「おい、兄ちゃん達、ちょっと手伝ってくれないか」Tシャツに鉢巻姿、ヒゲを生やした顔がどことなく愛嬌のある、吉田と呼ばれていた男が勇樹と正人を呼んだ。この男は楽器店「音符」を経営していて、ボイスで開催される音楽村のライブの度に、スピーカーやアンプを設置しにきているらしい。 言われるがままに、スピーカーを運び、線を繋ぎ、ようやく二人は解放された。 「はい、お疲れさん」天田がアイスコーヒーを持ってやってきた。 「そこに、ミルクとシロップがあるから好きなだけ入れていいぞ」そう言って、テーブルの上にアイスコーヒーを置いた。 正人はケラケラ笑っていたが、アイスコーヒーを一口飲んで「これはだめだ」と言う顔をすると、ミルクとシロップをどっさり入れた。当然、勇樹もミルクとシロップをどっさり入れてアイスコーヒーを飲んだ。 「おい、こっちも手伝ってくれ」大森が二人を呼んだ。大森は喫茶店のテーブルを片付けていた。テーブルを片付けて、椅子を並べるようだ。 徐々に狭い店内が、手作りのライブハウスに変身してくのを見て勇樹と正人は軽い興奮状態になって行った。
ライブ中二人は、後ろの方で立ちながら音楽村のライブを見ていた。今日は二組が演奏した。それぞれ四曲ずつ、時間にして一時間ほどだっただろうか、二人にすればあっと言う間に終わった感じだった。 正人はすっかり興奮していた。 「おい、俺達もあそこで演奏するんだぞ。わくわくしないか」 それを何回も勇樹に向かって言った。勇樹は、俺たちに出来るだろうか、そういった不安の方が先に立ち、「まあな」とかしか言えなかった。 後片付けを手伝っていると急に女の人が正人に声を掛けた。 「正人じゃない!」 「あれー、さゆりさんじゃないですか。ライブ見に来てたんですか」 「そうよ。どうして正人が手伝っているの」 年の頃で言えば、そうだな、分からないが、多分俺達より年上だ。社会人かも知れないな。いずれにせよ、正人の恋人ではないようだ。勇樹はちょっと安心した。 「へへ、俺、音楽村に入ったんですよ」 正人は自慢げに話した。 「本当!じゃあ、今度ライブやるの?」 「まだ決まった訳じゃないんですけど、頑張りますよ」 「いいなあ、あたしも出たい」 「そうだ、さゆりさんキーボードやってましたよね。どうですか、俺達と一緒にやりませんか」 「えー、いいの?」 「さゆりさんなら全然OKですよ」 「実は、あたしもやってみたかったんだけど、全然メンバー見つからなかったんだ。ねえねえ、本当にいいの?」 「いいっすよ。大歓迎っす。おい勇樹、ちょっと来いよ」 勇樹が側に行くと、さゆりが言った。 「あー、やっぱり勇樹じゃない。変わったねー」 勇樹はさゆりの顔を覗き込んだ。そして、ん、と首をかしげた。 「忘れちゃったのー、ほら、私テニス部だったから、いつもグラウンドの隣で練習してたじゃない」 「えーっと、二つ上でしたっけ?」 「違うわよ、あなたたちの一つ上よ」 勇樹は驚いた。とても一つ上には見えない。さっきは社会人かと思ったくらいなのに。高校生になると、一つ違うだけでこんなに大人っぽくなるものなのか。 「ああー、思い出した。さゆりさんだ」 「そうそう、思い出してくれた、良かった・・・と言う事は、正人と勇樹で音楽村に入ったの?」 「そうです。俺と勇樹と、さゆりさん入れても三人なんです」 「いいじゃない。三人でも、とりあえず三人で頑張ろうよ」 さゆりも大分乗り気なのか、正人と二人であれこれ話していた。勇樹は黙ってそれを聞いていたが、これは、もう後には引けない。ここまで来たらやるしかない。と覚悟を決めた。 よく見るとさゆりの後ろには、二人女の子が並んで立っていた。一緒に来た友達だろうか。二人は二人でなにか楽しそうに話していた。そこへさゆりが割って入った。 「紹介するわ。彼女が坂井文江、こっちが内山奈々枝、高校の同級生なんだ」 「はじめまして、俺、正人っていいます。こっちは勇樹」正人があいさつした。 「あのね、この二人中学の後輩なんだけど、音楽村に入ったんだって。それで、私も一緒にやることにしたの」 「えー本当、すごいじゃないの」 文江は舌足らずな、ちょっと鼻にかかった声で言った。奈々枝は黙って笑っていた。 「じゃあ、正人、携帯の番号教えてよ」 「いいっすよ、はい」 「勇樹のも教えて、うん分かった。後で連絡頂戴。じゃねー」 三人が店を出て行くの待ってから、正人が勇樹に顔を近づけた。 「おい、俺達にも、運が向いてきたぞ。女までついて来るとはな。しかも、奈々枝さん見たか、この辺じゃあんな可愛い子はいないぞ。これから先楽しみだぜ」 だめだ、完全にいかれてる。こういう時は正人には何を言っても無駄だ。勇樹は正人を放っておいて、さっさと後片付けを終わらせた。
最後に、大森、天田、吉田、そして今日演奏した人達に、挨拶をして二人は店を出た。 店を出ると正人は、早速さゆりに電話をした。 「今週の、土曜日どうでか。そうですか、じゃあ場所は、えっ、いいんですか。それは助かります。それから、さっきの二人にも声掛けて下さいよ。いえ別に、その、ギャラリーもいた方がいいかなと思って、ええ、じゃあ土曜日三時から、楽しみにしてます」 正人は満面の笑みを浮かべて、勇樹の左肩をパシンと叩いた。 「奈々枝さんにも声掛けるってさ」 「お前さ、女が目当てなのか、音楽やりたいのか、どっちなんだ?」 勇樹は呆れて言った。 「女の子がいた方が、本気になれるってことさ。プロ野球の外人選手って、奥さんが見に来ると、ホームラン打ったり、完封したりするだろう。それと同じ。俺も奈々枝さんが見ていたら、がぜん張り切っちゃうもんね」 「正人、冷静になれ。さっき、さゆりさん見て、すごい大人になったと思わなかったか?俺なんか社会人かと思ったもん。おそらく奈々枝さんもお前みたいなガキは相手にしないさ」 「何を言っているんだ。あそこは女子高なんだぜ、俺にも十分チャンスはあるさ」 にやにやしながら正人は自転車に乗り、それじゃ、と言って颯爽にペダルを漕いで行ってしまった。 勇樹は自転車に乗りながら、自分の初恋の人を思い出していた。実は初恋の人には、中学二年生のとき告白されたことがあった。ラブレターを貰ったのだ。でも、その時はクラスも違ったし、話したこともなく、誰だっけ?と言うくらい、目立たない子だったので、他に好きな人がいることにして、その子をフッたことがあった。 中学三年のときにクラスが一緒になり、修学旅行の班も同じで、席もよく隣になった。おとなしい子だったが、がんばり屋で、やさしくて、笑顔が可愛かった。そして、勇樹は徐々にその子にひかれていった。 まいったな、あの時フッてなければ、と思ったが、今さら好きだとも言えず、勇樹は精一杯、普通に接した。その子も、勇樹にフラれたことなんてなかったように、勇樹には普通に接していた。しかし、それが、勇樹にとっては、たまらなく、もやもやしたものを感じさせていた。 でもバレンタインの時、その子から勇樹はチョコレートを貰った。それも二人しかいない教室で。その時勇樹は、今までのもやもやを振り払おうと「君が好きだ」と言おうとした。しかし、それを言う前に、「勇樹君にはお世話になったから」と言われたので、勇樹は「ありがとう」としか言わなかった。 卒業式の日、みんなで校門の前でうろうろとしていると、その子が勇樹の方に近づいてきて、「勇樹君、ありがとう。最後に握手して」と手を差し出した。勇樹は、「うん」と言うと右手を差し出して手を握った。 勇樹はしばらく手を握っていた。その子もなにも言わずに勇樹の顔をみつめて手を握っていた。 周りから、ヒューヒューと声が上がったので、はっ、と気づいてそっと手を離した。その子は、「さよなら」と笑顔で言うと、人垣の中に消えていった。それが勇樹が彼女を見た最後となった。彼女は、親の転勤の都合で学区外の高校を受験していたのだ。 それは、ついこないだの出来事だ。でも、その時と今では、ちょっと大人になった自分を勇樹は感じていた。過去はやり直せないが、あの時ああすれば、こうすればと考えることはできる。そして、勇樹は、誰もいない教室で、好きだと言えばよかった、と思っている。きっと彼女も自分のことが好きだったはずだと。 過去を振り返らなければ経験は見えてこない。どんな貴重な経験をしても、それを生かさなければ進歩はない。 天田さんの言うとおり、いろんなことをするのも必要だろう。正人みたいに、あれもこれも手を出してみるのも必要なのかも知れない。それを生かすも殺すも、自分次第だ。 勇樹は力強くペダルを踏み、スピードを上げた。春の夜風はまだ冷たかったが、勇樹は、ペダルを踏む毎に暖かい風になってくるような感じがしていた。
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