活劇が、小説が、劇画が、或いはどちらかの翼が、紆余曲折を経て、 結論、生きる事の素晴らしさを伝えた時に、 まさに、右、左の意味も知らずに美しいと思える感情を抱いていた。 それを、またそれと分類されるものを青春や愛、尊厳と名付け、またそう思えているのなら、 それが人の本質、または過信、またはエゴ、業、偽善といっても過言ではないのではないのだろうか? 唯、果たして、一片の疑問を感じた時に、 もしくは、年を重ね、いつか立ち止まったその時に、 その通り正解だと、まったく正常な感情で、 誰の言葉も聞かず、あなたはそう言えるのか?
まさに葉隠的精神で、武士道、または生の本質を見たと思い、 何処かの哲学者気取りで、死に対する答に着地点を見つけたとしても、 生や死を、 否、 自分の存在の肯定と否定。 それをどれだけの命が認識できているだろう。
そんな事、そんな事。 少なくても、自分には出来ない。 いいかえるならば、 頭ごなしの道徳も、 ソクラテスの敬虔さも、 シド・ヴィジャスの情熱も、 はたまた太宰の厭世論ともとれる人間不信を、 自分にはまったく理解できない。
言いたいのは 伝えたいのは 感じたいのは 聞きたいのは
人は皆、例外なくヒトであり、決して違う生き物でもなく、優劣はない。 色、声、大、小、血、知、地、力、言葉、差、神、国、母、父、心。
けれど、それと同時に人は、その力無しには、 生きれないのかもしれない。 死ねないのかもしれない。
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