20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:青空 作者:黒川

第1回   1
「社長、出来ました。ちょっと見てもらっていいですか」
 スタッフが俺の方を見た。携帯を机の上に置き、スタッフの方へ向かった。キーボードを叩いてシステムをチェックすると、やっぱり不具合が見つかった。
「ほらこれ。ここで止まっちゃうだろう。もう一回チェックしろ」
 そう言うと、自分の机に戻り、また携帯を手にとった。
「あれ?この女、誰だっけ。まあいいや、削除してしまえ」
 椅子に深く座り、その女の名前を携帯から削除した。独身だし、別に残しておいてもいいのだが、もうあっちこっち女の尻を追っかける年も過ぎたので、少しばかりためらいを覚えながらも、他の女の番号も全部削除した。
「おっと、加奈はだめだ」加奈は、今俺が付き合っている、ブランド好きな普通のOLだ。俺も今年で三十三才。お袋から「まだなの?」と言われて、笑ってごまかすのも辛くなってきた。加奈も口には出さないが、結婚を考えているようだ。
俺も結婚するなら、加奈だと思っている。そう思わせる人間的な魅力もある女性だ。ただ、酔うといつも「あなたは私がいないとダメになるから」と言われるのには閉口していた。そう言われたときは「自分でなんとかするさ」そう心の中で反論した。
 俺は、五年前にコンピュター会社を立ち上げ、若さゆえの暴走もあったりしたが、なんとかここまでやってきた。ただ、最近はこの不景気もあり、売上も頭打ちになってきている。
「この不景気じゃ、才能だけじゃだめなんだ。運がなくちゃ」
 スタッフと酒を飲むと、いつもそう言っていた。ただ、自分では会社を立ち上げた時のガムシャラさがなくなってきて、今に満足してしまった自分にも、その原因があることは分かっていた。そう言って、自分もごまかしているのだ。

「あら、ユウさん。今日は一人?」
「みんなまだ仕事をしているよ。明日休みだから、きりのいい所まで仕事をしたいんだろう」
「まあ、社長がいない方がせいせいしていいかもね」
「しかし今日は誰も客がいないじゃないか。これも不景気のせいなのかな」出されたオシボリで手を拭きながら言った
「ユウさん。今何時だか分かっているの?こんな早い時間にこの店に来る人なんていないわよ」
 時計を見て頭をかいた。そう言えば、店の看板にも明かりが灯っていなかったかも知れない。それに、このおしぼりも冷え切っておらず、ぬるいビールのような変な温かさが残っている。
ちなみに「ユウさん」と言うのはあだ名だ。別に石原裕次郎に似ている訳ではない。似ていれば良かったと思うが、残念ながら目も鼻もちっとも似ていない。二年くらい前からそう言われている気がする。自分ではそう思ってはいないが、なんでも優柔不断のくせに、態度が悠々としているから「ユウさん」らしい。当時はちょっと抵抗感もあったが、今では、あだ名をあれこれ言うつもりもないし、友達も親近感を持って使っているから、別に目くじらを立てる必要もないかと思っている。
「今度はいつ旅行に行くの」
 グラスにビールを注ぎながら、自称俺と同い年の店のオネーサンは聞いた。
「明日行くよ」
「えっ、明日。週末台風が来るっていう話だけど」
「さっきテレビで見たら、朝鮮半島にそれるらしい。たぶん大丈夫だと思うよ」
「それならいいけど。で、どこに行くの」
 グラスのビールを一気に飲み干して俺は言った。
「内緒」
「もうケチなんだから。教えてくれたっていいでしょう」
「そうだな、じゃあ、お土産を買ってきてやるよ。それで、どこに行ったか当てることにしよう」
「分かった。当てたらなにかご馳走してくれる?」
「この店の近くにすし屋が開店しただろう。そこはどう」
「いいわよ。でも、ちゃんとそこの特産品買ってきてよ。コンビニのチョコっていうのはなしね」
「そんなことはしないさ」そう言って、二杯目のグラスも一気に飲み干した。

 店を出て自宅に向かった。明日の旅行の準備をしなければならない。準備と言っても、一泊二日の一人旅に大きな荷物がいる訳ではない。早く寝るのが準備だ。
 何故かここしばらくは、あちこち旅行に行くのが好きになった。それも一人で。加奈を連れて行くときもある。けれど、女の買い物につき合わされるのは疲れてきたので、二回に一回は、仕事関係の「出張」という名目で、あちこち好き勝手に行っている。
 別にあそこに行ってみたいとか、あれを食べてみたい、というので旅行先を決めている訳ではない。ネットで見て、「ここにしよう」と軽い気持ちで決めている。どちらかと言うと、その場所に行って、いろいろ探すのが自分の性には合っているのだろう。
 本当になにもない町がある時もある。しかし、そんな場所でも、夕暮れ時に高校生の若いカップルが手を繋いでいるのを見て、自分の青春時代を思い出し黄昏てみたり、飲み屋で、地元の親父の「お国自慢」を延々と聞かされ、ウンザリしながらも、しばらくすると「あの親父、元気だろうか」と思ったり、そんな、普段の生活ではあまり気付かなかったり、思わなかったことが感じられるのも、旅の魅力だと思っている。
加奈に言わせれば「コンビニだって、走っている車だって、どこに行ってもまったく同じ。住んでいる人間も変わらないし、わざわざ旅行しなくても、そんな気持ちになれるんじゃない?」だそうだ。俺に言わせれば、東京のヴィトンも大阪のヴィトンも、パリのヴィトンも同じなんだが・・・それは言わないでおくのが賢明だ。

 それにしても、今回は失敗だった。台風は朝鮮半島にそれずに日本を直撃してしまった。最近の天気予報は、昔より随分当たる確立が高いと思っていたのに、今回は外れてしまったようだ。おかげで帰りの飛行機は飛びそうにない。明日の仕事は俺がいなくても大丈夫だとは思うが、初めて来た町に閉じ込められるのは心細い。
 空港カウンターは、問い合わせの客でごったがえしている。夏の台風が運んできた暖かい南風と、この人込みで、空港は汗ばむようなムッとした空気で満たされていた。がやがやとした音が耳に響き、ときおり目の前を、ガラガラと音を出して、キャスター付きのスーツケースが通り過ぎた。地方の空港なのに、成田空港にでもいるような感覚を覚えながら、椅子に座って辺りを見回していた。
 みな一様にあきらめた表情をして椅子に座ったり、ボーッと外を見たりしていた。中には、はしゃいでいるアベックもいる。それはそうだろう、台風で観光はできないかも知れないが、今日も恋人と一緒にいれらるのだから嬉しいはずだ。
 まだ午後二時前だというのに空は暗く、木々は風に大きく揺られ、水しぶきを飛ばしている。そんな中、防水服を着て建物の点検をしている職員が見えた。仕事とはいえ大変だろう。
 しかし、台風というのは飽きもせず毎年日本にやってくる。そして、水害や土砂崩れなどの被害を残して去ってゆく。しかし、それだけではない。雨といった恩恵を与えることもある。それに、台風の去った後は、目にしみるような青空が広がる。空の暖かさ、広さ、偉大さを感じさせてくれるものでもある。
 そんな風に考え事をしながら外を見ていたら、不意に黒い影が目の端っこに写った次の瞬間、左のこめかみに鈍い衝撃を受けた。本当に、ロビーの椅子から転げ落ちそうなくらいの衝撃だった。外の景色が斜めになるのを感じながら、かろうじて体を支えると、その犯人に目を向けた。
 そこには、緑色のバックをパンパンに膨らませて、一人の少女が申し訳なさそうに立っていた。そのバックの端の固い部分が俺の頭に当たったのだろう。
「すみません・・・大丈夫ですか・・・・」
 俺は、目に星らしいものがちらついていたが、冷静に言った。
「たぶん、大丈夫だと思う」
 おそらく、その時の俺の目は焦点が合っていなかっただろう。
「・・・すみません。あの・・・全然気がつかなくて・・・」少女は、小さい声で謝った。
「ああ大丈夫。気にしなくていいよ」
俺は何事もなかったように、また前を向いた。本当はまだ頭が痛かった。一人だったら頭を抱えて床を転がっていただろう。しかし、いたいけな少女を責めるような気持ちを持ってはいない。やせ我慢をして、何事もなかったように前を向いた。
 少女はペコリと頭を下げると、空港カウンターに向かって行った。そのうち目の焦点も合ってきたので、まだ痛む頭を左手で抑えながら、その少女をぼんやりと見ていた。
一言二言、空港職員と話をして、その少女はキョロキョロ辺り見回したと思ったら、空港の隅に向かった。どうやら公衆電話で電話をかけるらしい。しかし少女は財布を見ると空港売店に向かった。たぶん、小銭がなかったので両替でもするのだろう。いまどきなら携帯を持っていても不思議ではないが、おそらく親が持たせてくれないに違いない。
中学生か高校生くらいで、少女特有の少しふっくらとした顔と、細身で、やや高めの身長をした体がアンバランスに見えなくもないが、大きな瞳には純粋な光が宿っており、おそらく、クラスの中にも密かに思いを寄せている男子もいるだろうと思えた。首まで隠れる黒いサマーセーターに、ジーンズといった服装も派手ではなく、仕草もごく普通の少女だ。ただ、サマーセーターから伸びている細い腕と、やや寂しさを伴ったような瞳を見ていると、なんとなく自分の胸に、はかなさが込み上げてくるのを感じた。
 少女が向かった空港売店は、カウンター同様に混雑していた。少女はレジまでの列に並ぼうとしているようだが、次から次と人が交差し、いつまでも並べないようだった。最初はそれを面白がって見ていたが、そのうち見ていられなくなった。
ついに俺はその少女のもとに向かった。そして、紳士的に話しかけた。「電話をおかけになりたいのですか?」
少女は「えっ」といって振り向いた。そして無表情のまま言った。
「・・・あっ・・・はい・・・あの・・・家に電話をかけたいんですけど・・・」
笑顔を作って携帯を差し出した。
「急いでいるなら、この携帯を使っていいよ」
少女はちょっと驚いたような表情をした。
「・・・えっ・・・あの・・・でも・・・」
妙に一言一言考えて話す子だなと思いながらも「困っている時はお互い様、気にしなくていいよ」と言って、もう一度携帯を彼女に差し出した。
「・・・はい・・・じゃ・・・すみません・・・」少女は無表情のまま携帯を受け取った。
少女は、電話番号を打ち込んだ後、携帯を耳に当て、しばらくしてこっちに顔を向けた。
「・・・あの・・・どこを押せば・・・電話がかかるんですか?」
驚いた。だが、そんなことは顔に出さずにやさしく言った。
「そこの緑色の、電話の絵が書いてあるところを押せば、電話がかかるよ」
少女は家に電話して、飛行機が飛ばないので帰れそうにないことを話していた。親戚の家にでも泊まりに来ていたのだろう。しかし、家族とは俺に対する話し方と違って、普通に話しをしていた。この年頃の子は見ず知らずの男性には警戒心でも抱くものなのだろうか。
 そういえば俺の妹も、この位の時には親父でさえ毛嫌いしていた。見ず知らずの男性だったらなおさらそう感じるのかも知れない。
しかし、その妹も結婚してからは、毎年、父の日にはプレゼントを贈っている。親父も親父で、しいたげられた時代があったことも忘れて、プレゼントの若々しいシャツを嬉しそうに着ている。そんなことを思い出して、つい笑ってしまった。
少女は電話が終わると「・・・ありがとうございました」と言って、相変わらず無表情のまま、俺に携帯を返した。ペコリと頭を下げると、その場を立ち去って行った。
 空港では、今日は全便欠航になることと、希望者にはホテルを手配するアナウンスが流れた。
「やれやれ」もう一日、一人でゆっくりできることよりも、退屈な一日を想像し気が滅入った。会社のスタッフに、今日帰れないことを連絡してホテルへのバスへ乗り込んだ。

 指定されたホテルは、この町ではまずまずのレベルのホテルのようだ。ベージュ色の外壁で、ロビーは落ち着いた色調のインテリアや、ソファーが綺麗に配置され、花も手入れが行き届いていた。結婚式もできるらしく、一階にはウェディングドレスが何着か飾ってある。その脇にはガラスで囲まれた喫茶室もあった。スタッフも丁寧で、混雑していたにもかかわらずそれを感じさせない応対だった。
 チェックインを済ませて「本屋にでも行ってくるか」と外に出ようとしたが、とても旅行用の折りたたみ傘では、防ぎきれそうにない土砂降りだったので、それはあきらめた。
 仕方なく部屋に戻り、ノートパソコンを取り出しネットを始めた。明日の天気を調べるためだ。
一人旅では、あまり持ち歩かないようにしているが、今回は天気が気になったので持ってきたのが正解だった。携帯でも天気くらいは調べられるが、スピード、情報量ともパソコンにはかなわない。それにこれさえあれば、会社のスタッフとメールである程度の仕事のやりとりもできる。
「あれ、今回の台風はずいぶん速度が遅いな。もしかして明日も帰れないかも知れない」
 俺は明日加奈と会う約束を思い出した。「だから言ったでしょう」と言われるのが嫌で、電話はせず、携帯のメールで明日も帰れないかも知れないことを送信した。
メールを入れて、ホテルの部屋の窓から外を見た。雨が激しくホテルの窓を叩きつけていたせいで、外の景色はひどくゆがんで見えていた。なんとなくホテルという建物の中にいる自分が、小さい頃、母親に抱かれていたような安心感を覚えたのは、気のせいではないだろう。それ程までにひどい土砂降りだ。
「さて、本でも読むか」
普段、本はあまり読まない方だが、旅には本は欠かせない。今回は夏目漱石の「坊ちゃん」を持ってきた。最近は明治時代の文豪の本を旅に持ってくることが多い。理由は二つある。一つは、知的な人間と思われたいこと。もう一つは文豪各位には大変失礼な話ではあるが、眠くなることだ。そんなものだから一日十ページが限界だ。
 本をバックから取り出し、ベットに仰向けになった。気のせいか、最近ベットに横になると腹の肉がプルンとするような感じがする。高校、大学とテニスに打ち込んでいた時期の体重を、特にダイエットもせず維持してきたが、腹の周りに脂肪がついてきたのだろう。身長百七十八センチで、七十キロだから、まだまだ大丈夫と思っていたが、若い頃と違い、筋肉が地球の重力に逆らえず、脂肪に形を変え、腹の回りに集まったのだろうか。まあ、そのうち水泳でも始めて体を絞ればいいさ。そんなことを考えて、いつものようにベットに横になって本を読んでいたが、やはり眠くなってきた。ホテルの窓ガラスに雨が当たる音が気になったが、いつのまにか眠ってしまったようだ。

目が覚めたとき、その雨音は一段と激しさを増しているようだった。もう一度パソコンの天気予報の画面に目を通し携帯を手に取った。加奈からメールの返事がきていた。「こっちもすごい天気です。無理して帰ってこなくていいよ。羽を伸ばして、どうぞ素敵な夜を」と入っていた。
「飛行機は俺が操縦する訳じゃないから、無理したくても無理できないじゃないか」ブツブツいいながら外を見た。
「いつになったら、この台風は、青空を持ってきてくれるのだろうか」退屈な明日を想像しながら、ホテルのレストランに向かった。

 予想通り、欠航の影響でレストランは混雑していた。さらに、客のほとんどは、この天気で外に出れずに、ここで夕食をとるしかなかったこともこの混雑の一因だ。結構広いレストランで、こぎれいな感じだったが、窓から見える重い天気と、人の混雑が、ジメッとした、いやな感じを与えていた。
 キョロキョロしているとウェイターが来た。
「お食事でございますか。申し訳ございません。本日は大変混み合っておりまして」
「一人なんだけど、座れそうにもないね」
「お一人様でございますか。合い席にはなってしまうのですが、お一人様専用のテーブルもご用意しております。そちらであれば、席はすぐご用意できると思いますが」
ウェイターに案内されるまま、一人用のテーブルに腰掛けた。隣ではワイシャツ姿の中年男性が、雑誌を読みながら、ビール片手にクチャクチャ音を立てて食事をしていた。
目の前では、ビジネスマンと思われる若い男性が、携帯を左手に持ち、ときおりニヤニヤしながら、顔で皿を舐めるように食事をしていた。こういったホテルではよく見る光景ではあるが、あまり気持ちのいいものではない。
ぼんやりしていると、前の若い男性が席を立った。席を立っても相変わらず携帯を左手に持ってなにか見ていた。
すばやくウェイターが食器を下げると、別の客が案内されてきた。
「あれ、君はさっきの」目の前にいたのは、空港で合った少女だった。
「さっきは・・・どうも・・・あの・・・頭大丈夫ですか?」少女はちょっと驚いた顔をながら言った。
「頭は、そうだな、もう痛みもないし大丈夫だと思うよ」
少女はホッとしたのか、ふと笑顔を見せた。やっぱり女の子には笑顔が似合うなと思ったが、またすぐ無表情な顔になった。
「一人でこの町にきたの?」笑顔を作って聞いた。
「・・・はい・・・隣町の・・・親戚の家に・・・遊びに来てたんです」
この少女は、あまり口を開かず、はっきりしない話し方をするようだ。ただ、この少女の顔からは、若い子に見られる、力強さが感じられなかった。自分と同じで、冷め切ったような、なにか諦めているような、そんな感じが伝わってきた。
「君一人じゃ、家族の人も心配しているんじゃないの」親父くさいことを聞いた。というかこういうことしか話すことがない。
「・・・あの・・・明日まで・・・泊めてもらおうと思ったんですけど・・・隣町に行く道が土砂崩れで・・・それで・・・しょうがなくて」
「ああ、それは大変だね。でも明日も台風で飛行機が飛ぶかどうかわからないよ」つい余計なことを言ってしまった。
「・・・」少女は黙ってしまった。飛行機が飛びそうもないのは本当のことだが、余計なことを言って、妙な心配をかけてしまったようだ。それからは、俺も他に話すこともなく、ただ時計を見たり、他の宿泊客を見回しながら、黙っていた。
 そうこうするうちに食事が運ばれてきた。少女の食事も同じく運ばれてきた。
「・・・いただきます・・・」少女はボソッと呟くように言って食べ始めた。
俺はその言葉を久しぶりに聞いた気がした。「いただきます」なんて最近俺も言ってない。会社のスタッフも食事のとき「いただきます」なんて言う奴はいない。言うのは「乾杯」くらいだ。
 そして、しばし少女を見ていた。箸の持ち方も食べ方も上品だった。その上品さは、大人の女の色気さえ感じさせるものだ。それに、ショートヘアの似合う、なかなか綺麗な顔立ちをしている。俺は初恋の人を思い出した。たぶんこの少女も同じくらいの年齢だろう。
初恋の人は、今で言うスポーツウーマンだった。同じクラスでテニス部の部長を任されていたが、しかし出すぎた所はなく、一生懸命テニスに打ち込んでいる姿は、俺の心を捉えて離さなかった。もっとも、当時は奥手だったこともあって、ただその人を見ていただけだったが。そんなことを思い出し、ほろっとする感じを味わいながら食べ始めた。
 しばらくして、また、少女に目が行った。少女も顔を上げたので目が合った。
「君はなかなかしっかりしているね。きっと、ご両親の教育がいいんだろうね」
「・・・両親はいないんです。・・・今・・・おばあちゃんと・・・暮らしています」
少女は表情を変えずに言った。まあ会話がかみ合わないときはこんなものだろう。
「ああ、それは悪いことを聞いてしまったね。それにしても、きみの食べ方はきちんとしていて、見ていて、こっちまでおいしく食べられるよ」
それは気を遣って言ったこともあるが、嘘ではない。
「・・・そうですか・・・ありがとうございます」少女は答えた後、ちょっとはにかんだ。意外な反応だ。初めて少しだけ会話が成り立ったようだ。
 他に話すこともなく、先に食事を終えて「それじゃ」と言って、ロビーに下りていった。外では相変わらず雨が激しく降っていた。
ロビーでぼんやりと外を見ていた。雨が降っていなければ酒場に行って一杯やるところだが、この天気じゃとても外に出れそうにはない。
 しょうがない、今日は「坊ちゃん」を完読するか。そう思って立ち上がりかけたとき、ふと、例の少女が食事を終え、ウェディングドレスに見入っているのが目に入った。
やっぱり女の子はウェディングドレスには惹かれるらしい。なにか想像しているような遠い目をしていた。きっと、愛する男性と結婚式を挙げているところでも想像しているのだろう。俺と話すときの無表情な顔ではなく、笑みをたたえ、自分の結婚式で、このドレスを着ているかのような表情をしていた。
なにげなく少女を見ていると、少女も視線を感じたのかこっちを見た。そして俺と目があった瞬間、少女はなにか悪いものでも見られたような顔をした。それは、長年隠し通していた嘘が、突然ばれた時のような顔だった。
 俺はその表情が気になった。たしかに、事故かなにかは知らないが両親はいない。そんな不幸な過去はあるにせよ、あの少女はしっかりしている。しかし何かが気になる。別に、あの少女をどうこうしようと思っている訳じゃない。ただなんとなく気になる。今の顔といい、話をするときの少女が見せるわずかななにかに。一種好奇心を伴った憐れみのようなものを感じていた。
 軽く手を上げて少女の側に行った。少女はその場に固まったまま動かなかった。動けなかったのかも知れない。顔は下を向いたまま、裁判の時、被告が判決を待っているかのように微動だにしなかった。
「さっきは悪いことを聞いてしまったね。謝るよ」
 少女はなにも言わず首を横に振った。
「どうだろう、罪滅ぼしにケーキをご馳走させてくれないか。そこの喫茶室から出てきた若い女の子が、とてもおいしいって言ってたのを聞いたんだ」
自分で言って笑いそうになった。いい年してケーキをご馳走させてくれっていうのもどうかと思うが、ま、相手の年齢からして、それもしょうがない。
「えっ・・・あっ・・・はい・・・」
もっと警戒されると思ったが、すんなり応じてくれた。少女は何かホッとしたような表情を見せながら、後について喫茶室に入ってきた。
ホテルの喫茶室は、以外に空いていたこともあり、さっきレストランで感じた、ジメっとした感じはなく、心地よい適度に乾いた空気が肌を包んだ。照明はちょっと暗かったが静かな曲が流れ、椅子やテーブルもなかなかのものだった。喫茶室の端にはピアノが置かれており、全体的に落ち着いた感じを醸し出している。
 ケーキが来るまで、俺は一通り自己紹介を済ませた。少女はただ表情を変えずに、背中をピンと伸ばして、ときたま水を飲みながら頷いていたが、一人旅が好きだといったときは、うらやましそうに呟いた。
「・・誰も知らない場所って・・いいなあ」
「毎日、パソコンを眺めて、会社の人間関係や、取引先との接待で疲れたときには、一人旅は最高の薬だよ。君も、もう少し大人になれば、一人旅ができるようになるよ」
少女はこくっと頷いた。少し心を開いてきたようだ。
「ところで、君の名前を聞いていなかったね」
少女は一瞬とまどったようだったが。間を置いて口を開いた。
「・・・ジュンです」
「ジュンか。どういう字を書くの?」
少女はまたちょっと間をおいて答えた。
「・・・純情の純・・・です」
「純という字は、純粋、純愛とかいい言葉が多いよね。純金もそうだし純米酒っていうのもある。あと純潔っていうのもあるな」
「・・ジュンケツ?」少女は聞き返した。
「あ、いや、汚れがないということだよ」・・・ちょっと調子に乗りすぎたようだ。たぶん分からなかったとは思うが。
 ケーキとコーヒーが運ばれてきた。少女はケーキとオレンジジュースを頼んでいた。少女はケーキを一口食べた。
「・・おいしです」少女は言った。
「君くらいの女の子は、みんな甘いものが好きだな。俺の妹も、食後の甘いものは別腹とかいいながら食べていたもんな。今もそうなのを見ると、きっと女性は甘いものが好きなんだと思うよ」
「でも私、甘いものはあまり食べないようにしてるんです。これ以上太るといやだし」
少女が初めて俺にまともに話をしてくれた。
「君は今も太ってなんかいないよ。友達も、君が太っているなんて言わないだろう」
「・・・そうですね・・・」少女は一瞬無表情になった。しかし
「でも、このケーキ本当におしいです」とまた一口食べた。それを見て俺もケーキを食べ始めた。
 オレンジジュースを飲み干して少女は外を見た。外はさらに雨風が強くなってきていた。
「明日も台風なのかな」
それは意外にも、明日も台風だといいなというニュアンスに取れた。
「ああ、さっき、パソコンで天気予報を見たら、どうやら明日も台風は通り過ぎてくれないらしい。飛行機も欠航になると思うな。そうなると、明日もまたこのホテルに、閉じ込められることになるだろうね」
「パソコンって天気予報も見れるんですか?音楽は聴けるって聞いたことはありますけど」驚いて少女はこっちを見た。
おばあちゃんと住んでいれば、パソコンがなくても不思議ではない。しかし、今、学校でもパソコンくらい、授業の一環で勉強しているはずだが、少女には興味のない分野なのかもしれないと思った。そこで分かり易く話した。
「そうだよ。天気予報だけじゃなくて、もちろん音楽も聴ける。アーティストのライブだって見れる。日本人だけじゃなく、外国の人とメールのやりとりもできるんだ。映画も観れるし」
「映画も観れるんですか」少女は大分興味をもったようだ。「私、映画が好きなんです」
「映画は観れるけど、画面が小さいからね。映画はやっぱり映画館で観たほうが好きだな。君の住んでる町にも映画館はあるんだろう?」
「私の町にはないんです。となり町にはあるんですけど」
「どんな映画が好きなの?」
「ラブストーリーが好きです」少女は、ちょっと恥ずかしそうに言った。
少女はさっきと別人のようだ。俺の目を見て、口を開けない話し方は相変わらずだったが、まるで俺を昔からの知り合いと思っているようだ。その笑顔は、触れがたいほど純真なものだった。
いつの間にか、この少女に感じていた憐れみのような感情は消え失せていた。そしてほっとしていた。どうやら普通の女の子のようだ。それからは、俺も映画が好きだったので、映画談義に花が咲いた。コーヒーもジュースもおかわりをした。

どのくらい話をしたか分からないが、店員がやってきた。
「申し訳ございません。そろそろ閉店でございますので」
時計を見た。「もうこんな時間になっちゃったね。そろそろ部屋に戻ろうか」
「はい。今日は本当に・・・あの、ごめんなさい。その頭の傷・・・」少女は俺のこめかみに目をやった。
俺はこめかみ辺りに手をあてた。たんこぶができていた。そこを触って「いてててて」オーバーな仕草をした。
「大丈夫ですか」本当に心配してくれているようだ。そのやさしさが、さっきこの少女に対してもった好奇心を罪悪感に変えていた。こんな少女を疑った自分が恥ずかしい。
「冗談だよ。たんこぶはできてるけど、痛くもなんともない。飛行機に乗るころには直ってるさ」笑って答えた。少女は、ほっとしたようだ。そして席を立とうとした時、俺は言った。
「明日も飛行機が飛ばないときは、一緒に食事をしようか。どうせ俺も一人だし、君も特に予定はないんだろう?」
「いいんですか。それじゃ、明日もいろいろ話を聞かせて下さい」
変な下心がないから警戒しないのか、少女はあっさりとした口調で答えた。
これが大人の女だったら、酒を飲ませて、泣ける話で女を口説いただろう。しかし目の前にいるのは普通の少女だ。しかも触れがたい純粋さを持っている。心が洗われるというのはまさにこんな感じか。いや、自分も初恋のころに戻った気持ちになっているだけなのか。まあ、どっちでもいい、この少女といると、言い様のない気持ちになったのは事実だ。
 喫茶室を出るとき、入ってきたときから、ちらちらと興味深々にこちらを見ていた、茶髪の、グラマーとおぼしき女性店員と目が合った。
「君にはこの子の純粋さと、俺のこの気持ちは分かりっこないよ」そう目で言ってやった。その女性店員はキョトンとしていた。

ウェディングドレスが飾られている、ショーケースの前を通ってエレベーターに乗った。俺は少女がウェディングドレスを見入っていたことを思い出し「そういえばさっき・・・」と言いかけたところで、少女が言った。
「私の部屋、703号室です」
「なんだ同じ階じゃないか。俺は708号室だよ。じゃ明日、朝食のとき迎えにいくよ。ノックはトン、トントン、トントントンってのが合図だ。それ以外は開けちゃダメだ。狼に食べられるかも知れないからね」
少女は笑って頷いた。ハタから見れば、俺も狼に見えないこともないが、今はこの少女を守っている正義の味方のつもりだ。
 エレベーターが七階に着いた。
「じゃまた明日」
少女は笑顔で、ペコリと頭を下げると「おやすみなさい」と言って部屋に入っていった。それを見届けると、自動販売機で缶ビールを買って部屋に戻った。
考え過ぎのようだ。今どき珍しくしっかりした少女だ。両親をなくしたとはいえ、健気に生きている。こんな出会いも一人旅の魅力だ。
それにしてもすごい風雨になってきた。パソコンの天気予報を見ると、間違いなく明日も台風で飛行機は飛べそうにない。しかし今は、明日もあの少女と会えることを思って、なんとなく嬉しかった。
携帯を見た。加奈からの着信が何回かあったようだ。そういえば、携帯は部屋に置きっぱなしだった。メールには
「さぞかし楽しい夜をお過ごしのことと思います。楽しいおみやげ話を期待しております」とあった。
これじゃ、常に監視されてるのと同じだ。言い訳を考えてメールを送った。こういう時はメールの方がいい。嘘が声でばれる心配がない。それに今は相手の感情を推測する必要もない。間違いなく加奈は怒っている。
 メールを発明した人に感謝しながら、缶ビールを飲み干すと、シャワーを浴び、ゴロンとベットに横になった。その時少女のことを思い出した。
「やっぱり普通の少女だよな。でもあの時、ウェディングドレスを見ている少女と、その姿を俺に見られたときの少女は、まったくの別人のようだった・・・いや、たぶん気のせいだろう」
眠気のせいで俺は思考を停止した。相変わらず、部屋の窓に雨が当たる音がしていたが、今は気にならなかった。


次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2216