二度とこの町には来ないつもりだった。この町の元上司との打ち合わせもスタッフに任せていた。純につけられた頭のたんこぶはすぐ治った。だが、純を失った傷はそうそう治るものじゃない。この町に来れば、純を思い出して、あの時の悲しみ、苦しみが襲ってくることが怖かったのだ。純が描いた絵も、俺の書斎の奥にしまってある。それを見るのは、同じように辛いことだったからだ。しかし、今日この町に来たのには理由がある。それを終えるまで、帰るつもりはない。 しばらく、この町に来ていなかったが、町並みは全然変わっていない。通り過ぎる人たちも何事もないように歩いている。この町の全てが、何事もなかったように動いている。人が一人いなくなったくらいでは人間の営みは変わらない。この町の風景は純に合っている頃のままだ。 しかし、人間は機械じゃない。レンズのように、目の前の景色をものとして捉えられない場合だってある。それは、感情を通して見ているからだ。まさに今の俺はそうだ。この町の風景一つ一つが、純との思い出を通して自分の頭には写っていた。それは、懐かしくもあり、悲しくもあり、複雑で言いようのないものだ。
「いい町ね」隣に立っていた加奈が言った。 実は、この町に来たいと言ったのは加奈だ。いや「行かなくちゃダメ」と言われたほうが当たっている。 加奈とは、あれ以来連絡が取れなかった。そこで俺は、会社の前で加奈を待ち伏せし、まるで拉致するかのように捕まえて、全てを話した。加奈になんと言われようと、なんと思われようと構わなかった。俺に愛想をつかしても構わなかった。ただ、本当のことを知ってもらいたかった。加奈は何も言わずにその日は帰った。 しばらくして、加奈から連絡があった。 「今日空いてる?」 いつもの店で加奈と会った。加奈は、俺が純に対して抱いた愛情は許せなかったようだが、純のことは理解してくれたようだった。そして、「何故、もっとちゃんと話をしてくれなかったの」と言ってくれた。 今、俺と加奈は一緒に暮らしている。入籍も済ました。加奈は家出同然で俺のところへ転がりこんできた。馬鹿親父が俺との結婚を頑なに拒んだからだ。そんな訳で披露宴は挙げていない。もっとも、加奈も、ウェディングドレスが着たかっただろうし、俺も、ウェディングドレスを着て、幸せな顔をしている加奈を見たかったので、友人たちに囲まれながら、教会で結婚式は挙げた。 最初、馬鹿親父は、あれこれと汚い言葉を俺に投げかけたり、マンションまで押しかけてきたが、俺は一切無視した。加奈も同じように父親を無視した。最近はなにもないところをみると、ようやく諦めたのだろう。 今日は、加奈と、雑誌で紹介されていたレストランのランチを食べる予定だった。店のテーブルに座ったときだった。加奈が突然言った。 「もう、あの町には行かないの?私行ってみたいな」 突然そう言われて驚いたこともあるし、加奈が、なんでそういうことを言うのかも分からなかったこともあり、俺はテーブルの上に組んだ手の上にあごを乗せたまま、しばらく下を向いていた。 あの町に行けば、純を思い出して辛い気持ちになることが目に見えていたので、なかなか「よし、行こう」とも言えなかった。 そんな気持ちを察してか加奈が言った。 「さよならも言わないなんて、その子、可哀相じゃない」 そう言われると、加奈の言う通りだと思った。そうだ、確かに純にさよならも言っていない。あんなに自分に愛情を持って接してくれて、純粋な心で自分を立ち直らせてくれたのに、最後の別れの言葉も言っていないなんて。自分は、純を失ったことから逃げているだけじゃないのか。このままじゃ、また、自分は前のようなダメ人間になってしまう。それを純が喜ぶはずがない。 それに純は、俺を待っているに違いない。そう思うと、いても立ってもいられなくなった。顔を上げると、店中に響く声で言った。 「加奈。これから、あの町へ行くぞ」 俺と加奈は店を飛び出した。ようやく予約の取れたレストランだったが、今は、自分を待っている純のことを思うと、そんな小さなことはどうでもよかった。 急ぎ足で駅に向かい、新幹線の切符を買うと、発車間際の車両に加奈と飛び乗った。座席に座って、車内販売からコーヒーを買って飲んでいると、加奈が俺の顔を見ているのに気がついた。 「ん、どうしたの」 「ちょっと妬けるけど、私、あなたのそんなところが好きになったのね。たぶん」そう言って加奈もコーヒーを一口飲んだ。
駅を出て、フーっと息を吐くと、駅前の大きな時計のところを目指した。純が待っているとすればそこしかない。こんなに遅くなって純に申し訳ないと思いながら、早足で歩いた。 徐々に時計が見えてくると、緊張で息を深く吸い込めなくなり、何回も深呼吸をして大きな時計の下に向かった。 しかし、辺りをいくら探しても、そこに純の姿を見つけることはできなかった。純の気配を感じ取ることもなかった。 冷静に考えればそれは当たり前のことだ。もう純はここにはいない。声を聞くこともなければ、話しかけることも出来ない。 しばらくその場に立ち尽くし、ボーっと視界の脇や前方から次々と現れては消えていく、純と同年代の若い女の子の明るい顔を見ていると、不意に涙がこぼれそうになった。それをこらえようと顔を空に向けたとき、ふと時計台の下で時計を気にしている女の子の姿が目に入った。 「純!」 心臓がバクバクする音と、まばたきの音も聞こえそうな位に、神経が一瞬にして逆立つ感覚を覚えながら、その女の子に向かって歩き出した。 あと二三歩というところで、その女の子はこちらを振り返った。しかしその女の子は純ではなかった。そして、俺の後ろから、若い男の声で「ごめん。遅れちゃった」という声が聞こえると同時に、女の子ははじけんばかりの笑顔を見せた。 俺は、苦笑いを浮かべながら、右手で首の後ろをさすったまま、その若いカップルの歩いている姿を眺めた。 「はー」ため息をついてなにげなく時計台の方を見た。時計はいつものとおりに時を刻んでいる。その思い出の場所でじっと時計を見つめていると、俺の目にはそこに純のまぼろしが映った。 「さよなら」そのまぼろしに言った。 「さよなら」純はそう俺に返した。そしてまぼろしは消えた。 もう一度ぐるっと辺りを見渡し、最後に時計台を見て駅の方に向かって歩き出したとき、後ろから「ありがとう」と声がした。はっとしてもう一度時計台の方を振り返った。しかし、そこには誰もいなかった。 急に、心の中の心臓を、ぎゅっと握られたような苦しみに襲われた俺は、空を見上げて目を閉じた。せつなさが自分の体から抜けていくまで、ずっと動かなかった。頭は何も考えなかった。体は、何も感じなかった。人の話し声も、歩く音もまったく聞こえなかった。ただ、じっと土砂降りに耐えるように、その痛みや不快さを耐えるように動かなかった。 どのくらいそのままでいたか分からない。徐々に、人々の話声や歩く音がはっきりと聞こえてきた。体も風を感じてきた。
ゆっくりと目を開けた。空は、まるで、台風が通り過ぎた時のような青空がどこまでも続いていた。
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