「シアトルはどうなった?」
その時、僕はみかんを口でもごもごやっていたので、やたらと間抜けな声と顔をしてしまった。 そう、みかん。 あの白い筋と房のうすーい皮を、丁寧に丁寧に剥いて、ぷちぷちとした、一粒一粒が互いから離れようとしない、組織体の集合。 それを口にほおっていたので聞き返したときに口の中から飛び出てしまった果汁(と、まあ、申し負けないが僕の唾液)を見るなり相手は幾分か気分を害したようだった。だったら、口に入れた途端に訊くな。 ぐっと眉を寄せて見せる相手に僕も威嚇する。けれど空しくなって止めた。この室内と、相手の日に焼けてシミだらけの体毛に覆われた腕からチューブが繋がっているのを見ると、どうにも。 だから僕は話を続ける。蜜柑を全部飲みこんで。 「イチローなら9年目に見事突入だよ。」 「誰がお前にそんなことを聞くか。」 「運動音痴で野球のルールを知らん日本男児でも、世界で活躍している野球選手の現状ぐらいわかるよ。テレビを付ければご親切なキャスターが教えてくれる。9年目だっけ。記録達成なんでしょ。」 「まったく」 おまえはなにもわかっとらん。この記録がどれだけすごいことか、あの張本の記録を云々。それで続けられた日本と海を越えたUSAの野球の歴史。長嶋と王の黄金時代。彼の声は響く。マイクも無く、講演台も無いのに。聴衆は、彼にコップ一杯の水の代わりに剥いた蜜柑を差し出す。おお、すまん。 「・・・すっぱいぞ。」 「ああ、はずれだねえ。」 それで、そもそもシアトルって。 「もういい。」 そう言って、彼はごほん、と咳をする。僕はまるで浜辺にうちあがったヒトデの死骸のようになってしまった蜜柑の皮を両手いっぱいに持って屑かごに捨てる。椅子から立ちあがって気付いたが、ここの窓からは海が見えた。 「とうさん、ここからアメリカがみえるのかい。」 「そんな訳があるか。」 サイドテーブルには、剥かれた蜜柑の塊がごろりと転がっている。灰色の面の上に置かれて、乾いていく薄い皮のなかで組織液がいまだ循環し、僕に鮮やかな色を認識させる。 「新しいの剥こうか?」 「いらん、おまえ食え。」 正直、さっき食べたコロッケと付け合わせのキャベツの千切りとポテトサラダとごはんとおみおつけ+蜜柑3個で胃には隙間が無かった。でも僕は蜜柑をもそもそ食べた。干からびてしまった薄皮に前歯を突き立てると、じゅっと果汁がはじけた。 「・・・・すっぱい。」 そう言った筈だ、と彼は呆れたような顔を僕に見せる。そういうときに見せる眉のライン、それ独特だよ。前はもっと黒くて濃かった。今は白いものが混じって薄くなった気がする。相変わらずぼさぼさだけどさ。 「今度さ、アメリカにでも行くかい。」 「そんな金があるんなら、ヒデと嫁さんに何かうまいもん食わせろい。」 「ミチとヒデも連れてくよ。イチローをさ、観に行こうぜ。10年目だ。」 彼は息をついた。呼吸ではない。 彼はベッドの上で座りなおし、胸の上を撫でた。 それにつられて透明な液体を運ぶ管がぶらんぶらんと揺れた。 「そんなんいいんだよ。」 「そう?」 「そういうのはなぁ、家でソファーに寝転がってビール飲みながらみるもんなんだよ。」 「でも、息子はどうして野球音痴のままかねぇ。」 「だから嫁さんが阪神ファンなんだろうが。」 え、それ何の公式?とうさん、巨人ファンじゃん。ああ、因縁の話か。僕は勝手に納得する。 僕は酸っぱい蜜柑を食べる。ごひいきの球団が負けるたびに飲んだくれるおっさんの横で、ビールのつまみの枝豆をもくもく食べる小さな男の子。夜が遅いから早く寝なさい、あなたお酒が過ぎますよ。そう言っておっさんの奥さんが怒っている。そんな一場面が勝手に浮かんで消えた。 僕は売店で買ってきた最期の蜜柑を手に取った。野球ボールと同じ大きさだ。窓から投げたらシアトルに届くだろうか。でも僕はそうしない。マリナーズのイチローならまだしも。生憎と、僕は運動音痴で野球の事も詳しく無くて、それに、そう、なにもわかってない。情けない僕は蜜柑を手に持って家に持ち帰ることしか出来ない。
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