目が覚めて、まず緑色の遮光カーテンを開けた。目に飛び込んできたのは、昨日と変わらない天気だった。今日は昨日より風も強そうだ。 「これは無理だな」一応、空港に電話を入れたが予想通りの回答だ。 身支度を整えると、待ちきれなかったように、室内に備え付けられている電話で「703」と入力した。5,6回コールしたあと 「はい」と少女が出た。 「ごめん、起こしちゃったかな」 「いえ、もう起きてました。今日もひどい天気ですね」 「ああ、さっき空港に電話したけど、今日も飛行機は飛ばないらしい」 「そうですか」少女はあっさりとしていた。 「じゃ、これから朝食を食べようか、迎えに行くよ」 「はい」 俺は部屋を出て少女の部屋に向かった。そして昨日言った合図でドアをノックした。 少女はすぐ出てきた。昨日と変わって、女の子らしい服装をしていた。首にさりげなくスカーフをまとい、昨日と違って、スカートをはいていた。髪には・・・俺にはなんと言うか分からないが、いわゆる髪飾りをしていた。 「昨日と、雰囲気が全然違うね。似合ってるよ」心底そう思った。 「ありがとうございます」少女はちょっと照れくさそうだ。 朝食会場は、昨日、夕食を食べた場所と同じところだ。しかし、今日はそんなに混雑していない。おそらく、今日も飛行機が飛ばないのを知って、みんな、まだ寝ているのだろう。 朝食は、バイキングのようだ。俺と少女は、それぞれトレーを持って、好きな料理を取り分け、窓際の席についた。 「君は、洋食が好きなんだね」少女の皿の上に盛られた料理を見て言った。 「そうでもないんです。おばあちゃんは、朝はいつもご飯と味噌汁を作るんですけど、こういうところでは、洋食が食べたくなって」と笑った。その笑顔は、昨日映画の話で盛り上がった時以上に、明るかった。 「おばあちゃんは、やさしいのかい?」 「とても、やさしいです。私もおばあちゃんは好きです。でも、しつけはちょっと厳しいんですけど」 それを聞いて安心した。両親のいない少女が、家で不幸な生活を送ってはいないことが分かったからだ。そして、この少女の食べ方や、マナーの良さは、おばあちゃんが、きちんとしつけをしているからだろうと思った。 少女は「いただきます」と言った。それを聞いて「いただきます」と言って俺も食べ始めた。 食事が終わって、コーヒーを飲みながら二人で外を見ていた。相変わらず、窓ガラスに雨が激しく当たって、向かいのビルがゆがんで見えていた。 「今まで、どこに行ったことがあるんですか?」 「そうだな、日本では、行ってない所はないよ」 「海外には行かないんですか?」 「年に二回位行っているよ。いままで、アメリカとヨーロッパ、あと中国にも行ったことがある」 「一人でですか」少女は驚いたようだ。 「いや、ツアーだから、一人じゃないよ」本当は加奈とツアーで行っているが、彼女の名前は出さないでおこう。現実に引き戻されそうだ。 「海外は、一人じゃ不安だよ。言葉も通じないし。それに習慣も違うからね。なにげなくやっていることが、実はとっても失礼だったりすることもある。まったく日本人はって言われるのは嫌だしね。だからツアーで行くんだ。現地に明るいスタッフも一緒で安心できるからね」 「そうなんですか」 「君は、どこか行ってみたい国はあるのかい?」 「私、アメリカに行ってみたいんです。将来住んでみたいと思ってます。なんとなく、明るい感じで、自由な感じが好きなんです」笑顔で答えた。 「じゃ、英語を勉強しなくちゃいけないな。英語は得意かい」 「はい、毎日・・・毎日勉強してます」少女はふと、何か考えたようだった。 俺は、大学の友達がアメリカに留学したことを思い出した。友達は、俺と同じ程度の会話レベル、中学・高校と一応習ってはきたが、聞けない、話せない、レベルだった。しかし、一年後帰ってきてからは別人のようだった。そのことを少女に話した。 「留学は無理かな。おばあちゃん一人になっちゃうし」 「英語は、生きた英会話が一番勉強になるはずさ。留学ができなくても、最近は、日本に外国人の先生が来ている学校があるって聞いているよ。君の学校には外国人の先生はいないの?」 少女は一瞬、無表情になった。 「・・いないです・・」しかし、その後、すぐ、笑顔で、 「でも、頑張ります。勉強してアメリカに行きます」 それは、何かを振り払って、まるで自分に言い聞かせているような感じだった。 「そうだ、千里の道も朝ごはんからだ。まず、やる気が大事だ」 俺は冗談を言った。しかし、心の中で、いや、やっぱり、この少女にはなにかある。この少女は、なにか心に傷を負っているんじゃないかと思った。本当は、おばあちゃんとうまくいっていないのか、それとも、学校でいじめられているのか。そして、昨日と同様の憐れみを感じた。昨日と違うのは、安っぽい好奇心でなく、もしこんな俺でも、何か少女の役に立てれば、と思ったことだ。 そうこうしているうちに、ホテルのレストランも混雑してきた。席を立って、二人でロビーに向かった。 ロビーでは、この町の観光名所や、おすすめのレストランが載ったガイドブックを、ホテルのソファーに座りながら二人で見た。この町は「花の街」として売り出しているようで、あちこちに、そういった花を見せてくれる場所があるようだ。 「綺麗ですね」少女はにこやかに言った。 「花のことは、よく分からないけど、確かに、こんなところにいたら心が癒されそうだね。この花はなんていうんだろう。分かる?」 「これはカトレアです。花言葉は(純粋な愛)です」少女は答えた。 「なるほど、これがカトレアか。これは、カーネーションだね、これなら俺も分かる」 「カーネーションの花言葉は(純粋な愛情)です」少女はまた、すらすら答えた。 「たいしたもんだ、よく花言葉が分かるね」俺は感心した。 「花言葉も、本当はいろいろあって、本によっても違うんですけど」 「将来、花屋さんにでもなりたいの?」 「そうなんです。だから、花には興味があって」少女は嬉しそうに答えた。 「じゃ、将来はアメリカに行って、花屋さんになるのが夢なんだね」 少女は笑っただけだったが、当たっているらしい。 しかし、この少女は不思議だ。今はまったく普通の少女だ。そして、その目に心の傷を感じさせるものはない。やっぱり、俺の思い過ごしかもしれない。 ガイドブックをペラペラめくっていくと、おすすめのレストランが載っていた。 「あれ、このレストラン、このホテルのすぐ近くじゃないか。どう、お昼は、ここで食べないか。このホテルの近くだし」 「でも、ここ、けっこう高いみたいです」 「大丈夫、俺がご馳走するよ」 「でも、いつも、ご馳走になってばかりじゃ・・・」 「気にしなくていいよ、ヴィトンのバックよりは全然安いよ。それに、ここで出会ったのも、何かの縁だし」 「うん」少女は遠慮がちに笑顔で答えた。 「じゃ、いったん部屋に戻るよ。会社に連絡を入れなくちゃいけないんだ。そうだな、お昼過ぎに迎えに行くよ」 ホテルのフロントに、ガイドブックに載っているレストランのページのコピーをお願いし、少女と別れて、部屋に戻ると会社に電話を入れた。あれこれ仕事の指示をしたが、何通かの書類に目を通して欲しいというのがあったので、パソコンにメールを送ると言ってきた。その書類を見て、いろいろ修正してメールを送った。 そうこうしているうちに、お昼を大分回ってしまった。 「もうこんな時間だ」 レストランに電話をして、店が開いていることを確認すると、急いで少女の部屋に向かった。そしてトン・トントン・トントントンとドアをノックした。 少女はすぐ出てきた。 「遅くなってごめん、さあ行こう。だいぶ遅くなったから、お腹空いたでしょう」俺は言った。 少女は「はい。とっても」と言って笑った。 エレベーターの中で、少女は俺に聞いてきた。 「こんな日まで、お仕事大変ですね」 「そうだね。でも、これがないと、食べていけないし、スタッフだって食わしてやらなくちゃいけない。連中にも家族はいるからね」 「やさしいんですね」少女は俺の目を見て言った。少女は、俺にちょっとなにかいいたげな目をした。しかし、それ以上は何も言わなかった。 外は土砂降りだった。二人で店の場所をもう一回確認して傘を開くと、ホテルの外へ出た。歩いている人はほとんどいなかった。車が物凄い水しぶきを上げて脇を通り過ぎ、二人は「うわっ」と言いながらそれを避けた。傘をさしているとはいえ、風が強く、真横から雨が降ってくるようだ。ホテルから借りた傘は、まったく役に立たなかった。かえって邪魔だ。俺たちは目を合わせた。一呼吸置いて「行くぞ!」俺たちは走った。 俺は少女の後ろを走った。少女は結構足が速かった。運動会ではいつも一番だったが、ついて行くのが精一杯だった。ちょっと息切れを感じた時、レストランに着いた。着いた頃には服も頭もビショ濡れになっていた。 二人、建物の入り口のところで雨を払った。しかし、服の中までじっとりと濡れていて、そんなことをしても無意味だった。肉体的には不快だったが、少女が楽しそうに俺に向けた笑顔は、そんなことを忘れさせてくれた。 「やっぱり濡れちゃいましたね」 「この雨だ、しょうがないよ。でも、これだけいやな思いをして、もしこの店が美味しくなかったら、ガイドブックを出してるところに文句を言ってやる」 「大丈夫です。きっと美味しいですよ」 レストランは、大きなバイパスに面したビルの二階の一角にあった。ガイドブックにはおすすめとあったが、どこにでもあるレストランのようた。ま、ガイドブックは大概そんなものだが。一階には、百円ショップと本屋、レンタルビデオの店があった。 俺たちは階段を上った。店はやはり誰もいなかった。この天気では、客が来る訳はなく貸切状態だ。俺たちは窓際の席に座り、この店お奨めのランチを頼んだ。 「結構、足速いね」水を飲みなが言った。「リレーの選手でもやってたの?」 少女は、ふと俺から目をそらし、 「いえ・・そんな・・足は速くないです」と言った。 その時気付いた。それを確かめたくて、再び聞いた。でも、それは好奇心からではなかった。 「でも、運動神経よさそうだよね。なにか、学校でクラブに入っているの?」 「・・・特に・・・なにもしてません」少女は、俺に目を合わせずに言った。俺は確信した。この少女は学校がいやなんだ。おそらく、友達にいじめられているんだろうと思った。 俺が中学生のとき、いじめられている友達がいた。体が不自由で、そのせいでいじめられていた。俺はその友達をいじめたことはなかった。だが、いじめているのを止めるのはしなかった。決して、正義感がないほうではないと思う。だけど、いじめを止めて、逆に、自分がいじめられるのが怖かったのだ。他のみんなもそんな感じで、ただ見ているだけだった。 だけど、そのいじめられている友達が、消しゴムや鉛筆を忘れたとき、なにも言わずに貸してやった。友達は「ありがとう」とも言わなかったが、俺にできたのもそれくらいだ。その友達は卒業文集で、将来画家になりたいと書いた。俺が大学のとき、その友達に町でばったり会ったことがある。友達は、大きなキャンバスを持っていた。 「そういえば、将来画家になりたいって卒業文集に書いていたよな」と聞くと嬉しそうに友達は言った。 「よく覚えているな。今、大学で勉強中なんだ。画家になるのもいいけど、絵を描く素晴らしさをみんなに教えたくて、今は美術の先生を目指しているんだ、ところで、君は、今なにしてるの」 「ああ、俺か、俺はコンピューターの勉強をしているよ。そっち方面にいい就職先があれば、死なないサラリーマンにでもなるよ」 それから、ちょっと立ち話をしたが、友達の変わりように驚いたのを覚えている。夢は人をこんなに変えるのかと思った。 そして、別れ際に友達は言った。 「君には言っておきたいことがあったんだ。僕が鉛筆を忘れたとき、いつも貸してくれたよな。あれ、すごくうれしかったんだ」 俺は、そんなことは忘れていたが、そういえばそんなことがあったなと思い出した。いじめられて、それこそ、暗い闇の中、普通の人には豆電球のような明かりでも、その人にとっては、明るく輝いて見えるものなのかも知れない。 この少女も同様に、暗い闇の中にいるんだ。俺は少女に学校の話は聞かないことにして、少女の好きな花の話をした。 「ところで、君は花に詳しいけど、俺は花にたとえるとなにかな」 少女は俺に顔を向けて答えた。 「胡蝶蘭です」 「胡蝶蘭!ああ、なるほど。というか、どうして?」名前は聞いたことがあるが、実はよく花は知らない。 「それは秘密です」いたずらっ子のような笑顔で答えた。 「じゃ、君は?」 少女はしばらく考えていたが 「・・・今は朝顔かな」 「朝顔?どうして?」 「それも秘密です。でも、朝顔は知ってますよね。色は、そう、白が好きです」 「君は、白がすきなの?」 「なんとなく、純粋な感じがして」 「じゃ、君の名前と同じだな」少女は、また一瞬その目に憂いを見せたが、運ばれてきた料理を見て「おいしそう!」と言って、笑顔を俺に向けた。 「本当だ、久しぶりのご馳走だ」 そして、二人は「いただきます」と言って食べ始めた。 少女は、ナイフとフォークを使っても食べ方は上品だった。また、感心してそれを見ていた。 「おいしい」少女は嬉しそうだ。俺も同感だった。 食事をしながら、とりとめのない話をしていた。 「君の町は、なにか珍しいものはあるの?」 「私の町にはなにもないんですけど、隣の町はお城があって、よく歌にもなる町なんです」 その町の名前を聞いて驚いた。 「そこには、毎月一回仕事で行くんだよ。ああ、あそこはいい町だね。緑も多いし、なんといっても人がいい町だ。今度行ったときは、君においしいところでも、案内してもらおうかな」 「いいですよ、すごくおいしいお店を探しておきます」彼女は笑った。冗談のつもりだったが、少女も真に受けた訳ではないだろう。 そんな明るい少女を見て、もしかしたら、少女にとって俺が光なのかも知れないと思った。まさか。そんなはずはない。でも、普通の少女だったら、こんなオヤジと一緒に食事をするはずはない。しかし、学校でいじめられて友達がいないのなら、それも分からないではない。少女の過去、現在が全て分かった訳ではない。おそらく、なにも分からないままで別れるだろう。せめて、俺といるときだけでも、この少女が明るい笑顔でいられれば・・・。 「おいしかった」少女は満足そうに言った。俺も同じく満足していた。 店員はテーブルを片付けると 「よろしかったら、デザートもいかがですか」とデザートのメニューを差し出した。 少女の顔を見た。少女も俺の顔を見た。 「じゃ、俺はこれを」 少女もメニューを指差した。 デザートを食べ終わると「ああ、また甘いもの食べちゃった」と少女は言った。 「このくらいは大丈夫。明日は、重い荷物を持って歩かなくちゃいけないんだから」 「明日は晴れるのかな」 その口調は晴れて欲しくない口調だった。少女は、現実に引き戻されるのがいやなのだろう。 店を出て、俺たちは暇つぶしに、一階のレンタルビデオショップに行った。少女は、キョロキョロしながら奥へ歩いていった。俺もキョロキョロしながらその後を追った。 少女はあれこれみていたが 「あっ、これ、まだ観てない」と一本のDVDの前で立ち止まった。それは、アメリカ映画のラブコメディーで、それなりに売れた映画だったが、俺も観たことはない。 「いいなあ、観たいなあ」少女は呟いた。 「俺も観たことはないな。それに観れないことはないよ」 「え、本当ですか」少女はこっちを振り返った。 「ああ、パソコンで観れるよ。画面は小さいけどね。借りていこうか?」 「うん」少女は嬉しそうだった。俺は、会員登録をしてDVDを借りた。 そして俺たちは、ビショ濡れになりながらホテルに帰ってきたが、また、その肉体的な不快さを、少女の笑顔が忘れさせてくれた。 エレベーターに乗って考えた。パソコンで見るといっても、まさか俺の部屋で見る訳にはいかないから、少女にパソコンの使い方を教えてやって、部屋で一人で見てもらうしかない。その間、俺は一人になるが、それはしょうがない。 部屋に着くと、少女を部屋の前に待たせて、パソコンを持ってきた。そして、使い方を教えてやった。すると少女は、キョトンとした顔をして「一緒に観ないんですか?」と聞いた。 「へ?いや、その、別にいいけど・・・」と少女の顔を見た。別になにも気にしてないらしい。そして、少女を部屋の中に入れた。少女は気にする素振りもなく部屋に入ってきた。そして、二人でDVDを観た。アメリカ映画にありがちな、涙あり、笑いあり、そして最後はハッピーエンドというお決まりの終わり方だった。 少女は、その間、笑ったり、泣いたり、感情豊かに、本当に映画を楽しんでいるようだった。俺はそれを見ながら、少女が帰ってから、学校でいじめられるのを想像して胸が痛んだ。ここにいる間だけでも、この少女には明るいままでいて欲しい、そう思った。 映画を見終えると、少女は言った。 「私、DVD返してきます」 「いいよ、まだ土砂降りだし、明日返しにいけば大丈夫だよ」 「でも、店が開くのが十一時って書いてありましたから、飛行機に乗る時間に遅れるかも。今、返してきます」と言って部屋を出ようとした。 「俺も行くよ」と言ったら。 「お世話になってるお礼です」と言って、そのまま一人で出て行った。ちらっとパソコンを見ると、会社からメールが入っていた。俺がパソコンを叩いているのを見て、外から帰ってきた少女は言った。 「じゃ、私、部屋に戻ります」 「夕食のとき、また迎えに行くよ」俺は振り返った。 「うん」少女は俺の目を見て、部屋に戻った。 まったく、気の利かない連中だ。こんな資料誰だって作れるじゃないか。文句を言いながらも、会社とメールのやり取りをし、時には電話も入れ、ようやく仕事が終わった。そして、天気予報を見て加奈に電話を入れた。しかし電話には出なかった。また、俺はメールを入れた。「明日は帰れそうだ。着いたら連絡する」。 しかし、あの少女は本当に屈託のない少女だ。少なくとも俺の前ではそうだ。だが、少女の心には影がある。それは、学校でいじめられているからだろう。しかし、それを、俺にはどうすることもできない。時間がなさ過ぎる。外を見た。外はまだ土砂降りだったが、少し明るさが戻ってきたようだ。それを見てため息をついた。そして少女の部屋に向かった。
トン・トントン・トントントン、ドアをノックした。少女はすぐ出てきた。 「また、遅くなっちゃったね。ごめん」俺は謝った。 少女は、なにも言わなかったが、笑顔を見せて首を横に振った。 ホテルのレストランは、昨日と同様に混雑していた。キョロキョロしていると、昨日と同じウェイターがやってきた。 「お一人様ですか」 「いや、二人なんだけど」 ウェイターは席を探していたが、ちょうど、客が席を立った場所を見つけて「今、片付けますので、少々お待ちください」と言って片付けを始めた。俺たちは席に着いた。 「さっき、テレビを見たら、明日は天気が回復するって言ってました」少女がちょっと寂しげに言った。 「そうみたいだね、俺も君と別れるのは寂しいよ」少女はふっと笑顔を見せ、俺の目を見て、何か言おうとしたようだった。しかし、またなにも言わなかった。そして、一瞬寂しい目をした。 俺は、さっきとなにか違う少女を感じ取っていた。それは、明日、現実に引き戻されることへの恐れだろう。しかし、他に、別な何かも感じ取っていた。学校でいじめられているだけではない、深い何かがこの少女にはある。だが、それを知るには時間がなさすぎる。でもとにかく、少女を勇気付けたい。そう思い、思うままに言った。 「いいかい、人間には、どんなに辛くても、どんなに悲しいことでも、はね返す力があるんだ。時を待たなければ、解決できないようなこと、そして、耐えなければならないような時もある。しかし、それを乗り越えたとき、その、つらさ、悲しみはその人をたくましくしてくれる。たしかに、心の傷は消せないかも知れない。しかし、それは、他人対する思いやりになってくれるはずだ。君は、アメリカに行って花屋を開くのが夢だと言ったね。その夢を持ち続けて、精一杯頑張るんだよ」 俺は、自分の安っぽい人生論を話した。話さずにはいられなかった。話の中身じゃない、少女に、とにかくエールを送りたかった。 少女は口をぎゅっと結んで話を聞いていた。そして、俺の目を見た。 「・・・あの・・・」と言ったところで、料理が運ばれてきた。少女が何を言おうとしたかは分からない。だが、なにか助けを求めているかのような目をしていた。 俺たちは「いただきます」といって食べ始めた。食事中は、昨日のように映画の話で盛り上がった。というか、映画の話しにもって行った。少しの時間でも、少女の笑顔を見たかったし、笑顔でいて欲しかった。どうやら少女はハリソン・フォードがお好みらしい。 「でも、ハリソン・フォードはもう七十才近いよ。君からすればおじいちゃんだよ」 「映画の中のハリソン・フォードです。なんとなく、頼りがいがあって、包み込んでくれそうな気がするんです」 「じゃ、俺はハリソン・フォードにはなれないか」俺は冗談ぽく言った。 「無理だと思います・・・」少女も笑った。 席を立つとき、少女と俺は外を見た。雨はやみ、風も大分収まってきたようだ。明日は間違いなく飛行機は飛べるだろう。 「ここで君と一緒に食事ができるのも、明日の朝食が最後だね」 少女はまた一瞬、悲しげな、何か助けを求めるような目で俺を見た。俺はそれが気になった。しかし、助けたくても助けられない自分、そして、あまりにも時間のない現実。その二つが俺と少女の間に、厚い壁のように立ち塞がっていた。
俺たちはロビーに向かった。ウェディングドレスの前を通りかかったとき、昨日の少女の顔を思い出した。この少女は、なにか、ウェディングドレスに特別な思い入れでもあるのだろうか。そうだ、昨日のあの嘘がばれた時のような少女の顔は、尋常じゃなかった。それに、あれ以降あんな顔を見たことはない。やはり、なにかウェディングドレスに、この少女を解く鍵があるに違いない。それに、今日の少女は、なにか俺に助けを求めているような気がする。もし、この少女の謎が解き明かせれば、助けてやれるかも知れない。そう思って聞いてみた。 「そう言えば昨日、ウェディングドレスを眺めていたね。やっぱり女の子は、将来ウェディングドレスを着てみたいと思うんだろうね」 反応を見た。すると、少女はその場に立ち止まったまま、下を向いた。肩が小刻みに揺れ動いたと思ったら、手で顔を隠して泣き始めた。 俺はどうしていいか分からなかった。想像以上の反応にしばらくなにも言えなかった。 「何か、悪いことを言ったかな・・・」 少女は首を横に振った。そしてエレベーターの前に走った。俺は周りの客の好奇な視線を浴びながら、その後を追っかけた。エレベーターの中でも少女は泣いていた。そんな少女を俺はどうすることもできなかったし、なにも言えなかった。 エレベーターを降りても、少女は俺に背を向けて泣いていた。そして少女は、背を向けたまま、小さい声で、心の中から絞り出すような声で言った。 「・・・私も・・・将来・・・ウェディングドレスが着たい。でも、でも・・・一生着れないんです」 「そんなことはないよ。君みたいな子は、他の男が放っておかないさ」 「・・・いいえ・・・でも・・・本当に一生着れないんです・・・私・・・私・・・本当は・・・・・・男なんです」 「!」 「・・・私・・・病気なんです・・・心は女なんです・・・だから・・・みんなに・・・変態・ううっ・・・」自分が言われて一番いやな言葉を口にしたからだろう、少女はしばらく声が出なかった。声が出ないのは俺も同じだった。 「・・・こんなに優しくされたことがなくて・・・でも・・・だから・・・あなたには・・・本当のことを・ううっ・・・」 「・・・」 「・・・昨日と・・・今日は・・・ありがとうございました!」 そう言うと少女は、泣きながら部屋に向かって駆け出した。 「ちょっと、待って!」俺は少女に向かって言った。しかし、仮に待たれても、なにも話すことはできなかったろう。その告白は、俺の常識、いや、俺が想像できる全ての可能性からも、まったく想定外のことだったからだ。
俺は動揺していた。しばらくその場から動けなかった。酒を飲んで落ち着こうと自動販売機に向かった。自動販売機で缶ビールを三本買った。一本で良かったのだが、動揺していたせいで、部屋に着くまで、三本買ったことには気付かなかった。しかも、おつりを取り忘れてきたようだ。もう一度、自動販売機に戻っておつりを取った。 少女の部屋の前を通ったとき、ドアをノックしようかどうか迷った。しかし、何を話していいのか思いつかず、右手を握りしめたまま、ただドアの前に立っていることしかできなかった。エレベーターが開いて、他の宿泊客が降りてきた。怪訝そうな顔で、こっちをちらりと見ると、部屋に入って行った。しばらくして、また、エレベーターが開いた。気まずさを感じ、何も思い浮かばない自分の頭を、その右手で叩くと部屋に戻った。 決して広いとは言えないホテルのシングルルームの部屋を、うろうろと歩きながら、フタを開けて缶ビールを一本、グイっと飲み干した。そして、ベットのすみに腰掛けると、もう一本缶ビールのフタを開けて、一口飲んで、現実と自分の気持ちの中を整理した。 いや、まてよ、少女はどう見ても女の子じゃないか。俺に嘘を行っているんじゃないか。そうだ、明日までの付き合いなのに、今更自分は男だなんて言う必要はない。俺になにかされると思って、嘘をついたんじゃないか。 しかし、それでは、さっきの行動の説明が付かない。あれは、嘘なんかじゃない。やっぱり、少女は男だ。正確にいうと少年だ。それに話し方もそうだ、男と気付かれないように、ああいう話し方をしてたんだ。そういえば服装も・・・。やっぱり少女は男だったんだ。 それでは何故、少女は、俺に本当のことを話したんだ。言わなければ分からなかったのに。さっきの少女の言葉と、今日の少女を思い出した。その時気付いた。少女は俺に助けを求めていたんだ。 俺は、それで、少女に対してどう思ってるんだ。答えはすぐ出た。いささかも少女に対しての気持ちは変わっていない。なんとかして救ってやりたい。ヒーローになることはできない。ただ、かすかな光でも与えてやりたい。 しかし、今、少女のところに行っても、何を話していいか分からない。変なことを言えば、更に傷つけるだけだ。なんて言えばいいんだ、俺には分からない。だめだ、それに時間もない。 いつの間にか、また、缶ビール片手に部屋をうろうろと歩いていた。心の中は、その現実を打ち破れない悔しさと、少女が負っていた傷の深さを思って、のこぎりで切られているような痛みを感じていた。
次の日は朝早く起きた。いや、正確にいうと寝ていないのかも知れない。遮光カーテンを開けると、まぶしい光が入ってきた。空港に電話を入れた。今日は飛行機が飛ぶらしい。旅が何事もなく終わっていれば、間違いなく、待ちに待った青空だっただろう。しかし今はそんなことは思っていなかった。 朝食の時間まで昨夜と同じようにうろうろと部屋を歩き回った。どうせ、二度と会うこともないし、しかもなにもしてやれないんだから、このまま、少女に何も言わずに帰ろう・・・いや、そんなことはできない。なんとかしてやれないか。別に人助けが趣味な訳ではないし、あの少女に恋をした訳でもない。ただ、このままでは少女はダメになってしまう。旅先でたまたま会っただけの人間である俺に、少女が昨日本当の事を言ったのは、俺のどこかに何か感ずるものがあったからなのだろう。あんな純粋な心を持った少女を見捨てることは出来ない。俺が心の支えになるならなんとかしてやりたい。今まで感じたことのない正義感のようなものが、むくむくと心を支配し始めた。しかし、現実的にどうすればいいか、それは、全く頭の中に浮かんでこなかった。 その時、ふと、昨日の昼食の話を思いだした。そうだ、少女は、俺がよく出張する町の近くに住んでいるんだ。まだ終わった訳じゃない。出張した時に時間を作って少女に会い、温かく見守ってやることだって出来る。俺の中にも、わずかながら光が見えてきた。 ところで、少女は少女でいいんだろうか?・・・いや、少女は少女でいいんだ。昨日言ってたじゃないか、「心は女なんです」。少女を知っている、他の人間がどう思おうと、俺にとって少女は小女だ。 しかし、朝食に迎えに行って、出てきてくれるだろうか。出てきたとして、なんて話しかければいいのだろうか・・・思いつかない。 いろいろ浮かんでは、いつしかそれは消えていった。こんな思いをするのは初めてだ。自分の聞いたこともない事実を突きつけられて、頭の線が繋がらなかった。 まだ、初めて物理を教わった時のほうがマシだ。分からなければ先生に聞けばいい。しかし、今、それを聞く人間はいない。この問題は自分で解かなくてはいけない。それに、これだという解答はない。人間の心は、物理のように公式がある訳じゃない。
朝食の時間になって、俺は電話の受話器を取ったり置いたりを繰り返した。そして、スーッと息を吸い込むと「ええい、行くしかない」と部屋を飛び出した。少女の部屋の前に立ち、一呼吸置いて、トン・トントン・トントントンとドアをノックした。 返事はない。しかし、ドアのすぐそばに少女がいるような気がした。いや、間違いなく少女はドア一枚隔てたところに立っている。そう感じた。少女は俺を待っているんだ。そして、もう一回ノックをした。 「トン・トントン・トントントン」ガチャっと音がして、ドアが開いた。そこには、少女が下を向いて立っていた。 俺は昨日のことなどなかったように話した。 「さあ、朝食に行こう」 少女はゆっくり顔を上げた。しかし、俺と目は合わせなかった。そして言った。 「・・・あの・・・昨日のこと・・・」 今の俺には、気の利いたことや、かっこいいことは話せなかった。 「俺は、君を守りたいんだ。ただ、それだけなんだ」俺は、静かに言った。そしてそれは間違いなく自分の素直な気持ちだった。 少女は俺に目を合わせた。その目は腫れていた。昨日、ずっと泣いていたのだろう。服装も昨日のままだった。 少女は、俺の目をしばらく見ていた。それは、俺の言葉が信じられなかったからかも知れない。少女の今までの経験の中で、こんなことを言ったのも俺だけかも知れない。であれば、にわかに信じられないのも分からないではない。だが嘘は言っていない。今言ったことは本心だ。俺も少女の目を見つめて言った。 「俺は君の味方だよ・・・さあ、朝食に行こう」 少女は、コクっと頷いた。 「すみません。ちょっと着替えをしてきます」 少女は一旦ドアを閉めて、しばらくすると出てきた。今日はジーンズをはいていた。おそらく、少女は普段はあまり、女の子みたいな服装はしないのだろう。自分のことを誰も知らないこの町で、昨日は、自分の好きな服を着たんだ。女の子らしい服を。
エレベーターを待っている間に少女は俺に話しかけた。 「・・・あの、私、本当の名前・・・」 「純だろ。そう、純だ。君は俺といる間は純だ、それでいい。俺のことはユウさんと呼んでくれ。あだ名なんだ。ところで、どうだろう、俺が君の町の隣町に出張したとき、時間を作るから君に会えないかな」 少女は、ちょっと間を置いて俺の顔を見た。そして頷いた。口は固く結んでいたが、それは泣くのを我慢しているようだった。 「ハリソン・フォードになれるかな」俺は言った。 少女は泣き笑いしながら、首を横に振った。しかし、その涙は昨日俺に見せた涙とは違うものだった。
今日の朝食会場は混んでいた。みんな、早く飛行機に乗りたくて、先を急いで席に着いているようだ。 二人で、レストランの入り口付近に用意された椅子に座って、席が空くまで待った。純は、昨日一緒にロビーで観光案内を見ているときより、俺に寄り添うように座った。 別に、さっさと朝食を済ませてしまおうなんて考えなかった。二人このままで、一番最後の最後に、ゆっくり朝食を取りたい気持ちだった。しかし、そんなことが分からないウェイターは「どうぞこちらへ」と言って、二人を空いた席に案内した。 今日は二人で洋食を食べた。いつもは和食と決めているが、今日は純と同じものを食べたかった。 「今日は洋食なんですね」 「ああ、たまに洋食もいいものさ。それにこのパン焼き立てだよ。この匂いに惹かれたんだ」 「昨日も美味しかったですよ。とっても柔らかくて、自然な甘さもあったし」 「俺は前からこの自然の甘さが好きなんだ。だから、ジャムとかはあまりつけないようにしている」 「だから、太ってないんですね」 「いや、見た目はね。でも一部分、肉が落ちないところがあってね。それが最近の悩みの種なんだ」腹を触りながら言った。 「でも、お腹出てるようには見えないですよ」 「そう見える?」 「そう見えます」まあ嘘でもそう言われて悪い気はしない。 「純、帰ったらきっと連絡するからね」 「うん」 今の純の俺に対する瞳は、昨日のものとは全然違っていた。昨日、瞳の奥に見え隠れしていた憂いは、今日は全くその姿を見せなかった。今、純が見せている瞳は、そのさらに奥にある純粋なものだ。 朝食後、そそくさと荷物をまとめ、ロビーで純を待った。純は、しばらくたって、ロビーに降りてきた。当然あのバッグも一緒だった。 「この角に俺の頭が当たったんだな」 「そうですね」と笑って、純は俺のこめかみを見た。そして、その手で、おそるおそるたんこぶを触った。 「まだ、腫れてますね。直るのかな」と心配そうに言った。 「大丈夫、もう痛みはないよ。しばらくすれば、なにもなくなっているはずさ。さあ、バスが出発するよ、乗ろう」二人はバスに乗り込んだ。 俺は純に携帯に残っていた、純の自宅の電話番号を見せた。 「この番号に連絡すればいいんだね」 「えっ、私、教えましたっけ?」と純は不思議そうだった。 「携帯は、一回電話すると登録できるんだよ」笑って言った。 「なんだ、せっかくメモしてきたのに。じゃ、この下にある、会社とか加奈さんというのも、登録してあるんですね」純は感心したように言った。 「ああ、そうだね・・・まあ・・そういうことだ」純の口から加奈の名前がでるとは・・・別に、加奈に悪いことをしているつもりはないが、ちょっと違和感と言うか罰の悪さを感じた。 空港へは、町から一直線に道路が伸びていて、ところどころに大きなショッピングセンターや、車のディラー、ファミリーレストランが並んでいる。確かに加奈の言う通り、どこに行ってもそう変わらない風景ではある。しかし、今日はなんとなく新鮮な気持ちで、バスの中からその町並みを眺めていた。 予想外に道路が込んでいて、空港へは予定より大分遅れてバスは到着した。純が乗る飛行機は、もう、客が乗り込み始めていた。 「もう、いかなくちゃ」純は搭乗カウンターの中に入って行った。 「ありがとうございました」純は振り返って、手を振った。 俺も「必ず、連絡するよ」と言って手を振った。そして、純の飛行機が見えなくなるまで見送った。
俺が空港に着いたのは午後三時頃だった。空港に着いて、まず、加奈に電話を入れた。 「もしもし、今着いたの?」加奈は電話に出た。どうやら休憩時間らしい。 「ああ、何だか疲れたよ」 「それはそれはお疲れでしょう。じゃ、いつもの店で七時に待ってるから。じゃね」と言って勝手に電話を切ってしまった。今日はこのまま休みたかったのに、まあ、しょうがない。 「どうだい、なにか、あったか?」俺は会社に電話を入れた。 「いえ、今日は特になにもないです。いたって順調です」 「そうか、じゃ、今日は疲れたから真っ直ぐ帰るよ」 「分かりました。じゃ、ごゆっくり」 「ちょっと待った、来月の俺の出張の予定を教えてくれ・・・うんうん、そうか、じゃ、十二日の金曜日が出張か、分かった」 出張が十二日だから、十三日の土曜日だな。よし、それをもう一度確かめると、純の自宅に電話を入れた。予定ではもう着いている頃だ。 「もしもし」ちょっと年配の女性が電話に出た。ああ、これが純の言っていたおばちゃんだな。そして、俺は名前を名乗って「あの・・・あれ?」純ちゃん?純君?純さん?しまった、純の本当の名前は聞いてなかったんだ。俺としたことが・・・あのときカッコつけずに聞いておけば・・・。 「もしかしたら、うちの孫がホテルでお世話になった方ですか。さっき聞きました。なんだかご迷惑をお掛けしたみたいで、いろいろありがとうございました。今、居りますので変わります。ちょっと、待って下さい」ああ、よかった。それに、人の良さそうなおばあちゃんだ。ちょっと間があって、パタパタパタと足音が聞こえた。 「もしもし、こんなに早く電話くれるなんて思ってなかったです」 「俺はこういったことは早い方なんだ。なんといっても年季が違う」 「今、どこですか?」 「今、空港に着いたよ。ま、これから、自宅に帰るまでは、大分時間はかかると思うけどね」 「そうなんですか。これからお仕事ですか」 「いや、ちょっと人と会う約束があってね。自宅に帰るのはそれからだ。ところで、来月の第二週にそっちに行く予定なんだ。来月の十三日、土曜日に会えるかな」 「うん、大丈夫です」と純は言った。待ち合わせ場所は、駅の前の大きな時計の下と決まった。 「じゃ、楽しみにしているよ」 「あの、いろいろと、本当にありがとうございました」 「いいんだよ。そうだ、今度も映画を観ようか」 「そうですね。楽しみにしています」純は明るい声だった。 「それじゃ」と言って電話を切った。 純の声は、今朝聞いた声と同じだったが、妙に懐かしい響きがした。二人の物理的な距離がそう感じさせるのか、それとも、現実に引き戻された自分の気持ちがそうさせるのか。ただ、その明るい声を聞いて、俺は嬉しかった。 「良かった、おばちゃんも人が良さそうだし、それに純は明るかったし。あとは、純を少しずつ勇気付けて、自分の夢に向かって頑張るように、応援してやらなくちゃ」 駅に着いて、時計を見た。「加奈との約束の時間まではちょっと時間があるな。コーヒーでも飲むか」喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら考えた。 今回の一人旅は、いろいろ経験させてもらった。純との出会い、純の告白。一人の人間に対する、今まで感じたことのない自分の思い。ただ、間違いなく言えることは、今の純には頼りになる人が必要だということだ。人の心の悩みの多くは、人との間に生まれるもので、それを解消できるのは、やっぱり人しかいないはずだ。時には、羅針盤となり、そして時には灯台となり導いてくれる人も必要なときがあるだろう。俺は、純に対してそういった存在にならなければならない。 ふと、純に対して、一種、愛情を感じているのに気付いた。それは、男と女のものとはちょっと違う、純粋なものだと思った。そして、今回の出来事で、自分自身もなんとなく変わった気がしていた。
加奈との待ち合わせの場所には、七時ちょっと前には着いた。加奈には、純のことは黙っておくことにした。たぶん、加奈の性格からして、純のことを話せば、電話に出れなかったことも許してくれるだろう。しかし、俺が純に対して思っていること、純の現実を、加奈が理解できるかどうか、それは疑問だったからだ。それに、俺は純を言い訳の材料にするつもりは全くない。 加奈はベージュのブラウスと黒いズボンといった、いかにも仕事帰りの服装をして七時十五分頃店に現れた。そして「お待たせー」と言って加奈は椅子に座った。いつもはほっそりとした顔に、切れ長の目をさらに横に伸ばしながら笑っているのに、今日は、眉間にしわを寄せながら顔を近づけた。 「心配してたんだよ。今度は私も連れてってね。もう、こっちで一人で心配するのいやだから」加奈は俺の顔を見ながら言った。 「ああ、ごめん。まさか二日も飛行機が飛ばないなんて思わなかったよ」 「もう、電話して出なかった時は、なにか事故にでも会ったんじゃないかって、本当に心配したんだからね」 あれ?今日は随分とやさしいな。 「なんだ、俺は浮気を疑われているのかと思った」 「今日、あなたの顔を見たら、それはないって確信したから大丈夫」 まあ、確かに浮気はしてない。それに、本当に浮気をしても、それは言うはずはない。ただ、いつも加奈が、俺の顔でそれを判断しているのはちょっと怖い気がする。 酒を飲んでほろ酔い気分になってきたとき、純のことを思い出して、加奈に聞いてみた。 「性同一障害って聞いたことある?」 「性同一障害?そうねえ・・・おなべとか、おかまちゃんとか、ニューハーフってくらいかな」 予想通りの回答だ。通常の人にはこの程度の認識しかないだろう。 「で、なんで急にそんなことを聞くの?」加奈は俺を見た。 「・・・いや、その、ホテルで暇つぶしにネットを見ていたら、・・・若い頃、そういったことで苦しんだ人の話しが載っていたものだから・・・」 「そうだよね、思春期には、そういう人って、すごく辛いと思うよ。でも、私のまわりには多分いなかったと思うな」 「その人は、体は男、心は女なんだ。その人は苦しんでいたみたいだよ。そういう時って、周りの人はどう接するのがいいのかな?」 「なんで、私にそんなことを聞くの?もしかして、会社の誰かがそうなの?」 「いや、例えばの話だよ」 「そうだよね。そうねえ・・・たぶん、心の方が、その人の本当の姿だと思う。その人は、女として見て欲しいんだと思うよ・・・よく分からないけど」 「そうだよな」俺は呟いた。 「ところで、やっぱり女というのは、ウェディングドレスには興味があるんだろう?」 「当たり前でしょう。どうしたの今日は。もしかしたらプロポーズ?いやだ、そうだと分かっていたら、もっとおしゃれして来るんだったのに」 「いや、それは、また、いずれ、その・・・」
加奈と別れて、しばらく一人で歩いていたが、考えることは純のことばかりだった。純は、体は男、心は女だ。加奈のいうとおり、女として自分を見て欲しいのだろう。だから、昨日は服装も女の子が着るような服を着ていたんだ。だが、周りがどう思うと、純に対しては、少女として接していくつもりだ。純もおそらくそれを望んでいる。 純のことをいろいろ考えながら歩いていたせいか、どうやら、自分のマンションの周りをグルグル回っていたようだ。さっき街灯の下で寄り添っていたアベックが、俺を不審な目で見て去って行った。 確かに、俺の行動は不審者のようだ。医者でも、カウンセラーでもないのに、性同一障害の少女を助けようとしているのも、ハタから見れば十分不審者かも知れない。だが、俺が純に対して抱いているものは純粋なものだ。それは間違いない。
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