孝明が、ふと目を覚ましたのは、午前十二時を少し過ぎた時だった。のどの渇きを覚え、自動販売機に行き、ジュースを買って飲んでいると、外から人の歩く音が聞こえてきた。それも一人ではなく、複数の人間が歩いているようだ。会話もなく、規則正しくその足音だけが聞こえてきた。 どうしたんだろう、こんな時間に。孝明が近くの窓からそっと外の様子を伺ってみると、老若男女、高校生や小学生を問わず、みな一様に黙って歩いているのが見えた。その顔は表情がなく、なにかにとりつかれているように、ゆらゆらと、なにか呪文のようなものを唱え、みな暗い夜道を同じ方向に向かって歩いていた。 あっあれは!そこにはそば屋の主人と奥さんの顔も見えた。二人は、昼間会った時とは別人のように、死んだ人間が目だけ開けているかのような顔で歩いていた。同じように仲居の柴田もその後を歩いている。そこを歩いている人間全てが、同じような顔、同じような足取りで、手をぶらんと垂らして、なにかに引っ張られるように無表情で歩いていた。 これは一体。孝明はその光景を目にして身動きが取れなかった。背中がぞくぞくして、言葉にできない恐怖が襲ってきた。 自動販売機のコンプレッサーの音が急にブーンと鳴った。孝明はそれを聞いて、心臓が止まるくらいどきっとした。孝明はキョロキョロと辺りを見回した。誰もいないのに安堵を覚えながらも、自分だけ異次元の世界に入り込んだような感覚を覚えた。 最後尾の人間が目の前を通り過ぎるまで、孝明はそこを動けなかった。最後尾の人間は左足を引きずって歩いていた。それは、そば屋で見た、ヒゲ面の男だ、確か名前は加藤だったはずだ。 しかし、この男は他と違い、人間の表情を残していた。歩き方も自分の意思で歩いているような歩き方だ。 孝明は、ヒゲ面の男が見えなくなるまで、そこを動けなかった。そして、そーっと歩いて自分の部屋に戻った。 自分は見てはいけないものを見てしまった。あれは人間の顔じゃない。一体みんなどうしたと言うんだ。 孝明は、震える手でタバコに火をつけた。もしかして、この光景を見ている姿を、誰かに見られているかも知れない。「よくも見たなー」と言って自分を襲いにくるんじゃないか。不安になった孝明はドアのところに行って、耳を澄ました。しかし、物音ひとつ聞こえてはこなかった。 孝明は反対側の窓に行き、そっと障子を開けて外を見た。もう誰も歩いている様子はない。しかし、森の方でこうこうと明かりが灯っているのが目に入った。その光はゆらゆらと揺れていて、おそらく、何かを燃やしているのだろう。 孝明はそって窓を開けて耳を澄ました。しかし、風の音以外孝明の耳に入ってくるものは無かった。その風は近くの木々の葉をゆらし、ざわざわとした音を木々に奏でさせていたが、それ以外に孝明は何も聞くことが出来なかった。 孝明はしばらく、ゆらゆらとした光を見ていた。すると徐々にその光は弱くなり、そして真っ暗になった。孝明は障子を少し閉めて、左目だけで外を見ていると、村人達が、同じような足取りで帰ってきた。 ただただ黙って歩いて、家に入っていく。そして、また、最後尾にはあのヒゲ面の男がいた。この男は不思議な男だ。昼に見た時は異様な感じのする男だったが、今では、この男がまともに思える。きっとそれは回りの人間がそれ以上に異様だからだ。 ヒゲ面の男は、孝明の部屋をちらっと見た。孝明は反射的に体を反らした。明かりは消しているので見える訳はないと思い直し、また左目を障子の隙間から出し時には、もう誰の姿も見えなくなっていた。
孝明は、なにか、見てはいけないものを見てしまったという罪悪感と、さっきの光景が、かつて映画館で見たホラー映画と重なって、村人全員で最後に自分を襲いにくるかも知れないと言った、言い知れない恐怖感を感じていた。 俺だけが、この村でまともな人間で、他はみんなゾンビみたいな連中かも知れないぞ。なんて所に来てしまったんだ。身震いするような恐怖を感じながら、廊下の方に耳を澄ました。誰も歩いている様子はなかったが、誰かに覗かれているような、そして、誰かが自分の味わっている恐怖を楽しんでいるような、そんな気がして、とても寝れるような状態ではなかった。 きっと、これは祭りなんだ。そうだ、きっとそうだ。だってそうだろう、あんなに人のいいそば屋の夫婦がゾンビだとは思えないじゃないか。 孝明はテーブルの上に置いてある袋から、そば饅頭を取り出した。それを二つに割ってみると、それは中につぶあんが入っている普通のそば饅頭だった。 孝明は、これを食べたら俺もあんな風になってしまうのかも知れない、いや、きっと毒が入っていて、死んでしまうんだ。と一瞬そんな考えが頭をよぎった。とても食べる気にはなれない。 饅頭をテーブルに置くと、孝明はタバコに火を付けた。もう何本目のタバコだろうか。喉はいがらっぽく、痰もからんでいる。だが、それよりも今自分を落ち着かせてくれるのは、これしかないのだ。そうやって、タバコを吸ってはさっきの出来事を考え、また、タバコを吸っては考えを繰り返し、夜が明けるのを孝明は待った。 夜が明けると、早朝から耕運機の音が鳴り出した。それに伴い、村人の話し声も聞こえてきた。それは孝明にとって、人間世界に帰ってきた自分を実感させるものだった。そっと障子を開け外の様子を伺った。村人が朝早くから農作業に精を出していた。夕べの顔ではない、そこには表情のある人間の顔があった。何事もなかったように、普通の農村の生活がそこにあった。 畳に横になり、俺は今日帰る、絶対帰る。この村は変だよ、呪われているようじゃないか。きっと今晩も、同じようなことが起こるんだ。俺はいやだ。例え祭りだったとしても、いや、あれは祭りなんかじゃない、きっとここは呪われているんだ。もういやだ。と思いながら、極度の緊張から開放された孝明は気がつくと眠っていた。
「プルルルル、プルルルル」 孝明は、室内電話の鳴る音で目が覚めた。いや、無理に起こされたと言った方がいい。 「おはようございます。朝食をお持ちしてよろしいでしょうか」 「お願いします」とは言ったものの、孝明は、寝不足と、昨夜のことが思い出されて、とても食べる気にはなれなかった。 柴田が運んでくれた朝食を孝明は一口も食べずに残した。頭の中は昨日の出来事でいっぱいだった。 朝、起きて見ると、学校へ向かう小学生や高校生が明るい声で騒ぎ、仕事へ向かう人が、近所の人と顔を合わせて、にこやかに会話をしている。確かに、どこにでもある平凡な風景がそこにはあった。昨日の出来事は、夢だったのかと孝明も一瞬思った。しかし、灰皿に積み上げられたタバコと、二つに割られたそば饅頭を見ると、決して夢じゃない、この村はなにかにとりつかれているんだ。孝明はそう感じずにはいられなかった。 孝明は、今日はこの旅館に泊まらず、東京へ帰ることに決めた。今は普通の山村の顔をしているが、夜になれば、また、あの恐ろしい光景が目の前に現れるかと思うと、とてもこの旅館に泊まるなんて出来ない。 孝明は決して自分を臆病だとは思っていない。生まれて一度も幽霊を見たことが無く、霊感も無いほうだと思っているし、そもそも、人間は死ねば天国や地獄に行くこともなく、ただ灰になってしまうだけで、そこに霊魂は存在しないと思っている。そんな訳で、肝試しの時も、怖い思いをしたことは無かった。 しかし、今は違う。確かに孝明の感じた恐怖は幽霊を見るのと似たようなものだろう。だが、恐怖を感じさせているのは、幽霊や化け物ではなく人間なのだ。自分と同じ人間が恐怖を与えているのだ。 「ゴホゴホ」孝明はタバコの煙でむせかえった。気が付くとさっきからタバコを何本も吸っているようだ。孝明は窓を開けた。昨日からの雨は止んでいたが、重い雲は山の頂を隠し、湿った空気は容赦なく窓から孝明の部屋に侵入した。 孝明は帰り支度を始めた。バックに荷物をグチャグチャと入れて、着替えを済ませた。そして、立ち上がってバックを持ったとき柴田が入ってきた。 「あっ、お出かけでございますか」 「いえ、出かける訳じゃない。これから帰るんです」 「あの、お客様は、本日もお泊りになると伺っておりましたが」 「今日は泊まりません。もちろんキャンセル料は払いますよ。でも、今日はここには泊まりません」 柴田は、孝明が朝食に全く手を付けていないのを見て言った。 「申し訳ございません。なにか、ご不満な点がありましたでしょうか」柴田は正座して、両手を前について孝明の顔を下から見上げた。 「いえ、別に何もないですよ。ただ、食欲がないだけです」 そんな顔をしても、俺は分かっているんだ。お前だって呪われているんだろう。すきがあれば、俺を同じ道に引きずりこもうとしているんじゃないのか。いや、それとも呪われた村を見た俺を殺そうとしているんだろう。 足早に柴田の脇を通り過ぎようとしたとき「お待ち下さい」柴田が叫ぶように言った。孝明はどきっとして、その場に立ち止まった。 「お願いですから、お待ち下さい」 その声は、孝明に危害を加えようとしている声ではない、なにか懇願するような声だった。孝明はゆっくり振り返って、柴田を見下ろした。 「お客様は、見たのですね」 ずばりと言われて、孝明はなんて答えていいか分からなかった。しかし、柴田の目は、昨夜の目とはまるで違う、そこに人間がいる、そう思える目だ。こんな所に長居したくはないが、もしかするとこの女は真実を俺に話すかも知れない。そして、俺の考えが間違いだったと言う事も考えられる。 バックをどさっと放り投げ、孝明は柴田の目の前にあぐらをかいて座った。柴田はついていた手をももに置き、下を向きながら話した。 「お客様は見たのですね」もう一度柴田が今度は孝明の顔をみつめて言った。 「何のことかな、俺には分からないが」 「昨日のことです」 「ああ、あれは何かの祭りなんだろう。そんなこと俺は気にしてないよ。いや、さっき会社から携帯に電話があってね、急な仕事が出来たから帰って来いと言われたんだ。それで帰るだけで、別になんとも思ってないさ。もちろん、柴田さんや、この旅館に不満がある訳でもない」孝明は昨日のことなど気にしていない風を装った。 「いえ、お客様は嘘を言っておられます」 「嘘は言っていないさ。本当さ」 「この地域は、携帯は繋がりません」 孝明はそれを聞いて横を向いてふっと笑った。そして柴田を睨んだ。 「じゃあ、聞くが、俺が何でここから帰りたいか君には分かるのかい?」 「それは、昨日のことをお客様が見たからだと、私は思います」 「昨日のこと、昨日のことと言ってるけど、昨日のこととは一体何なのか、俺には分からない。昨日のこととは一体何なんだ」孝明は柴田の言葉にいらついて、つい大声を出した。柴田は下を向いて黙ってしまった。 ことの真相を聞こうと思ったが、これじゃダメだな。結局この女も呪われているだけの悲しい人間だ。もう、俺には関係がない。こんな所とはさっさとおさらばだ。孝明は立ち上がると、バックを取った。 「昨日のこととは・・・」柴田は覚悟を決めたように声を出した。 「昨日のこととは、この村のお祭りのことです」 「祭り、あれが祭りだとはおもえないな」 「そうです。初めて見る人は驚かれるのですが、あれは、この温泉を開湯した山伏にお礼を捧げるお祭りなのです。この温泉の住民全員があのお祭りに参加します。毎年この時期に六日間だけ行われるのですが、普段は、この時期は宿泊客もないので、外部の人が祭りを見る機会はありません。たまたま、お客様はここに宿泊されて、お祭りを見たのです」 「夜遅くに、しかも、子供も混じっていたし、みんな、死んだ人間のような顔だったけどな」 「いえ、たぶん、お客様は暗い時に見られたからでしょう。お祭りと言うと、にぎやかなお祭りをみなさん想像されますが、ここのお祭りは神聖なお祭りです。口々に山伏にお礼を言いながら村の中央にある神社に集まるのです。ですから、知らない人が見ると、気味が悪くなるのも分かります。でも、ここでみんなが生活できるのは、この温泉を開湯した山伏のお陰なのです。ですから、私たちは千年も昔からずっとこの神聖なお祭りを続けているのです」 孝明は、もう一度どかっと座るとタバコに火をつけた。この女は嘘を言っている顔ではない。だが、信用した訳ではない。孝明はしばらく黙ってタバコを吸っていた。 「お客様は、きっと、あんな真夜中にお祭りをして、しかも村人全員で集まって、と不思議に思われているのでしょう。確かにここは、温泉の収入で潤っています。観光で食べている所なら、温泉客から見て、気味の悪いお祭りを行うのはどうかと言う意見が最近出ているのも確かです。しかし、千年も続けているお祭りを私たちの代で終わらせる訳にはいかない、という事で、このお祭りは今年も行われたのです。ただ、お客様に分かって頂きたいのは、あれは私達にとって、神聖なお祭りと言うことです。それだけは、どうしてもお客様には・・・」 柴田の顔は真剣だった。その時、道路の方から若い女性の賑やかな声が聞こえてきた。きっと、旅館の若い従業員がおしゃべりをしているのだろう。楽しそうに話すその声は孝明を冷静にさせた。 「分かった。柴田さんの言うことは分かった。悪いけど腹が減ったので、ご飯をよそってくれないか」孝明は吸殻がはみ出そうになっている灰皿にぐりぐりとタバコを押し付けて火を消すと、茶碗を柴田に差し出した。 「ありがとうございます」柴田はほっとした表情を見せご飯をよそった。柴田は灰皿を取ると部屋を出て行った。そして、替えの灰皿を持って来た時、その後ろにはこの宿の女将がついてきていた。女将と言っても、もう還暦を迎えるくらいの年齢だろうか。女将は部屋に入ると、孝明が食事をしている横に正座し手をついた。 「申し訳ございません。実は、昨夜、これからお祭りがあると申し上げに伺ったのですが、もうお休みだったようですので、そのまま、何も申し上げずに帰ってしまいました。お客様には不安な思いをさせてしまって、誠に申し訳ございません」額を畳にこすらんばかりに女将は頭を下げた。 「いいですよ。柴田さんから聞きましたから。それに、もう気にしてません」 「そうおっしゃって頂けると、うれしく存じます」 孝明はご飯を食べ終わると外を見た。外では小学生が写生をしていた。騒ぎながら絵を描いている子供もいた。先生が騒いでいる生徒を叱る姿も見える。その向こう側では、おばあちゃん同士が鍬を持って、楽しそうに話をしている。雲はどんよりとしていたが、明るい田舎の生活が勇樹には見えていた。 俺が臆病すぎたのかな。確かに、こんな平和な村人がゾンビやら化け物の訳はないだろう。見ろよ、みんなどこにでもいる人間じゃないか。まったく、夕べの俺はどうかしていたに違いない。しかし、柴田や女将は、俺のこと、とんでもない臆病者と思ったかも知れない。かっこ悪いったらないな。まあ、それはしょうがない。今日はゆっくりして、昨日の疲れと、今までの疲れを洗い流そう。孝明はテレビをつけ、普段は見ない芸能ニュースを横になって眺めた。 女将がお茶を持ってきた。孝明はそれを飲みながら、つつじ屋から貰ったそば饅頭を食べた。うまい。当然それに毒やら幻覚剤が入っているとは今は思ってはいない。あっと言う間にぺろっと食べてしまった。 「それは、どこで買われたものですか?」 「ああ、これはつつじ屋さんから貰ったんですよ」 「つつじ屋さんのそば饅頭なら、うちの旅館でも売ってますので、是非、お土産に買って行って下さい」 「そうですか。じゃあ、明日お土産に買って行きますか。ところで、女将さん。俺のこと臆病者と思ったでしょうね」 「いえ、とんでもない。やっぱり、知らない方がご覧になると、そう思うのでしょうね。この前お祭りを見られたカップルも、同じようにおっしゃってましたから」
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