孝明は、朝食後、露天風呂に行った。「この温泉は、今から千年ほど前、ここに修行にきた三人の山伏によって開湯されました。三人の山伏が杖で地面をつくと・・・」露天風呂の前にある温泉の由来を見て成る程と納得した。 確かに、こんな山間部では他に勤めるところも無いだろうし、現金収入を得るには外に働きに出なければならないだろう。しかし、ここに温泉があれば、旅館に来る人もいるし、その客に出す山菜や川魚、秋になればきのこといった、この地方ならではの食材を提供したり、お土産を売って現金収入を得ることは出来るはずだ。それを思えば、ここに書かれている三人の山伏にお礼の一つも言いたくなるのは、ここに住む村人の思いからすれば分かる気がする 露天風呂に入っていると、空からわずかながら日が差してきた。孝明は仰向けになりながら、雲の間から見えたり、隠れたりする太陽をしばらく眺めていた。 風呂から上がり、部屋に帰ると孝明は急に眠くなってきた。昨日はほとんど寝ていないし、まだ九時半だから、朝寝でもするか。孝明は座布団を枕にして横になると、すぐ軽い寝息を立ててすやすやと眠った。 孝明は暗い箱に閉じ込められている夢を見た。いくら叩いても、大声を出しても、誰も助けにくることもなく、力任せに板を押してもその箱はびくともしなかった。ただ、外からは奇妙な声とともに大勢の人がなにか呪文のようなものを唱えているのが聞こえてきた。それは、何度も何度も繰り返し聞こえてきた。その声がどんどん自分の所に迫ってきたとき、孝明は目を覚ました。気がつくと全身汗びっしょりになっていた。 なんだ今の夢は。孝明は汗をタオルで拭き、部屋の洗面所で顔を洗った。薄気味悪い夢だった。おそらく、昨日、ここのお祭りを見たので、こんな夢を見たのだろう。孝明は顔を洗いながらそう考えた。 時計を見ると間もなくお昼になろうとしていた。孝明は着替えをし旅館のロビーへ向かった。「この辺で、なにか美味しいものを食べさしてくれる所はないですか」孝明はロビーにいた、旅館の名前の入った法被を着ている男性に声を掛けた。 「お客様は、昨日からお泊りになられている方ですね。どうも、昨日は大変失礼をいたしました。私、この旅館の社長をしております山田と申します」男性は胸のポケットから名詞を取り出して孝明に差し出した。 男性は、頭のてっぺんはすっかり髪が抜け落ち、身長は低くちょっと小太りで、丸い顔に小さなメガネを掛け、愛想笑いもどことなく頼りない感じだったが、名詞には、確かに代表取締役と書いてあった。おそらく年齢はここの女将と同じくらいだろう。女将とは夫婦かも知れない。 「お客様には大変ご迷惑をお掛けしましたので、こちらで特別に昼食をご用意したのですが、もし、よろしければ・・・」 「そうですか。いや、そういうことなら、せっかくのご好意ですので、遠慮なくいただきます」と言ったが、実は、孝明はちょっと天気が回復してきたこともあり、ドライブがてら地元の食材を出してくれる所にでも行こうかと思っていたところだった。しかし、せっかく自分のために作ってくれたものを、断るのは悪いと思い部屋に戻り、昼食が来るまでテレビを見ることにした。 タバコを吸いながらテレビを見ていたが、タバコの煙が部屋に充満してきたので、孝明は窓を開けた。すると窓の下には加藤が立って孝明の部屋を見上げていた。目が合うと加藤は無骨な笑顔で孝明にあいさつをした。孝明も軽く頭だけ下げた。 この男は一体。孝明がしばらく外を見ているフリをして加藤に意識を向けていると、旅館から女将が出てきた。「はい、これ山菜の代金ね」「ありがとうございます」と言う会話が聞こえた。 この加藤という男は、山菜やきのこを採ってきては、旅館や店に売り、それで現金収入を得ているのだろう。こいつも三人の山伏の恩恵を受けている人間なのだ。しかし、東京大学まで出て、山菜を売って歩くというのは俺には分からない。それ程までここはいい所なのだろうか。たまに遊びに来るくらいならそれも分かるが、自分にはその気持ちは理解できない。 加藤は、山菜の代金を受けとり足を引きずりながら車に向かった。車のドアを開けたとき、後ろを振り返り孝明を見た。その時孝明と目が合った。その目は、孝明を哀れむような、いや、しかし、何かを言いたいような目だった。 この男は、昨日も同じ目で俺を見ていたが、どういうつもりなんだ。俺に何を言いたいんだ。そんな目で見ないで、言いたいことがあったら、正々堂々と言ったらいいだろう。と孝明が男を睨むと、男は前を向き車に乗って行ってしまった。
「お待ちどう様でした」女将が昼食を運んできた。どうやら、今日の昼もそばのようだ。見ると、山菜の天ぷらの盛り合わせもある。孝明はそばが好きだし、それはそれでいいのだが、昨日、つつじ屋で食べたそばの感触が、舌と喉に残っていて、ちょっとくらい美味いそばでは今は満足しないだろう。しかし、せっかくだからと、一口そばをすすってみると、あれ?このそばは。 「お気づきになられましたか、これはつつじ屋さんから取り寄せたものなんです。つつじ屋のご主人が朝いらして、昨日お客様が美味しそうにそばを食べていたとおっしゃっていたものですから、せめてもの罪滅ぼしと思いまして」 「いや、ありがとうございます。つつじ屋さんのそばは、今まで食べたそばの中でも、五本の指には入ると思ってましたから、いや、本当に美味しいです」 「それじゃ、ごゆっくりどうぞ」 「あっ、女将さん、ちょっといいですか」 「はい、なんでございましょう?」 「あの、さっき、女将さんが山菜を買っていた男性のことなんですが」 「ああ、加藤さんのことですね」 「そうです。実は、昨日もつつじ屋さんで会ったんですが、なんだか、ちらちらと自分を見ていて、さっきも窓から外を見ていたら、目が合ったとき、こちらを気にしていたようなんです。もしかしたら、知り合いかなと思っていろいろ記憶を辿ってみても、全然思い出せなくて。あの人はどういった人なんですかね」 「あの人は、まあ、この辺では変わり者と言われてはおります。ただ、山菜やきのこを採るのはこの辺では一番でございますので、私どもも、郷土料理をお客様にお出しすることもあって、加藤さんがいないと、困ってしまうのも事実なのです。ただ、決して悪い人間ではございません。少し変わってはいますが、いつも村の行事や、奉仕作業、例の、その・・お祭りにも顔を出しますし。きっと、加藤さんが、お客様と、誰かを勘違いしているのではないでしょうか」 「そうかも、知れませんね」やっぱり変わり者なんだな。確かに風貌もこの辺の人にも見かけないタイプだし、あの話し方も人付き合いが上手なほうではないようだ。 そばを食べ終え、ここで、ゆっくりと本を読もうとしたのに、全然読んでいないことを思い出した孝明はバックから本を取り出した。そして、座布団を枕に、寝転びながら本を読んでいると、また眠気が襲ってきた。どさっと本を頭の上に置くと、孝明はまた寝てしまった。 目が覚めると、時計の針は午後三時を指していた。また、眠っちゃったよ。もうちょっと寝ていたい気もするけど、これじゃ一日寝て終わりじゃないか。どれ風呂にでも入って、眠気を振り払うか。孝明はタオルを手に取り、風呂に向かった。 風呂から上がり、途中、自動販売機に寄ってジュースを買い部屋に向かった。すると脇の部屋から声が聞こえたような気がした。 「あれ、俺の他にも宿泊客がいるのか」と思い、孝明はそのまま通り過ぎようとしたが、その声は話し声ではなく、もれ聞こえるその声は、紛れもなく、男と女が情愛を交わしている声だ。「まったく、昼間から盛んなもんだ」孝明は苦々しげに首を振ると部屋に帰った。 しばらくして、自動販売機におつりを忘れたことに気が付いた孝明は、また、その部屋の脇を通って自動販売機の所に行った。そして、おつりを右手でつかんだ時、その部屋のドアが開いた。 孝明は、素知らぬ顔で振り向くと歩き出した。孝明は部屋から出てきた二人を見て驚いた。それは、ここの社長と仲居の柴田だったのだ。二人は孝明を見ると、にこっと笑って頭を下げた。孝明も軽く頭を下げて二人の脇を通り過ぎた。 おいおい、あの社長、あんな顔してよくやるよ。自分の子供みたいな女を抱いているなんて。しかし、柴田もよくあんな男に抱かれるもんだな。そうか、金だな。金で繋がっている関係なんだ。柴田は社長の愛人なんだろう。というか、そうでなければ、俺が納得いかないじゃないか。孝明は、社長が羨ましく思えるとともに、女運のない自分が情けなく思えてきた。
天気が少し回復したこともあり、体はまだ睡眠不足のようにだるかったが、孝明はふらりと散歩に出掛けた。しかし、山の頂はまだ霧に隠れて、その全貌を表すまでは至っていない。それがまた、不思議と神秘的な雰囲気を感じさせているのも間違いではない。ふらふらと歩いていると、神社のある森までやってきた。 ああ、ここが昨日祭りをしていたところだな。孝明はその神社に向かった。神社へは小さな鳥居をいくつもくぐりぬけてたどりついた。神社の前は結構広く、これならここの村人全員が集まるのも可能だろう。神社の建物自体は、五メートル四方の小さい木造の建物だったが、確かに古い作りでこの温泉の歴史を感じさせるものであった。 太陽が沈むにはまだ十分な時間があるはずなのに、そこは大きな杉の木が立ち並んでおり、その枝葉が太陽をさえぎって薄暗く、そして、ひんやりと湿った空気が漂っていた。孝明はぞくっとする感覚を覚えながら、神社の周りを見渡した。昨日祭りで使ったと思われるこげた木が一箇所に集められている他は、特に変わった様子もない。 建物の階段を登ると、左右の扉の真ん中に御札が貼ってあった。中を見るため小さな隙間から中を覗くと、奥に三つの祭壇があり、御札が箱の上に貼ってあった。おそらく、この三つの箱は三人の山伏を祭ったものだろう。そして、その前の建物の中央には、もう一つ箱が置いてあった。その箱はなにが祭ってあるか分からないが、そこにも箱の上に御札が貼ってあるのを見ると、それも神聖なものに違いない。孝明は階段を下り神社の周りをぐるっと回った。別に、なんてことはない田舎の農村にはよくある普通の神社だ。孝明は、昨日から剃っていない無精ひげを左手でなぞると、神社に背を向けて鳥居をくぐった。 最後の鳥居をくぐった時、ふと神社の方を振り向いた。すると、ざさっと音がして、鳥居のそばの草が揺れた。孝明は猫でもいたかと、別に気にも留めず、また前を向いて歩き出した。 旅館の前に来ると、時計はもう五時を指していた。しかし、今は三軒の旅館は暇な時期なのだろう。宿泊客と思われる車は孝明の車以外には見えなかった。まもなく、山開きになればここも登山客で賑わうのだろうな。孝明は雲から少し顔を覗かせた山頂を見ながらそう思った。
結局孝明はその日もボーっとして過ごしてしまった。孝明は夕食を終え、タバコを吸いながら外を眺めていた。まあ、こんな旅行があってもいいだろう。どうせ休みはまだあるし、家に帰っても本は読める。そうだ、せっかくここに来たんだから、例のお祭りを覗いてみるか。よし、そうしよう。時計を見ると午後十時だった。孝明は、「しかし、今日は随分と昼寝をしたのに眠いな」、と思いながらテレビを見て時が経つのを待った。 時計が午前十二時を回ったところで、孝明は着替えをし、部屋の電気を消すと、そっと障子を少しだけ開けた。孝明は好奇心の塊のようになっている自分を感じていた。しかし、こんな奇妙な祭りがあると言うのに、今まで誰も知らなかったのが不思議だ。村のホームページにもこの祭りのことは書いてなかった。おそらく、村人にとって神聖な祭りなので、よそ者が見に来て邪魔されたくないのだろう。 午前十二時を過ぎた頃から、村人が道路を歩きだした。昨日と同じように死人のような顔をして、口々に呪文のようなものを唱え、神社に向かって行った。孝明はそれを見て背筋が震えた。いくら祭りと分かっていても、そんな村人を見ると冷静な気持ちは奥に押し込められ、言葉に出来ない恐怖心が心を支配した。しかし、今の孝明は恐怖心より好奇心の方が勝っていた。 今日も最後尾は加藤だった。加藤は他の村人とは違い、昼間に会った時と同じような顔をしている。ただ、口はパクパク動いており、他の村人と同じようになにか唱えてはいるようだ。 加藤は孝明の部屋の前の道路を通るとき、また、ちらっと孝明の方を見た。孝明はそれを予期して体は窓から離しており、孝明が見ていることには気が付かなかっただろう。孝明は加藤が通り過ぎるのを見届けると、ドアを開けて部屋を出た。一階のロビーの明かりは非常灯と玄関の出入り口の小さな明かりしかついておらず、フロントの奥の部屋にも人のいる気配はない。スニーカーを履いて、そっと扉を開け、孝明は村人の後をついて行った。 最後尾の加藤の姿を目印に孝明は後を追った。加藤はまだ足を引きずって歩いており、月明かりしかない暗い夜道でもその姿は目立っていた。孝明が民家の影や、木の陰、車の陰に隠れるようにして後を追っていると、鳥居のところで急に加藤が後ろを振り向いた。孝明は脇にあった耕運機の影に隠れたものの、一瞬送れたこともあり、見つかったかと思い、耕運機の隙間からそっと鳥居の方を覗いた。すると、加藤の姿はなく、神社の方からゆらゆらとした光が見えているだけだった。 誰もいないことを確かめると、孝明は鳥居を通らずに脇の大きな杉の木に隠れながら神社に向かった。突然大きな声が聞こえてきた。なにを言っているのか、さっぱり分からなかったが、どうやら、祈祷をしているのだろう。孝明はさらに杉の木から杉の木へ身を隠しながら、その声のする方へ向かった。そして、神社全体が見渡せるところに着くと、その祭りの様子を伺った。 神社の前には山伏姿の三人の男が神社を背にして立ち、その前には焚き木が燃やされていた。そして、その前で一人の巫女のような格好をした女性が、ひときわ甲高い声でなにやら叫んでいた。村人はその後ろで全員立ったまま首を垂れている。邪馬台国の卑弥呼の時代にタイムスリップしたような感じを受けながら孝明はそれを見ていた。 村人は無表情で蝋人形のように青白い顔をして、時折顔を上げながら呪文を唱えている。体と口が動いていなければ死体とそう変わりはない。特にその目は生きた人間の目とは思えないほど生気がない。 しかし、この巫女のような女性の声はどこかで聞いたことがある。孝明は目をこらしてその女性を見た。分かった。この女性はつつじ屋の奥さんだ。体型といい、声といい、その声はつつじ屋の奥さんに間違いない。 孝明はその奇妙な祭りを見ながら、フラフラと自分もその祭りに引きずり込まれる様な気がした。なんなのだろうこの不思議な感覚は、と思いながら、黙って息を潜めて見ていたとき、「エイ!」とつつじ屋の奥さんが掛け声を掛けると、村人全員が地面に正座し三人の山伏姿の男性に向かって頭を下げた。三人の男は「よし!」と言うと、村人は全員立ち上がり、鳥居をくぐって帰って行った。三人の男はくるりと後ろを向きしばらく神社に向かって何か唱えていた。 孝明も帰ろうとしたが、今帰れば村人に見つかると思い。少し待って帰ることにして、タバコに火をつけた。 しばらくすると三人の男も、神社を後にした。よく見るとそのうちの一人は旅館山田の社長だった。この男、若い女をたぶらかしておきながら、自分は偉そうにしやがって。まったく、この温泉を開湯した山伏に知れたら、きつくお灸をすえられるだろうよ。孝明は、山伏に罰を受けている社長を想像してにやにやした。 どれ、俺もそろそろ帰ろうか。孝明が立ち上がったとき、後ろに人の気配がした。孝明は背筋がぞくっとして、そこを動けなくなった。 「やっぱり、見てたな」その声は加藤の声だった。
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