春の埃っぽい空気の中、勇樹は、校庭の端っこで地面に座りながら、近くにあった小石を一人で投げていた。石を投げたその先では陸上部の部員がダッシュを繰り返し、さらにその先ではサッカー部がセットプレイの練習を繰り返している。 時折、野球部のボールが勇樹の脇を通り過ぎ、壁に鈍い音をたててぶつかった。そのたった一個のボールを争うように、何人もの新入生が駆け足でやってきては、ボールを取ると上級生のもとへ返した。 勇樹は、そのうち小石を投げることをやめ、黙って野球部の練習を見ていた。監督がノックをし、選手がそれに飛びつく。取れなければ監督に叱られ、周りの連中が掛け声を掛ける。バッティング練習では、金属音とともに鋭い打球が飛ぶ、かと思うが、弱小高校ではそんな当たりはそうは見られない。 脇のピッチング練習を見ると、エースと思われる生徒が力一杯ボールをキャッチャーに向かって投げている。しかし、山なりのボールが、さびしい音を立ててキャッチャーミットに収まる。 勇樹は、それを脇目に見ながら立ち上がると、服についた土を振り払おうともせず、ゆっくりと中庭の方へ歩き出した。 「勇樹、ここにいたのか。探したよ」 それは山田正人の声だった。正人は、中学時代に勇樹とバッテリーを組んでいた同級生だ。勇樹はピッチャー、正人はキャッチャーだった。 「どうしたんだ」 気だるそうに勇樹は、正人の方を見た。 「勇樹、お前、もう野球やらないんだろう」 その理由はお前が一番よく知っているんじゃないか。勇樹はそう思いながらも、正人の方に歩いて行った。 「どうだ、俺と音楽やらないか」唐突に正人が勇樹に言った。 音楽?確かに正人は、野球というよりそっちの方に興味があったのは知っている。いつだったか、試合中に「おい、勇樹、ここはエイトビートで三振にとろうぜ」と訳の分からないことを言っていたのも覚えている。 「音楽ねえ。まあ、どうせ、俺にはもうなにも残っちゃいないんだから、お前が言うなら、付き合ってやってもいいよ」深く考えることもなく、勇樹は返事をした。 「そうか、そいつはいい。お前ギターは弾けるよな。それに歌も上手いしさ。一緒にやろうぜ」 正人は、キラキラと目を輝かせた。正人とは、中学三年間同じクラスだったし、一緒にギターを弾いたり歌も歌った記憶もある。確かに、勇樹は正人より歌が上手いのは間違いない。と言うより正人は歌はからきしダメだ。 「ああ、いいよ」 勇樹はポケットに手を突っ込んだまま答えた。 「それじゃ、水曜日の四時に俺んちに来いよ」 正人は、手にメモのようなものを持っていた。 「おい正人、それなんだよ」勇樹はそのメモを覗き込んだ。 「これか、これはメンバーのリストさ。俺だろう、そしてお前、後はいない」 そのメモには、俺・ギター、勇樹・ボーカル・ギターと、書いてあった。 「おい、二人だけかよ」 「すぐメンバーが見つかる訳はないだろう。まだ時間はあるんだ。ゆっくり探すさ」 勇樹は、別に音楽をやりたいなんて思っていなかったが、せっかく高校に入って、なにもやらずに三年間過ごす気もなかったので、まあ、いいさ、いろんなことにチャレンジしてみるのも悪くない。そんな気持ちで正人の顔を見ていた。
約束した水曜日に、勇樹は自転車に乗り正人の家に向かった。正人は家の前に出て勇樹を待っていた。 「随分早いな、気合十分だな」正人が勇樹を見ると言った。 「お前こそ、野球部の練習の時は、いつまでも出てこなかったくせに、人のことは言えないさ」 「さあ、行こう」 正人は自転車にまたがり、道路に飛び出すと勇樹を手招きした。 「おい、どこに行くんだよ」 勇樹も正人の後を追っかけた。 「ボイスって言う喫茶店さ」 「喫茶店?なんで喫茶店に行くんだ」 正人に追いついて勇樹は聞いた。 「そこの喫茶店で、月一回ライブをやってるんだ。喫茶店だから、ドラムとかは置けないみたいだけど、今の俺たちにはピッタリじゃないか。そこで修行しようと思ってさ」 正人が言うには、ボイスでは社会人が作っている音楽村というサークルが毎月一回ライブをしているらしい。そして今日はそこに、音楽村のリーダーが来るということだった。 「なんでお前がそんな人と知り合いなんだ」 「俺、高校に入ったら絶対音楽やる!って決めてたんだ。だから、いろんなところに声掛けたのさ。そしたら、ボイスの店長が、話をつけてくれたんだ。ボイスの店長は、俺の一番上の兄貴と高校で同級生だったんで、うまく話がまとまったよ」 たいしたもんだこいつは。キャッチャーをしているときは、しゃがむのも面倒くさいといった感じで、サインは直球三球、次はカーブが一球とお決まりのリードしかしなかったのに。このくらい真面目にやってくれれば、全国大会にだって行けたかも知れないじゃないか。勇樹は苦笑いをした。 勇樹は、「いいよ」とは言ったものの、こんなに本格的に音楽をやりたいと思った訳ではなかった。しかし、自転車で並んで走っている正人の顔を見ていると、とても、そんなことを言える雰囲気ではなかった。
その喫茶店は繁華街の裏、映画館に面した通りの二階にあった。繁華街といっても、人口十万程度の田舎町じゃ、自転車で走れば五分もあれば一周してしまうくらいなのだが、勇樹はこんなところにはめったに来なかったし、来るとしても家族と一緒だったので、なんとなく、おどおどしながら自転車を道路脇に止めた。 しかも、勇樹は喫茶店なんて言う大人の入る場所に、初めて行くこともあって、緊張で手が震えてきた。しかし、それを見られて正人にバカにされたくなかったので、そんなことを悟られないよう、「さあ行こう」と元気良く言った。もっとも、最初に正人に行かせて、勇樹は後をついて行ったのだが。 木製の茶色いドアを開けると、中からぷーんとコーヒーの匂いが漂ってきた。その匂いを嗅いでいるうち、勇気は緊張が解けてきた。 そんなに広くはない店の中は、ダークブラウンで統一されていた。ライブと言っても、ギュウギュウ詰めで四十人も座れればいい方だろう。 店の片隅にいたサングラスを掛けた男性が、正人を見つけると手を上げた。 「おー正人。こっちだこっち。そこに座れ」 「失礼します!」野球部上がりの二人は、大きな声で椅子に座った。 男性は、そんな勇樹と正人がおかしかったのか、タバコの煙を吐き出すとき、鼻から吹き出して笑った。子供扱いされているみたいで、勇樹はまた緊張してきた。 正人が右ひじで勇樹の腕を突っついた。正人を見ると、目は勇樹を見たまま、あごで男性の方を指した。 ああなるほど、あいさつしろってことか。勇樹は目で分かったと頷くと、立ち上がった。 「向井勇樹です!」ペコリと頭を下げて、また椅子に座った。 男性は、下を向いて笑いをかみ殺していた。やばい、完璧にバカにされている。勇樹はさらに緊張してしまった。 「俺は、天田って言うんだ。この店の店長で、正人の兄貴と同級生さ。しっかし二人とも元気はいいな。まあ、若いうちは元気がなけりゃなにも出来ないけどな。何かをやらなきゃ、人間成長しないものさ。若いとき閉じこもってばかりじゃ、ろくな大人になる訳がない。たまにやけどしたっていいじゃないか、やけどしなきゃ、熱い、痛いは分からないものさ」 天田は正人と年の離れた兄貴の同級生で、父親はこの町でレストランや飲み屋を経営していた。そして、この店は天田が任されていたのだ。 鼻をフンフン鳴らしながら天田が語っていると、「お前は、昔からやけどばっかりしてるけど、熱い、痛いが分かっているとは思えないな」髪をビートルズカットにして、ジーンズにTシャツを着た、三十才位の普通のおじさんが、勇樹と正人の前に座った。だが正直、ビートルズカットが似合っているとは、お世辞にも言えない顔立ちだと勇樹は思った。 「大森さん、来てたんですか、言ってくれればいいのに」 「客が来たら気づくのが普通だろう」 大森は、勇樹と正人の方を見て、「お前たちコーヒーでいいか」と聞いてきた。二人はこくっと頷いた。勇樹が隣を見ると正人も緊張しているように見えた。 「じゃあコーヒー三つ」大森が天田に注文した。そして、緊張する二人を向いて言った「俺は音楽村の大森って言うんだ。一応リーダーと言う事になっているけど、みんな村長って呼んでいる・・・あれ受けなかったか」 勇樹と正人が緊張していなくても受ける話ではないが、緊張をほぐしてやろうという気持ちは二人に伝わった。 「君達、ここでライブをやってみたいのかい」 くちゃくちゃになったタバコを、ズボンのポケットから取り出しながら大森が二人に聞いてきた。 「はい」正人が緊張しながら答えた。 「いいだろう。君たちの入村を認める」 「えっ、本当ですか」正人が身を乗り出した。 「本当だ。ただし、三ヶ月間はここでみんなのライブを見て、その後で君たちのテープ審査を行って、ライブに出すかどうか決めるから。それでいいか?」 「はい!」正人は嬉しそうに返事をした。 「だけど、見ての通りここは狭いので、演奏できるのは三人が限度だ、だから、本格的にバンドをやりたいなら、別なところを紹介してやるが、俺のところでいいのか」 「はい、とりあえずお願いします」正人は正直に返事をした。 「とりあえずな・・・ははは、正直でよろしい。まあ、今はコンピュターもあるから、結構厚めのサウンドをやってる人間もいるし、ここで修行するのも悪くないさ」 「あの、音楽村って、どんな人達がいるのですか」正人が聞いた。 「全員社会人さ。高校生は君たちが初めてだ。市役所の職員もいれば、農協職員もいる。ちなみに俺は自営業だ。今、活動しているのは五組。ただ、仕事やらなにやらで、ライブは三組も出ればいい方なんだ。だから君達にも十分チャンスはある、頑張れよ」 「はい」正人の勢いに押されて「はい」と勇樹も返事をした。 「じゃあ、来週の水曜日、七時からライブやるんで、見に来てくれ」 コーヒーが運ばれてきた。大森はブラックでコーヒーを飲んだ。隣を見ると正人もブラックでコーヒーを飲んでいる。 よし、俺もブラックでコーヒーを飲むぞ。勇樹はコーヒーを口に含んだ・・・うげっ、にがっ!しかし、そんなことは顔に出さず、舌が麻痺している間にコーヒーを飲み干し、後は水を飲んで大森の話を聞いていた。 「しかし、君達の頃は何にでも興味があるだろうな。まだ、タバコを吸ったり、酒を飲んだりはしないだろうけど、そのうち、悪さもしたくなると思うよ」 「大森さん、何の話をしているんですか」脇から天田が口をはさんだ。 「俺は、こういう若者が好きなんだ。だから、ちょっと言っておきたいのさ。君達、大人ぶりたい気持ちは分かる。だがな、タバコを吸っても、酒を飲んでも大人になる訳じゃない。どんなに大人のように見せても、見る人が見ればメッキは、はがれるもんだ。君達の頃は、分からないものは分からない、出来ないものは出来ない、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、ブラックコーヒーは苦くて飲めないって、はっきり言った方がいいぞ。メッキをしていない若者の方が、ずっと素敵だと俺は思ってるよ」 勇樹はドキッとした。この人、俺がブラックコーヒーが苦かったっていうのを当てたよ。こんな風貌だけど、本当は凄い人なのかも知れない。勇樹はおそるおそる聞いてみた。 「あのー、どうして僕が、ブラックコーヒー苦かったっていうのが分かったんですか」 一瞬の間があって、大森は大笑いした。 「ははは、そうか、苦かったか。いや、ものの例えで言っただけだよ。でも、そうか苦かったか」 横を見ると天田も笑っていた。 「そう言う風に物事に対して素直になれって、大森さんは言ってるのさ。そのうち、コーヒーの味も分かってくるよ」 勇樹が正人を見ると、正人も笑っているではないか。お前にだけは笑われたくなかった。
喫茶店を出て二人は自転車を押しながら歩いた。 「俺、がぜんやる気が出て来たもんね」正人の声はいつもより高く響いていた。 「そうだな、俺も頑張ってみるよ」 「頑張ってみるよ、じゃなくて、頑張るぞ、だろう」正人が勇樹に噛み付いた。 「大丈夫だよ、やる気を見せた時の俺の根性は、お前も知っているだろう」 「そうだな。それは俺が一番知ってるさ。ひょうひょうとしていながら、一番頑張っていたもんな」 「そうそう、人に努力の跡は見せないのが、俺のやり方なんだ」 「勇樹、お前、レフトの高木がエラーして県大会で負けたとき、ぐちゃぐちゃに泣いている高木に、気にするな!俺達みんな頑張ったじゃないか、って慰めていたけど・・・」 「ああ、あれは、高木のせいで負けた訳じゃない。どう見ても相手の方が実力は上だった。あれで延長になっても勝てる相手じゃなかった」 「お前、あの時、一番最後までグラウンドに残ってたよな」 「忘れちゃったよ」 「俺が便所から出てきたら、お前がグラウンドに一人でいたのを見つけたんだ。お前あの時泣いてたっけ」 「なんだ、見てたのか」 「監督が、帰るぞ!って言って、何事もなかったようにみんなのところに来てたけど、本当は、悔しかったんだろう?」 「いや、違う。もうこれで、みんなと同じチームで戦うのが出来ないんだと思ったら、急に寂しくなってさ。つらい練習して、声掛け合ってやってきた連中とさ・・・正人、急になんでそんなこと聞くんだよ」 「なあ、勇樹、俺達、高校生活で悔いのないように、頑張ろうぜ」 正人は、そう言うと自転車に乗って帰って行った。勇樹は正人の後ろ姿をしばらく見ていた。春の風は少しだけ寒さを残しながら、勇樹の周りをぐるぐると回るように吹いていた。
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