「やばい、もうこんな時間だ」俺は慌ててホテルのベットから飛び起きた。今日は、純とお昼ご飯を食べる約束をしていたんだ。待ち合わせ場所は一ヶ月前と同じ、駅前の大きな時計の下だ。 俺はそそくさとシャワーを浴びた。ひげを剃ってる時間はない。急いで着替えると、待ち合わせ場所に急いだ。 今日も、前に純とこの町で会った時のような快晴だった。しかし今日は景色やすれ違う人達には何も感じなかった。そんな感傷に浸れないほど頭が痛かった。そうだ、昨日は元上司が是非にというんで、飲み屋をハシゴしたんだった。記憶もとぎれとぎれなことに気がついた。この調子だと息も酒臭いに違いない。 ちょっと遅れてしまったが。純もまだ来ていないようだ。辺りを見回したが、純の姿は見えなかった。座って待つか。俺は、近くのベンチに腰を下ろした。 「よっこいしょっと」ああ、つい言ってしまった。 次の瞬間「まだ、そんな年じゃないですよ」その声は純だった。なんだ、聞かれてたか。 「ごめんなさい。遅くなってしまって」と言って純は俺の隣に座った。 「いや、俺も、今着いたところなんだ」 「あれ、なんか、今日顔がむくんでいませんか」 「そう、昨日、取引先と遅くまで飲んじゃって。実はさっき起きたばかりなんだ。ほら、ひげも剃ってないし。いい男台無しだよ」 「それに、ちょっとお酒臭いです」・・・やっぱりそうか。 「今日は、単なるオヤジだな」 「でも、お仕事も大変ですよね、夜遅くまで、付き合わなくちゃいけないなんて」 「まあね。でも、ハタから見れば、楽しく酒を飲んでるとしか見えないと思うよ。本当はいろいろ気を使っているんだけど、お互いにね」 そう、お互いに気をつかっているんだ。大人になればなるほどそういう機会は増えてくる。そういったことは、そつなくこなしていると自分でも思う。 しかし、親友や、加奈といるとき以外は、本当は一人でいるのが好きだ。だから一人旅をしていた。だが、純といるときは違う。なんというか、純の純真な心が、世間の垢を落としてくれているような気がしていた。もちろん、そのために純に会っているのではない。純に会いたいから会っているんだ。 「じゃ、今日は私が、おいしいところを案内します。ここなんですけど」と言って純は雑誌の切抜きの案内図を見せた。 「場所分かるの」 「さっき、下見に行ったんで大丈夫です。さあ、行きましょう」と言って純は立ち上がった。 「それから、今日は私がご馳走します。おばあちゃんが、いつもご馳走になってばかりじゃ悪いからって、お金をくれたんです」純は笑顔で言った。 そうか、純が遅れたのは、下見に行ってたからなのか。俺は、無精ひげをなぞりながら、自分が情けなく思うと同時に、純のやさしさが嬉しかった。 「その店、どんな店なの」 「スパゲッティーが美味しいそうです」 「そうか、スパゲッティーか。それなら、今日の俺の胃袋でも大丈夫だ」 「ユウさん、本当に具合悪そうですね」純は心配してくれていた。 「なに、すぐ直るよ。いや嘘じゃないよ。何度も経験しているからね。俺から言わせれば、蚊にさされたようなもんだ」と強がったが、蚊にさされたほうがだいぶマシだ。 「いつも、そんなになるまで飲んでるんですか」 「昨日はたまたまさ。いつもは紳士的に飲んでるんだ」 「体に気をつけて下さいね」 「はい。すみません」つい反射的に言ってしまった。 それは、お袋にも、加奈にも言われていることだが、純の口から言われるとは思っていなかった。男の二日酔いに理解を示してくれる女はそうはいないらしい。でも、そう言ってくれるのは、逆に嬉しいことだ、どうでもいい人間にそんなことは言わない。
確かにこの町は映画館も多いが緑も多い。木の葉が大きな通りを包むように、まるでトンネルのように覆っていた。こんな町は今まで見たことがない。ここを歩いているだけで、異空間に来たような感じさえする。その木の葉が風に揺られてさわやかな曲を奏で、健康的な香りを道行く人に振りまいていた。 純の案内してくれた店は、その街路樹に覆われた通りのビルの一階にあった。外見からして若者向けといった感じだ。外に出た看板の横文字の多さ、文字の修飾は、自分にはちょっと抵抗がないといえば嘘になる。 入ってみると予想どおり、この店の客は若い女の子が多い。俺の他はみんな女の子だ。ちょうど純と同じ年頃だろう。箸が転がっても可笑しい頃なのか、あちこちで笑い声が聞こえる。 店の雰囲気も、音楽も、その年代に合わせてあって、無精ひげの酒臭いオヤジはかなり浮いている気がした。いや、間違いなく浮いている。 店員も俺よりはるかに若い。おそらく学生のアルバイトだろう。ちらっと厨房に見えた、ここのオーナーらしい人間は、どうやら、俺と年は同じ位らしい。なんとなく親近感を覚えたのは気のせいではあるまい。 俺が、周りに圧倒されていると、店員がメニューを持ってきた。 「たくさんメニューがありますね」純がメニューを見ながら言った。 「じゃ、俺はこれにしよう」さっぱりしてそうな、サラダスパというやつに決めた。 「デザートはいらないんですか」純が聞いた。 「今日はちょっと、ムネヤケするんだ」この店で、ムネヤケするなんて言うのは俺くらいかも知れないが、本当なのでしょうがない。 「そうですか、ここ、チーズケーキが美味しいって書いてあったのに、しょうがないですね」純はちょっと残念そうだ。 「そうなのか。チーズケーキは好きなんだ。俺、チーズケーキ食べるよ」せっかく純が探してくれた店なのに、食べないと純に悪い気がしてチーズケーキを注文した。 「じゃ、私もチーズケーキを注文します」うれしそうに純が言った。 この店の雰囲気に圧倒されながら、一気にコップの水を飲み干した。 「あれ、この水、美味いな。なんか、田舎の民宿で飲んだような味だ」 「そうですか」そう言って純も水を飲んだ。 「本当だ、美味しいです」 店員がそれを見ていて、つかつかとやって来てコップに水を注いだ。 「この水は清水なんですよ。毎日、マスターの奥さんが山から湧き出る清水を汲んでくるんです。おいしいでしょう」店員が言った。 「なるほど、じゃ美味いわけだ。ごめん、もう一杯いいかな」そう言って、また一気に飲み干した。店員はくすくす笑いながらコップに水を注いだ。前を見ると純も笑っていた。 「ふーうまい。これは、料理も期待できるぞ」 「楽しみですね」 俺と純が頼んだ料理が一緒に運ばれてきた。 「いただきます」俺はサラダスパを一口食べた。ふと、純が俺の顔を心配そうに見ているのに気付いた。 「うまい!」俺は言った。 「よかった!」純は嬉しそうだった。純もいただきますと言って食べ始めた。二日酔いのせいもあってか、味はごくごく普通に感じていたが、しかし、「うまい!」と言ったのは嘘ではなかった。 俺は、子供の頃、四十度近い熱を出したことがあった。医者は風邪だと言って、注射をして薬を出したが、熱は三日間下がらなかった。その間は食欲もなく、水しか飲めなかった。 三日目の夜、熱は嘘のように下がった。急に空腹感を覚えた俺は「母さん、腹減った」とお袋に言った。お袋は、その時、ご飯と大根おろしを持ってきてくれた。体を考えてのことだ。普通ならば、ご飯と大根おろしでは、あまりにも物足りなかっただろう。だが、それが美味い事といったらなかった。今でも、「一番美味しかったものは何ですか?」と聞かれたら、キャビアでも、Tボーンステーキでもなく、「ご飯と大根おろしです」と答えるだろう。そのくらいあの時は美味しく感じた。それは、きっと肉体的に食べ物を欲しがっていたからだ。 そして、今、美味しく感じているのは、一生懸命雑誌を見ながら、俺のためにこの店を選んでくれた純の気持ちが、そう思わせてくれるのだ。美味しいと感じているのは、精神的なものからそう感じているのに違いない。 チーズケーキを、コーヒーで無理やり胃袋に流し込んだ俺は、純がこの前会った時より、なんとなくしっかりしてきたような気がしていた。話し方もはっきりしてきたし、表情もこの店にいる女の子達と同じように、若い子の力強さが感じられた。なにか変わったことがあったのかどうか、聞こうとした時、純が言った。 「今日は、お城に行きましょう」 「お城か、散歩するのにはいい季節だ」 「散歩もいいんですけど、お城から見たこの町の写真を撮りたくて」 「写真?純は写真も趣味なの」 「いえ、写真を撮って、それを元に絵を描きたいんです。今まで、花とか静物画は描いていたんですけど、最近、なんとなく、風景を描いてみたくなったんです」 「そうか、絵を描くのか。芸術はいいよ、心が癒されるし」実は俺も絵は好きだ。と言っても描くのはあまり得意ではない。 会社の事務所の近くに、小さなギャラリーがあって、よく個展が開かれているが、俺はフラっといっては絵を見ている。なんとなく、心が癒される気がするからだ。 「じゃ、そろそろ出ましょう」俺たちは店を出た。
店から城までは少し登り坂になっていて、歩いて二十分程の距離だった。大きなお堀があって、そこを渡ると芝生が敷き詰められており、中に入ると、城と言うより公園といった感じだ。城に天守閣はないが、石垣はそのまま残されていた。今はこの町の住民の憩いの場になっているようだ。 一番高い、昔、天守閣があったところに行ってみると、その城の大きさに驚かされた。 「へえー、こんな大きな城があったんだ。今まで全然気付かなかったよ」 「天守閣がないので、近くにこないと分からないですよね。ほら、見てください、あそこに川が流れてるでしょう。そして、その向こうに山が見えて。私、この景色を描いてみたいんです」そういうと、純はデジカメでパチパチ写真を撮り始めた。 「あれ、純、デジカメがあるってことは、パソコンも使えるの」 「私は、ちょっと苦手ですけど、おばあちゃんは、デジカメくらいなら大丈夫です」純は、カメラを覗き込みながら言った。俺は、黙って純が撮っている景色を見ていた。 この城を造った武将は、ここで天下を取るための策略を練っていたはずだ。そして、今、俺たちが見ている風景と、同じ風景を見ていた。その武将がタイムスリップして現在に現れても、この風景は昔と同じだと言うだろう。 ただ、ここが今はこの町の住民の憩いの場だと言ったら、驚くに違いない。人間社会の構造は変化しても、自然は、時には地震のように、急に怒ったように変わる場合もあるけれど、全くマイペースだ。 しかし、人間にも変わっていないものがある。それは物質的なものでなく、心の中にあるものだ。親子、恋人同士、その思いは今も昔も変わってはいない。それがなければ人間は子孫を残せない。ただ、子孫を残すということ自体が、人間も自然の流れの中で生きていることの証でもある。 しかし、純はその自然の流れに逆らうかのように生まれてきた。まるで、大きな時計からはじき出された小さなネジのように。しかも、その時計は、そのネジがなくてもなんら変わらず時を刻んでいる。 しかし、今の俺にとっては、そのネジは大事なものだ。俺の時計も、そのネジがなくても時を刻むことはできる。だが、そのネジが収まっていた部分は、ポッカリ空いたままになってしまうだろう。それ程、純は俺にとって大切な人になっていた。 ただ、それは俺が加奈に対して持っている感情とは、ちょっと違うものだとその時は思っていた。 「こんなもんでいいかな」純は写真を撮り終わったらしい。 「ちょっと見せて」俺はデジカメを覗き込んだ。 「だいぶ良く撮れてるじゃないか」と言ったところで、老夫婦が脇を通りすぎた。 「この景色をバックに一緒に写真を撮ってもらおうか」純を見た。 「それがいいですね」純も頷いた。 「すみません。写真を撮ってもらえませんか」老夫婦に頼んだ。 「ああ、いいですよ」おじいさんが快く引き受けてくれた。 おじいさんにデジカメを渡すと、俺と純は風景をバックに二人並んで立った。純を見るとちょっと固い表情をしている。 「純、笑顔、笑顔。そんな顔じゃ、俺が悪いことをしているように思われるだろう」 「ごめんなさい。私、いつも写真撮る時、緊張するんです」 「じゃ、もっと俺に近づいて。恋人同士のように。そう、もっと。もっと近づいて。そう、そのくらい。そして、頭を俺の肩に乗せて」 「こうですか」純は言われるままに肩に頭を乗せた。 「じゃ、撮りますよ・・・ハイ」チーズとおじいさんが言うのと同時に俺は言った。 「あっ、おなら出ちゃった」 純が吹き出すとカシャっと音がした。純は笑いながら俺の肩を叩いた。それを見ていた老夫婦も笑っていた。 「ありがとうございました」純が言った。 デジカメを覗き込むと、二人笑顔で写っていた。純はいつものように写っていたが、俺の顔はちょっとむくんでいた。 老夫婦の後ろ姿を見ながら 「仲よさそうですね」と純が言った。 「そうだね。たぶん、あの夫婦も、俺たちのところを、仲よさそうですねって言ってると思うよ」 「そうですね」純は笑っていた。
それから、俺たちは城を一回りして、また町まで戻ってきた。久しぶりに歩いたので、足に疲労感を覚えたが。心地よい疲れだった。そして二人で映画を観た。 映画は、純が観たいといった青春物の映画だった。俺は、二日酔いの疲れと、歩いた疲労感からちょっと眠かったが、純は楽しそうに映画を観ていた。どちらかと言うと、映画より純の喜ぶ顔を見ていた方が嬉しかった。 そして前のように食事をして、駅まで二人で歩いていた時、昼に聞きそびれたことを純に聞いてみた。 「今日は、なんとなく前と違う感じがするんだけど、なにかあったの」 「実は、また、学校に行き始めたんです。学校って、いやで、いやでしょうがなかったんですけど、今は、勇気を出して行くようにしています」純は、はっきりとした口調で答えた。 「そうか、それはいいことだ。つらいかもしれないけど、負けないでね。一歩一歩、夢に向かって前進していくんだ」 「ユウさんと出会ってなければ、たぶん学校には行っていなかったと思います」純はそう言って俺の顔を見た。 「そうそう、そういえば、学校にイギリスから英語の先生が来ていて、いつも先生のところに行って、英語を教えてもらってるんですけど、こないだは、発音が綺麗だって、ほめてもらいました」明るい声だった。俺は心の中で「良かった」と呟いた。 学校のことは極力聞かないようにしていたが、おそらく、純は学校に行っていないだろうと思っていた。そして、純が携帯を持っていないのは、掛ける友達もいないので、それを使う必要がないからだと思っていた。それは当たっていたようだ。しかし、今は勇気を出して学校に行っている。まだまだつらい時期だろうが、なんとか、それを乗り越えて欲しい。そのためなら、俺もできるだけのことはするつもりだ。 「ありがとうございます」純はもう一度俺の顔を見て言った。 俺は、笑顔で頷いた。 「今度、写真持ってきますね」 「えっ?」 「お城で、撮ってもらった写真です」 「ああ、そうだ、待ってるよ。絵も完成したら、見せてくれよ」 「絵はちょっと時間かかるかな。それに、人に見せられるものでもないし」 「じゃ、そっちは気長に待つよ」 「それじゃ」と言って、純は帰りの電車に乗り込んだ。俺は、今日も電車が見えなくなるまで見送った。純も、ずっと手を振っていた。
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