今日は、会社の取引先のプラスホテルに来ていた。プラスホテルは、俺の会社のいい取引先だ。全国に十五店舗程のホテルがあり、大手ではないが、質の良いサービスと、良心的な値段、そしてその土地土地に合わせた営業戦略で客の評判は良い。 俺が会社を立ち上げたときから、プラスホテルには経理システムと顧客管理システムを入れて貰って、その保守とメンテナンスを行っている。会社の経営者もしっかりした人物で、俺も一目置く存在だ。俺とは気が合うらしく、会うとついつい長話になってしまう。 今日は、久しぶりに社長がいて話ができた。最初はなんのことはない雑談だったが、やがて仕事の話になった。 「やっぱり、ホテルもリピーターが大事でね。これだけ、競争が激しくなると、値段では大手にかなわないし、なんとかリピーターを増やしていきたいと思ってるんだ。そうすれば、そうそう急激な落ち込みもないはずだしね」 「そうですね。なにかお考えがおありですか」 「うん、いろいろとね。リピーターには割引をするのは当たり前だが、ポイント制にして、そのお客の家族が旅行した場合でも、そのポイントを使えるようにするとか、初めてご利用頂いた方には、DMを送って、それに割引券を同封するとか、まあ、考えたらきりがないね」 「それじゃ、新しい顧客管理システムを導入されてはいかがですか。いままでの管理システムですと、どちらかというと、宿泊予約のためのものですが、アフターの方にも力を入れて、リピーターを取り込むようにされてはいかがでしょう」 「例えば、どういう風にするんだい」 「そうですね、顧客一人一人に番号をつけて管理するんです。この人は、札幌と大阪に良く泊まっているとか、この人は毎年八月には福岡に泊まっているとか、そういった顧客一人一人の行動パターンがつかめれば、同じDMを送るにしても、タイムリーで効率的なものになると思います。それに、いつも札幌を利用している顧客が、初めて大阪を利用したときに(いつも、当ホテルをご利用頂きまして、ありがとうございます)とフロントに言われれば、決して悪い気はしないないでしょう」 「確かに言うとおりだ。しかし、今、銀行もなかなか渋ちんでね、新しいシステムを導入するにしても、融資してくれるかどうか」 「いえ、今あるシステムをちょっと改良すれば、費用はそんなにかからずに出きると思います」 「そうかい、じゃ、ちょっと見積もりをして貰おうかな」 「分かりました。来週にはお持ちできると思います」 俺と社長はしばらく、システムの打ち合わせをした。 「しかし、今の君は、会社を立ち上げた頃のような目をしているな。ちょっと前までは、妙に悟りきった目をしていたのにな」 「そうですか。いや、前と全然変わっていませんよ。たぶん」 と言ったが、純と出会って、間違いなく俺は変わった。いや、前の自分を取り戻したのだ。ちょっと前までは、まあいいさ、なんとかなるだろう、俺のせいじゃない、しょうがないと、現実から逃げていた。しかし、純を守ってやるんだという熱い気持ちを持ったことが、眠っていた俺のハートを揺り起こし、物事の本質を見失うなとばかりに、俺の正義感を目覚めさしてくれたのだ。
その日、会社に戻って、久しぶりに遅くまで仕事をした。スタッフは、そんな俺を見て不思議そうな顔をしていた。 「どうですか、今日、ちょっと一杯行きませんか」一人のスタッフがそんな俺を見て声を掛けた。 「いや、急いで片付けたい仕事があるんでな。せっかく誘ってくれたのに悪いな」俺は誘いを断り、プラスホテルのシステムとにらめっこをしていた。しばらくすると、ふつふつと頭の中に柱のようなものが出現し、それが、徐々に繋がり始めた。 「よし、できた。あとは、これをシステムに落とし込めば終わりだ」 フウーっとため息をついた。疲れたときに出るため息ではない。満足した時に出るため息だ。そういえば、しばらくこんな気持ちになったことがなかった。 コーヒーを飲みながら外を見た。いつもと変わらない景色だ。ビルが立ち並び、人が行きかい、車が通りすぎる。しかし、今日の俺には、なんとなく懐かしい景色に見えた。 そうだ、会社を立ち上げたときは、まだ二十代だった。周りから、どうせ長続きしないよ、とか、仕事なんかできる訳ないじゃないかと言われていた。今に見ていろと思って、一生懸命働いた。そして、仕事に疲れると、いつもこうして、コーヒーを飲みながら、この景色を見ていた。その時と、この景色は変わっていない。向かいの自動販売機が「お帰りなさい」と言っているようだった。 「どれ、今日はもう帰るか」会社の明かりを消して、自宅に帰った。
次の日、俺は誰よりも早く出社した。朝起きたとき、すでにプラスホテルのシステムが頭の中で完成し、いても立ってもいられなかったからだ。 「おはよう」 「おはようございます」みな一様に不思議そうな顔をしていた。 「社長、昨日は自宅に帰られたんですか」 「ああ、帰ったよ。さすがに俺でも、徹夜はできないさ」 そして、そんな毎日が続いた一週間後 「よし、もうすぐだ、これでどうだ、よし、できた」俺は声を出して言った。システムが完成したのだ。 みんなは、俺をジーっと見ていた。 「よし、昼メシに行くぞ、今日は俺のおごりだ」 スタッフを連れて食事に出かけた。食事といっても、いつも食べてる近くのカレー屋だ。 席に着いて、水を飲んでいるとスタッフの一人が聞いてきた。 「社長、最近、人が変わったようです」 「ん?良い方にか、悪い方にか」 「良い方にです。前より、厳しくなったような気がするんですけど、なんというか、怒っていても思いやりがあるというか。それに、僕がこの会社に入った頃のように、社長が生き生きと仕事をしていて、やっぱり、社長についてきて良かったと思います」 「そうか、お前たちにも心配をかけてしまったな。おれのふんどしも、ちょっと緩んでいたのは間違いない。もう少しで恥ずかしい思いをするところだった。しかし、これからは、びしっと締めていくからな、覚悟しとけよ」 そして、カレーを食べる時俺は言った。 「いただきます!」 スタッフの一人が、なにも言わずに食べるのを見て 「こら!食べる時はいただきますって言うんだ。食べ終わったらごちそうさまでしたって言うんだ。昔、教わっただろう」 周りの客は、面白そうに俺たちの様子を見ていた。だが、今の俺には周りの目はどうでも良かった。自分に自信を取り戻したことと、スタッフの気持ちが分かって、嬉しかったからだ。 その夜は、久しぶりにスタッフと酒を飲んだ。誰から声を掛けたわけではなかったが、気がつくと、全員グデングデンに酔っ払っていた。
次の日、俺はまた朝一番に出社する予定だったが 「おはようございます」 「おはよう」みんな、俺より早く出社していた。 社内がびしっと引き締まったというか、お互いの信頼感が深まったというか、とにかく、スタッフの言う通り、良い方向に向いてきているのは間違いなかった。 プラスホテルの社長に電話を入れた。アポをとるためだ。社長は、今日の午前中なら空いているということで、早速、プラスホテル本社に向かった。 「例のシステムの件なんですが、どうでしょう、この金額でできると思いますが」 「えっ、本当にこんなもんでいいの」社長は身を乗り出してテーブルの上の見積書を見た。 「この金額でいいんです。社長にはいろいろお世話になっていますし」 「いや、これならOKだよ。ところで、どう、いつごろシステムができるかな」 「もう、できてます。今日入れろと言われれば、今日、入ります」 「恐れ入ったね。君は、本当に最初に会った頃に戻ったようだ。その件は、後で部長と打ち合わせしてくれ・・・ああ、分かった。このシステム昨日完成しただろう」 「その通りです、よく分かりましたね」 「実は、昨日の夜、君が社員と酒を飲んでるのを見かけたんだ。システム完成の打ち上げだったんだな」 「まあ、そんなところです」 「君はいいな、社長、社長って随分、社員に慕われているようだな」 「いえ、まあ、実はいろいろとありまして、みんなに苦労を掛けっぱなしだったんで」 「会社も、いつも順調とはかぎらないさ。雨が降るときもある。しかし、それで地固まることもあるんだ。俺も、自分は社員を食べさしてやってるんだ。なんて、思っている時もあった。だが、困難にぶち当たったとき、本当に頼りになったのは社員だったんだ。その時気付いたよ、俺も、実は社員に食べさしてもらってたんだってね。それから、俺は本当の意味で社長になったと思うよ」 俺も同感だった。俺と純の関係に置き換えてもそれは当たっていた。最初、俺は、純を守っているつもりだった。しかし、それが、純と会っているうちに、あの純粋さに触れていると、知らず知らずのうちに、俺の心に変化をもたらした。純がいなければ、あのまま、ダメになってしまったかも知れなかった。 「ところで、君に紹介したい人間がいるんだ」 「ありがとうございます。どういった方ですか」 「探偵事務所をしている人間だ。お父さんが元警察官でね。商売柄、うちもいろいろお世話になった人なんだ。その息子さんだよ。なんでも、パソコンのセキュリティーの方でトラブルがあって、誰か詳しい人を紹介してくれって言われてね、それで、君の話をしたんだ。どうだい、話だけでも聞いてくれないかな」 「社長のご紹介とあれば、喜んで伺わせていただきます」 「おお、それは良かった。じゃ、また後で電話するよ」
探偵と言われる人間と会うのは初めてだ。事務所は、通りから一本入ったビルの二階にあった。もっと、ごちゃごちゃしたイメージがあったが、書類はきちんと片付けられ、ガラスでできたキャビネットの中も、キレイにファイルが並べられていて、それを見ただけで、きっちりとした仕事振りがうかがえた。 俺は、事務員に名刺を渡し、所長に取次ぎをお願いした。奥から出てきた男は俺を見るなり言った。 「やっぱり、君だったのか」 「あれ、どこかでお会いしましたでしょうか?」名刺を受け取っても、ピンとこなかった。平均的な日本人の身長をした、ちょっと太った中年男性で、顔もどこにでもいるタイプ、取り立てて目立ったところもなく、さっぱり思い出せなかった。 「そうだな、もう、二年振りになるな。忘れられてもしょうがないか。それに結婚してちょっと太ったしな。ほら、例のパーティーで一緒だったじゃないか」 「あれ、もしかして、吉田さんですか。でもあの時は、たしか、経営コンサルタントだって言っていたような気がしましたけど」 「ああ、職業柄あまり本当のことは言ってなかったんだよ。そうだ、たしかに君は、コンピューター会社を経営してるって言ってたな」 例のパーティーとは、いわゆる男女の出会いをプロデュースするとかいう名目で、毎月開催されていたパーティーのことだ。真面目に結婚相手を探している人、そして、俺みたいに、遊び相手を探している人、いろいろな人が集まってきていた。 この吉田という人物は、俺より五才程年上だったが、みんなに兄貴、兄貴と慕われている人物で、俺も好感を持っていた。確か、そのパーティーで良い女性と巡りあって結婚したはすだ。しかし、ちょっと太った程度でなく、かなり太ったような気がする。 「最近はパーティーには行ってるの?」 「いえ、最近は全然行ってません」 「じゃ、君もいい人が見つかったんだな」 「いえ、そうじゃないんですけど、仕事も忙しくなってきましたし、他にいろいろありまして」 「そうか。君は、どちらかと言うと、遊び相手を見つけるために行ってたような気がするから、まだ、行ってるのかと思ってたよ」 まあ、確かに、それは当たっていた。 それから、しばらくは応接室であれこれ話をした。しかし、探偵というのは、テレビや小説のように、事件に絡むなんてことはあまりないらしい。浮気調査や、人物調査が主な仕事だそうだ。そういえば、ここで働いている人間も、ハタから見れば全く普通の人間のようだ。まあ、浮気調査で尾行しても、普通の人間ぽい方が、ばれにくいとは思う。 それから、俺はパソコンのトラブルの内容を聞いて、全部パソコンを見た。そして言った。 「すぐ直りますよ」 「えっ、やっぱり。僕もそう思ったんだ。いやね、いつもお願いしている会社に言ったら、新しいシステムを入れないとだめだって言われたんだ。どうも、そこは商売上手だなと思っていたから、一応他にも聞いてみようと思ったら、案の定だな」 「じゃ、明日また伺います。それまで、パソコンと外部との接続は切っておいて下さい。もし、どうしても接続したいときは、最低限の台数にして、そのパソコンには、情報を保存しないようにしておいて下さい」 「しかし、今日、君が来たときは大丈夫かなと思ったけど、パーティーで会った時と、仕事をしている時は、まったく別人のようだな。さすがに、プラスホテルの社長が紹介してくれただけのことはある。どうだろう、これからうちの事務所のコンピューター関係は、君に任せたいと思うんだけど、引き受けてくれるかな」 「ありがとうございます。じゃ、今回の補修費用はサービスしときますよ」 「え、いいの」 「ええ、どうせ、ただみたいな仕事ですから」 「そうか悪いな。まったく、いままでの会社は人の足元ばかり見やがって」
俺は探偵事務所を後にして、会社に電話を入れた。 「今、終わったよ。うん、簡単に直せそうだ。それから、これからはうちを使ってくれるそうだ。今日は真っ直ぐ帰るから、たまに、みんな早く帰ったらどうだ。いままで遅かったし。それじゃ」 そして、俺は加奈との待ち合わせ場所に急いだ。仕事が忙しくなってきたこともあって、なかなか加奈に会う時間がなかったので、今日は罪滅ぼしに、ちょっと高いレストランを予約していたのだ。 俺と加奈は、時間通りにレストランに入った。 「いい雰囲気ね、ここ」加奈は辺りを見回して嬉しそうにしていた。 「ああ、しばらく忙しくてね、なかなか会えなかったから、今日はフンパツしたよ」 「最近、忙しそうだね。私と出会った頃は、そんなことはなかったのに。だれか会社辞めたとか、なにかあったの」 「いや、そうじゃない。このままじゃダメだって思うようになってね。今、頑張っているところさ」 「そう。やっぱり二十代で独立した人は違うんだね。最初は、この人、こんなんで会社経営できるのかなって思ってたけど」 「君の目に、間違いはなかったってことさ」残念ながら、それはいい意味でも、悪い意味でも当たっている。 料理が運ばれてきた。俺は「いただきます」と言った。 加奈もそれを聞いて「いただきます」と言って食べ始めた。しばらくは、雑談をしていたが、急に加奈が言った。 「そうか、だから最近雰囲気が違うんだ」 「えっ、俺がかい」 「そうよ。なんか、前までは、私がしっかりしないとって思っていたのに、最近は、本当はちゃんとした人なんだって、思えるようになったの」 「俺は、そんなに変わっていないけどな」 「やっぱり、男の人は仕事に打ち込むって大事なことだよね」 仕事に打ち込んいるのは結果論で、俺が変わった原因は、純との出会いだ。俺は加奈に純のことを話そうか迷った。だが、それは言えなかった。別に浮気をしてる訳でもないし、悪いことをしているつもりもなかったが、ただ、純のことを聞いた加奈が、純のことをどう思うか。それが怖かったからだ。 「ねえ、今度家にこない。親が夕御飯でも一緒に食べないかって言ってるの」 やれやれ、またこの話か。でも、俺ももう三十三だしな、どうする、ここは良く考えろよと思ったが 「来週の土曜日なんだけど、どうかな?」と加奈は言った。 なんだ、もう日程も決まっているのか。確かに年頃の娘を持つ親とすれば、どんな男と付き合っているか心配だろう。それに、結婚するなら加奈だと思うし 「土曜日なら空いているよ」 「そう、良かった。じゃ、うんとおいしいの作っとくからね」 それ以降の会話は加奈の独壇場だった。俺は「ああ、うん、そう」しか言わなかった。というか、言わせてもらえなかった。加奈はよっぽど嬉しかったのだろう。
次の週の土曜日、今日は加奈の両親と初めて会う日だ。なんとなく朝から気が重かった。父親は結構厳しい人だと、加奈から聞かされていたからだ。 ぼんやりしていると加奈から電話があった。 「今日は六時に来てね。おいしいもの、たくさん作って待ってるからね」 「分かった。娘のいい恋人を演じられるように頑張るよ」 「そんなに気を使わなくて大丈夫」 「ああ、でもね、やっぱり緊張するんだよ。こんなのが娘と付き合っているのかって思われたら、加奈も困るだろう」 「私、いつもあなたのこと自慢してるんだ。やさしくて、しっかりした人だって。だから、普通にしてくれればそれでいいの」 「そうか、分かった。いつも通りにしているよ」 「じゃ、六時ね」加奈は電話を切った。 俺は時間よりちょっと早く加奈の自宅に着いた。しかし、なんとなく落ち着かなくて、その辺をうろうろしていた。そのうち、自宅から外を見ていた加奈が、俺を見つけて手招きした。それを見て覚悟を決めて、家のチャイムを押した。 「ピンポーン」すぐに加奈が出てきた。 加奈に案内されるままに家の中に入って行った。加奈の自宅は、ごくごく普通の家だったが、玄関、応接室とも、ゴミ一つなくピカピカしていた。 最初、加奈の母親と挨拶した。まあ、普通の母親に見えたが、きれいに掃除してある庭や、家の中を見れば、きっとマメな人物なのだろう。 母親は、あれこれ気を遣ってくれて、コーヒーだの、親戚が送ってくれた果物だのを出してくれた。俺は、美味しいですねなどとおべんちゃらを言って、それをご馳走になった。 しばらくして、食堂に案内された時、そこには加奈の父親がデンと座っていた。加奈の父親は、大手企業の役員をしているとは聞いていたが、まるで、テレビに出てくる、取調べ室の刑事のような顔で俺を見た。ちょっと緊張感を感じながら自己紹介をした。 「ああ、そう」父親は顔色一つ変えずに言った。 やばいな、加奈から聞いていたとはいえ、俺の一番苦手なタイプだ。そう思った。 「ほら、お父さんも、そんなしかめっ面しないで、ビールの栓を開けて下さいな」 加奈の母親がフォローしてくれた。「ああ」といいながら、父親がビールの栓を空けて、俺にお酌をしてくれた。俺も、父親にお酌を返した。 「お父さんは、お酒はお強いんですか?」気を使って聞いた。父親は、俺を値踏みするようにジロリとこっちを見て言った。 「私は、君らみたいな人種と違って、酒に溺れる様なことはしないよ」 それを聞いて、加奈は「ちょっと、お父さん、そんな言い方しないでよ」と言った。 俺もその通りだと思った。確かに父親からすれば、娘にちょっかいを出している、どこの馬の骨か分からない男かも知れないが、初対面の人間にそれは言い過ぎだ。 けれど、まあ、父親の気持ちからすれば、分からない訳ではない。 「いや、なかなか手厳しいですね。でも、酒に溺れたことはないです。自分の分はわきまえているつもりです」と言ったが、父親はなにも言わずに、また、俺を値踏みするような目でジロリと見た。 そんな、気まずい雰囲気を察してか、母親はいろいろと料理のことを話し始めた。これは、あなたが好きだと加奈が言っていたので作ったんですけどお口に合うかしらとか、うちの娘は、料理が子供の頃から好きでこれは娘が作ったんです、でも、私にはちょっと味が濃い感じがするだとか。俺は、それに適当に相づちを打っていたが、父親が話しに割って入った。 「君は、会社を経営しているそうだが、経営はうまく行っているのかね」 「ええ、今のところは、なんとか食べて行っています」 「じゃ、君の経営哲学は何かね」 「経営哲学ですか。あまり、そういうことは考えたことはないですね」 「そんな信念のないことで、これから、この荒波を乗り越えられると思っているのか」 カチンときた。そして、一言いおうとしたところで、加奈が言った。 「お父さん。二十代で会社を立ち上げて頑張っている人に、そんなこと言う必要はないでしょう。そんなこと考える暇もなく、一生懸命働いてきたんだから。ねえ。そうでしょう」加奈はこっちを見た。俺は肩をすくめてビールを飲んだ。 しばらく重い雰囲気が辺りを包んだ。さすがにやばいと思って加奈の父親に話しかけた。 「しかし、お父さんは、あれだけの一流企業で幹部になっておられますから、いろいろと、ご苦労もおありでしょう」 父親は、またジロリとこっちを見ると話し始めた。 「まず、君のような人間はこう思うだろうな。あんたは、会社の看板と名刺だけで仕事をしているだけだ。俺は、自分の力だけで、会社を守っているんだと。だから、私が、これこれが大変だと言っても、君は、なんだそんなことかと思うだろう。だが、君が大変だと思っていることは、私にすれば、たいしたことはない。人間にはそれぞれ、住む世界がある。それを、お互い分かり合えることは、まずない。つまり、私の苦労を、君に話してもしょうがないということだ。だが、せっかくだから、これだけは言っておく。君の経営しているような小さな会社は、周りにいくらでもあるってことだ。でも、私はあの会社で重職を任されている。私が命令すれば、何万の社員がそれに従う。それが君にできるか?できないだろう。それが、その人間の実力と言うものだ」 開いた口が塞がらないというのは、こういうことかと思った。同時に、この人の部下にならずに良かったとも思った。だが、加奈と結婚したら、この人が義理の父親になるのは気が重い。 それ以降は、母親が気を使って、いろいろ話しかけてくれた。「ええ、はい、まあ」としか言わなかったが、それなりに、娘の恋人としての役割は果たせたかなと、自分では思った。しかし、ずっと作り笑顔をしていたので、頬の筋肉がプルプルしていた。 食事が終わって、しばらくお茶を飲んでいたが、気まずい時間に耐え切れなくなって、 「今日は、ご馳走様でした。美味しかったです」と言って加奈の家を出た。加奈は、俺を送っていくと言って外に出てきた。そして二人で一緒に駅まで歩いた。 「ごめんなさい。お父さんのこと。今日はちょっと機嫌が悪いみたいで・・・」加奈は申し訳なさそうに言った。 「いや、いいんだよ。お父さんは、お父さんで、娘が心配なんだろう。別に気にしなくていいよ。でも、加奈が、あんなに料理が上手だとは思わなかった」 「子供の頃から、ずっと、お母さんの手伝いをしていたの。お母さんって、そういうところは、上手に育ててくれたと思うな。だから、料理は自信があるんだ」 「そうか。じゃあ今度は加奈の手作り料理だけ食べさせてくれよ」 「ごめんね。今日は、せっかく来てくれたのに」加奈は本当に俺に悪いと思っているようだ。 「そうだ。今度さ、一緒に旅行に行こうか。温泉がいいな」 「温泉いいね。じゃ、私いい旅館調べておくね」加奈は無理に明るく振舞って見せた。そんな加奈を見て、俺は心にある決心をした。 「いいところ探してくれよ」そう言って、改札口で加奈と別れた。
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