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作品名:すすきのリンクス 作者:マサ

第3回   3
朝方から降り続く小雨はやみそうもなかった。

――俺の最後の日ぐらい晴れてもよかったのになあ……。 

 セイさんは、少しうらめしそうに窓の外を眺めた。すすきのリンクスのコースが雨に煙っていた。
 今日はセイさんの退職の日なのだ。従業員控え室の壁の時計は午後5時20分を示している。あと10分たって、クラブハウスの玄関を出れば、セイさんのすすきのリンクスでの仕事人生は終わることになる。 

 セイさんが、札幌の歓楽街にほど近いこのゴルフ場に来たのは、30年前、30歳のときだった。
 最初は厨房の下働きということで雇われたが、実際の仕事は厨房内だけでは済まなかった。体を使う仕事全部に声が掛かった。クラブハウスや風呂の掃除、さまざまな洗濯、壁や床の修繕、電気機器の修理…人が足りないときはコースの整備まで手伝った。
早朝、コース内に犬の死骸が置き去りにされていたようなとき、真っ先にセイさんの携帯電話がなった。

 幸い体が丈夫で、手先が器用だった。根気もあった。「セイさんには頼みがいがある」とだれからも重宝がられた。

 あるとき、すすきのリンクスに客としてやってくるクラブ職人に頼み込んで、クラブ直しの基本を教えてもらった。

 クラブハウスの隅に小さな修理の店を開いた。どんなクラブも大切に扱った。手間賃が安価だったため、客が切れることがなかった。

 「こっちの商売があがったりだよ。まあセイさんじゃしょうがないけど…」。そのクラブ職人が苦笑いした。

 10年ほど前、弟子が一人入ってきた。
株式会社・すすきのリンクスの社長の親戚筋とかで、高校を出たばかりの男だった。
心に病を持っているという。裏の事情までを知っているというコース従業員の一人が、舌をかみそうな外国語の病名を言い、病気の特性を説明したあと、「たまんないよね、そんなものを現場に押しつけられたんじゃ」と首をすくめるようにした。
大きくゆっくり息をはいたセイさんは「やってみなきゃわかりませんね」と微笑んであごをなでた。

 やってきた若者は 体が大きく、骨格もしっかりしていた。
名前の漢字一文字から、トシと呼ぶことにした。
トシは毎日薬を飲み続けているせいか、口調が重く、目の動きがドローンとしたふうで鈍い気がした。でも、奥の方に隠れ気味の素顔は明るかった。生きる意欲も旺盛だった。心根も優しかった。セイさんにはそれがよく分かった。

 セイさんは、仕事の基本動作を繰り返し教え込んだ。まず自分でやってみて、次にやらせてみた。「床をふくモップは、腰を入れてこう持つんだ。腰を入れる。この基本が身に付けば、いろんな場面に応用が利くから」

 もうひとつ、忘れちゃならんと目をのぞき込むようにして伝えたのは<感謝>の気持ちだった。
 感謝! 
 プレーのお客さん、職場の先輩・同僚、コースに物を運んでくる業者の担当者、コースの近くを通りすがるだけの人、間違い電話の主…全部心の底から頭を下げなきゃだめだ。やってくる仕事も選り好みなんかしちゃ、始まらない。
 「玄関先に犬の死骸があるからどうにかしてくれ。そう言われたら、普通は嫌になる。なんで俺の仕事なんだって。でもそれじゃだめだ。仕事があるだけでありがたい。まずそう思わなきゃ。
もう一歩進めて、哀れに骸(むくろ)をさらしている当の犬のことも考えてやりたい。なにも犬だって、好き好んでここで死にたかったわけじゃないんだろうし…犬の身になれば違った物も見えてくる」
 トシは順調に育った。大きな体をコマネズミにように低くしてクルクルと動き回った。もともと手先が器用だった。笑顔を絶えず忘れないようにしている気構えが伝わってきた。

 ある朝、コースのそばを通る自動車道路ではね飛ばされたのだろう、キツネの死骸がコースに横たわっていた。現場に着いたトシは、まずキツネに向かって頭を下げていねいに合掌した。持参したシートにキツネをくるみ、抱きかかえてコースわきの木陰まで運んだ。携帯電話を取り出し連絡を入れた。(かけている先は、おそらく動物の死骸処理を担当する市の清掃局だろう)。そうして再び、キツネに向かって合掌した。
――こいつ、いい仕事をするようになったなあ……
物陰から見ていたセイさんは、うれしくなってうなずいた。

 トシがすすきのリンクスに来てからちょうど1年がたった日だった。
 浴室の掃除を終えたセイさんが、最後に自分の体を洗おうとしているところへ、トシが背後から声を掛けてきた。
 「先輩、ごくろうさまです…失礼ですが、背中を流させてもらえませんでしょうか」
振り返るとトシも裸だった。
少し照れくさい気もしたが、せっかくだから「…おう、じゃあ、頼のもうか」とカランの前に座った。
何か思い出話でもするのかと思っていたが、トシは何も言わずにただセイさんの背中をタオルでゴシゴシこすった。その沈黙にこの1年間の万感が込められているようで、セイさんは好ましかった。

 ひとつ気になっていたことを思い出した。トシが、難儀そうな仕事の場合、いつも途中で手を止め、何か口の中でモゴモゴとつぶやくようにしていることだった。秘密の呪文のようにも思えた。この機会に訳を聞いてみた。
 少し間があった。困った顔をしているのかもしれない。トシは答えた。
「お母さん、お母さん、お母さん、そう繰り返しているだけです…」
 「…ああ、そうなのかい」
 「すみません。もう19にもなるのに」
 「…」

 母親のことはトシから聞いていた。トシを産んだ実の母親はトシが小学校の低学年のときに離婚でトシのもとを去った。やがて次の母親が来て、とても気を遣ってくれたが、馴染むのには時間がかかった、という。
 「だめだよなあ、19にもなるのに、母さん、母さんなんてこだわっていて……やっぱり僕は精神の病気だから、半人前なんでしょうか」
 自分にくやしいのか。涙声だった。背中を洗う手が止まり、なま温かい滴(しずく)が、セイさんの首筋に落ちてきた。
 「ばかやろう」。そう言ったセイさんもこみ上げてきた。立ち上がって振り向いた。トシの涙顔は別人にようにグシャグシャになっていた。
その顔を抱くようにして言った。「お前は、病気なんかじゃねえよ…」。病気なんかじゃないとは言ったが、それを継ぐ言葉が見つからなかった。
 トシは号泣を始めた。初めて聞く大声だった。セイさんは、再び優しく「ばかやろう」と言い、背中に手を回して抱いた。二人とも裸だった。
 号泣が、夕暮れのクラブハウスの浴室に響きわたった。

 壁の時計は間もなく午後5時半に届こうとしていた。周囲は人の動きがなく静かだった。
 ――いったいトシはどこへいったのか、とセイさんは思いを巡らした。ひと月ほど前のトシの言葉を思い出した。
 「先輩の退社の日には、盛大な送別会をやりますからネ。忘れないで、付き合ってくださいヨ」
 セイさんはそのとき思った。1次会は行き掛かり上、トシの世話になろう。でも2次会、3次会はこっちが払わなきゃなー。
 壁の時計がさらに進んだ。なのに、何の連絡もない。そういえば最近、話す機会がめっきり少なくなった。トシは20代の後半になり、クラブハウス維持の大黒柱になっていた。クラブ修理の業務も大部分を引き継いだ。不景気から、清掃や洗濯のパートさんの人数が減っているから、その分セイさんの作業量も増えた。 朝の打ち合わせが済むと、あとはほとんど顔を合わせない日もあった。
 
――そうか、トシの方が忘れてしまったのか。送別会なんて堅苦しいものを期待するなんて…土台、俺の性に合わないよ。コースの社長や支配人への挨拶は済んでいるんだし。さあ、静かにいなくなろう……
 腰を上げようとしたとき、ドアが大きく開いた。花束を抱えたトシが立っていた。
「先輩、長い間ご苦労様でした。向こうでみんな、待っています。さあ付いて来てください」。見違えるようにパリっとしたスーツを着ていた。
 
ロビーから玄関先にかけて、50人ほどが並び、出てきたセイさんに向けて一斉に拍手をした。
 花束を持たされ、照れ気味のセイさんが順に握手をして進んだ。社長、支配人、料理長、フロントのベテラン女史。相当以前に辞めたパートのおばさん連の顔もあった。物品を納入する会社の若者も目立つ。市清掃局の担当者が握手をしながら「トシ君に、こういうことだから、ぜひ来てくれないか、と頼まれましてね。逆ですよ。こっちの方こそ、セイさんに仕事を教えてもらいお世話になった。なにを置いてもと、駆けつけてきました。卒業おめでとうございます」と言った。
 
50人は、示し合わせて、音もなく集まり、セイさんをびっくりさせたかったようだ
 列の最後にトシがいた。
「先輩、驚かしてすみません」
「お前、こんなことができるようになったんだなあ」
「サプライズの方が面白いかと……でも、最後まで迷惑をかけたようで」
「ばかやろう」
 
トシは送別会の宴会場になるすすきの店と乾杯の時間を告げた。50人のほとんどが参加するという。2次会、3次会の持ち出しが増えそうだと、セイさんは笑顔で覚悟した。
 トシはセイさんに寄りかかりようにしながら言った。
「先輩がいなかったら、ここまで生きて来れませんでした」。泣いていた。ゆっくりと落ちる静かな涙だった。
「ばかやろう」
 セイさんはトシの肩を抱き寄せた。
 朝から続いていた雨は、気がつくと、あがっていた。


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