電話を切ると、純は、自分の部屋まで走って、ドサッとベットに倒れるようにうつぶせになった。その目からは、涙が溢れて止まらなかった。 ひどいことを言われたことよりも、自分の愛する人が、自分のことで幸せから転げ落ちたことを、純は許すことができなかった。その原因である自分を、許すことができなかったのだ。 「自分は、なんてひどい人間なんだろう」 こんな風に生まれてきた自分を呪うとともに、他人を不幸にしてしまった自分を責めることしか、今の純にはできなかった。しかも、その不幸にしてしまった人は、自分の短い人生の中で、初めて、自分に明かりを灯し、自分に愛情を持って接してくれた、家族以外の唯一の人だ。それだけじゃない。その人は純にとって、とても大切な人だ。いつも、側にいて欲しいと思っていた。 こんな自分だから、いつその人に嫌われるか怖かった。だから、その人から嫌われないように、決して、その人の邪魔をしないように、声が聞きたくても電話もせず、欲しい物があってもわがままを言わず、ただ、月に一度会うことだけが、純にとって幸せだった。辛い時でもその人の前ではできるだけ明るく、いい娘といわれるように振舞った。そして、その人のために、初めて化粧までして、キレイな自分を見てもらいたいとも思った。 無理と分かっていても、淡い夢を抱いたこともある。しかし、無理と分かっているから、その人への愛情が、苦しいと思い始めたことも間違いではない。 「自分は普通の幸せを求めちゃいけない人間なんだ。こうやって、会ってくれるだけで、私には幸せなんだ」 何度、そうやって自分に言い聞かせてきただろう。しかし、そう思えば思うほど、自分のことがうらめしく思えてくるとともに、相手に対する愛情が強くなっていった。そして、愛情が強くなれば、また、その苦しみも増していき、こんな風に生まれてきた自分が、ますます嫌になっていくのを感じていた。 純は、その人に電話を掛けたかった。声を聞きたかった。やさしい言葉をかけてもらいたかった。でも、あの話が伝わっているかと思うと、怖くて電話を掛けることができなかった。 机の上には、描きかけの風景画があった。その脇には自分とユウさんが、笑顔で写っている写真がある。 「もう二度と、あんな楽しい日々が自分に来ることはないだろう」 もう、私が幸せを感じることはない。ユウさんのような人が、二度と目の前に現われることもない。もし、現われても、同じことの繰り返しに違いない。そう思うと、純は、また、辛くなって涙が溢れてきた。 「全て自分が悪いんだ。私がこんな風に生まれなければ。全部、私が悪いんだ」 今の純には、自分の明るい未来を描くことは出来なかった。こんなことが、一生繰り返されることしか、頭に思い浮かばなかった。「どうせ、こんなことが繰り返されるなら、いっそのこと死んでしまった方がいい」そんなことまで頭に浮かんだ。 しばらく、純はそのまま泣いていたが、やがて、むくっと起き上がると、描きかけの絵がある、机の前の椅子に座った。そして、筆を取ると、絵を描き始めた。 一心不乱に絵を描いた。絵に自分の魂を乗り移らせるように、自分の思いの全てをぶつけるように絵を描いた。 絵が完成したのは、次の日の夕方だった。こないだ、展示会で見た絵と比べれば、この絵は幼稚な絵かも知れない。だが、純は、この絵を他人に見せる気なんてさらさらない。ただ、自分の愛する人との楽しい日々を思い浮かべて描いたのだ。 純は、カレンダーを見た。明後日、ユウさんと会うことになっている。本当なら、この絵を見てもらいたかった。でも、あの話がユウさんに伝わっていれば、ユウさんは、会ってくれるはずもない。それに、もう自分はユウさんに会う資格もない。純は、二度とユウさんに会わないと心に決めた。 でも、最後に、こんな自分に明かりを灯してくれたユウさんに「ありがとう」と言いたかった。そう思ったとき、電話が鳴った。おばあちゃんが電話に出たようだ。おばあちゃんは純の部屋をノックした。 純は受話器の前に立った。しかし、なかなか受話器を取れなかった。 「お前のせいで、俺がこんな目に遭ったんだ」そう言われるんじゃないかと思ったからだ。 でも、どんなひどいことを言われても、最後に「ありがとう」と言おう。そう心に決めて、純は受話器をとった。 「もしもし」
相変わらず、仕事は順調に増えていた。それに伴って、自分の自由な時間は、どんどんなくなっていった。しかし、スタッフも良くやってくれていたので、なんとか、仕事は回っていた。でも、これ以上はちょっときついなと感じていたのは確かだ。 カレンダーに目をやった。今度、純に会えるのは明後日だな。それまでにこの仕事を片付けなくちゃ。そうして、書類に目を通した時、電話が鳴った。スタッフの実家からのようた。 「え!父さんが・・・ああ、分かった、すぐ帰るよ」そのスタッフの顔は青ざめていた。「社長、すみません。実家の父が倒れたみたいで、すぐ帰って来いって・・・」 「それは大変だ、後の仕事は俺たちに任せて、すぐ帰ってやれ」 「すみません」そのスタッフは、急いで実家に帰って行った。 スタッフ全員を集めて打ち合わせをした。 「じゃ、俺は、これとこれを片付ける。あとのみんなは、俺の指示に従ってくれ」 これは、今週は休めそうもない。そうなると、純にも会えないだろう。緊急事態だから仕方ない。 夕方を待って、一人で応接室に入ると、純の自宅に電話を掛けた。おばあちゃんが電話に出た。 「いつもどうも。ちょっと待ってください」 しかし、なかなか純は電話に出なかった。 「おかしいな。今、足音が聞こえたと思ったのに・・・」 爪で応接室の机をトントンと叩いていると、ようやく純が電話に出た。
「もしもし」 「あ、純。ちょっと話があってね。実は今週の土曜日なんだけど、そっちに行けそうにないんだよ。スタッフの父親が倒れてさ。ごめんね」 「そうですか。あの・・・なにか、変わったことは、ありませんでしたか」 「変わったこと?いや、特にないけど。どうしたの急に」 「いえ、別に・・・」 「ところで、例の絵は完成したの」 「完成しました。ユウさんのことを思って一生懸命描きました。本当に一生懸命に・・・描きました」 純は、いつもと様子が違っていた。 「純、今日はなんだかいつもと違うようだけど、なにかあったの」 「・・・別に・・・何もありません」 純は、ユウさんが例の話しを聞いているものと思っていた。そして、「ありがとう」と言って別れるつもりだった。でも、いつも通りのやさしい声を聞いて、それを言えなかった。 「どうしたの。その声はなにかあったようだけど」 そう言うと、純はしばらく黙っていた。そして、受話器からは純のすすり泣く声が聞こえてきた。 「なにがあったのか話してごらん」やさしく純に問いかけた。 「私、こんな風に生まれてきた自分が本当に嫌になったんです。自分には絶対幸せがこないって・・・それに、私のせいで、みんな不幸になってしまうんじゃないかって。私なんか、生まれてこなければ良かったって・・・そう思うようになって・・・」 純は、涙声で話した。 「どうしてそんな風に考えたの」 「それは・・・それは・・・私にも好きな人ができて・・・でも、一生その人と結ばれることは・・・出来ないって・・・しかも、私のせいで、その人が不幸になったら・・・そう思ったら、私は、死んだほうがいいんじゃないかって。その方が・・・おばあちゃんに・・・苦労かけずに済むし・・・それに、ユウさんにも・・・ユウさんにも、迷惑掛けずに・・・ごめんなさい」 純はそう言って、また泣いた。 「純。変なことは考えずに、自分の夢を思い出して、前向きに考えてごらん」 純は何も答えず、受話器からは純の泣き声しか聞こえてこなかった。しばしの沈黙の後、純は言った、 「ユウさんに会いたい」 それは、心の中から叫ぶような声だった。 「俺も純に会いたいよ。必ず会いに行くよ」 純は、しばらく黙っていた。そして、何かを決心したように、何かを振り切るように言った。 「ユウさん、ありがとう」 「必ず会いに行く。約束する。それまで、変な考えを起こすんじゃないよ。俺は、純のことをいつも心配しているんだ。だから、辛いときはいつでも電話を掛けてくれ」 また、純はなにも話さなかった。しばらくして、スーッと息を吸い込む音が聞こえた。 「うん、分かった。なんか、ユウさんと話していると、元気が出てきたみたい。もう、大丈夫」純はいつもの声に戻っていた。 「じゃ、また、連絡するから」そう言って電話を切った。
純は、自分の部屋に駆け足で向かった。ベットに倒れこむと、また泣いた。 「もう一度、ユウさんに会いたかった」純は呟いた。 大丈夫と電話では言ったが、それは、ユウさんに余計な心配を掛けたくないという、純のやさしさだった。 純は、このままユウさんの所に行きたかった。もう一度会って、この絵を渡して、「ありがとう」と言いたかった。しかし、それはできない。やっぱり、もう二度と会ってはいけない。 それに、あの話がユウさんの耳に入れば、ユウさんは間違いなく、私なんかに会ってくれるはずもないし、私のことを憎むに違いない。それも近いうちに必ずその時が来る。と、純は思った。 純は分かっていた。自分が本当に恐れていることは、そのことだと。 「お前のせいで、俺がこんな目に遭ったんだ」純にとって、それをユウさんの口から聞くのは耐えられないことだった。 ユウさんがいたから、学校にも行けるようになった。英語も一生懸命勉強をした。絵も描いた。辛い時も、ユウさんがいたから乗り越えられた。 希望のなかった自分の人生。そこに、明かりを灯してくれた人間がいなくなることは、その明かりが消えることと、同じことだと純は思った。 その時が、一秒毎に、近くに迫ってくるような恐怖を純は感じていた。死刑囚が、看守の足音に怯える気持ちとは、このようなものなのだろうか。 その、恐怖と絶望に耐えきれなくなった純は、二人が写っている、お城で撮ってもらった写真と、完成した絵をぎゅっと抱きしめると、家を出た。 「ユウさん、ごめんなさい・・・」 純は、何度も何度もそう言っていた。
俺は、受話器を置くと、組んだ両手をぎゅっと握り締めて、自分の額に何度も何度も叩き付けた。悔しかった。自分は純を一番理解していると思っていたのに、実は、一番純を苦しめていたのかも知れない。そう思うと、悔しくて悔しくてたまらなかった。ただ、言えることは、俺がいなければ純はダメになる。それは間違いない。 「いつ、純に会いに行けるだろうか」応接室のカレンダーを見たとき、スタッフが応接室のドアを開けた。 「社長、電話です」 電話は実家に帰ったスタッフからだった。父親が亡くなったそうだ。「ついこないだまで、元気だったのに・・・」スタッフはそう言うと声を詰まらせた。 俺は、スタッフの父親の通夜に参列した。父親はまだ若く、六〇才になったばかりだった。どうやら心筋梗塞だったようだ。退職して、孫もできて、これからのんびりと余生を過ごすところだったのだろう。 スタッフは、喪主として遺族代表で挨拶をした。苦労ばかりかけて、親孝行もしないうちに旅立ってしまったこと、本当は「親父、ありがとう」っていつも思っていたのに、それを言葉にできなかったこと。そして、それを言わないうちに亡くなってしまったことを、涙ながらに話した。 それを聞いて、もらい泣きしてしまった。人は、あまり身近にいると、身近にいることが当たり前だと、感謝していても、言葉に表すことを忘れてしまうのかも知れない。そして、その人がいなくなって、初めて、言えなかったこと、言っておきたかったことを思い出すのだ。 そういえば、俺も純に「ありがとう」とは言っていない。純に出会ったお陰で、俺は立ち直ったのに。今度会ったら必ず言おう「純、ありがとう」と。
「社長、お先に帰ります」 「ああ、おつかれさん」 会社に残っていた最後のスタッフも帰った。壁掛け時計を見た。 「八時か。最近、時間の進むのが早いな」 スタッフが一人忌引きで休んでいることもあり、仕事がなかなか片付かないので、一人、会社で仕事をしていた。なんとか、今日のスケジュールと、明日の段取りを終わらせると、コーヒーを飲みながら、いつものように外を見た。 「早く仕事にケリをつけて、純に会いに行かなければ」 とその時、俺の携帯がなった。加奈からだ。いつもの携帯じゃなく自宅の電話からだった。 「はい」と言って携帯に出た。電話の声は加奈ではなかった。加奈の父親だった。 「君には、危うく騙されるところだったよ。金輪際、うちの娘に会うのは辞めてくれ。訳は、自分の胸に手を当てて、よく考えてみるんだな。うちの娘を騙して、ただで済むと思ったら大間違いだぞ。お前の全てをぶち壊すのは簡単なことなんだ」 そう言って、一方的に電話を切った。全く訳が分からない。 「なんだ、あの親父!なに考えているんだ」 俺は、加奈の携帯に電話を入れた。 「あ、俺だよ。今、お父さんから電話があって」 「ごめんなさい。私・・・気持ちの整理がつかなくて・・・」と言って、加奈も一方的に電話を切った。 ますます訳が分からなくなった。なんだ、あの親子は、何を言ってるんだ。頭に来て、飲みかけのコーヒーカップを床に叩き付けた。 「勝手にしろ」 訳が分からないのと、あの父親の勝ち誇った顔が浮かんで理性を失っていた。 「勝手にしろ。馬鹿は相手にしてられないよ。ったく」 「ユウさん、久しぶりに来たと思ったら、随分ご機嫌斜めね」自称俺と同い年の、店のオネーサンはやさしく声を掛けた。 「そうだよ、俺はご機嫌斜めだよ。まったく、あの馬鹿親父。最初から気に入らなかったんだよ。自分は大手企業の役員かもしれないが、人を見下しやがって。テメーは何様なんだっつうの」 「どうしたの」 「それに、あの娘も娘だ、親父の言いなりになりやがって、ったく、世の中狂ってる」 「ああ分かった、振られたんでしょう。女に」 「いや、俺が振ってやったんだ。今、俺が振ってやった。あんな連中に振られたなんて、一生の恥だってんだ」 俺はその日しこたま飲んだ。帰ってきた記憶もなければ、ネクタイをどこに置いてきたかも覚えていない。起きたとき、ズボンは脱いでいたが、ワイシャツは着たままだった。痛い頭と、ムカムカする胃袋を抱えて俺は会社に行った。 こんなときは、仕事に精を出して、不快なことは忘れるしかない。しかし、そういうときに限って、スタッフの連中はミスをする。俺は、あたりかまわずどなりちらした。 スタッフも心得たもので、そういった時は、取引先に出かけて行くことを覚えたようだ。 いつの間にか、会社には俺一人が残った。ちょっと冷静になって、いろいろ考えた。 そういえば、あの馬鹿親父は、自分の胸に手を当てて考えろって言ってたな。俺が、悪いことをしたと言えば・・・でも、あの女とは手を切って大分立つし、他に思い当たるふしはない。まさか純のことか?いや、あの馬鹿親父は純のことが分かる訳はない。それに、純との関係はそれこそ純粋なものだし。思いあたるふしがない。 まあ、なにか勘違いしているんだろう。いいや、ほとぼりが冷めたら、また、加奈に連絡を取ってみるか。とりあえず、仕事だ仕事。頭を切り替えると、書類に目を通した。 外に避難していたスタッフがポツポツ帰ってきた。そして、俺が落ち着いているのを見て、ホッして各自の机に腰を下ろした。ちょっと悪かったかなと思ったので、それ以降は優しく接した。
忌引きで休んでいたスタッフも会社に復帰し、仕事は大分落ち着いてきた。俺にもようやく、仕事の方ではちょっとした安らぎが与えられた感じがした。 そうなると、気になるのは加奈のことだった。加奈は今、休憩時間だな。ちょっと電話してみるか。俺は加奈に電話をかけたが電話には出なかった。仕方がないので電話をくれるようメールを入れた。 しかし夕方になっても、加奈からの返事は来なかった。もう一度電話を入れた。しかし電話にも出なかった。もしかして着信拒否か。俺は、またあの馬鹿親父の顔を思い出してキレそうになった。しかし、今日はなんとか踏みとどまった。 「そんなことより、純に連絡をしよう。この調子だと、今週はあの町に行けそうだ」 携帯を取ると純の家に電話した。しばらく待ったが誰も出なかった。ちょっと不安になったが、まあ、出かけている時もあるだろうと思って机に向かった。 よし、今日は仕事をしよう、スタッフは全員帰っていたが、またパソコンに向かった。とにかく仕事を片付けて、早く純に会いたかった。目標を持ったときの俺は、自分で言うのもなんだが、動機はどうあれ仕事は早い。どちらかというと典型的なO型だ。 しかし、次の日も、その次の日も、純の家に電話を掛けても誰も電話に出なかった。それが五日間続いた。いくら、自分が楽観的な人間だと言っても、さすがに心配になってきた。 今日は日曜日なのに、何度純の家に電話しても、誰も出なかった。純も、おばあちゃんも電話に出ないというのは、どう考えてもおかしい。 「なにかあったのか」 この前、純と電話で話したとき、様子が変だったのは間違いない。まさか・・・いやそんなことはないだろう。もし、引越しをして、電話番号が変わったのなら、「現在この電話番号は、使われておりません」のメッセージが流れるはずだ。と言うことは、純もおばあちゃんも、そこにいるということだ。 おばあちゃんが入院でもしたのか。それなら、付き添いで電話に出れないことも説明がつく。でも、そんな緊急事態なら、いくら純が、普段俺に電話をしなくても、その時くらいは連絡するはずだ。 家に行きたくても、純の住所は聞いていない。これじゃ、連絡のしようがない。携帯を握りしめて、「純、頼む、俺の携帯に連絡してくれ」そう念じた。 だが、一日待っても、俺の携帯には何の連絡もなかった。その日はずっと、純のことばかり考えていた。もしかしたら、純は・・・いやきっと、なにか緊急事態が起こったんだ。でも、何故連絡をよこさないんだ。そんなことばかり頭に浮かび、その夜は一睡もできなかった。
|
|