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作品名:返信 作者:黒川

第6回   6
 さゆりたちは、ボイスのビルの三階にある事務所兼休憩室でおしぼりを巻いたり、洗濯をしたりしていた。勇樹と正人は、炎天下の下、看板や階段にある窓ガラス、二階の窓を拭かされて汗だくになっていた。
「勇樹、一休みしようぜ」
「ああ、もうくたくただ」
 二人は、雑巾を放り投げボイスの椅子に腰掛けた。しかし、今日はボイスは定休日で、エアコンも入っておらず、じっとしているだけで汗がしたたり落ちてきた。
「勇樹、ちょっと三階の涼しい所に行こう」
 正人は耐え切れないと言った顔で勇樹を見た。二人は真っ赤な顔をして、よたよたと階段を上がった。
 そして、二人は事務所のドアを開けると、どさっと大きな音を出して事務所の椅子に座った。その音に、さゆりたちは驚いてこっちを振り返った。
「ああ、ごめんごめん忘れてた。お前らもいたんだな」天田は立ち上がり、二人にアイスコーヒーを持ってきた。
 二人は、そのブラックのアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「ああ、生き返る。ってあれ?みんな休んでたんですか?」正人はグラスに残った氷を口に含みながら言った。
「こっちは、ほとんど終わりだよ」
「さゆりさん、なんで呼んでくれないんですか」正人は口の氷をボリボリと噛み砕いた。
「二人の邪魔しちゃ、悪いと思ってさ」
「ああ、そうですか。それはありがとうございます」正人は残っている氷を全部口の中に入れた。
「待ってろ、いまサンドイッチ作ってやるから、材料は昨日の残り物だけどな」天田が立ち上がった。
「あたしも手伝います」さゆりも立ち上がった。
「そうかい、じゃあ、文江ちゃんと奈々枝ちゃんは、悪いけど、おしぼりを全部巻いておいてくれないか」
「分かりました」
 天田とさゆりはボイスに降りて行った。文江と奈々枝はクルクルとお絞りを巻き始めた。
「へえーおしぼりってそう言う風に巻くんだ。ちょっとやらしてよ」正人が二人の側に行った。
「全然だめだ。きれいに巻けないや」正人はおしぼりを巻くのを諦めて、テレビをつけた。
 テレビでは、甲子園を目指して、県の強豪同士、光ヶ丘学園と大成高校が決勝戦で戦っていた。
「おい、勇樹、光ヶ丘学園が負けてるぞ。あれ?この大成高校のピッチャー、俺たちが県大会で負けた時のピッチャーじゃないか。なあ、そうだろ勇樹、違うか。一年だってのにもうエースかよ、すごいな。おい、勇樹・・・」
「下に雑巾置きっぱなしだったから、取ってくる」
 勇樹はボイスに戻って行った。厨房では、天田とさゆりがサンドイッチを作っているところだった。
「どうした、勇樹」天田が声を掛けた。
「雑巾を忘れたんで、取りに来たんです」
「そうか、すまないが。そこのエアコンのスイッチ入れてくれないか。ここは熱くてたまらん」
 勇樹は、スイッチを入れて、トイレの脇にある洗い場で雑巾を絞り、張ってあるロープに雑巾をぶら下げた。
 そして手で水を汲んで、顔を洗った。トイレの手洗い場にあるペーパータオルを一枚とり、顔を拭くと、ペーパータオルをグチャグチャにしてゴミ箱に投げ入れた。
 厨房に戻り、なにか手伝いますか、と言おうとしたが、さゆりの邪魔をしちゃ悪いと思い、勇樹はなにも言わず三階に上がっていった。
 テレビからは、お昼のバラエティーが流れていた。それを見ながら、正人が文江と奈々枝を相手に楽しそうに話していた。
 しばらくして、サンドイッチが到着した。めいめいに飲み物を飲みながら、他愛もない話をしていた。
「そう言えば、八月のライブ、お前ら出るんだろう。どうだ、ちゃんと練習してるか?」天田が突然ライブに話を向けた。
「練習はしてますけど、だんだん不安の方が大きくなっちゃって。どれだけ練習しても失敗しそうな気がしてくるんですよ」
「勇樹、お前、昔からそうだよな。心配症なんだよ。俺みたいにどっしり構えればいいのにさ。ねえ、さゆりさん、そう思うでしょう」
「それは、どうかな。だって勇樹は歌も歌わなくちゃいけないんだよ。あんたにそれが出来る?」
「歌はムリ。まあ、それを言われれば、俺は何も言えない」正人は首を振った。
「勇樹、お前の頃の失敗は勉強と言うんだ、気にするな。それにお前らの演奏が失敗しても誰も分からないさ。どうせ失敗だらけだろうからな」天田はケラケラと笑った後、急に真顔になった。
「でもな勇樹。俺は、一生懸命やって失敗したら何も言わない。ただし、適当にやって失敗したら怒るからな。若いうちに適当に流しているような奴は嫌いだ」
「ええ、がんばりますよ」
「勇樹君頑張ってね」奈々枝がそう言ってくれた。
「うん」勇樹は、サンドイッチを食べながら奈々枝の顔を見て頷いた。

 ライブは土曜日の夕方だった。勇樹が緊張しているのは、ハタから見ても分かった。緊張をほぐしてやろうと、吉田が若い頃の失敗談を話して、落ち着かせようとしても、ただ、遠くを見てウンウンと頷いているだけだった。
その間、さゆりと文江は譜面台をセットしたり、髪をセットしたりしていた。正人はチューニングをしたり、スピーカーに線を繋いだりしていた。でも、正人はそんな勇樹を見ても何も話しかけてこなかった。
「勇樹君、今日なにも食べていないでしょう。これ食べて」奈々枝がタイヤキとお茶を持ってきてくれた。勇樹は「ありがとう」と言って椅子に座り、タイヤキを半分だけ食べて、皿の上に置いた。
 勇樹は手を伸ばしてお茶を取った。しかし、それは奈々枝が飲んでいた紅茶だった。勇樹は全く気づかずに一口飲んだ。そんな勇樹を奈々枝は心配そうに見ていた。
 文江がそれに気づいて、近づいてきて言った。「勇樹君。やるだけやったんだから、きっと大丈夫だよ。大丈夫、やれば出来る」
「ありがとう、奈々枝さん」勇樹は立ち上がってトイレに行った。その後姿を見て、奈々枝と文江は、心配そうに顔を会わせた。勇樹は緊張のあまり、奈々枝と文江の区別もつかなくなっていた。
 奈々枝と文江は、正人の方へ行った「ねえ、正人君。勇樹君、大分緊張しているみたいなんだけど、大丈夫かな」奈々枝が正人に聞いた。
「ああ、大丈夫、大丈夫。あいつはいつも本番はあんなんだから」正人の返事はそっけなかった。
「でも・・・」奈々枝が心配そうにトイレの方を見たとき、さらに青い顔をした勇樹が、こっちに向かって歩いてくるところだった。   
よく見ると勇気のジャケットの襟がひっくり返っている。奈々枝がそれを直してやっても、勇樹はまったく気づくことはなかった。
 勇樹はギターを肩から掛け、無表情のままそこに立った。そろそろ本番だ。
 大森が、勇樹たちを紹介すると拍手が聞こえた。勇樹はゆっくりと頭を下げた。そして顔を上げた勇樹は、さっきと別人のように落ち着いた顔になっていた。
 十分間の演奏は、大きなミスもなく、どちらかと言うと練習よりも上手だった。演奏が終わって、三人が礼をすると、大きな拍手が起こった。
 奈々枝も文江も、ほっとしたように大きな拍手をしていた。楽器と楽譜を片付け、三人がステージから降りてきた。
「みんな良かったよ。感動しちゃった」奈々枝が三人を称えた。「みんなすごいね。私もなんだか嬉しくなっちゃった」文江も一人一人ハイタッチで向かえた。
「な、だから言っただろう。勇樹は大丈夫だって」正人は出された水を美味しそうに飲んだ。勇樹も水を美味しそうに飲んだ。
「あれ。誰だ、タイヤキ半分残して、もったいないなー」勇樹はタイヤキの載った皿を指差した。それを聞いて奈々枝は思いっきり笑った。「それ勇樹くんのだよ」。
「えっ、俺のなの?」
「何も食べてないから、心配になって買ってきたのに、半分しか食べなかったんだよ」
「そうかな。俺、落ち着いていたんだけど」
「勇樹は、いつもそうさ。野球の大会の時も、試合の前は、この試合は絶対負ける、勝てるわけがない、って言ってるくせに、試合が始まると急に落ち着くんだ。だから、俺は心配してなかった」正人が勇樹の肩を叩いた。
「それは違う。俺は、いつも落ち着いていた。今日だって、堂々としてたと思うんだけど」
「勇樹君、私の飲んでいた紅茶間違って飲んでたし、私と文江を間違ってたし、とても堂々としていたとは思えないけど」奈々枝がにやけながら言った。
「お前、奈々枝さんの飲んでいた紅茶飲んだのか。それは許せないぞ」正人が勇樹の頭を叩いた。
「まあ、いいじゃないの。今日は二人とも良かったよ。私も最初はちょっと緊張してたけど。終わってみると、すごく気持ちいいし、もう、くせになりそう。また、がんばろうね」さゆりは普段より優しい声だ。
「おう!」勇樹と正人は声を上げた。
 勇樹は残したタイヤキを食べながらライブを見ていた。勇樹の隣では奈々枝が、そして正人が、さゆりが、文江が、自分たちのライブの余韻を体の中に感じ、ふわふわとした満足感を漂わせながらライブを見ていた。

「乾杯!」大森が大きな声で叫んだ。
 ライブが終わり、居酒屋で打ち上げを行った。もちろん勇樹たちは、ウーロン茶だ。
「正人、今日は良かったじゃないかー、俺なんかお前より緊張して見ていたんだぞ」大森は赤い顔をして正人の隣に来た。
「はい、大分自信がつきました」
「そうか、お前ら、まだまだ上達するはずだから、期待してるぞ」
 遠くでは弘道がファンと思われる女性数名と楽しそうにしている。さゆりは、天田の隣で普段見せないやさしい顔で頷きながら話を聞いていた。勇樹の隣には吉田がでんと座った。ヒゲにビールの泡をつけ、つばを飛ばして、お前らの頃は、と一席ぶっていた。奈々枝と文江もその話を黙って聞いていた。 
天田が吉田を呼んで、ようやく勇樹達は解放された。よく見ると、天田は、吉田と若い女性と話をしていた。その二人に天田の隣を奪われたさゆりは、むっとした顔でこっちにやってきた。そして、バックの中から、タバコを取り出すと火をつけた。
「さゆりさん、タバコ吸うんですか」勇樹はちょっと驚いた。
「そうよ。何か?」さゆりは怖い顔で勇樹をにらんだ。
 おおこわ!これ以上は何も言わないほうが身のためだ。勇樹は目をそらした。
「ねえ、今度の夏祭りみんなで出掛けない?」文江がみんなを誘った。「いいよ。ねえ、勇樹君も行くでしょう?」奈々枝が勇樹を見た。
「誘われれば、当然行きますよ」
「あたしも行く」
「俺も行きまーず」正人が赤い顔をして会話に入ってきた。
「おい正人、顔が赤いぞ。お前、そのコップ、ビールじゃないのか!」勇樹は驚いて正人を見た。
「いいじゃないか、今日は、めでたい日なんだ。ビールを飲んで何が悪い!お前も飲め!」正人はコップを差し出した。
 勇樹は、一瞬フラっとその大人の飲み物に興味を持ったが、「俺はいいよ」と言って自分のコップに入っているウーロン茶を飲んだ。
「あたしも飲もう」さゆりは、ほとんどつぶれている、大森の近くにあったビール瓶を取るとコップに注いで、ぐいっと飲んだ。そして、また、ビールでコップを満たした。
「さゆり、あまり飲まないほうがいいんじゃないの?」奈々枝は心配そうに言った。
「いいの。今日はめでたい日だもんね。ほら、正人、乾杯!」
「乾杯!」
 あーあ。さゆりさんも、正人も目がいってる。そこへ、トイレに行っていた天田がやってきた。
「さゆりちゃん、あんまり飲むなよ。そうだ、今度の祭りの日、ボイスでイベントやるんだけど、さゆりちゃんも来るかい?」
「えっ、いいんですか」
「もちろんさ、みんなはどう?」
「すみません。みんなで、出かけるって話をしていたんです」文江が言った。
「そうか、じゃあ、時間があれば顔を出してくれ」天田はまた自分の席に座った。
「と言うわけで、ごめんね」さゆりが奈々枝に言った。
「いいよ、私達も時間があれば顔出すから」文江は横目でさゆりを見た。さゆりも同じように文江を見た。奈々枝はそれを見て笑った。

 次の日、さゆりと奈々枝、文江はボイスにいた。学校の登校日の帰りにボイスに寄ったのだ。
 若い女の子の会話らしく、時にひそひそと、時に賑やかに、そして、時に大声で笑って話をしていると、文江が言った。
「私、気になってることがあるんだけど」
「なになに?」さゆりと奈々枝が身を乗り出した。
「言っちゃって、いいかな」
「言っちゃいなよ」さゆりと奈々枝が催促した。
「でも、間違ってたらごめんね。最近、奈々枝さ、練習終わってから勇樹君の側にずっといるよね。昨日もそうだったし。私がぴんときたのは、ライブのとき襟を直してやったでしょう。あの時の心配そうな奈々枝の顔は、私見たことがない顔だったの。もしかして奈々枝、勇樹君が気になってるんじゃないかなーって思ったんだけど」
「奈々枝、実はあたしも最近そう思ってたんだ。この前、あたしの同級生を紹介するって言ったら、最初は乗り気だったのに、急に断ったしさ。文江の言うとおり、いつも勇樹の側にいるし。この際、はっきり言ったら」さゆりが奈々枝を横から見た。奈々枝は急に自分に話題を振られて、どぎまぎしていた。
「別に、そんな風に思っている訳じゃないけど・・・」
「ないけど、なに?」さゆりと文江は奈々枝に顔を近づけた。
「でも、私、年上だし。その、なんて言うか、勇樹君から見たらお姉さんに見られているって言うか、何て言うか・・・」
「奈々枝、はっきりしなよ。あたし達が聞きたいのは、奈々枝が勇樹をどう思っているかなんだよ。奈々枝がどう見られているかじゃなくてさ。好きになったんでしょう、勇樹のこと」さゆりがテーブルの上に置いていた右手を、奈々枝の肩においた。
「うん、実は・・・」うつむいて、恥ずかしそうに組んだ両手の親指をクルクルまわして奈々枝が答えた。
「奈々枝、恥ずかしがることないよ。勇樹君と話している時、すごく楽しそうじゃない。私、そんな奈々枝初めて見たもの。私、そんな奈々枝見ててうらやましかったよ。さゆりもそうだけどね」
「あたしは、どう考えても片思いだけど、奈々枝はまだチャンスがあるよ。奈々枝も、もっと、勇樹君にアプローチしたら」
「でも、私、今のままで十分楽しいし。もし、嫌われちゃったら、みんなといれなくなるような気がして・・・」
「じゃあ、奈々枝は勇樹君を見ているだけでいいの?」
「って言うか、今のままでもいいかなー、と言うか・・・」
「奈々枝、じゃあ聞くけど、勇樹に彼女が出来ても、今と同じようにしてられる?そうなる前に白黒はっきりさせたほうがいいんじゃない?」
「それはそうだけど」奈々枝は、困った顔でさゆりと文江の顔を交互に見た。
「奈々枝、怖いのね。自分が勇樹君の恋愛対象になるかどうか。それを知るのが怖いんでしょう?」
「それもあるけど」
「それも、あるけど?ああ分かった。正人のことでしょう。あいつ、奈々枝のこと気に入ってるもんね。それで、もし、奈々枝が勇樹とうまくいったら、二人の関係が悪くなるって思ってるんだね。そうなりゃライブだって出来なくなるんじゃないかって、勇樹の好きな音楽が出来なくなるんじゃないかって、そう思ってるんでしょ」奈々枝は黙って頷いた。
 奈々枝がトイレに行った時、さゆりが文江に言った。
「しょうがない、あたし達が一肌脱いでやるしかないね。ちょっと、探りを入れてやるか」さゆりはため息をついて文江を見た。文江はウンウンと首を縦に振った。そして、さゆりは携帯を手に取った。
「そうさ。あんた、あたしの誘いを断る訳じゃないでしょうね。そう、分かればいいの。じゃあ、明日ボイスでね」
「誰に電話してたの?」奈々枝がトイレから出てきてさゆりを見た。
「ああ、友達に電話してたんだ。ちょっと約束があってね」さゆりは文江を見た。文江は下を向いてクスクスと笑った。奈々枝は首をかしげて二人を見ていた。

 ボイスの一番すみのテーブルには、正人とさゆり、文江が座っていた。正人は、これから尋問を受ける被告みたいな顔で、さゆりと文江を見ていた。
「なにも、怖がることはないでしょう。今日は、あんたと親交を深めたいと思って誘ったんだからさ」さゆりはにこやかに言った。その笑顔が正人をさらに緊張させた。
「あのー、俺、いつも、さゆりさんのこと、ああだこうだと言ってますけど、本当は大好きなんですよ。だから、勘弁して下さいよ。こないだ、酒飲んでなに言ったか覚えてませんけど、なにかひどいことを言ったら謝りますよ」
「正人君、今日はさゆりの言うとおり、正人君とお話がしたいの、それだけなの」文江がにこっと笑った。
 注文した飲み物がテーブルに運ばれた。正人はさゆりと文江をちらちらと見ながら、コーヒーを飲んだ。
「ねえ、正人、あんた好きな人いるの?」さゆりが聞いた。
「俺ですか、いますよそりゃ、お年頃ですから」
「奈々枝でしょ」さゆりは冷たく言った。
「どうしてそれが分かるんですか?」正人は驚いて、目を大きく見開いた。
「誰が見ても、そう見えるよ。だって正人君、いつも奈々枝さん、奈々枝さんって言っているじゃない」文江が、そんなこと知らないとでも思っているの?と言う口調で言った。
「勇樹は誰かいるの?」
「あいつも、奈々枝さんがいいって言ってた。でも、好きというより、あこがれだって、言ってたけど。あっ、これ、内緒にして下さいよ」
 さゆりと文江が目を合わせて、お互いまゆを上下させた。
「大丈夫、誰にも言わないから。でも、好きというよりあこがれって、どういうことなのかな」文江が正人に聞いた。
「あいつ、奈々枝さんが俺達みたいなガキを相手にするわけはないって、いつも言ってるんだ。だから、あこがれだって」
「ふーん。恋愛に年の差なんてないのにね。ねえさゆり」文江は首をかしげてさゆりを見て、ストローでオレンジジュースを飲んだ。
「さゆりさん。天田さんのこと好きなんでしょう」正人が言った。
「ちょっと、正人、あんたなに言ってんの」
「俺だって、そのくらい分かりますよ」正人はにやにやしながらコーヒーカップに口をつけた。
「まあ、あたしのことはどうでもいいけどさ。と言うことは、二人はある意味ライバルなんだね」
「まあ、そういうことです」
「じゃあ、どっちかが、奈々枝を射止めれば、ケンカしちゃうでしょう?」文江は正人の顔を覗き込んだ。
「ケンカ?俺だったら、そんなことはしませんよ」
「でも仲悪くなっちゃうんじゃない?」
「それもない。俺はあいつを認めてるし、もし、奈々枝さんを勇樹がものにしても、あいつを嫌いになる理由にはならない。逆に俺が奈々枝さんをものにしても、勇樹はやさしいから、それでどうこう言うことはないし、そんなことは思わないと思うな。まあ、こっちの方が確立は高いと思うけど」正人は自信ありげに笑った。さゆりと文江は、その、根拠のない自信に思わず顔を見合わせて苦笑した。
「男の子って、そういうものなの?」文江が聞いた。
「人によると思いますけど、俺と勇樹はそうだと思いますよ。で、今日は、そんなことを聞くために俺を呼んだんですか?」
「あんたに、女の子を紹介してやろうと思ったけど、奈々枝が好きなんじゃしょうがないね。誰か違う男に紹介するよ」
「ちょっと、待って下さいよ。それならそうと早く言って下さいよ。その子、どんな子なんですか?」
「正人君、あなた節操がなさすぎない?そんなことじゃ奈々枝だけじゃなくて、他の女の子もゲットできないよ」文江は手でメガネを押さえて、珍しく怒った口調だった。
「いえ、出会いは多い方がいいと思いまして」正人は首をすくめた。
「ところで、正人。こないだ、ソフトボール部の後輩に聞いたんだけどさ、勇樹、光ヶ丘学園に入学する事になっていたって言ってたけど、どうして、行かなかったの?」
 正人は右手をつえに、手のひらにあごを乗せると困った顔で脇を向いた。
「なにか、あったの?」さゆりが再び聞いた。
「ここだけの話にして下さいよ」正人は二人を見た。
 さゆりと文江は頷いた。
「確かに、あいつは光ヶ丘学園に行くことになってたんですよ。でも、あいつ、生まれつき、足のくるぶしの骨がくっついていない病気を持っていて、医者に、野球を取るか、将来、歩けなくなる方をとるかって言われて、それで野球を諦めたんですよ」
「そんなことがあったんだ」さゆりはしんみりとした。
「すごくがっかりしてましたよ。入学が決まった時は、絶対甲子園に出てやるって喜んでましたからね。でも、それからは、なんにつけても、ああ、とか、まあな、しか言わなくなっちゃって」
「だから、こないだ、高校野球がテレビで流れたとき、勇樹君、見なかったのね。その時の勇樹君、なんかさびしそうだったもんね」文江が言った。
「俺も、もう勇樹の傷は癒えたと思って話しかけたら、あいつ、下に降りちゃいましたからね。でも、こないだの打ち上げの時、言ってましたよ。(正人、ありがとな)って。それは、また、新しく打ち込めるものを見つけたって意味だと俺は思ったんですよ」
「そうかもね、きっとそうだよ。やっぱり正人君と勇樹君はいいコンビなんだよ」文江がにこっと笑った。
「正人、あんた以外にいい奴じゃないか。やっぱり女の子紹介してやろうかな」さゆりは正人に顔を近づけた。
「何言ってるんですか、俺は、奈々枝さん一筋で行きますから、結構です。そうでしょう、文江さん」
 文江は、そんな正人を見てニコニコと笑っていた。さゆりは正人の片思いにちょっと心を痛めながらも、文江と同じように笑いながら正人を見ていた。
 正人が帰った後で、さゆりが文江に言った。
「やっぱり、あの二人、似たもの同士だね」
「えっ、正人君と勇樹君のこと?」
「違う、違う。奈々枝と勇樹のこと。まったく、お互い好きなら、好きだってはっきり言えばいいのに、お姉さんだか、あこがれだか何だか知らないけど、いらいらしちゃう」

 勇樹は、昨日、正人が尋問を受けたボイスのテーブルと同じ場所に座り、必要以上に、にこやかなさゆりと文江の顔に、ちょっとした緊張感を抱きながら、二人の顔を交互に見ていた。
「もしかして」
 話し始めたのは勇樹の方だった。
「もしかして、俺に女の子を紹介するつもりで、呼んだんですか?」
 さゆりは、ちらっと文江を見た。あのおしゃべり正人のやつ、昨日のこと勇樹に話したね。文江もそう思ったのか、同じようにさゆりを見た。
「正人が、昨日、さゆりさんと文江さんから、女の子を紹介してやるって言われたけど、俺はきっぱり断ったって言ってた。勇樹の話しも出たから、お前もそのうち呼ばれるんじゃないかって言ってましたから。そうなんですか?」
「そうよ。勇樹君に素敵な女の子を紹介してやろうと思うんだけど」
 文江はオレンジのメガネを右手で上下させた。
「でも、勇樹に付き合っている人がいるんなら、別にいいんだけどね」さゆりは腕組みをしていた。
「付き合っている人はいませんよ。二人ともそんなこと知ってるじゃないですか」
「そうねえ、じゃあ、女の子紹介して欲しい?」文江は組んだ両手より、顔を前に出して勇樹を覗きこんだ。
勇樹は少し体を後ろにそらした。この二人、なんで、俺に女の子を紹介するなんて言ってるんだろう。親切心からだろうか。いや、いつも、誰か紹介して下さいよ、と言っていればそれも分かるが、そんなこと一言も言ったことはない。二人の真意をはかりかねて、勇樹は、さゆりと文江、そして窓の外を順番に見て、何も話さなかった。
「ねえ、勇樹君どうなの。もしかして、好きな人がいるの?」勇樹が何も話さないのを見て、文江が勇樹に聞いてきた。
「そうですね。いや、うーん、そうとも言えないような・・・」
 さゆりが、フンと鼻を鳴らした。まったく世話のやける話しだね。さゆりは、ぐいっと勇樹に顔を近づけると言った。
「勇樹、奈々枝が好きなんでしょう」
 勇樹は、手に持った、コーヒーカップを口に付けたまま、いつもより二周りは大きくなった目でさゆりを見た。そして、しばらく勇樹は動けなかった。
「正人のやつが話したんですね」
 勇樹の声は震えていた。それは正人への怒りではなく、純粋に自分の好きな人間を当てられたという、恥ずかしさからだった。
「いや、正人はなにもしゃべっちゃいないよ」
「えっ、じゃあ、どうして」コーヒーカップを置いて、勇樹もさゆりに顔を近づけた。
「勇樹を見てれば、そんなこと分かるでしょう」
 さすが年上になると、見ているだけで人の気持ちが分かるようになるのか。と言うことは、俺の気持ちは奈々枝さんも分かっているってことじゃないか。正人みたいにストレートにアプローチをしていた訳でもないのに。勇樹は顔が熱くなってきている自分を感じていた。
「勇樹君、顔、真っ赤だよ。やっぱり奈々枝が好きなんだね」文江がさらに勇樹に顔を近づけた。
「ええ、その、いや、でも何と言うか」勇樹は。もう二人と目を合わすことは出来なくなっていた。視線は湯気のようにコーヒーカップの上をうろついていた。
 さゆりは、さらに勇樹に顔を近づけた。「男ならはっきりしなさい。好きなの、どうなの」
「はい、好きです」勇樹の声は、ようやくさゆりに届くような声だった。
「分かった。じゃあ、今から奈々枝に電話して、好きだって言ってきな」さゆりは、椅子に深く座ると腕組みをした。
「そんな、急に言われても」勇樹は上目遣いでさゆりを見た。さゆりは、そんな勇樹をきっと睨んだ。勇樹は助けを求めるように文江を見た。
「じゃあ、勇樹君。とりあえず、なにか口実作って誘ってみたら。そうねえ、なにか買い物に行くから、一緒に行きましょうとか。それなら、できるでしょう」
「それなら、なんとか、できるような・・・あのー、ところで、なんでそんなに俺のことかまうんですか」
「あんたたち見てると、こっちがいらいらするの。さっさと電話しなさい!」さゆりにびしっと言われて、勇樹は起立した。
「はい。いますぐ電話します」
 勇樹は、ポケットから携帯を取り出した。そして、目をつぶり、ふーっと息をすると、さっきの小心者の勇樹の顔はそこにはなかった。
「じゃあ、外で電話をかけてきます」落ち着いた口調で話すと、勇樹は店の外に出て行った。
「まったく、本当に疲れちゃう」さゆりは腕を組んだまま、がくっと首を垂れた。横では文江が笑っていた。「どうして笑ってるの文江」さゆりが聞いた。
「だって、勇樹君て、後に引けなくなると、急にその気になるでしょう。こないだのライブもそうだったし。それに、さゆり、さっき、あんたたち見てると、こっちがいらいらするって、言ってたけど、あんたたちって、勇樹君と奈々枝のことでしょう。それを聞いてて、おかしくなっちゃった」
「あたし、そんなこと言った?」
「言ってたわよ」
 バタンと店のドアが開くとそこには勇樹が立っていた。そして、つかつかとさゆりと文江の前に立つと言った。
「奈々枝さんの、携帯の番号教えてください」
 さゆりと文江は危うくコーヒーを噴出すところだった。番号を教えてもらうと、勇樹はまた店の外に出て行ったが、その歩き方は、電池の切れたロボットのようだった。
「そうは言っても、勇樹君、やっぱり緊張しているみたいね」文江はクスクスと笑った。
「これで、愛のキューピット役はもうおしまい。もう、あたしはこんなことやらないからね」さゆりはそう言って、厨房にいる天田を見た。「もう、自分のことで精一杯なのに」

「あっ、奈々枝さんですか」
「勇樹君?どうしたの」
「あのー、明日、ちょっとピックを買いたいと思ってたんですけど。俺センス良くないから、それで、奈々枝さんに選んでもらえればなって思いまして。そのー・・・」
「いいよ。でも私でいいの?」
「はい、あの、奈々枝さんでいいですっていうか、奈々枝さんでないとダメだっていうか・・・」最後の方はもう勇樹自信の耳にも聞こえない位、小さい声だった。
「分かったわ。じゃあ。明日、二時に音符の前ね。うん、それじゃ」
 勇樹は汗だらけの携帯をズボンで拭き、ポケットにしまうと、ボイスの階段を上がった。
 一応、約束はとりつけたが、さゆりの言うように、いきなり「好きです」なんて言えるわけはない。嬉しさ半分、苦しさ半分で、どちらかと言えば、重い足どりだった。
「どうだったの?」勇樹が椅子に座るなり文江が聞いてきた。
「明日、一緒に買い物に付き合ってくれるって」
「それで、好きだって言ったの?」さゆりが、さっきよりは優しい声で聞いた。
「それは、その、いや、明日言いますよ。絶対言います。俺も、こんなもやもやした気持ち嫌ですから。はっきり言って、ダメならダメで諦めます」
「ちゃんと、言いなさいよ」さゆりの目は血管が浮き出ていた。
 これは、明日「好きです」って言わないと、とんでもないことになるぞ。でもな、そんなこと俺に言えるだろうか。勇樹は想像しただけで手のひらに汗をかいていた。

 帰り道、夏の夕暮れの、まだ蒸し暑い風にまとわりつかれながら、勇樹は一人で自転車を押して、明日、なんて言おうか考えていた。
 好きです。俺と付き合って下さい。これが一番かな。いや、僕の方がいいかな。僕と付き合って下さい。いや、お付き合いして下さいの方が丁寧だな。
 それより、「ごめんなさい」って言われたらどうしよう。そうだよ、なんて話すかより、そっちの方が問題じゃないか。どう考えても、奈々枝さんが俺の方を向いてくれる気がしないし。
 そうだ、さっき、「勇樹を見てれば、そんなこと分かるでしょう」ってさゆりさんが言ってたな。じゃあ、逆に奈々枝さんが俺に対してどう思っているか、考えてみるか。
 えっと、まず、タイヤキ買ってくれたし、そうそう、ジュースも買ってくれた。そういえば最近、俺の側に居るような気がする。もしかしてこれは!・・・でもな、奈々枝さん、誰にでもやさしいから、俺のこと、その他大勢のうちの一人位にしか見ていないんだろうなきっと。
 でもちょっと待てよ、さゆりさんと文江さんがあれだけ後押しするってことは、実は奈々枝さん、俺に気があるのかも知れないぞ。前に、好きになるのは時間がかかるって言ってたしな。そう言うことだったのか。おいおい、勇樹、お前もすみに置けないな、って、それじゃ正人の思考回路と同じになっちゃうじゃないか。まあ、冷静に考えれば、奈々枝さんが俺に気がある訳がないし。
 もし、明日「ごめんなさい」って言われたら、もう二度と練習やライブに来てくれないかも知れないし、そうなったら、奈々枝さんを一生見れなくなるじゃないか。やっぱり、好きです。付き合って下さいなんていえない。
 あーどうしよう。こんなもやもやしてるのも嫌だし。でも嫌われたら、もう会えなくなるような気がするし。当たって砕けろと言うけど、当たって砕けるような気がするし。いや、でも・・・。
 勇樹は、ご飯を食べているときも、お風呂に入っている時も、トレイに行っている時も、ずっと同じことを考えていた。そして、いつまでたっても結論は出なかった。もっとも、奈々枝の気持ちが分からないのに、結論が出る訳はなかった。ドラえもんがいて、相手の心の読める機械を出してくれたらな、と子供じみたことを勇樹は布団の中で一人考えていた。


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