奈々枝が病院を退院したのは夏休みも終わりに近づいた頃だった。それから、二週間程は自宅で療養して、奈々枝はまた、学校に行き始めた。二週間くらいは母親の車に乗せられていたが、それ以降は自分で歩いて学校まで行けるようになった。もっとも、音が大きいと、なんだか頭が痛くなるからと言って、練習とライブには顔は出さなかった。 秋の風が、さわやかに、そして、ゆっくりと遠くの空気を運んでくるのを感じながら、勇樹と奈々枝は公園の池のほとりを歩いていた。 奈々枝は頭に紺色の帽子を被って歩いていた。まだ、髪の毛は伸びておらず、スポーツ刈り位の長さだと勇樹は聞いていた。 二人は立ち止まると、池の方を向きながら町並みを眺めた。 「勇樹、話しがあるんだ」勇樹が奈々枝を見ると、奈々枝は遠くを見ていた。 「私ね、今年、卒業できないの」 「どうしてですか」 「ずっと入院してたでしょう。だから、出席日数が足りないの。でもさ、そっちの方がいいかなと思って。だって、一学期は全然勉強してないし。これから頑張っても、みんなに追いつけないと思う。だったら、来年頑張って行きたい大学に入った方がいいと思うんだ」 「確かに、それは言えますね」 「それに、そうなれば来年も勇樹と一緒にいれるでしょう」奈々枝は勇樹を見て、うれしそうに笑った。しかし、勇樹は、それが本当の笑顔だとは思えなかった。 「奈々さん、学校で一人になってつらいと思うけど、奈々さんは病気に勝ったじゃないですか。きっと、乗り越えられますよ。来年、一緒に頑張りましょうよ。俺、奈々さんを守りますよ」来年になれば奈々さんは俺しか頼りになる人間がいない。そして、奈々さんを守ることが、俺の役目なんだ。勇樹は、そう思った。 奈々枝は、涙をこらえながら頷いた。「勇樹!」奈々枝は勇樹に抱きついた。勇樹も奈々枝をぎゅっと抱きしめた。奈々枝はしばらくそのままで泣いていた。 二人は、久しぶりに手をつないで帰った。いつもは勇樹が照れることもあって、暗くなってから手をつないでいたのだが、今日は、まだ明るいうちから手をつないだ。 「早く、髪伸びないかなー」奈々枝は帽子を触った。 「髪はいずれ伸びますよ」 「私は前みたいに肩くらいまで伸ばしたいな」 「短いのも似合うと思うけど」 「これは、短すぎ。もう少し伸びれば、帽子も被らなくていいのに」 「でも良かった。また、奈々さんとこうして一緒に歩けて。もう無理かと思いましたもん。やっぱり勇樹大明神のおかげかな」 奈々枝はそれを聞いて笑った。 「言っておきますけど、あれは、奈々さんを笑わせようと作ったものですから、勘違いしないで下さいよ」勇樹は強がった。 もっとも奈々枝はそんな風に思ってはいなかった。笑わせようと作ったのなら、あんなに傷だらけになって作るわけはない。「ありがとう、勇樹」奈々枝はそう呟いた。
学校帰りに、勇樹は一人で町を歩いていた。ギターの弦が一本切れたので、音符にそれを買いに来たのだ。今日は体育祭のバスケットボールの練習があって、もう時間は五時を過ぎていた。 歩いていると、前から来た女子高生に声を掛けられた。 「音楽村の向井さんですよね」 「そうだけど」この子、よくライブに来ている子じゃないか。でもその前にどこかで見たような・・・。 「あのーお願い事があるんですけど」女子高生はバックからノートを取り出した。 「ここに、サインをお願いします」 「サイン?俺の?」 「はい」女子高生は恥ずかしそうに言った。俺も捨てたもんじゃないな。勇樹はまゆを上下させると鼻を触った。 「いいけど、俺、サインなんて書いたこと無いから、上手に書けるかな」 「書いてもらえれば、それでいいです」 勇樹はペンを受け取ると、大きな字で向井勇樹と書いた。 「これでいいかな」 「ありがとうございます」女子高生はぺこりと頭を下げた。笑顔が素敵な女の子じゃないか。でもこの子・・・「あれ、もしかして。君は矢沢じゃないか」 「思い出してくれました。テニス部にいた矢沢です」女子高生はうれしそうな声を上げた。その女子高生は勇樹の一つ下だった。 しかし、俺はテニス部に縁があるな、勇樹はさゆりの顔が浮かんだ。「なんか文句ある?」浮かべた顔はそう言っているようだった。 「まだ、テニスやってるの」 「いえ、今は、してません」 「そうか、どうして辞めちゃったの」 「怪我しちゃいまして、それで、ラケットが思い通りに振れなくなったんです。それで、辞めちゃいました。向井さんも高校で野球やらなかったんですね」 「俺も同じ理由さ。あれ、それは、そうか、どうやら弓道部に入っているみたいだね」 「そうです」 「そうか。なにかに一生懸命になれるっていうのはいい事だと思うよ。頑張れよ」 「はい」女子高生は元気よく返事をするとその場を立ち去った。
「俺だ」正人が携帯に出た。 「俺さ、今日、サイン書いたんだぜ」 「誰だ、その物好きな女は。あー分かった。矢沢だろう」 「何で知ってんの」 「その子、ライブに来てお前のことばっかり見てたし。それに中学三年のとき、俺が、ほら、チョコレートって言って渡したやつ、それは、お前に渡して欲しいって、矢沢に言われたものだし。それらを総合すれば、矢沢しかいないだろう」 「お前、最近頭冴えてるな」 「いや、俺も女心が分かってきたってことさ。ところで勇樹、明日の練習行けるのか」 「ああ、行くよ。体育祭の練習は明日はないって言ってたから」
土曜日の練習の前に、勇樹は前のように、ギターと練習道具を持って奈々枝の家に向かった。奈々枝は帽子を被って待っていた。ふと机を見ると見慣れない置物が置いてあった。 あれこれは?その置物は以前見たことのある形をしていた。これは、勇樹大明神じゃないか。それはきれいに色が塗られていた。 「それね、家で休んでいるとき色を塗ったの。どう、結構よくなったでしょう?」 「全然違いますね」勇樹は手にとってそれを眺めた。本当に勇樹が歌っているように、上手に着色してあった。 「名前を付けたんだ。なんて言うと思う」 「そうですね。勇樹大明神様、違うか。えーと、勇樹スペシャル。これも違う。すみません分かりません」勇樹は諦めた。 「これはね、ユウキって名前にしたの、ほら、ここ見て」奈々枝は勇樹からユウキを取ると、後ろを見せた。そこにはカタカナでユウキと書いてあった。 「カタカナで勇樹か。どうしてカタカナでユウキなんですか?」 「それは、勇気っていう意味。名前は昨日付けたんだ」 「昨日?」 「そう昨日。私も一人で、困難なことに立ち向かえるユウキが出ますようにって。だからユウキにしたの。じゃあ、座って。勉強しよ」奈々枝はユウキをテーブルの上に置いた。 勇樹と奈々枝はテーブルに向かい合って座り、勉強を始めた。前は勇樹が奈々枝に教えられてばかりいたが、今日は、奈々枝も勇樹にいろいろ聞いてきた。 そうして、一時間ほど勉強したところで、母親がタイヤキとお茶を持ってやってきた。 「どう、頑張ってる?」母親はタイヤキとお茶をテーブルの上に置いた。そして母親は突然笑い出した。 「お母さん、どうしたの?」奈々枝は不思議そうな顔をした。 「だって、その人形、最初は恵比寿様だと思ったのよ。そしたら、それ勇樹君だって言うじゃないの。もう、おかしくて」 勇樹は恥ずかしくてタイヤキを口に入れたまま下を向いた。 「私、そのギターのところが、恵比寿様の持ってる魚だと思っちゃったの」母親は笑いが止まらなかった。勇樹は更に下を向きながらもごもごとタイヤキを食べた。
「ご馳走様でした」勇樹は奈々枝の家の玄関でくつ紐を結んでいた。 「奈々枝は行かないの?」母親が勇樹を見送りに来ていた奈々枝に尋ねた。 「うん、まだ、大きな音聞いたら、頭が痛くなりそうで」奈々枝は母親の顔を見た。 「もう大丈夫じゃないの。それに、最近奈々枝、家にばかりいるじゃない。たまには、外に行った方が気分転換になると思うけど」 「そうかな、じゃあ行って来る。ちょっと待っててね」奈々枝は部屋に戻り、バックを持って来てやってきた。
「奈々枝さん、久し振りです」正人が奈々枝に近づいた。「どうしたんですか、その帽子?」 「正人ちゃん。女の子の気持ちを分かってないようね」文江が正人をたしなめた。 正人ちゃんだって。最近正人は文江にそう呼ばれていた。それを聞くたび勇樹はクスクス笑った。 「勇樹、なに笑ってんだよ。お前に半田を紹介して欲しいって言われたこと、ばらしてもいいんだぞ」 「えっ、半田って誰なの」奈々枝が勇樹を見た。 「いや、男ですよ、男。三組の男」勇樹は慌てた。 「結構、美少年なんだよねそいつ。勇樹、前から気になってたみたいなんだ」正人が面白おかしく言った。 「あんた達、ばっかじゃないの。ほら、練習始めるよ。今度が三人でやる最後のライブなんだからね」
練習が終わって、久し振りに五人でジュースで乾杯をした。 「そうか、もう、最後なんだね」奈々枝が寂しそうに言った。 「でも、奈々枝は来年も勇樹君のライブ見れるじゃないの」文江が言った。 「なんでですか。」正人が体を乗り出して聞いた。 「正人君には言ってなかったわね。私、今年、出席日数が足りなくて、卒業できないのよ」 「ずるい、勇樹、それはずるいぞ。俺は文リンと来年で分かれるかも知れないのに、お前だけ奈々枝さんと一緒にいれるなんて、それはずるいぞ」 「やだー正人ちゃん、みんなの前で文リンなんて言ってー」文江は両手をほほにつけて恥ずかしそうに体を左右に振った。 勇樹は最初、言葉が出なかった。しかし徐々に笑いが込み上げてきた。でも必死で我慢した。人にはいろんな恋愛の形がある。それを笑っちゃいけない。そう思ったからだ。 でもな正人、いくらなんでも文リンはないだろう。勇樹が、奈々枝とさゆりを見ると二人も必死で笑いをこらえていた。目が合うと三人は大声を出して笑った。正人は赤い顔をして顔を下に向け、文江は相変わらず体を左右に振っていた。
「ねえ、勇樹。半田って人、本当に男なの?」帰り道、奈々枝が勇樹に聞いた。 「男ですよ。正真正銘の男です。それに俺はそういう趣味はありません」 「なら、いいんだけど」それから、奈々枝は何も話さなくなった。勇樹が話しかけても「うん」と「そう」しか言わなくなった。 「奈々さん、どうしたんですか。もしかして俺を疑ってるんですか」勇樹は立ち止まって奈々枝と向き合った。 「ううん。でも、勇樹。他に好きな人がいたら、無理に私に付き合ってくれることないんだよ」奈々枝は下を向いて勇樹と目を合わせなかった。 「俺は、奈々さんだけですよ。いつも言ってるじゃないですか。その言葉に嘘はありません」 「昨日、女の子と会ってたでしょう?あれは誰なの」 「えっ、ああ、あれは中学時代の後輩ですよ」 「楽しそうに話してたよね」 「それは、知り合いですから」 「ねえ、勇樹、本当は、私みたいな・・・病気持ちで、男みたいな髪の女なんか相手にしたくないんでしょう!」奈々枝は、そう言うと駆け足でその場を立ち去った。 勇樹は、奈々枝を追いかけられなかった。奈々枝に疑われていることと、急に変わった奈々枝の態度がショックでその場を動けなかった。 俺は、こんなに奈々さんを好きなのに。それは奈々さんも分かっていると思ってた。なんで、こんなことになるんだ。誰も悪い訳じゃないのに。なんで、こんな思いをしなくちゃいけないんだ。 勇樹は奈々枝の家の前まで来た。何度も携帯を鳴らしたが奈々枝は出なかった。メールで「今、外にいます。話しがしたい」そう送信しても返信はなかった。 勇樹は、その日、また眠れない夜を過ごした。誤解なんだ奈々さん。全部誤解なんだ。勇樹は自分の気持ちが伝えられない悔しさと、このまま奈々枝との関係が終わってしまうかも知れないという不安から、夜通し机に座り頭を抱えていた。
次の日、勇樹は朝早くから奈々枝の家の前にいた。そして、ずっと奈々枝の部屋を見上げていた。電話もメールもしたが返事はなかった。 それは間もなくお昼になろうという時間だった。 「なんだ、勇樹君じゃないの」奈々枝の母親だった。 「さっき、近所の人から、怪しい人間が家の前にいるって電話が来たのよ」 「すみません、ちょっと、いろいろありまして」勇樹は頭を下げた。 「昨日の奈々枝の様子だと、おそらくケンカでもしたんだろうとは思ってたけど。どうぞ、入って」 勇樹は居間のソファーに座った。向い側には母親が座った。勇樹は訳を話した。 「ごめんね。先生にも言われたんだけど、しばらくは精神的に不安定になるって言ってたから、おそらく、それが原因だと思うんだけど」母親はちらっと勇樹の顔を見てお茶を飲んだ。 「ええ、実は、最近そうかなと思うときはあったんです。でも、昨日の様子はちょっと変だったんで、とても心配で」 「ちょっと待って、様子を見てくるから」母親は立ち上がると二階へ上がった。 「奈々枝、勇樹君来てるよ。部屋に入れていい?」 「一人にさせて頂戴」奈々枝は布団にくるまっていた。 「良く話し合った方がいいんじゃないの」 「分かってる。でも、今は話したくないの」 母親が居間に戻ってきた。 「勇樹君、ごめんね。今は、一人でいたいそうなの」 「分かりました。じゃあ、帰ります。お邪魔しました」勇樹は奈々枝の家を後にした。勇樹は何度も何度も振り返って、奈々枝の部屋を見たが、奈々枝の姿を見ることは出来なかった。
勇樹は、それからしばらく、朝、昼、晩、寝る前に「話がしたい。返事待ってます」と奈々枝にメールを送った。勇樹は、メールを送るたび、今度は返事がくるだろうと思っていたが、奈々枝からの返信がくることはなかった。 次第に、勇樹はいらいらして、奈々枝に対して憎しみさえ覚えるようになってきていた。しかし、その度に、精神的に不安定になってるのかも知れないと思い、爆発したい気持ちを抑えていた。しかし、徐々にそれも限界に近づいてきた。 勇樹は、家で宿題をしている時、鉛筆をへし折った。なんで俺がこんな思いをしなくちゃいけないんだ。俺がなにをしたっていうんだ。勝手に人のこと疑って、俺はずっと奈々さんを思っていたのに。髪の毛がなくたって、病気だって、俺はかまわない。これからも、奈々さんを守っていこうと思ってたのに。その怒りは奈々枝に向かった。 ばさっと教科書と筆箱を机の下に叩き付けると、勇樹はどさっと布団の上に倒れた。悔しかった。奈々枝が手術の時、自分がなにも出来なかった悔しさと同じものではない。まったく異質な悔しさだ。 いいさ、そっちがその気なら、勝手にするがいい。勇樹はその日から奈々枝にメールをするのをやめた。しかし、もしかしてと思い、勇樹は寝る前には必ず携帯を確かめて、そして、ため息をついて布団に入るのだった。
「勇樹、ちょっと話しがあるんだけど」練習が終わってさゆりが勇樹を呼んだ。「それじゃね」正人と文江は一緒に帰って行った。 「最近、奈々枝の様子が変なんだけど、なにかあったの。今日も来なかったしさ」 「さあ、俺には分かりませんよ」勇樹はさゆりの顔を見ずに、窓の外を見て突き放すように言った。 「そう言う言い方をするってことは、何かあったのね。何があったのか話してよ」 「それはこっちが知りたいですよ。勝手に人を疑って。俺が浮気をしてると思ってるんです。病気持ちで、男みたいな髪の女より、そっちの女の方がいいでしょって、きっとそう思ってるんだ。それならそうで、本当に浮気をしてやろうかと思いますよ」 「勇樹、あんた、本当にそんなこと思ってるの」 「思ってる訳ないでしょう!」勇樹は大声を上げた。 「そんなこと思ってる訳ないでしょう」勇樹は自分に言い聞かせるように、唇を震わせながら、もう一度静かに言った。 勇樹は窓の外を見た。そこには、正人と文江が仲良く手をつないで歩いている姿が勇樹には見えていた。勇樹は仲の良かった頃の自分達を思い出して目が潤んできた。 「さゆりさん、俺、本当に奈々さんが好きなんですよ。これからは俺が奈々さんを守らなくちゃって思ってたんです。その気持ちは今も変わってはいません。でも、それを伝えられないんです。もう二度と伝えられないかも知れないんです。そのうち奈々さんを本当に憎みそうで、俺、怖いんです」 「奈々枝が誤解してるって勇樹は思ってるんだね」 「そうです。あの時俺は、中学時代の後輩の女の子にサインを頼まれました。ただ、それだけです。おそらく奈々さんは、お母さんの車に乗っているときにでも、それを見たんでしょう。でも、奈々さんは、それを信じてはいない。だから、俺はそれが悔しくて。こんなに奈々さんのことを思っているのに。奈々さんは俺を信じちゃくれないのかって」 「本当にそう思う?」 「それしか考えられません」 「あたしね、昨日、奈々枝が国語の時間に書いていたノート見たんだ。一ページ全部勇樹の事が書いてあったよ。なんて書いてあったと思う」 「勇樹のバカヤローですか」 「違うよ。勇樹ごめんね、だよ」 「えっ?」
奈々枝は母親の車で病院から帰ってくるところだった。今日は退院後の定期検査と、薬をもらいに病院に行ったのだ。 奈々枝が外をぼんやり見ていると、勇樹がとぼとぼと一人で歩いているのが見えた。奈々枝は通り過ぎるまで勇樹をじっと見ていた。母親はそれに気がついたが、何も言わなかった。 奈々枝は家に帰り、一人で布団に入った。最近なにもする気が起きないし、母親とも話したくなかった奈々枝は、家に帰ると横になってばかりいた。 そんな奈々枝を母親は、黙って見ていた。言うことは「はい、これお薬ね。こっちは寝る前に飲むのよ」それだけだった。 学校でも奈々枝は、さゆりや文江と話すことも少なくなった。さゆりと文江も受験勉強で忙しく、奈々枝をかまっていられなかったが、合えば、やっぱり、卒業できないのショックなんだろうね、と言って、奈々枝を見ているだけだった。
さゆりは大粒の涙をこぼしてステージから降りてきた。みんなにもらった花束を大事に胸に抱いて、何度も何度も音楽村のメンバーに頭を下げていた。 「さゆりちゃんは、本当に成長したな。音楽だけでなく、人間的にも成長した。俺は、村長としてさゆりちゃんを誇りに思うぞ」大森はさゆりと握手をした。 「さゆりちゃんが来なくなるの寂しいな。でも、これからが大事なときだからな。勉強だけじゃなくて、一人の女としてもさ」天田が手を差し出した。 「何言ってるんですか。あたしはボイスにはまた来ますよ。だってここは故郷ですから」さゆりは天田の手をぎゅと握った。 勇樹は一人椅子に座り、黙ってそれを見ていた。ふと、前を見ると、このまえサインをお願いされた矢沢が勇樹を見ているのに気がついた。矢沢は勇樹と目が合うと、頭を下げて店を出て行った。 「勇樹、行くぞ」吉田が勇樹に声を掛けた。勇樹は思い腰を上げ吉田の後について行った。 「さゆりちゃん、今までありがとう。そして、さゆりちゃんの受験の成功を願って、乾杯!」大森の音頭で、いつもの宴会が始まった。 正人と文江が仲良く話している脇を通り、勇樹は一番はしっこに座った。そして、コップにビールを注ぐと一人で飲み始めた。それはとても苦かった。 「どうした、勇樹君」一人でぽつんと座っている勇樹が気になったのか、弘道が勇樹に話しかけた。 「いえ別に、俺もビール飲んで見ようかなって思いまして」 「今日も、奈々枝ちゃん来なかったね。病気は治ったって聞いてるけど、まだ本調子じゃないのかな」 「さあ、俺には、分かりません」 「随分、冷たい返事だな。もしかして分かれたのかい?」 「俺は、そうは思ってませんけど、あっちはそう思ってるかも知れませんね」 「勇樹君」弘道は勇樹と向かい合うと、手を勇樹の肩に乗せた。 「勇樹君。まあ、そういうこともあるさ。でも、いい思い出いっぱい出来たんだろう。まあ、今は、つらい思い出になってるかも知れないけど。でも、いつか、それが、いい思い出になるときがくる。例えそれが、いつまでもつらい思い出だったとしても、その経験は勇樹君を成長させてくれるはずさ」 勇樹は黙って頷いた。 「俺、勇樹君を見てて思ったんだけど、最初より随分歌が上手くなったと思うよ。技術的なことだけじゃなくて、気持ちが見えるようになってきたと思うんだ。特に今日の歌は今までの中で、一番だった」 「本当ですか」 「ああ、嘘じゃない。きっと、奈々枝ちゃんとの出会いが、勇樹君を一回り成長させてくれたんだ。今、勇樹君が奈々枝ちゃんをどう思っているか分からないけど。将来、出会ってよかったって、そう感謝する時が来るさ」 弘道は、勇樹の肩から手を外すと、勇樹が飲んでいたビールを一気に飲み干し、そこにウーロン茶を注いだ。 「それから、やけ酒はまだ早い。まだ若いんだから、前向きに考えろよ」弘道はピースサインを出して戻って行った。
音楽村のクリスマスライブのステージには、勇樹と正人は出なかった。さゆりが辞めて、曲を練り直したりしていたこともあり、とてもライブまでは間に合わなかったからだ。もっとも、練習はさゆりの家の倉庫を使わせてもらってたので、ちょくちょくさゆりは顔を出して、ああだこうだと口を挟んではいた。 二人は、他のメンバーのステージを見ていた。今日は、さゆりと文江も見に来ていた。しかし、勇樹が辺りを見回しても、奈々枝の姿はどこにも見えなかった。 ライブの後片付けが終わり、勇樹は、正人と文江が一緒に帰るのを見送った。そして、さゆりの姿を探した。さゆりも同じように勇樹を探していたようだ。目があうと、さゆりが勇樹の方へ向かってきた。 「勇樹。最近、奈々枝と話した?」 「いえ、全然」勇樹はため息をつくように言った。 「そう。奈々枝ね、最近様子がおかしいんだ。なんか元気がなくてさ。やっぱり、みんなと一緒に卒業できないのと、勇樹とうまくいってないせいかなって、文江と話してたんだけど」 勇樹は、顔をさゆりに向けたまま、視線を宙に泳がせていた。そんな勇樹にさゆりも何も言わなかった。 勇樹もさゆりも、奈々枝が一体どうしてしまったのか、それが知りたかった。勇樹は、さゆりなら奈々枝のことが分かるかも知れないと思っていたのだが、どうやら、さゆりにも奈々枝が変わってしまった理由は分からないらしい。さゆりも同じように勇樹なら、その理由が分かると思っていたようだ。 しばらく二人は、友人の告別式で久しぶりに会った旧友のように、向かい合って黙って立っていた。 突然大声がした。 「おい、打ち上げに行くぞ」天田の声だった。 「今、行きます」さゆりが応えた。 「さゆりちゃん、受験勉強しなくていいの?文江ちゃんは帰ったけど」吉田が言った。 「たまには、ストレス発散してもいいでしょう。ねえ、勇樹も行くんでしょう?」 さゆりにそう誘われたが、なんとなく一人になりたかった勇樹は、首を横に振って店を出た。
「向井さん」不意に後ろから声がした。振り向くと矢沢が立っていた。 「どうしたの」勇樹は首だけ後ろに向けた。 「今日は演奏やらなかったんですね」 「ああ、メンバーが一人抜けてね。今いろいろ練っているところさ」 「さゆりさんが抜けたんでしょう」 「そうか、矢沢、同じ部だったからさゆりさんの顔知ってるんだな。まあ、受験だから仕方ないよ。もっとも、無理して、ついこないだまで付き合ってもらったからね。お礼を言いたいくらいさ」 矢沢は勇樹の前に立った。 「向井さん。これ読んで下さい」そう言って手紙を渡すと矢沢は駆け足で立ち去った。 勇樹は家に帰ってその手紙を読んだ。これはラブレターだ。丁寧な字で勇樹への想いが綴ってあった。 勇樹は、その手紙を複雑な思いで眺めた。俺に付き合っている人も好きな人もいなければ、矢沢と二人で会ってみてもいい。だけど、今は、付き合っている人はいるような、いないような状態だ。おそらく、第三者からみれば、付き合ってる人はいませんね、と言われるだろう。好きな人は?と聞かれれば、好きな人はいます。と答える。もっとも、これも第三者からみれば、振られたんでしょう、と言われるような状態だ。 勇樹は、腕組みをして椅子を前後に揺らしながら考えた。どうせ、奈々さんとは、もう修復不可能なんだから、いっそのこと矢沢と付き合っちゃおうかな。でもな、こんな中途半端な気持ちで付き合ったら矢沢に悪いし。 なんだよ、どうすればいいんだよ。こういう時はボン・ジョビでも聞こうと、勇樹はがちゃがちゃとCDを探し始めた。「あれ?こんな所にあったのか」。勇樹はCDのスイッチを入れた。そこからは、勇樹と正人とさゆりが、初めて録音をしたときの演奏が流れてきた。 ヘッタクソだな。あっ正人コード間違えてやがる。さゆりさんも全然合っていない。あーあ、俺も歌詞間違えてるし、音程も時折ずれている。今聴くと、最初の頃はこんなレベルだったんだな。弘道さんが上手くなったって言うのも分かる気がするよ。 それでも勇樹はそのCDを最後まで聴いた。そして、何度も何度も繰り返して聴いた。そして、勇樹はヘタクソでも一生懸命に演奏していた自分達を思い出していた。いつしか勇樹の目には涙が溜まっていた。 俺、逃げてるだけじゃないか。こんなヘタクソな演奏してても、あの頃は逃げなかった。こんな録音を持って大森さんの所へ行って、そしてライブまでやったじゃないか。それなのに、今はどうだ。奈々さんとの関係がおかしくなったのは、奈々さんが勘違いしているせいだと思って、自分の気持ちをぶつけなかったじゃないか。 「勇樹ごめんね」そうノートに書いた奈々さんの気持ちは俺には分からない。でも、それを考えてもしょうがない。俺は、奈々さんに自分の気持ちをぶつけるのが先だったんだ。 勇樹は、携帯を手に取ると手紙に書いてあった矢沢のメールアドレスに「手紙読みました。今、僕には、好きな人がいます。ごめんね。でも、また、ライブ見に来て下さいね」と送った。 そして、「奈々さん。俺、今でも奈々さんが好きです。あれ以来ずっと、俺はこんなに好きなのに、奈々さんは俺を信じてくれないのかって思ってました。正直、恨んだこともありました。でも、俺が奈々さんを好きな気持ちに変わりはありません。今でも、奈々さんを守れるのは俺しかないって思っています。でも、奈々さんの気持ちが俺から離れたら、それは仕方のないことだと思います。ただ、こんな気持ちでさよならしたくはありません。嫌いになったのなら、嫌いになったと言って欲しい。俺は、奈々さんの本当の気持ちが知りたいだけです」と奈々枝にメールをした。 勇樹が布団に入り、間もなく寝つこうかという時だった。勇樹の携帯がなった。それは奈々枝からのメールだった。勇樹は携帯を取ると布団を飛び出した。そして、ドキドキしながら震える手でメールを見た。 「勇樹。私は今でもあなたが大好きです。私には勇樹しかいないの。だから、勇樹お願い、ずっと待っていて欲しい。私をずっと待ってて」携帯の文字を通して奈々枝の気持ちが勇樹には伝わった。 勇樹は奈々枝の気持ちが分かってうれしかった。奈々さんは俺を必要としている。勇樹はまだ震えの止まらない手で「待ってます。俺、奈々さんをずっと待ってます」と返信した。 奈々枝は勇樹からの返信を見ると、携帯をぎゅっと胸に押し当てた。そして、机の上にあるユウキを取ると、名前の部分を塗りつぶし、そこに「勇樹」と書いた。
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