勇樹は、勉強以外は充実した高校生活を送っていた。ライブも何回かこなし、奈々枝との関係も順調だった。たった一つ汚点があるとすれば、正人に二学期の中間試験で惜敗したことだろう。中学時代から、正人に遅れをとったことはなかったが、初めて、正人の軍門に下った勇樹は軽いショックを受けた。 「お前なあ、こんな低空飛行のところで競いあったって、しょうがないだろう」正人はそんな風に言っていたが、その顔は言葉とは裏腹に勝利の喜びがにじみ出ていた。 確かに、俺は勉強しなかったから、まあ、しょうがない。正人は案外コツコツやるタイプだし。でも、このままだと、逆転出来なくなるかも知れないぞ。勇樹はちょっと不安を覚えた。 正人は、相手が格下と見ると、情け容赦なく痛めつける習性がある。それだけは俺のプライドが許さない。でも、どうやって勉強すればいいんだろう。 勇樹は、これまで勉強をするという習慣がなかった。小学校の時は遊んでばかりいたし。中学の時は野球漬けだったし。まあ、それで、そこそこの学校に入ったのだから、才能はあるはずだ。それが唯一の勇樹のよりどころだった。 勇樹は、特に数学が苦手だった。あの、ルートだか、シグマだか分からないが、古代エジプトの象形文字のような記号を見るだけで、古いコンピュターのように固まってしまうのだった。 勇樹は、問題集を解いていたが、いらいらして鉛筆をほうり投げた。やめた!なんで土曜日にこんなことをしなくちゃいけないんだ。 勇樹は、最初、ここからここまでは毎日やると計画を立てていた。そして、今日は土曜日だったので、バンドの練習があることもあり、午前中に終わらせてしまおうと机に向かったのだ。 「はははは、お前は案外バカだな」正人にそう言われていることを想像した勇樹は、放り投げた鉛筆を探し出し、また、問題集とにらめっこした。 いくら、頭を抱えても、問題を逆さまに見ても解答が出るわけはない。これじゃ、明日まで立っても一ページも解けないじゃないか。明日は奈々さんと映画を見る約束してるのに。ん?奈々さんか。そうだ、奈々さんだ。 勇樹は携帯を取ると奈々枝にメールを入れた。 「数学の問題が全く分かりませーん。教えて下さーい」。すると、しばらくして、「いいよ。これから家に来ない?」と返事が来た。 家に来ない?いや行ってもいいけど、いや、是非、行きたいけど。勇樹は奈々枝に電話した。 「今、私も勉強してたところ。良かったら、一緒に勉強しようよ」 「いいの。家に行って」 「うん、お母さんが、お昼ご飯、よかったら一緒に食べようって、言ってるし」 「あっ・・・うん、じゃあ、これから行きます」勇樹は母親と会うのは気が引けたが、勉強道具とギターを持って、奈々枝の家に向かった。 「勇樹君ね、どうぞ上がって」奈々枝の母親が出てきて、勇樹を家に入れた。「ちょっと待っててね」母親は、そう言うと二階に上がって行った。 しばらくして奈々枝が二階から降りてきた。「ごめんね待たせて。じゃあ上に行こ」勇樹は奈々枝の後をついていった。 奈々枝の部屋は、女の子の部屋の割には、ポスターや小物が少なく、シンプルな感じがした。しかし、その部屋は、奈々枝の香りがプーンとして、勇樹は何度でも深呼吸をしたい気分にかられた。 小さい机を床に置いて、問題集を広げ、勇樹は奈々枝に数学の問題を教えてもらっていた。さすがに学年が上なだけあって、奈々枝はポイントを押さえて、勇樹に教えてくれた。 数学の、はげちゃびんより、よっぽど教えるのが上手だ。勇樹はそう思いながら、今度は一人で問題集を解き始めた。 おお、すらすら解けるじゃないか。勇樹は、今日の目標のところまでは全部終わった。奈々枝を見ると、奈々枝は物理のテキストを開いていた。勇樹は、それを見て、よし、明日の分も終わらせようと思い、また、問題集を開いた。 勇樹が明日の分を終わらせると、ちょうど、一階から声が聞こえた。「ご飯できたよー」 「どう、勇樹、終わった?」奈々枝が顔を上げた。 「うん、終わったよ」 「じゃあ、行こう」勇樹は奈々枝の後に、階段を下りていった。 居間では、母親が台拭でテーブルを拭いていた。 「そこに座って」奈々枝に椅子を出してもらい、勇樹はテーブルの前に座った。奈々枝は母親を手伝いに台所に向かった。勇樹が、ちょっと落ち着かない風で、あちこち部屋を眺めていると、スパゲッティーを持って、奈々枝がやってきた。その後をサラダを持って母親が居間に入ってきた。 「さあ、どうぞ。おかわりもあるから遠慮しないでね」母親が勇樹を見て言った。 勇樹が緊張しながら食べていると、母親が話しかけた。 「勇樹君ありがとう。いつも、奈々枝がお世話になって」 「いえ、逆にこっちが面倒見てもらってるんですよ」 「でもね、本当に奈々枝は、あなたの話しをしている時は楽しそうにしてるのよ」 「ちょっと、お母さん、そんな話はいいでしょう」 「あら、いいじゃないの。お付き合いしてるんでしょう?だったら、楽しくって当たり前よねえ。最初は、好きな人が出来たんだけど、いくらアプローチしても、全然気付いてくれないって言ってたのにね」 「お母さん、もうその話はやめて頂戴」 「はいはい、でも、勇樹君はまだ若いから、周りくどいことされても、分からないわよね」 「もう」奈々枝はふくれ面をした。母親はペロっと舌を出して勇樹を見た。 勇樹はそのやりとりが可笑しかくて、フォークを右手に持ちながら下を向いて笑った。 「実は、私、勇樹君のこと、見たことあるの」 「どこでですか?」 「音楽村に吉村さんているでしょう。前に私と同じ課にいたことがあった人なんだけど、ライブの時に、勇樹君ってどの人って、ちょっと見に行ったことがあったの。その時に教えてもらったの」 「吉村さん?ああ弘道さんのことですね」勇樹は頷いた。 「勇樹君、終わった後、ちゃんとみんなに挨拶してたわよね。しっかりした子だなって、その時思ったわ」 「いやーそれほどでもないですよ」勇樹は首を振った。 「実はね、うちの人も昔、同じようなことしてたのよ」 「えっ、お父さんが」奈々枝は初めて聞いたようだ・ 「そうよ。もう、勇樹君は若い頃のお父さんそっくり、私が惚れちゃいそうだわ」 さすがに、奈々枝もそれを聞いて笑った。勇樹もスパゲッティーを口から数本出したまま笑ってしまった。 昼食を終え、勇樹と奈々枝はまた部屋に戻った。勇樹がギターを出して弾いていると、母親がタイヤキとお茶を持ってきた。 「これ、食後のデザート、ここに置いておくから」そういって、母親は部屋を出て行った。 「奈々さんのお母さんって、面白い人ですよね」勇樹はタイヤキを食べながら言った。 「もう、余計なこと言うんだから。こっちがハラハラしちゃう」 「でも、俺、奈々さんがアプローチしてくれたの、全然気が付かなかったな」 「そうでしょう。こいつ鈍感なんじゃないかって思ったもん」奈々枝は口に手を当てて、フフフと笑った。
今日は音楽村のクリスマスライブに向けて、新しい曲を練習することになっていた。しかし、曲は決まったが大きな問題があった。曲はチャゲアスのバラードに決まったのだが、チャゲアスは二人で歌っているし、歌うのが勇樹一人だけでは、なんとなくしまらないだろう、という意見がさゆりから出たのだ。そして、さゆりも正人も歌はダメだときている。それが、大きな問題だった。 「奈々枝さんか、文江さん、どっちか歌ってくれればなんとかなるかも」正人が言った。しかし、二人とも大きく首を振った。 「そうだね、そういえば、奈々枝も文江も結構歌上手だったよね。よし、じゃあ、三人で歌うことにしよう」 さゆりの一言で決まった。 勇樹と正人は楽譜を見ながらギターを練習した。奈々枝と文江は、さゆりのキーボードに合わせて、ハモリの練習をした。 時折聞こえる二人の歌声は、最初こそずれたりしていたが、最後にはぴったり息のあったハーモニーを奏でた。 「勇樹、お前が歌うより、さわやかでいいんじゃないか。俺は二人に一票入れるぞ」正人は右手の人差し指を一本立てて、勇樹の顔の前に差し出した。 「バカかお前は、冗談はやめろよ」勇樹は正人の手を払いのけた。 「お前に、バカ呼ばわりされる覚えはないなあ」正人は、上から目線で勇樹を見た。 始まったよ、こいつ。くそ、いくら自分のせいとはいえ、正人にこんな目で見られるのは、悔しくてたまらない。見てろよ、俺には、奈々さんと言う、強い見方がいるんだ。学期末では見返してやるからな。勇樹は、知らん振りしてギターを弾き始めた。 「おや?中間で僕に負けたのが、随分悔しいようだね勇樹君。まあ、君もせいぜい頑張りたまえ」嫌味たっぷりの言い方だった。 絶対こいつには負けない。いや、負けられない。こうなったら、意地でも、この野郎をぎゃふんと言わしてやる。 「正人君。君は中間で勝ったくらいで、天狗になっているんですか。小さい人間ですねぇ」勇樹も嫌味たっぷりに言った。 「負け犬の遠吠え・・・か」小声で正人が言った。 当たりだ、正人。悔しいけど、それは大当たりだ。分かったよ、俺の負けだよ。でも、そんな言い方しなくてもいいだろう。勇樹は正人をにらんだ。正人も勇樹をにらみ返した。 「二人とも、なにやってんのよ」さゆりが声を掛けた。 「いえ、こいつ俺より中間試験の成績悪かったのに、俺のことバカって言うもんですから。ちょっと、人生の辛さを味合わせてやろうと思いまして」 お前、そんなこと、ここで言うことないだろう。えっ、さゆりさん、なんで、そんな驚いた目で俺を見るんですか、それに、文江さんも。奈々さん!奈々さんまで、そんな目で・・・。勇樹は、がくっと首を垂れたまま、しばらく、立ち直ることが出来なかった。
勇樹と奈々枝は映画館を出て歩いていた。「面白かったね」奈々枝が言った。勇樹も頷いた。 空は透き通るように青く、雲はすじになって、高いところで悠々としている。枯葉は、カサカサと乾いた音とともに、足元を舞っていた。手や顔に当たる空気に、冷たさを感じながら二人は歩いた。 ボイスの前を通ったとき、二階の窓からさゆりが顔を出して手を振った。「寄ってかない?」 ボイスのテーブルに座ると、さゆりが水を持ってやってきた。「ご注文は、なにになさいますか?」 「さゆりさん、何やってるんですか?」勇樹が聞いた。 「お手伝いよ、お手伝い。私、日曜日だけ、ここで、お手伝いすることになったの」さゆりは嬉しそうだ。 「お手伝いって、バイトでしょ」勇樹は横目でさゆりを見た。 「さゆり、その格好、とっても似合ってるよ」奈々枝はさゆりを見て言った。さゆりは、紺色のエプロンをしていた。 「そう?そう思う?」さゆりは楽しそうに首を左右に傾けた。 注文をとり終わると、さゆりは厨房へ向かった。 「さゆりさん。天田さんと一緒にいれるんで、嬉しそうですね」 「そうね。あの、パワーにはとてもかなわないって思う」 「でも、さゆりさん、天田さんの前では、すごくおしとやかに振舞ってますけど。無理して疲れないのかな」 「さゆりはねえ、本当はああいう子なの。無理してお酒飲んだり、タバコ吸ったりしてるけど、実際とは違うのよ。言葉遣いはちょっときついけどね」 「なんか、俺達と練習している時より、楽しそうに見える」勇樹はさゆりをじっと目で追っていた。 「でも、さゆりは、みんなで音楽やってるの、楽しいって言ってたよ。でも、私がしっかりしないとダメだって思ってるんだと思う」 「それは、俺と正人がだらしないからかな」勇樹は自分で自分の頭を叩いた。 「きっと、そうだと思う」奈々枝は笑った。 「はー、やっぱりそう思いますよね。分かるような気がします」勇樹はもう一度自分の頭を叩いて、さゆりを見た。厨房で生き生きとして働いている、いや、手伝っているさゆりを見て、やっぱり普通の女の子なんだなと勇樹は思った。 ドアが開いて、制服を着た女子高生の女の子が二人、店に入ってくると、奈々枝の後ろに座った。 「ねえ、勇樹、今度のライブ、私と文江が歌って、うまく行くかな」不安そうに奈々枝が聞いた。 「大丈夫ですよ。昨日だって、上手に出来てたもん。それに、三人で歌えば、ちょっと失敗したって、誰も気付かないと思うし」 「そうだといいけど」 突然、後ろの女子高生が振り向いた。 「奈々枝じゃない」 「あれ、裕子、来てたの」 「うん、今、来たとこ」 勇樹は、頭だけ下げて挨拶した。その女子高生も軽く頭を下げた。 「奈々枝、ちょうど良かった。この前奈々枝に借りた本持ってるんだけど、今、返していい?」 「うん、もう読み終わったの?」 「面白くて、徹夜で読んじゃった。今日も部活の合間に読んでたんだ。じゃあこれ」その女子高生は袋に入った、結構重そうなブルーの袋を奈々枝に渡した。 「ごめんね、取り込み中に」女子高生はそう言うと向き直り、一緒に来た女の子と話しを始めた。 「それ、なんの本なんですか?」勇樹は本の中身が気になった。 「これはね」奈々枝は袋を開けた。 「シドニィ・シェルダン?聞いたことないなあ」袋の中には厚い本が三冊入っていた。本を手にとってみたが勇樹には聞いたことのない作家だ。 「面白いんだよ、読んでみる?」 「今はいいや。それより、勉強しなくちゃ。今度は正人に負けられないから」勇樹は口を固く結び、こぶしを握った。 「勇樹、また家へおいでよ。一緒に勉強しよ」 「行きますよ。奈々さん、教えるの上手だし。俺、昨日、ちょっと教えられただけで自信つきましたもん」 「うちのお母さんも、勇樹のこと気に入ってたよ。あの子はしっかりしてるって。また呼んだらって言ってた」 正人、見てろよ、俺が本気出したら、お前なんか目じゃないってことを証明してやるからな。勇樹は知らず知らずのうちにこぶしをぎゅっと握っていた。 「勇樹、どうしたの?そんなに力入れて」奈々枝が聞いてきた。 「男と男の勝負を思ってたんですよ。今度は絶対負けない。そう心に決めたんです」 「正人君のことね。勇樹、正人君といると子供みたい。いつもは年下に見えないくらい大人っぽく見えるのにね」 「本当ですか」勇樹はちょっと自信を持った。 「本当だよ。私だけじゃなくて、さゆりも文江も言ってるよ」 奈々さんの目はうそは言っていない。自信がついて力がみなぎるのを勇樹は感じていた。
晩秋の日暮れは早い。ボイスを出る頃には、辺りはもう暗くなっていた。むき出しの手の平は、冷たい空気に触れて、どんどん熱が奪われていった。勇樹はズボンのポケットに手を入れた。 しばらく歩いていると、勇樹は奈々枝が重そうに袋を持っていることに気が付いた。そうだ、奈々さん、さっき友達から本を返してもらったんだ。 「持ちますよ」勇樹は手を差し出した。 「あっ、ありがとう」奈々枝は本を勇樹に渡した。その時、勇樹の手が奈々枝の手に触れた。 なんて、冷たい手なんだろう、と勇樹は思った。 「奈々さんの手、冷たいですね」 「今日寒いからね」奈々枝はそう言うと、両手を口の前に持っていき、息を吹きかけた。 俺が温めてやりたいよ。そうだ、手をつなげば温かくなるんじゃないか。でも、断られたらどうしよう。「勇樹、何考えてるの?」なんて言われるかも知れないし。でも、手をつなぐだけで、そんなことは言わないかな。あー、やっぱり手をつなぎたい。勇樹の頭はぐるぐると高速回転し始めた。そして、寒いにもかかわらず、緊張のため、勇樹の手は汗でびっしょりになっていた。 奈々枝は、勇樹が焦点の会わない目で自分を見ているので「勇樹、どうしたの?」と聞いてみた。 「いや、別に・・・その、奈々さん。手、温めてあげますよ」勇樹は、奈々枝と向き合って、汗で湿った左手をズボンで拭くと奈々枝の左手を握った。 「痛い!」奈々枝が叫んだ。 「あっ、ごめんなさい」勇樹は手を離して謝った。緊張したせいか思い切り手を握ってしまったようだ。 「もう、勇樹、力入れすぎ。もっと、やさしく握って」奈々枝は左手を差し出した。 「このくらいですか?」 「うん、そのくらい」 「じゃあ、行きますか・・・あれ、これじゃ歩けないや」勇樹は体を横に向けたり、つないだ手を上に上げたりした。 「こうすれば、歩けるかな」奈々枝は、バックを左手に持ち直し、右手で勇樹の左手を握った。 「本当だ、これで大丈夫だ」勇樹は奈々枝の右側に立って歩き始めた。 「勇樹の手、あったかい」奈々枝が言った。 「大丈夫、奈々さんの手もすぐ温かくなりますよ」勇樹は、もう一度しっかりと、奈々枝の手を握り直した。 いつもの公園を抜けて、二人が分かれる交差点が見えると、勇樹はわざとゆっくり歩いた。奈々枝も、それに会わせて、ゆっくりと歩いた。 交差点についた時「じゃあ、ここで・・・」と、奈々枝が言ったのを聞いて、勇樹がさえぎった。 「今日は、送っていきます」 「寒いから、いいよ」 「手をつないでいたいんですよ。それに、本を持ってたら、また、手が冷たくなるでしょう」 「ありがとう、勇樹」奈々枝は、そっと、しかし、勇樹にも伝わるように、握っている手に力を入れた。
「勇樹、そろそろ本番だよ」奈々枝が、いつものように緊張して、壊れたロボットのようになっている勇樹に声を掛けた。勇樹の頭には、誰が被せたか分からないが、サンタクロースの帽子が載っていた。しかし、勇樹はそれに気付かないでいた。 「大丈夫ですよ。俺は」勇樹は、隣に座っている吉田が飲んでいたジュースを一気に飲み干し、ステージに向かった。吉田は、またかよ、と言うような顔をすると勇樹の頭からサンタクロースの帽子を取った。 一曲目を無難にこなすと、いよいよ、新曲の練習の成果を出すときが来た。勇樹は、さゆりの後ろでマイクを持ち、緊張している奈々枝と文江に向かって目で合図を送った。そして、曲が始まった。 「♪どんなもしもが、君の未来に割り込んでも、かまわないさ。僕はずっと味方さ♪」 決まった!勇樹はそう思った。奈々枝と文江も満足した顔を見せている。正人とさゆりもにこっとして顔を何回も横に振っている。 「すごい、気持ち良かった」文江は、オレンジのメガネが落ちそうな位に大声ではしゃいでいた。 「勇樹ずるーい、いつも、こんな気持ちのいいこと一人でしてたの?」奈々枝も興奮気味だ。 勇樹たち五人が一番後ろの席で騒いでいると、大森がやってきた。「勇樹一人より、三人で歌った方が、断然いいな。なんてったって花があるもんな」 「今度は、アカペラでもしますか」勇樹が言った。 「それは、ないんじゃないか。それじゃ俺とさゆりさんは出る幕がない」正人は不満そうだ。 「いいんじゃない、あたしと正人は後ろで踊ればいいんだよ」さゆりはケラケラと笑った。 「そうか、踊ればいいんだ。俺とさゆりさんは浴衣着て踊ろう、これは盛り上がるぞ」
ライブが終わり、後片付けをしていると、正人がつかつかと勇樹のところへやってきた。そして一枚の紙切れを差し出した。 「勇樹、これ解けるか」 「なんだ、これ?」勇樹は紙切れを受け取った。 「水が、五リットル入るバケツと、三リットル入るバケツがあります。これを使って、もう一つのバケツに四リットルの水を入れるとき、最低何回で入れられるでしょうか」そうその紙切れには書いてあった。 「こんなの、簡単じゃないか、いいか、まず・・・あれ・・・三リットルのバケツに、これじゃだめだ・・・」 「まあ、勇樹君のレベルじゃ、すぐには解けないでしょうから、月曜日までの宿題にしましょう。よく考えて下さい」 まあいい、来週の学期末が終われば、こんなことも言われなくなるさ。正人、悪いな、今度は俺の勝ちだ。お前は知らないだろうけど、いつも、土曜日の練習の前、奈々さんの家で勉強してたんだ。それに、今回は俺もコツコツと頑張ったからな。世話になった、奈々さんのためにも、お前に負ける訳にはいかないし、それに、今度は勝つ自信がある。勇樹は自信ありげに正人を見た。それを見て正人は、不思議な顔をしていた。 「おい、打ち上げ行くぞ」大森が二人に向かって叫んだ。勇樹はその紙切れをポケットにしまうと、ボイスを出た。
「ちょっと早いけど、メリークリスマス!」大森が叫んだ。 「メリークリスマス!」グラスの合わさる音が何回もした。そして、いつものように、宴会が始まった。 今日の席順はくじ引きだったこともあって、勇樹はそれ程親しくない音楽村のメンバーの隣にいた。 話もつきて、勇樹が辺りを見回すと、正人とさゆりがビールを片手に、漫才のような掛け合いをしていた。二人とも目が据わっている。さゆりは天田が来ていないこともあって、だいぶはじけてしまったようだ。脇では、文江がウンウンと頷いて、その話を聞いていた。 「!」 文江さん、それはビールじゃないですか。勇樹は驚いた。あの文江がビールを飲んでいる。まさか奈々さんも、「!」奈々さんそれは。 奈々枝の座っている前にはビールの入っているグラスが置いてあった。脇では吉田がビールを持ち、ビールを飲めと催促している。見ると奈々枝は嫌がっているではないか。 勇樹は、吉田と奈々枝の間にどかっと座った。 「こら、おっさん。若い娘つかまえて、なにしてるんですか」 「おっ、来たな正義の味方。まあ、お前も飲め」吉田は、ビールを差し出した。 「俺は、いいですよ」勇樹は持っていたコップを引っ込めた。 「もう、吉田さんしつこいの。飲め飲めって。よくこんな苦いの飲めると思って」奈々枝は勇樹の後ろから、顔だけ出して吉田に言った。 「そうだそうだ、こんな苦いのを無理して飲ませるのは、えっ、苦い?苦いって、奈々さん飲んだの?」勇樹は後ろを振り返った。 「半分だけね」奈々枝は肩をすくめた。 「そうだぞ、奈々枝ちゃんも飲んだんだ。お前も飲め、ほら」吉田はビール瓶を差し出した。 奈々さんも飲んだのか。じゃあ、ちょっとだけならいいかな。勇樹は少しなら飲んでもいいかなと思った。というより興味があった。 「じゃあ、ちょっとだけ、ちょっと待って下さいよ。俺、奈々さんの飲み残し飲みますから」勇樹は奈々枝のグラスを手に取った。 「よし」そう言うと、勇樹は一気にグラスを開けた。 「にが!」なんだこれは、よくこんなの飲めるな。勇樹は顔をしかめ、舌を出して、息を吐き出した。それを見ていた大森が勇樹に声を掛けた。 「勇樹、青春の苦さとは、また違った苦味だろ。それは大人の苦さって言う奴だ」大森は一人で言って、一人で受けていた。 「しかし、張り合いの無い奴だ。しかも、奈々枝ちゃんの飲み残し飲みやがって。そう言うのを間接キスって言うんだぞ。そうか、お前それが目的だったんだな」吉田は勇樹を手招きした。勇樹が顔を近づけると、手を口に添えて勇樹に耳元でなにか言った。 「まだですよ」ボソッと勇樹が答えた。 「なんて言ったの?」奈々枝が、また、勇樹の後ろから顔だけ出した。 「お前ら、ちゅーしたのかって聞いたんだ。なんだ、まだだったのか。勇樹、ほらビール飲んで度胸つけて、奈々枝さんちゅーしましょうって、言ってみろ」吉田が下品な笑い方をした。 「もう、吉田さんオヤジ丸出しじゃないですか。勇樹、あっち行こ」 奈々枝と勇樹は、正人とさゆり、そして文江が騒いでいるところへ行って座った。 勇樹は、しばらく奈々枝の唇を見ていた。その日の奈々枝の唇は勇樹にとって、とても魅力的に見えた。そして、さっき、吉田にキスのことを言われて、勇樹は、急にそのことが頭から離れなくなった。 それは、俺だって奈々さんとキスがしたいさ。でも、「勇樹、不潔!私は、そんな女じゃないの」なんて平手打ち食ったら、それこそ一巻の終わりだし。勇樹がじっと奈々枝のところを見ていると酔った文江が絡んできた。 「勇樹君。いや、勇樹。あなたは幸せでいいわね」文江はいつもと違う口調だ。 「はい、ありがとうございます」 「まったく、自分だけ幸せになりやがって。それに比べて私なんか、うっうっ・・・」文江は泣き始めた。 「きっと文江さんも、そのうちいいことがありますよ」勇樹は文江を慰めた。 「そのうちじゃだめなの!私たちは、来年三年生なんだから。もう、高校生活もあと一年しかないのよ。それなのに、なにもいいことがなかったら寂しいじゃない」 「文江、あんただけじゃないよ。あたしも同じさ」さゆりが文江の肩に手を置いた。正人は飲みすぎたのか、体をメトロノームのように動かして、目は魚屋に並ぶサンマのようだった。 「勇樹、ここもいずらいね」奈々枝が言ったので、部屋の片隅で二人で宴会模様を眺めた。 「そうか、奈々さん、もうすぐ三年生なんですね。進学希望なんでしょう?」 「うん、一応ね」 「そうか、じゃあ、寂しくなっちゃうな」 「それは仕方のないことだけど。でも、あと一年あるでしょ。それまで一緒に勉強したり、映画見に行ったりも出来るし、いい思い出いっぱい作ろうよ」 「そうですね。ところで、さゆりさんも進学するのかな」 「たぶん、そうだと思う」 「じゃあ、受験勉強しなくちゃいけないだろうから、三人でライブできるのも、来年の夏くらいまでかな」 「さゆりは、やれるところまではやりたいって言ってたけど」 「そうか、じゃあその時まで、頑張るか。あっ、ちょっとトイレ行ってきます」勇樹は立ち上がってトイレに向かった。 トイレには弘道がいた。勇樹は弘道の脇に立った。 「勇樹君。飲んでるのか?」 「ビールは苦くて飲めません」勇樹は前を向いたまま話した。 「ビールに限らず、酒はまだ早いだろうな。どうだい、奈々枝ちゃんとは上手くいってるみたいだけど、もやもやは直ったかい?」 「全然です。今日、吉田さんからキスしたか?って聞かれたんで、まだですって言ったんですけど、それから、急にそれが気になっちゃって、もやもやしてます」 「そうか、そうか。なーに、あせる必要はないさ。お互いの気持ちが分かり合っていれば、そのうち、自然とそういう雰囲気になってくるものさ」 「そうですかね」 「そうさ。頑張れよ」そう言うと、弘道はトイレを出て行った。
さゆりと正人と文江はタクシーに乗せられて、大森と一緒に家に帰った。さゆりと正人は、家でもたまに飲んでいるらしく、特になにも言われなかったようだが、文江は、親にこっぴどく怒られたようだ。それから、文江は酒を飲まなくなった。まあ、あの酒癖の悪さを見なくて済むのは、勇樹としてはありがたいことだった。 勇樹と奈々枝は三人がタクシーで帰るのを見届けると、まだ時間も早かったので、二人で歩いて帰った。 二人は、今日のライブのことや学校のこと、そして来週の試験のことを話しながら歩いていた。公園の近くまで来たとき、奈々枝が勇樹に聞いた。 「ねえ、そういえば、ボイスで後片付けしてる時、正人君と手紙みたいなの見ながら話してたけど、何話してたの?」 「ああ、それは、これですよ」勇樹はポケットから紙切れを出した。 「えーと、五リットル・・・暗くて見えないわ」奈々枝は立ち止まって、街灯の方に紙切れを向けた。勇樹も奈々枝に寄り添うように紙切れをのぞいた。 「これは、なにかの問題ね」奈々枝が勇樹の方を見て、また、紙切れに目を落とした。 勇樹も紙切れに顔を近づけて奈々枝と一緒に考えていた。ふと、奈々枝の髪の香りがした。勇樹は紙切れから奈々枝の方へ視線を移した。そして、じっと考えている奈々枝を見ていた。奈々さんってきれいだな。勇樹は改めてそう思った。 「これ結構むずかしいね。勇樹は分かったの?」奈々枝が勇樹を見た。二人は目が合った。 「どうしたの?勇樹」 「奈々さん、きれいですね」勇樹は奈々枝の目を見つめて言った。 「ありがとう」奈々枝はちょっとだけ照れ笑いを浮かべた。 勇樹は奈々枝の右目と左目を交互に見つめた。「奈々さん。大好きです」。奈々枝も勇樹の瞳に応えるように、勇樹を見つめた「勇樹・・・」 奈々枝の言葉を最後まで聞かないうちに、勇樹は、肩を抱き寄せて奈々枝にキスをした。勇樹は、それがどんな感じで、どんなに温かいかも分からなかった。ただただ、奈々枝とキスをしていること、奈々枝が自分と同じ思いであること、それだけを感じていた。 一台の車が通りかかったので、二人は唇を離し下を向いた。 「見られちゃったかな」 「別に見られても、悪いことしてる訳じゃないから、いいんじゃない」 「そうですよね、ってそうですかね。なんか恥ずかしかったけど」 「ねえ、勇樹、手つなごう」奈々枝は手を差し出した。二人は手をつないで公園を歩いた。 「奈々さん、さっき、なんて言おうとしたんですか?」勇樹が聞いた。 「秘密」奈々枝はいたずらっぽく笑った。「でも、言わなくても勇樹には分かるでしょ」 「俺には、分かりませんよ」 「もう、鈍感なんだから。絶対教えて上げない!」奈々枝は嬉しそうに、つないだ手を前に大きく振り上げた。勇樹も「どうせ鈍感ですよ。じゃ、これは宿題にしましょう。絶対当てて見せますよ」と言いながら、その手をぎゅっと握り締めた。
「勇樹、この前の宿題分かったか」正人が昼休みに勇樹に聞いた。 「あっ、あれね、うん、分かったよ。私も大好き、それが答えさ」 「なんだそれ?」 「正人、お前は鈍感だな」勇樹は正人の肩をポンと叩いた。
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