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作品名:すすきのリンクス 作者:マサ

第2回   パー72
離婚届けを区役所に出す日だった。
男34歳、妻32歳。
十分に話し合った末の結論だと、男は思っていた。もう後戻りはできない。

区役所に行く前に、2人でゴルフをした。
札幌・豊平川の河川敷に広がる「すすきのリンクス」ゴルフ場。早朝にスタートし、夕方前まで一挙に2ラウンドした。カートを手引きしながらのプレーであり、36ホール目を上がるころには、さすがに2人とも疲労困ぱいの態だった。

クラブハウスの風呂に入ったあと、男は、最近あつらえた紺のブレザーを着た。
ピンクのスーツ、濃い目の化粧の妻が、ロッカールームから出で来たのを見て、息をのんだ。

午後遅いレストランの客は2人だけだった。ピアノ曲が流れていた。「よかったら、カウンターにいらっしゃいませんか」
レストランの奥まった場所にバーラウンジがあり、そこのマスターが、カウンターの中から声をかけてきた。

冷たいビールが、空っぽの腹にしみた。
薦められたカクテルを2杯ずつ飲んだ。
豚肉のしょうが焼きに、ポテトサラダ、ガーリックトーストのランチが美味しかった。どれもマスターの手でていねいに用意されたものだ。

マスターは45歳ぐらいか。必要な言葉以外は口にしないのを作法にしている感じだが、穏やかな笑みは絶やさない。身長は190センチに近い。肩の筋肉が盛り上がっている。大学時代はレスリングの五輪代表候補で、後に外国で武道の武者修行をした。裏社会と関わった時期もあり、そうとうに危ない場面もくぐりぬけてきた。男は、そんなウワサを耳にしたことがあった。よく見ると、首筋に刃物でつけた傷が伸びていた。

「わたしたち、これから区役所に離婚届けを出しにゆくところなんです」
どこまでが酔いのせいなのか。妻が突然言い出した。
男とマスターは、驚いて顔を見合わせた。

「奇妙でしょ、離婚直前の夫婦が一緒にゴルフなんて……でも、このマスターなら私たちの話を分かってくれるかも。なんだかそんな気がして…」
妻は、少し潤んだ目で男のほうを一瞥したあと、新しくつくってもらったカクテルのグラスを揺らしながら、身の上話を始めた。

 2人は、大学時代にゴルフ部員だった。大学は違ったが、大会で知り合い、女が卒業してまもなく結婚した。
子供が生まれたが、ごく幼い頃に病死した。
離婚話が始まったのは2年前だった。男が仕事で長期出張中に、妻が浮気をした。
 妻の方から告白をしてきた。「なにをしでかしたのか、詳細は記憶があいまいだ。ずっと以前から頭がボーとして、考える力が衰えていた。でも今回のことは紛れもない事実である」との趣旨を言い、離婚を切り出してきた。
男は手を引くようにして精神科のクリニックに連れて行った。医師の説明を聞いた後、妻に頭を下げ、クリニックに通って薬を飲み続けるように頼み込んだ。
妻は実家に帰った。電話で長時間話し合った。自分には君が必要で、君だってそうだと思う。必ず時間が解決するはずだ。そう繰り返し話した。しかし、妻は頑なだった。
なにか途方もない力が到来している気がした。

やがて、男も心に変調を覚えた。夜の眠りが浅く、頭痛の朝が続いた。走り去る電車にふと誘引されそうになり、困惑が深まった。
 職場に見知らぬ男性が現れ、精神科医の名詞を出した。「後悔の念が奥さんを苦しめている。彼女の意志に沿い、離婚また彼女を救う道。ご理解を」。確信に満ちた事務的な顔で言った。

数日後、妻の父親から電話が来た。「たのむ。娘を救うと思って離婚してやってくれ」
涙声だった。


      
カウンターの向こうのマスターが言った。「奥さん、カクテルをもう一杯いかがですか」
ひと通り身の上話を披露した後の妻がうなずいた。
一層ていねいに作ったカクテルを手渡ししながらマスターは言った。
「そんな法外な話はありませんよ。好きなもの同士が分かれるなんて」
 きっぱりとした口調に男は意外な感じを持った。マスターの顔は厳しさが混じるものに変わっていた。
 妻の顔を見て驚いた。日がさしていた。目の周辺にあるのは明確な光の束だった。どれぐらいぶりのお日様だろう。
病が回復しつつあるのか。

 マスターは言葉を続けた。さっきお二人の年齢をお聞きしました。それでいまふと思いついただけですけど、ここに72という数字があります。18ホール、パー72の72です。
切りのよい数字であり、ゴルファーにとっては、一度はパープレーで回りたいという目標でもあります。
 さて、あと3年たてば、お二人の年齢は合わせて72歳になります。
 待てば海路の日和あり。どうですそれまで待ってみては。余計なことかもしれませんが…。

 勢いのある言葉だったが、押しつけがましさはなかった。
大きな手を男に向かって差し出した。「ここに離婚届けを載せてみてください。さあ」
 男は離婚届けを鞄から出して、マスターの掌に載せた。 マスターは、いきなりライターをつかみ上げ、離婚届けに火をつけた。紙は燃え上がった。


何が起きようとしているのか。男と妻は、顔を見合わせた。 


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