クソッ、ダフった。 つい汚い言葉が出る。 ほんのわずかのダフリだろうが、この場面では致命的だ。 飛び出したボールは、予定より手前の上空で失速ぎみとなり、花道横のバンカーに吸い込まれた。 振ったのは4番アイアン。本当は210ヤード先のグリーンセンターをとらえるはずだったのに…。 「よりによって、ここで噛むなんて」。カズキは舌打ちをし、フェアウエーの芝を削り取ってしまった箇所に、クラブヘッドをたたきつけた。
札幌・豊平川の河川敷に広がるゴルフコース「すすきのリンクス」。クラブチャンピオン選手権の最終日、最終ホールだった。 こみあげてきた怒りが収まりそうもない。自分の頭蓋骨を鈍器でしたたか殴りつけたくなった。 息まで荒くなっている。やばいよ。このままじゃ、たくさんのことが、元の木阿弥になってしまい…。
カズキは32歳。 5年前までプロ野球の選手だった。 生まれは東京である。小学生で野球を始め、強豪の高校へ進んだ。甲子園大会には出場できなかったが、強打と強肩がプロ球団の目に留まり、札幌に本拠地を持つチームにドラフト中位で入った。 在籍したのは8年間。準レギュラーの外野手として、ときにはヒーローインタビューのお立ち台で、満面の微笑みを披露したこともあった。
しかし入団7年目の夏、事態が一変した。 突然のように、眠れない夜が始まった。背筋のあたりに絶えず脂汗の流れる気配が広がり始めた。 自分の心になにかの病変が領地を広げいていることが分かった。 自分だけが、選手としても人間としても、ひどく劣っており、周囲のみんなが一斉に蔑んで来ているような気がした。場面を選ばず出所不明の涙が流れ出し、そばにいた人が驚いて心配して顔をのぞきこんでくる場面も目立って増えた。 ある日、呼吸までが苦しくなった。
精神科のクリニックの受付までなんとか重い足を運んだ。 「鬱(うつ)病です。まず3カ月間の入院を」 医師の言葉遣いはひどく平板で事務的だったが、その分、多数の症例経験に裏打ちされた確信がにじんでいた。そうか、オレは鬱病か。病名がついたことで、自分の新しい居場所の一部をつかんだ気がして心が安らいだ。 入院加療は指示された3カ月ちょうどで済んだ。カズキの心身は憑きモノが落ちたように楽になった。 相当量になる専門薬の服用と、月に一度の通院以外は、以前とさほど変化のない野球生活が送れそうに思えた。 退院の翌日、球団のオーナーに呼ばれた。「あなたのバッティングはウチに必要です。一日も早くグラウンドに戻ってきてください」。オーナーの言葉はていねいで、表情はひどく穏やかに見えた。「はい、ありがとうございます」。うれしかった。その日から練習を再開した。本調子に戻るにはさほど日数がかからないはずだった。
しかし、事はそう簡単には運ばなかった。 カズキがコーチを殴りつけて怪我を追わせたのは、ペナントレースの開幕まで残り1カ月に迫った日の練習中だった。 中継プレーで小さなミスをしたカズキをコーチが見咎め「真面目にやってくれよ、真面目に」と声を掛けてきた。目が合った。とたんに体が熱くなった。カズキの視線のなかで突然、練習場がグラリと揺れた。 <なに真面目にやれだと? 病院に通いながら、歯を食いしばって一番真面目にやってきたのは、いったいだれだと思っているんだよ>。そんな言葉が塊となって胸中に生まれ、怒鳴り声に変わって、頭のなかで勝手に響き渡った。 気がつくと、カズキは仲間の選手たちに左右から体を抱えられていた。足下には当のコーチが、大量の鼻血を出して倒れ、呆然とした表情でこっちを見上げていた。 「ともかく落ち着け」。後ろから羽交い締めにしている誰かが耳元で警告した。 この光景は、逆上した自分が理不尽に殴りかかった血の結果である。それが分かると体が震えだした。
その日の夕方。カズキが立っていたのは、東京の下町にある空手道場の玄関先だった。札幌からここまで、ときおり泥酔者のように意識が朦朧となっていたかもしれないが、なんとか玄関先にたどり着いた。この町はカズキの故郷、空手道場は小学校の低学年までけいこに通っていた場所である。 目の前の柱に「空手 仲井塾」と書かれた小さな看板がぶらさり、玄関灯に照らされていた。ベルを押し、できる限りの声量で名乗った。あたりは静かだ。 「おう、カズかー」という大きな返事があり、やがて玄関の戸が開いて道場主の仲井先生が顔を見せた。 「先生…ごぶさたしていました」 10年ぶりだった。視線が合った。仲井先生の口元がわずかにゆがんだ。カズキの目の奥にあるただならぬ光を一瞬のうちにつかみ取ってくれたような気がした。 一転して先生の相好が崩れた。「…どうだ、もうこの時間だから、腹減ってるだろう。いま食おうと思っていたところで…一緒に食おう」 仲井夫妻と夕食を供にした。東京の下町の変貌ぶりがもっぱら話題になった。 「ところでカズ、ひと汗かくか?」 食後のお茶を飲みながら、先生が誘った。 自宅と棟続きとなった道場は、カズキが毎日のように通っていた少年時代と変わるところがなかった。 体が温まると、徐々に空手の勘が戻ってきた。<型>が次第に決まり出し、自由に技を出し合う<組み手>も勢いが増して行った。 仲井先生はもう70歳を超えているはずだが、底知れぬ強さは昔のままだった。 胴着が汗まみれになったところで、先生が「今日はここまで」と声を出してくれた。「ありがとうございました」 二人で道場の中央に並んで正座し、息を整えた。時がゆっくりと流れる。路地を行く人たちの歓声が聞こえてきた。 「カズどうした?」 「ハイ」 「どうしたんだ?」 カズキは、経緯を話した。 先生は目をつむって聞いた。 話に一応の結末が来た。少しの間をかみしめながら先生が口を開いた。 「カズ、つらかったろう。ご苦労さん」 目は閉じたままだ。 カズキの目にみるみる涙がたまった。 「せんせー」と低いうなり声を発しながら、横から仲井先生の肩に抱きついて行った カズキの身長は185センチ、先生は160センチもない。肩幅は半分ぐらいだろうか。 先生の瞑目の顔には微笑みがある。
カズキは札幌に帰り退団届けを出した。野球アスリートの「戒律」の厳しさは自分が最も知っていた。なによりも鬱病の治療が先決だと、自然に思えた。コーチに乱暴したのは、油断から薬の服用を怠っていたことが原因のひとつなことも分かった。コーチの自宅に出向き、土下座同様に頭を下げた。 「謝る方法を考えましたが思いつかずに…」 「オレの言葉も無神経だったよ。気にするな」とコーチはカズキの手を取り両手で強く握ってくれた。 札幌に住み続けることにした。気候や食べ物が肌に合い療養の適地のような気がしたからだ。信頼できる精神科医も見つかった。 仲井先生の空手のお弟子さんに、札幌でガソリンスタンドを経営する人がいて、そこで働くことになった。
ガソリンスタンドでのカズキはどんな仕事も厭わなかった。早朝や深夜のダイヤにも喜んで入った。なにくれとなく声をかけてくれる得意客も増え始めた。 1年ほどたってからのことだ。社長からゴルフを勧められた。始める準備の足しにしてくれとゴルフショップの商品券10万円分を渡され、「悪いようにはならないから」と肩をたたかれた。 事の流れを掴み切れなかったが、自分を思ってくれている誠意は伝わってきた。道具を買い、社長に示された練習場に行き、紹介されたインストラクターについた。時間を見つけ、ほぼ毎日のように練習場に通いひたすら打ち込んだ。 3カ月後、社長同伴での初ラウンドとなった。コースはすすきのリンクスだった。 いきなり90点台初めのスコアが出た。ゴルフの面白さに目を見張った。 さらに半年後、シングルハンディを得た。金を工面し、すすきのリンクスのメンバーに加わった。やがて、好調ならパープレーレベルで回るようになり、31歳でクラブチャンピオンに輝いた。プロ野球の職を辞してから4年目のことである。
さて、鬱病の方はというと、信頼できる精神科医とのめぐり会いは、さまざまな事柄を前向きに転がしてくれた。医師の指示通り薬の服用を続けた。自分でも驚くぐらい律儀だった。月1回の通院・診療は、楽しみになったとまで言うとおおげさだが、悪いものではなかった。医師が微笑みながら繰り返す「鬱病とは一生付き合うつもりで」という言葉がなぜだろうか有り難く感じられた。 もちろん、悪い波が来て、しばらくの間心身に震えのようなもの続くことはあったが、波浪はやがて必ず収まって行くことも、体得できた気がした。うけながせ。やりすごせ。やって来たものは必ず去って行く。恐れることはない。おそらく。
裕子と出逢ったのは、その病院の待合室だった。髪が長く、笑顔を絶やさない。自分と同じぐらいの年齢だろうか。以前なにかのテレビ番組に出ていた女優さんに似ているが、名前を思い出せないでいた。 ふとしたことで会話を交わすようになった。ある日、診療の後、病院の近くのコーヒー店へ行った。 「あなたなんかまだ序の口よ。それに比べれば私の鬱は横綱クラスなんだから」 彼女はそう言いながらカズキの目の中を見つめるようにし、朗らかに声を出して笑った。 カズキが慎重に言葉を選びながら自分の病歴を告白したことに対する彼女の反応だった。 彼女はカズキより3つ年上だった。高校1年生の時に鬱病と診断され、高校を中退。数えると病歴は20年近くに及んでいた。軽い口調で触れたことだが、これまで自殺未遂を3回重ねたという。 「本当ならとっくに死んでてもいい。でもいまこうして生きてる。私の鬱は風雪に耐えた本物、いわば筋金入りよ」。また笑った。 両親は札幌市内にいるが、彼女はアパートを借りての一人暮らしで、働けるときはデパートのブティックに勤務し、状態が悪い期間は生活保護を受けているという。 「ともかく薬をきちんと飲むこと。そうすればなんとか転がってゆく。ともかく季節はめぐる」 「はい」 「今の先生と相性がいいんでしょ。鬱になって1年以内で、いい医者に出会えるなんて、それ以上にラッキーなことはないんだから」 なるほどなあとアドバイスにうなずいた。テーブルの上に置かれていたカズキの手の甲に、裕子の掌が上から重なった。なにが起きているのだろうか。裕子の指は細くて長かった。 そう日が経たないうちに、2人はアパートを新しく借り、一緒に暮らし始めた。 すすきのリンンクスのクラブチャンピョン選手権は様子がほかと少しばかり異なっている。 札幌の中心部を流れる豊平川は、市街地を東西に大別している。すすきのリンクスのメンバーのうち、東地区に住む人を「東の人」、西のメンバーを「西の人」と呼ぶ。分ける理由は判然としないのだが、戦後すぐすすきのリンクスが誕生して以来の習わしだという。 定着した区分けは、グループ感覚を生み、やがてグループ同士の対抗意識につながってゆくことが多い。ここも例外ではなかった。 すすきのリンクスのクラブチャンピョン選手権は4年に1度だけ、<東西対抗>の形をとっている。まず東西それぞれがトーナメント方式で地区チャンピョンを選び出し、最後に東西のトップ同士がぶつかって、その年のクラチャンを最終決定する、という方式で進む。 この決勝が団体戦の様相を呈するのは当然だ。大部分のメンバーは最初のうちは横目で成り行きを楽しんでいるだけのだが、途中から違う風も流れ始める。なかには対抗意識をむき出しにし、何かの現象をことさら取り上げて「あの連中は…」などと目をつり上げる御仁も出始める。 さらに今回はなぜだろうか、熱の帯びかたがひととおりではないように感じられた。 カズキは東地区で勝ち残って東地区の代表になり、決戦に出た。 彼自身には当初、是が非でも栄冠をつかもうという気は薄かったのだが、やがて周囲の空気に染まり、それまで潜んでいた勝負師の底意地というものも露出してきた。 西地区からの選手は55歳のベテランだった。その相手の心理作戦もカズキの気に障った。対戦の日の早朝、クラブハウスのロビーで、「今日はよろしく」と腰を折ってあいさつしたカズキに対し、このベテラン氏は何も答えず、ただ睨み返すようにしてきた。これには驚いた。いざゲームが始まってもことさらこっちを無視するかのような振る舞いで、ただときおりトゲのある空咳を繰り返し、また「やってられんなあ」「おいおいおい」といった雑な言葉をはき捨てた。イージーパットには<OK>を出すのが礼儀のひとつだと思うが、そんな場合でもベテラン氏は、無愛想に口をつぐんだままだった。 <半分は戦術、もう半分はからかいだろう。乗るな>というような冷静な思いも一瞬は頭をかすめる。しかしそれはすぐに消え、ラウンドが進むほどにカズキの神経はカリカリと尖ってしまった。 決勝は、通例のように、36ホールのマッチプレーである。 徐々に白熱の度を増した。飛距離にモノを言わせるカズキはバーディーも取るが、さすがにボギーも交じる。ベテラン氏は百戦錬磨の技を発揮し、ときには寄せワンで、スコアをまとめた。前半の18ホールまではスクエア。後半も一進一退で、35ホールを終え、残り1ホールとなったところで、カズキの1ダウンとなっていた。 最終ホールは490ヤードのロング。ここがもし引き分けならカズキの敗北となるドーミーホールだ。ベテラン氏は手堅くパー狙いだろう。したがって相手のミスは期待できない。 カズキはバーディーを取る必要があった。まずドライバーで280ヤード地点を確保した。ベテラン氏は、第2打をグリーンセンターまで80ヤードの場所に置き、さらに第3打をカップの下5メートルにつけ、パー以上をほぼ確定。笑顔で小さなガッツポーズを見せつけた。 そうして、カズキの4番アイアンによる第2打は、わずかばかりだが地面を噛み、グリーン前のバンカーに吸い込まれたのだ。
バンカーに落ちたカズキのボールは、近寄って見ると、アゴの下の斜面で深い目玉になっていた。 「これじゃ出ないよ…ひでえなあ」。チッとまた舌打ちをしてしまった。 すでにグリーン上のベテラン氏は、薄ら笑いを浮かべているように見える。このままじゃ、とうていカズキの興奮はおさまりそうにない。冷静さを欠いたままのバンカーショットで、目玉ボールがうまくバンカーから出たためしがあるだろうか。 しかしそのときだ。ふと、裕子の顔をグリーンの奥に見つけた。これまで夢中で気がつかなかったが、応援に来てくれていたのだ。いつもどおり朗らかに微笑んでいる。視線が合うと、大きく手を振り、その指を自分の着ているトレーナーの胸に向けた。 そこには大きな絵が書いてあった。坊主頭でギョロ目の中年男が、怒りまくっている絵だ。怒り方は尋常でなはい。目尻がつりあがり、頭から湯気が立っていそうだ。 カズキは分かった。これは「怒り達磨」である。達磨大師は禅宗の始祖。東京の空手道場の仲井先生が長年、達磨思想の研究を続けており、カズキを通じて知己を得た裕子近ごろ、仲井先生の教えを受けていることを知っていた。 「達磨の教えは<あるがまま>。喜ぶときには徹底して喜ぶ。怒るときは心底怒る。人の心は止まられるものでなない。そう仲井先生が強調していたけど、私もよく分かる」。そうも言っていた。 「怒り達磨」はそいいう仏教思想を絵にしたもので、彼女が何らかの手段で、トレーナーに染め込んだらしい。 頭から湯気を出して激怒するその高僧の顔を見て、カズキは、どういうわけだろうか、スッと体の芯が軽くなった。興奮が去り、怒りがおさまった。<怒りたかったら怒ればいいさ>。そんな言葉も浮かんだ。見上げると、青い空に秋の薄い雲が漂っている。 どうして俺はここにいるだろう。 風が心地よい。 いいいなあ。 もう何も考えなかった。サンドウェジの刃を、目玉ボールの手前部分に、思い切って振りおろした。多量の砂が破裂し、ボールはゆっくりと低く出て、グリーンに乗り、そこから気持ちよく転がって行った。 止まったのはカップ横50センチ。 よし、延長戦だ。
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