勇樹は、奈々枝の病気のことは、少しは気になってはいたが、奈々枝との関係はもうだいぶ昔のことだし、別に自分が騒いで見ても仕方ないことなので、たまに、ネットで確認するだけだった。確認すると言っても、退院したとか、復帰した時しかネットに出ることはない。いつしか、それも、忘れて、また普段通りの生活に戻っていた。 勇樹は、相変わらず金曜日は坂田と酒を飲み、土曜日は午前中は寝て、ボーっとして一日過ごし、日曜日は学生時代からの趣味であるバイクを走らせる、そんなことを繰り返していた。 そんな時、正人から久し振りに電話が来た。「この前、実家に帰ってボイスに行ったら、さゆりさんが、天田さんと結婚して驚いた」という内容だった。 へー、そいつはすごいな。さゆりさん、ようやく思いを遂げたんだなと、勇樹も驚いた。ただ、正人は「俺は、お前の結婚式にいつ呼ばれるんだ?このままだと、お前に貰ったご祝儀のお返し、棺おけに入れるようになっちゃうぞ」と嫌味を言うのも忘れなかった。 正人は、もう結婚して今は一児のパパだ。年賀状は子供の写真がプリントされており、その男の子の顔は正人そっくりで、見る度に笑ってしまう。 羨ましい気持ちがないと言えば嘘になる。俺だって幸せな家庭を持ちたいと言う希望はある。しかし、こればかりは自分一人で決める訳にはいかない。
日曜日、勇樹は自慢のバイクを駆って、一人で海を見に行った。今日はなんとなく、海を見たくなったからだ。別に理由は無い。それに、希望を聞く相手もいないので、行きたくなった所に行くだけだ。 初秋の静かな砂浜で、一人、寝転んで海を見ていると、近くを歩いているカップルの話し声が聞こえた。 「そんなにショックなの?」女が男を見て言った。 「それはショックだよ。だって、俺、坂下京子のファンだったんだからさ」 「彼女、まだ三十二才だったんだって」それを聞いて、勇樹は立ち上がり、服に付いた砂も落とさずにカップルの方へ走った。 「今、聞こえたんだけど、坂下京子なにかあったの?」 突然勇樹に話しかけられてカップルは驚いた表情をした。 「あっ・・・ええ、さっきテレビで脳腫瘍で亡くなったって言ってましたよ」男が答えた。 「死んだ。それ、本当なの?」勇樹は、ほとんど睨みつけるように男を見た。 「ええ、本当みたいです」 「あなたもファンだったんですか?」女が聞いた。 勇樹は「ああ、俺も大好きだったんだ」そう言って、勇樹はまた、元の場所に戻った。 勇樹は黙って海を見ていた。ザーザーと波の音が聞こえ、太陽の光が海に反射し、キラキラと輝いている。勇樹は光の中に奈々枝の顔が浮かんだ。坂下京子の顔ではない。あの頃の奈々枝の顔を思い出したのだ。 しばらく、勇樹は海をぼんやりと名眺めていた。しかし、頭の中は奈々枝の思い出が次から次へと浮かんでは消えていった。 不思議と、悲しみは沸いてこなかった。それは、勇樹の心の中にある思い出の写真がだいぶ色あせていたのと、奈々枝が自分の手の届かない世界に住んでいたからだと勇樹は思った。
勇樹は次の日、会社の上司に、営業に戻らして下さいと直訴した。 「おい急にそんなこと言われたってな。まあ一応人事の方へは話はしておくが、空きがあるか分からないぞ」 「是非、お願いします」 結果はすぐに来た、勇樹は営業へ異動が決まった。勇樹が前に仕えた上司が、「お前は、今は腐っているようだが、俺は期待してたんだ。やる気があるなら、俺の所に来い」と言ってくれたからだ。 勇樹が、営業所に行ってみんなにあいさつをしていると、元上司が入ってきた。 「向井、ようやくやる気になったか。まあ今日は初日だ、こっちに来いよ。おい、だれかコーヒーを頼む」 勇樹と元上司は応接室でコーヒーを飲みながら雑談をしていた。 「しかし、どうしたんだ、急に営業に戻りたいなんて言って」 「どうしたんですかね。自分にも分かりません。ただ、あの頃の気持ちが戻ったような気がしまして」 「俺に、こってり絞られていた頃か?」 「いえ、もっと前です。もっと純粋な頃です」 「まあどうでもいいけど。お前が本気を出せば、俺は会社でもトップクラスの人間だと思っている。それは嘘じゃない。向井、これからが本当の勝負だぞ。一回、地獄を味わった人間の強さをみんなに見せてやれ」 「頑張ります」 勇樹は、張り切って仕事をした。面白いように商品も売れた。営業に異動して三ヶ月で、営業所トップの成績を上げるまでになった。
勇樹はフラフラとアパートの階段を上った。今日は、忘年会で、明日が休みだと言うこともあって、しこたま飲んでしまった。 「ふー」どかっとソファーに座ると、ネクタイを緩めた。テーブルの上をちらっと見ると、書きかけの年賀状が重ねてあるのが目に入った。 明日はこいつを完成させるか、勇樹は年賀状を手に取り、パラパラと眺めた。昔の友人の名前を見ているうちに、急に懐かしさがこみ上げてきた勇樹は、アルバムを取り出してあっちこっちめくった。そして、一枚の写真で目が止まった。 「奈々さん、もう、いないんだなー」勇樹は奈々枝の色あせた顔を指でなぞった。そして、ぱたんとアルバムを閉じたとき携帯がなった。メールの着信のようだ。 そう言えば、最近、全然メール見てないな。どうせ、いたずらメールしか来てないんだけど。勇樹は携帯を開くとメールを見始めた。 勇樹は片っ端からメールを削除していった。しかし、随分見てなかったんだな。かなり前のメールもある。「おや?」勇樹は、いたずらメールの中に、見たことの無い携帯からメールの着信があることに気が付いた。それは四ヵ月も前のメールだった。そこにはこう書いてあった。 「お久しぶりです。まだ、私のこと覚えてる?私は、勇樹のこと覚えているよ。私が、今あるのは勇樹のお陰だもの。勇樹、ちゃんと仕事してる?勇樹のことだからきっと大丈夫だと思うけど。ところで、私は、また、手術をすることになりました。まもなく、私は手術室に向かいます。その前に、ちょっと病院を抜け出して勇樹にメールをしています。手術が成功すれば、年末には退院できる予定なので、お正月に実家に帰る予定でいます。その時、勇樹に会えたらいいなって思っています。なんか最近、あの頃が懐かしくなっちゃって。それに、勇樹の宿題の答えも聞いてなかったしね。勇樹は忘れちゃったかもしれないけど。あっ、もうこんな時間だ。それじゃ、手術が終わったらもう一度連絡します。奈々枝より」 勇樹は携帯を閉じると、顔を下に向けた。ポタポタとソファーに涙が落ちてきた。色あせたはずの写真は、今、鮮明な色になって、勇樹の頭を次から次へと駆け巡った。その時の言葉もはっきりと心の中に聞こえてきた。あの時の思いも、心の動きも勇樹の胸にこみ上げてきた。 奈々さんは最後まで俺を呼んでたんだ。それなのに、俺は何も出来なかった。気付くこともなかった。勇樹は携帯をきつく握り締めた。 勇樹は、ぼやけて見える携帯のキーを何度も押し間違えながら文字を入力した。 「奈々さん、ごめんね、俺なにもしてやれなくて。ごめんね」勇樹は、決して届くことのないそのメールを返信した。 そして、勇樹はアルバムの奈々枝の写真を見ながら、いつしか眠ってしまった。 次の日の朝、メールの着信音で勇樹は目が覚めた。そこには「勇樹、大好きだったよ。ありがとう」と書いてあった。
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