に行くことは無いから。彼女はそのうちに腕を私の体に絡め、私の体ごとソファの上に倒した。彼女の顔は私からは見えない。彼女はますます強く私を抱きしめる。
そして、深く、長い息が一つ。
「次の洪水が起きたら、貴方は対岸にいるかしら。ううん、きっといるわ。」
「自殺願望はそんなにないんだけど。」
「こうやって女の子と街で連れだって歩く癖に?」
「つまり自傷行為?」
「何でもいいわ。本当は名称すら意味が無いもの。」
名前があったところで私と彼女があの流れの中に入ることはないだろう。けれど私はここで出来た一つの流れを感じている。橋の上で対岸の者たちが出会ったことで。だからこそ私たちは今こうしてソファの上で眠ろうとしている。現実に起きるだろうことから眼を瞑り、ただ一人で溺れぬよう、静かにお互いの体温の傍で眠りに就くことを願っている。


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