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作品名:わたしのたわしを 作者:やまだ

最終回   1
どうすればわたしは壊れるのだろう。


「あっ!」


嫌な言葉だ。
この言葉が出たときには、基本的にろくなことが起らない。感嘆したときにも出る言葉だが、俺の場合はほとんどそうじゃない。失敗の合図だ。そんな合図を送る暇があるなら、挽回するように体が動けよと悪態をついてみても、俺の脳はそんな風にはできていなくて、その合図を出して固まる。肌が泡立っている。そんな暇があるなら体を動かせよと自分に悪態をつく。

泡立つ必要なんてないのに。

カップを倒して、コーヒーがこぼれた。カップは、割れた。俺はよくものを壊す。壊して褒められるようなものはないのだろうか。壊して嬉しくなるような。俺は壊すのだけは得意だ。自慢にはならないが。この世の中に壊せないものなんてないと思う。人との関係も含めて、だ。形あるものはすべて壊れる。形ないものもすべて壊れる。これはきっと真理だ。

いっそ自分を壊してしまいたい。

食後のコーヒータイムが散々になってしまった。俺に安らぐ時間はないのか。それとも今までが安らぎすぎだったのか。とりあえず、食器を洗うのと一緒に、割れたカップを片付ける仕事が増えたことを認識した。

コーヒーがぽたぽたと垂れる書類に目を落としながら、携帯には被害が及んでいないことを確認し、ホッとする。決して幸せなことではないのに、人間の心は、不幸中の幸いを感じることができるようになっている。根っこのところで人間はポジティブなのかもしれない。

―☆

マリーはそんなポジティブの代表選手のような女だった。

「大丈夫!できるできる!」

今でも彼女の声が聞こえてきそうだ。彼女の辞書には後ろ向きという言葉がないのか。前向きという言葉が、薄くなって今にも消えそうな辞書を持つ俺と、彼女が一緒にいてくれたのはなぜだったのだろう。マリーは平気で法律を破った。

「私は誇りを失いたくないんだ。真理って名前に自信をもっているんだ。だってシンリだよ?すごくいい意味じゃない。私は好きだな。漢字。」
「譲治は本当に名前の通りの性格だよね。私にぴったり。譲って、治めるんだから。優しいもん。」
マリーは嬉しそうに話した。俺には漢字はわからないが、ジョージにそんな意味があるのかと思った。

法律がなんであるのかなんて考えたこともないが、法律によって平和が守られていると信じて俺は生きている。かつての日本的なものは今はもう許されないが、俺は毎日を平和に生きているから、きっとそれでいいんだろう。
日本が戦争に負けたのはもう五世紀も前のこと。その負け方がいけなかったらしい。いつまでたっても降伏しない日本は、アメリカ軍の本土上陸を許し、しまいには皇居までアメリカに占領されてしまった。しかし、皇居を落としても、生き残った天皇を立てながらゲリラ的に戦う日本の民間人を見て、アメリカは脅威を感じ、アメリカからみて日本的なものをすべて排除した。日本語を使うことは禁止されたし、名前も英語的な名前に変えさせられた。日本の伝統文化はことごとく否定された。今では京都のほんの一部でしかかつての日本を見ることはできない。みんなマリーが教えてくれた知識だ。
ただ、俺は日本的なものがない今の日本に不自由はしてないし、日本語がなくなったことに対して特に特別な感情は持ち合わせていない。マンモスが絶滅したらしいっていうのと、日本語がなくなったらしいというのは俺にとって同じくらいの問題だ。あららと思っても、悲しみや怒りに身をまかせるようなものではない。


マリーとであったのは、大学生のときだ。第一印象は言葉使いが変な奴。俺が3年生の時に1年生の彼女は道を訪ねた。俺がわからないと答えると。

「I'm sorry」

と言った。「Excuse me」だろ?と俺は答えた。彼女は

「あなたの罪になるかもしれないから。」

と言った。わけのわからない女の後ろ姿を、しばらく見つめた。


マリーは日本文化研究会に所属していた。彼女はその研究所の道を俺に訪ねた。その場所は俺のいるところからすぐのところにあった。人通りも少ないから、もしかしたら俺を研究員かもしれないと思ったそうだ。もちろん日本文化の研究は罪になる。憲法が信教や学問の自由を認めても、よくわからないが、公共の福祉とやらに反するということで、だめらしい。公共の福祉ってのはいったいどんなものだろう。

「公共の福祉っていったいなんなのかしらね。」

マリーも俺と同じような考えだったらしい。いや、俺よりも切実で、俺よりも疑問は大きかったかもしれない。


マリーが日本を好きなことについて俺に教えてくれたのは、俺がいいかげんだったからかもしれない。

「実は私、法を犯しているの。」

マリーが神妙な顔をして俺に告白するから、俺も座りなおして次の言葉を待った。

「私、日本の伝統を復興しようとしているの。」

俺は「なんだ、チャリンコでもパクッたのかと思った。」と答えた。マリーは少し驚いたあと、嬉しそうに笑っていた。
俺くらい馬鹿な男が恋人だったほうがマリーは幸せだったのかもしれない。


マリーの家に行くと、見慣れない物が沢山あった。襖というもので部屋を区切っているのにはおどろいたし、食事の時は箸という2本の棒で食べさせられた。食事が終わると彼女はたわしという丸くてちくちくしたもので食器を洗い始めた。「スポンジじゃないの?」と俺が訪ねると

「たわしっていうのよ。硬くて、丈夫なの。スポンジだとぼろぼろになっちゃうけど、たわしはなかなかこわれないのよ。」

とマリーは自慢げに話した。日本のものを話すとき、マリーはいつも自分を自慢するかのように嬉しそうに話した。そんなマリーを見るのが好きだったので、俺は特に否定もしなかった。たわしはスポンジよりもいい物なのだろう、と、思うことにした。


「譲治も、もっと日本に誇りをもとうよ。」

とマリーは決して言わなかった。それが法を犯す結果になるからだったのかどうか、今は確かめられないが、きっとそういう理由ではなかったのだと思う。マリーは俺を尊重してくれていた。自分と考えは違っても、俺を受け入れていてくれた。そんなマリーと一緒にいるのが心地よかった。
マリーは俺のことを全部知っているのではないかと思っていた。


マリーの誕生日プレゼントを考えた時、日本的なものにしようかと思った。でも俺には、手に入れるすべがなかった。見よう見まねで、手作りで何か作ろうかとも思ったが、犯罪行為だし、よく考えるとマリーが俺が罪を犯すことを喜ばないのではないかと思った。考えたあげく、婚姻届をプレゼントしようと思った。誕生日にプロポーズをする。日本的なものの次に良いプレゼントだと思った。
我ながら名案だと思った。



名案を実行した日、俺たちの明暗は暗のほうに転じた。結論から言うと、彼女は俺のプロポーズを断った。「あっ!」と言った彼女の顔を今でも覚えている。


―☆


コーヒーにぬれた婚姻届を捨てようかと部屋を見回し、ゴミ箱を捕捉した。が、マリーへのプレゼントが最終的に茶色くなって我が家のゴミ箱に捨てられるのがなんとなくいまいましくなった。かといってこの婚姻届をどうすればいいのかもわからない。しかたがないから、割れたコップを片付ける。


これで割ったカップは何個目だろう。またカップを買いに行かなければ。と、思っていると呼び鈴が鳴った。


小包が、届いた。


彼女からだった。


小包をあけると、たわしが一つ入っていた。それとなにやらよくわからないものが書かれた封筒が入っていた。どうやら日本語が書かれているようだが、俺には読めない。彼女は何を考えているんだろう。と、思っていると、携帯が鳴った。


メールが、届いた。


やはり彼女からだった。


驚くより前に、やっぱりさっきコーヒーがかからなくてよかったと思った。


「ジョージへ
時間指定にしたから、そろそろ小包が届いたのではないかと思います。小包を開けて私が何を考えているのかわからないと思ったことでしょう。」

まったくだ。やはり彼女は俺のことをよくわかっている。

「このメールはその小包の中の手紙の英訳です。どうか読んでください。まず、小包の中のたわしはあなたへの私からの最後のプレゼントです。あなた、私の家に来たときにたわしに感心してて、気に入ってたみたいだから。」

前言撤回。彼女は俺のことをわかっていない。気に入ったのはたわしについて嬉しそうにしゃべる彼女だ。たわしは付属物だ。

「あなた、よくものを壊すから、丈夫なたわしはあなたにぴったりでしょう?」

前言修正。彼女は俺のよく物を壊すところを知っている。

「何も言わず、あなたの前からいなくなってしまってごめんなさい。私はあなたのことを愛しています。あなたと過ごした日々は私に幸せと安らぎをくれました。覚えていますか。私が私の罪について告白したとき、あなたは平気な顔をしてコーヒーを飲んでいました。私はあなたが驚いてカップを落とさないかと心配しましたが、そんな心配をよそにあなたはこう言いました。

ならコーヒーを飲むのをやめて、日本的なものでも飲みますか。

って。私は嬉しかった。」


少し間違っている。

俺は「なんだ、チャリンコでもパクッたのかと思った。」と答えた。その後そんなことも言ったのかもしれない。彼女が笑っていたのは、その後の言葉のほうがきっかけだったんだな。お互い間違えていたからお相子だ。そういえば彼女は負けず嫌いだった。


「私は気がついていました。あなたに罪を犯させていることに。私といるとあなたは日本を肯定してくれる。私が伝えることを受け入れてくれる。それは、すなわちあなたも罪を犯しているということ。でも、耐えられなかった。私の心を隠してあなたと向き合うことに。そして絶えられなかった。あなたと一緒にいたいと思う気持ちを。そして、耐えられなかった。私を受け入れてくれるあなたが罪人になってしまう現実に。」

インクが、滲んでいる。手紙が今どこらへんなのか俺にはわからないが、ここの内容のあたりではないかなと思う。ふと、このインクは不思議な匂いがすることに気がつく。きっとこれも日本のものなんだろうと思う。

「誕生日プレゼント、嬉しかった。きっとあなたはあなたなりにがんばって日本的なものをくれるんじゃないかと思ったけど、もっと素晴らしいものをくれた。私、あなたのことわかってなかったのかもしれないね。」

いや、彼女ほど俺を理解している女はいないだろう。日本的なものよりも喜んでいたのか。俺には嬉しそうな顔見せなかったくせに。そんな彼女の表情を見抜けなかった俺は、彼女のことをわかってやれなかったんだなと思う。「あっ!」という言葉は感嘆のときにも使うと知っていたはずなのに。


「本当は受け取りたかった。

でも、嬉しすぎて、あなたが愛おしすぎて、踏ん切りがついた。私を忘れてくれれば、あなたはまだ罪人にはならなくてすむ。私と結婚したらきっとあなたは不幸になる。だから、私はあなたから離れます。」

やっぱり、俺は彼女のことをわかっていない。何がポジティブの代表選手だ。これじゃ彼女はネガティブの世界チャンピオンだ。そして、彼女も俺のことをわかっていない。いや、俺は彼女にわからせるような日常を送っていなかったのかもしれない。


マリーが好きだと。


「本当はこんな手紙やメールなんて送らないほうがいいことはわかっているけど、でも、どうしても、送りたかった。

私の、わがまま。

最後に、お願いがあります。
もし私のことを許してくれるなら。
そのたわしを、
私だと思って、
使ってくれませんか?
それを使うことは罪になります。
それでも、
たわしを使ってくれませんか。
私も、
罪も、
受け入れてくれませんか。
そして、
たわしは丈夫だけど、
あなた物をよく壊すから、
そのたわしが壊れるくらい、
長い間使って、
それだけ私を覚えていてくれたら、
壊れたたわしをもって、
会いにきてくれませんか。
そしたら、
新しい「わたし」をプレゼントします。

あなたが来てくれるまで、
私は待ちます。
あなたがどんな選択をしようと、
私は知らずにあなたを待ちます。
それが私の罪滅ぼしにもなると思うから。


今度こそ本当に、最後に


ありがとう。

ごめんなさい。  真理」


言いたいことはたくさんあるが、最後は「Excuse me」にしてくれと思った。「I'm sorry」じゃ辛すぎるじゃないか。たわしをマリーだと思って使えというのに、それを壊さないと会えないというのもあんまりだ。こんなに壊しにくいものなんてない。俺はたわしをマリーだと思うことはやめにした。そうすれば、壊せるから。会えるから。俺は壊すのだけは得意だ。自慢にはならないが。


最後まで読んで気がついた。俺はこんなにもマリーを愛していた。きっとこの愛は壊れないと思う。



この愛は俺にとって「真理」だ。



きっと壊れない。



重い腰を上げて、キッチンに向かった。たわしで、食器を洗ってみる。洗剤が泡立たない。それもいいかと思った。
泡立つ必要なんてないのだ。


このたわしはいつか壊れるのだろうか。きっと壊れるんだろう。俺はよくものを壊すから。でも、それも悪くない。俺はたわしをマリーだと思うことはやめにした。最後の願いなら聞いてやるが、これを最後の願いにするかどうかを決めるのは俺自信だ。


マリーにもう一つたわしをもらったとき、すべてはうまくいくのだろうか?そんな疑問をもったとき、同時に答えを手にしていた。俺の名前は、譲って、治めるらしいから、きっと譲られても、丸く治まるだろう。
それが真理。
なんせ真理って名前の女が言ってたんだから。



さて、


どうすればたわしは壊れるのだろう。


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