孝明は時計を見た。時計の針は午前九時を指していた。朝、まだ暗いうちに出発して、もうどの位歩いただろうか。孝明は山の上の方を見た。今日もどんよりとした雲に覆われて山頂は見渡せない。しかも孝明がいる辺りにも霧が出てきており、このままでは道に迷ってしまうことも考えられる。「よし」と言うと孝明はまた山を登り始めた。 孝明は、このまま逃げることは考えなかった。逃げてもいずれ連れ戻されるし、ましてや、この山を越えて向こう側まで行くなんてことは出来ないだろう。孝明は決めていた。俺がこの村を救ってやるんだと。もちろん、自分が殺されるのが分かっていて、その運命を甘受しようなんて気になる訳もない。 孝明が加藤から貰った地図と、絵を確認しながら沢を登って行くと、加藤が言っていた沢の分かれ目に出た。ここを左側に行けば、神木までもう少しだ。孝明は疲れてがくがくと力の入らない足を両手でパンパンと叩き、また、歩き始めた。 「あれだ!あれに間違いない」孝明は確信した。その神木は堂々した幹を地上から上に伸ばし、その根は大地をつかんで離さないようにしっかりと張っている。不思議なことに、回りの木は若葉をまとい始めたばかりなのに、その木は下から上まで青々とした葉が茂っている。しかも、どんよりとした天気なのに、そこだけ薄っすらと光を帯びていた。 ちょっとした崖を登り、孝明は神木の前に立った。そして、神木の葉を取ろうとしたとき、なにかに突き飛ばされるように孝明の手は、はじき飛ばされた。もう一度、同じように葉を取ろうとしたが、また、触ることは出来なかった。何度も何度も同じようにトライしても、結果は同じだった。 「なんてことだ、これじゃ葉っぱは取れないじゃないか」孝明は急に自分の立っている地面に深い穴が開き、そこに落ちて行くような感覚にとらわれた。「このままじゃ、俺は殺されてしまう」孝明は力なくその場に座り込んでしまった。
その頃、温泉旅館では大きな騒ぎになっていた。 「探せ!きっとその変にいるはずだ。逃げたとしても、車はある。そう遠くには行っていない。昨日の夜は寝ている姿を加藤が見ているから、きっと、その変にいるはずだ」旅館山田の社長は大声で叫んでいた。他の旅館の社長や従業員も総出で孝明を探していた。 「おお、加藤ようやく来たか。お前も話を聞いていると思うが、あいつの姿が見えなくなったんだ。お前は山の方を探してくれ。お前は山に詳しいからな」 「分かりました。しかし、なんで、いなくなったんでしょうね」加藤は眉にしわを寄せた。 「分からん。きっと、あいつは儀式を見たんだ。そして、恐ろしくなって逃げたんだろうよ。加藤、昨日は間違いなくいあいつは部屋に居たんだろうな」 「ええ、昨日の夜はいました。でも、今日の朝は早くから山菜採りに出かけてましたけど、出かける前に見た時も部屋にいましたよ」 「お前が言うなら間違いないだろう。ということは、早朝にここから抜け出したと言うことだ」 「社長、駐在から連絡です。怪しい人間は通らなかったと言っていますが、もし、見かけたら連絡するそうです。それから、事件なら署から応援をよこすと言っていますが」旅館の従業員が社長に言った。 「応援などいらんと言っておけ!たぶんまだ山開きをしていないのに山にでも行ってしまったとでも言っておけばいい。この時期に警察なんてきたら、余計おかしくなっちまう。そのくらい自分の頭を使え!」社長は近くにあった新聞を従業員目掛けて投げつけた。 「分かりました」従業員は肩をすぼめて立ち去った。 「役場の方へは行っていないと言う事は、この辺に隠れているか、山に行った可能性が高いと言う事だな。加藤、山はお前に任せた。何人か若いのも連れて行っていいぞ」 「いや、俺一人で行きます。返って足手まといになりますから。それに、大勢で行けば、あいつも警戒してこっちの動きがばれてしまうことも考えられます」 「しかし、お前怪我しているじゃないか。一人で大丈夫か?」 「こんな大事なときに、怪我なんて言ってられないでしょう。それじゃ、山の入り口の清水のあるところで、二三人、人を待機させて下さい。この天気じゃ山に行っても向こう側までは行くことは出来ないでしょう。あいつが諦めて返ってくれば、必ずそこを通るはずですから」 「分かったそうしよう」加藤と旅館の従業員の三人は車で清水の所まで向かった。加藤は、そこに二人を残し一人で山に入った。そして、孝明との待ち合わせ場所に着くと、そこに腰を下ろして時計を見た。まだ、約束の時間までは十分に時間がある。あいつは、神木の葉を取ることが出来たのだろうか。そう思いながら神木のある方をじっと眺めた。いや、あいつならきっと神木の葉を取れるはずだ。きっとあいつなら・・・。
孝明は、神木の前で動けずにいた。どうして俺はこの葉っぱを取ることが出来ないんだろう。昨日、儀式を見たので俺の頭も洗脳されちまったのか。孝明は、万策尽きた表情で神木をうらめしげに眺めた。 逃げよう。孝明は呟いた。この山を越して逃げよう。もし山に迷って死ぬなら仕方ない。山伏に魂を捧げるくらいなら、その方がよっぽどましだ。孝明はきっと山の上を見上げた。雲に隠れた山頂まで一体どれくらいあるかは分からない。だが、こうなったら行くしかない。 孝明はくつ紐を結び直し立ち上がった。そして、もう一度神木を見て山頂に向かって歩きだした時、不意に後ろから老人の声が聞こえた。 「どこに行くんだね」 孝明はドキッとして後ろを振り向いた。そこには、頭の周りに残った髪まで白髪になった老人が立っていた。頭の上にはもう髪はなく、くぼんだ目の周りにあるしわからして、かなり年はいっているだろう。グレーの作業服の上下に長靴、背中にはかごを背負っており、最初孝明は、この老人は地元の人間、つまり呪われた村人が山菜採りにでも来ているのかと思った。しかし、しわの間に見えるその目は、穏やかで、優しさをたたえ、老人には思えないほど澄み切っていた。 「もしかして、山を越えようと思っているのかい?」老人は孝明に尋ねた。 「その前に、聞きたいのですが、おじいさんは、山神温泉に住んでいるんですか」 「違うよ。俺は、隣村の人間だ」孝明は老人の目を見つめた。一遍の曇りもなく、吸い込まれそうなその瞳を見て、孝明はそれが嘘でないと思った。 「実は、この山を越えようと思ってました」 「この天気じゃ無理だろう。まもなく雨も降り出すはずだ。それに、お前さん、随分軽装のようだが、それじゃ死にに行くようなもんだ。悪いことは言わないから、帰った方がいいぞ」 「でも、俺には帰ることは出来ないんです」 「どうしてだい?」 「訳は言えません」 「別に無理に話さなくてもいいけど。しかし、お前さん、顔が死人のようだな。なにか困りごとでもあるのかい」 「実は、この木の葉っぱを取りに来たんです。でも、どうしても取ることが出来なくて。それで、困ってしまって」 「この木はこの辺の人間は神木と言って恐れている木だ。その木の葉っぱを取ってどうするんだい」 「恐れられている?」 「そうさ、この辺の人間は、この木の枝を取ると祟りがあるって恐れているのさ」 「でも、この木は、その、ご利益があると聞いてきたのですが」 「まあ、そうとも言える。ご利益があるか、祟られるかはその人間が判断することだからな。お前さんにとってご利益になるかどうかは分からんがね」 「なんでも、迷える魂を救い出せると聞いたんですけど、本当なんですか?」 「誰か、救いたい魂でもあるのかい?」 「ええ、魂も救いたいのですが、人間も救いたいんです」 老人は孝明をじっと見つめた。孝明もじっと老人の顔を見つめた。老人はふと穏やかな笑みを浮かべたと思うと、静かに孝明に言った。 「それじゃ、一心にこの木の前で祈ってみたらどうだ。その気持ちが通じれば、きっと葉っぱも取れるだろう」 「本当ですか」 「たぶん、そう言うもんじゃないのかい。お前さんがなにも言わずに葉っぱを取ろうとすれば、そりゃこの木だって怒るだろうさ。ちゃんと訳を話せば、聞いてもらえるだろうよ」 「分かりました。やってみます」 「それじゃ」と言って老人は立ち去った。孝明は神木の前に立って、木の根っこから上の枝まで眺めた。そして、木の前に正座し両手を胸の前に合わせて祈った。 「私は、自分自身と山神温泉の村人を救いたいのです。どうぞ力を貸して下さい」孝明は何度も祈った。 しばらくして、カサカサと音がした。孝明は祈るのをやめて神木を見た。すると、上の方の枝が揺れているのに気が付いた。そして、その枝についていた葉っぱがパサッと孝明の目の前に落ちてきた。 「ありがとうございます。ありがとうございます」孝明は何度も頭を下げて神木にお礼を言った。
雨がぽつぽつと顔にあたるのを気にも留めず、加藤は孝明との待ち合わせ場所で、何度も時計を見ていた。まもなく約束の時間、午後三時になろうとしている。あいつは、神木の葉を取れたのだろうか。俺が行った時は、通りすがりの爺さんが言った通りに、何度も祈ったのに結局葉っぱは取れなかった。俺の頭が洗脳されていたせいか、それとも、俺の願いを、神木は認めなかったからか。 加藤は、怒りと悲しみが沸き上がるのをこらえられなかった。手を何度も自分のももに打ちつけ、顔がくしゃくしゃになるまで泣いた。お袋は、一人で俺を育ててくれた。自分の食べるものを我慢してまで、俺に食べさしてくれた。苦労して大学まで出さしてもらった。司法試験に受かったとき、人一倍喜んでくれた。あの時お祝いだと言って食べさしてもらった雑煮の味は一生忘れない。俺にとっては唯一の肉親だった。それなのにあいつらは・・・俺は絶対許さない。あいつらを絶対許さない。 加藤は、その時山の方からかすかに人の足音が聞こえてくるのに気付いた。加藤は足音の聞こえる方に顔を向けた。そこには神木の葉を手に持って歩いてくる孝明の姿があった。加藤は足の怪我などなかったように孝明に向かって走り出した。 「取れたのか!」加藤は孝明の両肩を力いっぱい両手でゆすった。 「ほら、神木の葉はこのとおり」 「よく取れたな!」 「ああ、隣村のじいさんにちゃんとお祈りしろって言われて、言うとおりにしたら、枝が落ちてきたんだ」 「隣村?隣村から来るなんて不可能なんだが。まあいい、とにかくお前はそれを隠せ。そしたら、俺は縄で縛るから」 「ちゃんとほどけるようにして下さいよ」 加藤は孝明の両手を胸の前でクロスするように縄で縛った。「お前が右手で持っている縄のはしを、口にくわえて引けばほどけるようにしておいたからな。どうだ一回やってみろ」 孝明は言われるがままに、口で縄のはしをくわえ、縄を引っ張るように頭を上に上げた。そして、もぞもぞと動くとあっと言う間に縄はほどけた。 「これなら大丈夫だ。後はお前の持っている神木の葉を箱の上に置くんだ。それだけでいい。じゃあ、もう一回縛るからな」もう一度孝明を縛り終えると加藤が言った。「頼んだぞ」孝明は黙って頷いた。
「まったく手間を掛けさせやがって」旅館山田の孝明の部屋で、社長は孝明に言った。脇には他の旅館の社長が座っていた。 「お前は、どうして逃げ出したんだ?」孝明は社長を睨んで何も話さなかった。 「まあいい。とにかくお前の魂はここのために役立たせてもらうからな。悪く思うなよ。これも一つの人助けのようなものだ。なに心配はいらない。三十三年辛抱すればいいだけだ。それで、ここのみんなが幸せに生活できるんだ。詳しいことは加藤から話させるから」 社長三人はそう言うと部屋を出て言った。加藤は、孝明の前に立つと紙を差し出した。「ここは、監視されている。黙って俺の話を聞け」その紙にはそう書いてあった。そして加藤はこの村の歴史や、自分がこれからどうなるのかを聞かされた。孝明は縄で縛られたまま、首を垂れて黙ってそれを聞いてた。 加藤の話が終わると社長が入ってきた。「加藤、お前はこいつを見張っていろ。俺達は儀式の準備をしてくるから」 夜になるまで、孝明と加藤は黙って二入で部屋に座っていた。「テレビをつけようか?」と加藤が一度孝明に聞いたが、「いや、いい」と言ったのが唯一の会話だった。 孝明は黙って時計の秒針を目で追っていた。時間は均等に時を刻むはずだが、今日の孝明には随分遅く感じられた。早く左手に握り締めた神木の葉を箱の上に置いて、自分は自由になりたい、村人も千年の呪いから解放してやりたい。その思いが強くなればなるほど、時計の針がゆっくりと動くような気がしていた。しかし、本当にこの神木の葉でのろいが解けるのだろうか。そういった不安がない訳ではない。孝明は緊張で喉がからからになっていた。 「悪いが、水をくれないか」 「ほら」と言って、加藤がコップに水を汲んで飲ましてくれた。その時加藤に小声で聞いてみた。 「これで、本当に助かるんだろうな」 「ああ、俺を信用しろ」加藤はそう言うと、隣に座って目を閉じた。 外から、雨音と一緒に村人の歩く音が聞こえてきた。どうやら儀式が始まるようだ。孝明の体は汗が噴出し、心臓がドクンドクンと脈打つのが耳にも聞こえてきた。加藤は相変わらず隣で目を閉じたままだったが、寝ているようではない。部屋は静寂に包まれ、静かに時が経つのが感じられた。 がちゃっと音がして、山伏姿をした三人の男、旅館の経営者が入ってきた。「よし、行くぞ」と言うと孝明を連れ出した。加藤もその後をついてきた。 村は明かりがついておらず、山伏姿の三人が持っている松明の明かりを頼りに歩いた。神社の方ではゆらゆらと明かりが揺らめき、耳を澄ますと村人がなにか呪文のようなものを唱えているのがかすかに聞こえた。山伏姿の男達もなにか唱えながら歩いている。孝明の後ろでは加藤が足を引きずりながら歩いていた。孝明と目が合うと、ただ黙って頷いた。 神社の鳥居をくぐり村人が集まっている広場に出ると、みないっせいに孝明の方を振り向いた。村人は昨日見た顔と違い、これから始まる殺戮ショーに気が昂ぶっているのか、目が飛び出て、獲物を見つけたゾンビが襲いかかる時のような顔をしていた。 山伏姿の男達の号令で村人は全員真ん中を開け、正座して頭を地面につけた。そして、シーンとなった広場には積み上げられた木が、ぱちぱちと燃える音だけしか聞こえなくなった。 村人が頭を下げているのを下に見て、孝明は上半身を縛られたまま、広場の中央を通り神社の前に立ち、山伏姿の男達と村人の方を振り返った。加藤は村人の一番前まで来て他の村人と同じように頭を下げた。 山伏姿の男達が杖で地面を三回叩くと、つつじ屋の奥さんが祈祷を始めた。それに合わせて村人も体を左右に揺らした。徐々に祈祷が激しくなり、村人の動きも速くなるにつれ、村人の顔は目が飛び出し、その目は血管が浮き出て、人間の顔とは程遠いものとなっていった。それを見て、今まで感じたことのない恐怖が襲ってきた孝明は、冷静さを保とうと、左手に持った神木の葉を握り締め、俺に力を与えて下さいと祈った。 祈祷が止まった。そして、つつじ屋の奥さんが孝明を見て、「今ここに、新たな魂をそそがん!」と大声を張り上げた。「今、ここに、新たな魂をそそがん!」村人もいっせいに声を張り上げた。山伏姿の男達が持っていた杖でもう一度、ドン・ドン・ドンと地面を三回叩くと、神社の扉が開いた。 孝明は右手に持っていた縄をぎゅっと握り締めた。山伏の男達と孝明は神社の中へ入って行った。中に入ると中から鍵が掛けられた。神社の中は、ここが三十三年振りに開けられた空間とは思えないほど、埃一つなかった。しかし、そこは異様な雰囲気が漂い、確かに、ここには感じたことのない世界があるような気がする。孝明は唇を舌で湿らすと大きく深呼吸をした。 山伏姿の男達は、孝明を一番手前の箱の前に座らせると、呪文を唱え、孝明の方を見ながら建物の中をぐるぐると回り始めた。孝明は右手に力を入れた。しかし、今、縄をほどけば気付かれると思い、息を殺しチャンスを待った。孝明の心臓はしばった縄からもその動きが分かるくらいに大きく波打ち、全身からは汗が噴出していた。 しばらくして男達は、山伏を祭ってある箱の前で三人が並んだ。そして、孝明に背を向けて山伏の箱に礼をした。今だ!孝明は右手に持った縄を口にくわえた。その時、急に振り返った山伏は孝明の心臓目掛けて杖を突いた。孝明は間一髪それを避けて、建物の隅っこへ転がった。見ると、先が丸いはずの杖の先が当たった床には穴が開いていた。杖の先は紫色の光が不気味に光っており、そこに山伏の霊力が宿っているのだろう。この杖で突かれたらひとたまりもない。 孝明は転がっても口にくわえた縄は離さず、頭で縄を引っ張ると少し縄が緩んだ。急いで縄をほどこうと体を動かそうとしたが、すぐさま男達は杖を振りかざし、孝明に向かってきた。孝明はまた転がって、その一撃をかわしたと思った時、右足のももに鈍い衝撃を受けた。縄をほどこうともがいたので、一瞬かわすのが遅れてしまったようだ。しまった!と思い、転がって建物の反対側に逃げ右足を見ると、ズボンに穴が開き、血が流れ出していた。熱さを伴った痛みが、脈打つ度に孝明を襲ってきた。 「諦めろ!この状態でお前が逃げられると思うか」男達はゆっくりと孝明の方へ歩み寄った。こんな所で死んでたまるか!孝明が大きく体を動かすと縄はほどけた。それを見て三人の男はいっせいに杖の先を孝明の方へ向けた。すかさず孝明は自由になった体で、右端の男の足を払うように力一杯体ごとぶつかった。男は前へ倒れた。しかし、今度は右の胸と左足に鈍い痛みが走った。もう少しで中央の箱に手が届くところまで転がったが、そこで体は言うことが聞かなくなってしまった。 男達は、またゆっくりと歩み寄ると孝明を見下ろして言った。「お前の魂はもらった」。 孝明は左手に持った神木の葉を右手に持ちかえ、最後の力を振り絞ってそれを中央の箱目掛けて投げた時、男達は杖を振り上げた。 男達が杖を振り下ろすより先に、孝明の投げた神木の葉が中央の箱の上に落ちた。神木の葉は一瞬まばゆい光を放った。それと同時に孝明を突こうとしていた杖の先からは紫色の光がなくなり、山伏を祭った箱と中央の箱は粉々に砕け、神社の扉が吹き飛んだ。 男達は箱の破片が体に当たりもんどりうって倒れた。そして、孝明は遠くで村人のざわめきと、加藤が大きな声で何か叫んでいるのを聞きながら、徐々に意識がなくなっていった。
三年後、孝明はいつものように三旅館の経理の帳簿を眺めていた。今年も順調に売上げを確保している。今年は雪も多く、近くのスキー場も賑わったし、春先は天気が安定していたこともあって、客の入りは順調だ。 タバコを吸いながら、孝明は山を見上げた。ここに来たときは殺されるかと思ったが、住んでみるといい所じゃないか。孝明は満足気に煙を吐き出した。 「副社長、社長はどちらにいかれたかご存知ないですか?」孝明が外を見ていると、仲居の柴田が入ってきた。 「社長?ああ、そうだ、今日はお母さんの命日だと言っていたから、お墓参りにでも言ってるんじゃないのか」 「そうですか。新人の仲居が入ったので挨拶にと思ったのですが」 「そうかい。じゃあ、それは俺の役目だから、ここに通してくれ」 「かしこまりました」柴田はそう言うと部屋を出て行った。 「失礼します」新人の仲居が入ってきた。今春地元の高校を卒業したばかりの娘で、なかなか整った顔立ちをしている。一緒に入ってきた柴田は孝明に礼をし、部屋を出て行った。孝明は部屋に鍵を掛け、部屋の奥にあるふすまを開けた。そこには布団が敷いてあった。孝明が手招きすると新人の仲居は躊躇せず孝明の元にやってきた。そして、孝明はふすまを静かに閉めた。
その頃加藤は、村はずれにぽつんと一つだけ立っている墓の前に座って、母親の好きだった、あんこのたくさん入った最中を墓にお供えしていた。 「母ちゃん。食べろよ。こいつは東京からわざわざ取り寄せたものなんだ。どうだ、美味いだろう?」加藤は目に涙を浮かべていた。 「ごめんな、いつもここに来ると泣いちまうんだよ。母ちゃんには辛い思いをさせちまったってな。母ちゃんは、大学の授業料を払うために、神社への寄付が出来なくて、それが原因であいつらに命令された村人に殺されちまったんだもんな。だけどな、俺は母ちゃんの敵をとってやったぞ。俺はこの村で一番の人間になったんだ。今度は俺がここの馬鹿な村人を洗脳してやったんだ。今頃、あの間抜けな山伏の子孫も露天風呂の掃除でもしているだろうよ。あいつらは死ぬまでこきつかってやるつもりさ。それじゃ、母ちゃんまた来るからな」加藤は服の袖で涙を拭うと立ち上がった。 「山の神木の葉を取り、それをもって霊力を封じ、呪文を唱えれば思うように村人を操れる。ただし、神木の葉は心の純粋なものにしか取ることはできない。そして、その呪文は・・・」加藤は古文書に書いてあった言葉を思い出していた。そして、もう一度母親の墓に向かって礼をして空を見上げた。
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