俺の深い意識の底。鮮やかな緑に包まれた庭園で二人の男女が語り合っていた。 その言葉は俺の村の人たちの言葉とは全く違うものだった。しかし、 ――懐かしい。 それは俺がいつかどこかで聞いた言葉だった。その証拠に俺には彼らの言葉の意味をはっきりと理解することができる。男はおそらく30歳くらいで黒い髪、体格は華奢で白い肌に真っ青な法衣を纏っていて、その法衣以上に深い青色を讃えた目が印象的だ。 対して女は容姿こそ20歳くらいと若く見えるが、白い髪と浅黒い肌、赤い瞳は女を異質な存在と映すのに十分すぎるくらいで、とても美しいとは言い難かった。女が纏う衣はそんな彼女に不釣合いなくらいに美しい真紅の衣でところどころに金糸で刺繍が施されている。男は女に詰め寄り何か声高に訴えているようだった。
女は男に背を向けながらその言葉を聴いていた。その背中には頑ななその意思が垣間見える。 「巫女よ。君が世界に言葉を紡がなくなって、もう2年が経った。その間世界は道を失い、深い悲しみに包まれている。どうか君がその役目を忘れていないならば世界にもう一度その言葉を紡いではくれないか?」 男は背を向ける女に希(こいねが)う。彼女は背を向けたままその問いに答える。 「私はもう疲れたのです。私の心はもうすでに心無き者たちの手によって、嫌というほどに打ちのめされました。そんな私にまだ言葉を紡げと、あなたは言うのですか」 「君が何に心を痛めているのか僕は分からない。でも君のその巫女としての使命は、 君の一時の感情で放棄していいほど軽いものではないはずだ」 女は男のこの言葉に風と深いため息をつき、男のほうを振り返った。 彼女は男に訴えかけるわけでもなく、ただその心の内を淡々と口にする。 「私は世界中の人々の心に世界が美しく響くように、世界中の人々が愛する者と心を交 わすことができるように、たくさんの言葉を世界に作りました。 けれども、私の生み出した言葉で或る者は誰かを操り、或る者は誰かを欺き、或る者 は誰かを虐げ、或る者は誰かを傷つけて死に追いやります。 私は彼らにそんなことを伝えさせるために言葉を生んだのではなかったのに。 私の言葉は大きな希望と愛をこの世界に紡ぐはずのものであったのに…。 私の言葉の多くはもうすでに多くの人々の尽きることの無い憎しみと 悲しみ、溢れる血と涙で黒く淀んでしまいました。 もうすでに人々は私の言葉に恐怖以外の何も感じていないでしょう」 女の目には輝きが無かった。その絶望をそのまま移したかのような陰りが満たされていた。 「…仕方がないじゃないか。皆が君の言葉をいい方向へ使うわけじゃない。確かに君の言葉のために不幸になった者もいるが、それ以上に救われた人がいるんだよ」 「それならば私はもうこの世界に言葉を生み出すことができないわ。誰かを傷つけるために吐き捨てられる言葉に、誰かを虐げるために歪められる言葉に私は耐えることができないから」 「それはいけないよ。今の救われねばならない者が苦しみ続ける世界で君の言葉を失うわけにはいかない。 君のさらに望まぬ方向へと世界を導いてしまう。君は言葉を生み続けなきゃいけない 。もっと多くの人を救い、もっと大きな災厄を世界から消し去るために」 「だけどそのことで私の言葉はさらに多くの人を傷つけ、多くの人を不幸にするようになるわ。あなた達の言う神の言葉なんて真っ赤な嘘よ。これは呪われた言葉よ!」 彼女の訴えはもはや叫びに近かった。その彼女の苦しみに応えるかのように男はその耽美な顔を歪める。彼はしばらく天を仰いだ後、ゆっくりと彼女へとその目を落とし、一言一言を噛み締めるかのように語りだす。 「もし君の言うとおりその言葉が呪われたものであったとしても、その言葉の力を求める人がたくさんいるんだ。君はその人達の期待に応えなきゃいけないんだよ」 これを聞いて女は首を左右に振り、 「あなたはいつもそう。私のことを気遣っているふりをして、結局最後には自分のことしか考えてない。どうせ私に言葉を紡がせるのも自分が神官長様の期待に応えられな いことが怖いからなんでしょう?」 「そんなことは無い! 僕はいつでも君にとって一番いいと思う道を必死に考えてる。 君は少し恐怖にその心を蝕まれているんだ。自分の生み出す言葉の力に少し臆病になっているだけだ。今は災いを呼ぶことがあっても、君の生む言葉は必ずや私達を幸福 に導く。君はその使命を果たすことでその苦しみからも解放されるはずだ」 「……。」 「僕は羨ましいんだよ。その言葉で奇跡を起こすことができる君が。その奇跡が示すとおり、君の言葉は神話にある無から有を生み出す神の言葉そのものじゃないか。呪われた言葉のはずがない」 女は押し黙りしばらく何かを考えていたが、やがて諦めたかのように瞼を伏せ、男に語る。 「わかったわ。それじゃあもう一度だけ私はこの世界に言葉を生みましょう。そしてその言葉はあなたが受け取って。私は最後に言葉から作られた命を、生きた言葉をこの世界に残しましょう」 「…言霊か。君の言葉はもうすでにその域にまで達していたのか」 男の目が喜びに輝く。 「ええ。ただこれは私やあなたの望む希望にはならなかったわ。だからあなたはこの子を知っても、決して解き放ってはいけないわ。ただ感じて。私達の求めた先にあったのはただの恐怖と絶望だけだったってことを」
彼女は最後に自分の皮肉な運命に対してであろう自嘲的な微笑をその顔に浮かべる。 「ねえ、私がこの子にあげた素晴らしい名前を聞いてくれる? いつかこの子の名前は誰にも 忘れることのできないものになるわ。この子の名前はね……」
俺はこの先を聞いてはいけない、ととっさに思った。何か絡みつくような恐怖がぞくりと背中に迫るのを感じたのだ。 幸いにも瞬間、俺は強い力で揺り起こされ、この先を聞くことができぬまま俺は現実へと引き戻されたのだった。
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