初冬の船旅は風が厳しく、波も荒々しかった。タシトは昨日のトヨノミソカヒコの話を聞いて、また、今までの旅の中でいろんな国を見て、いろんな人の話を聞いてきた事について、国の政や君主の在り方に疑問を感じていた。 「若、トヨノミソカヒコ様の話を聞いてどのよう思いました。」 「タシトはどう思った。」 「吉備の大君と吉備の民の有り様を聞いたり、見たりして、国の政の難しさをつくづく感じました。」 「そうか。国の政か。吉備の国も乱れておるな。」 「もし、若が君主になられたら、どのような国を作られます。」 「そうだな。先ずは諸国の争いを失くし、民が平和な暮らしが出来るような国にしたいのう。」 「諸国の争いと言いますと。」 「日向の国だけではない。筑紫や出雲や安芸や吉備の国など、すべての国をまとめて、戦のない平穏な国を作ることかな。」 「それには、先ずは諸国に勝ち抜く軍事力、そして、軍事力を支える経済力が必要ですね。他にも何か計り知れない力が。」 「吉備の国を見てきて、分かっただろう。吉備の大君が何故、出雲の国に兵を出しているか。大君の私腹を増やすためか。そうでないだろう。すべて、民が平穏な暮らしが出来るように。」 「何か計り知れない力があるとしたら、若は何だと思われます。」 「今、私には分からない。しかし、スサノヲの神が根の堅州の国を望んで、高天の原で大暴れした話を聞いていて、また、吉備の国の民が根の堅州の国が吉備の国だと信じ、スサノヲの神を崇拝しているところに、何かそのような力があるのかも知れない。」 スサノヲの神話が出雲や吉備の国に伝えられているのは、イハレビコの時代にこの両国がすでにかなりの力を備えていた事になる。そして、古事記には、スサノヲの神話がかなり載せられていることを考えても、天武天皇の時代まで、出雲や吉備の国が何かの力があったことは否定できない。イハレビコが大和朝廷を樹立して、出雲や吉備の国を押さえるために、日本神話でスサノヲの神を悪者に仕立て、アマテラスの神を讃えたのではないだろうか。 トヨノミソカヒコが用意したデコマサという船頭の船は小豆島を越え、淡路島に近づいてきた時には、夕暮れが迫ってきていた。 「デコマサ、あれがアハヂノホノサワケの島だな。」 「そうです。これから先に行きますと速吸の門(はやすいのと・明石海峡)に指しかかり、海の流れが速くなります。」 「この辺りで、一泊しょうか。」 「針間の国、加古川に私の知り合いがいます。そこで、泊まりましょう。」 デコマサの船は海岸に近づき、加古川下流から上流に向けて進み、宮山の集落(兵庫県加古川市八幡町上西条)に着いた。 「デコマサ、元気であったか。我が妹マルトヒメも元気で居るか。」 「儀兄様(あにさま)も元気そうで。今日は、日向の国の若君イハレビコ様を難波まで送るための航海ですが、夕暮れも近づいたため、セビナ様の所で泊めていただこうと。」 「日向の若君か、お連れしろ。」 宮山の集落は、稲作をするのに適した気候、水源にも恵まれ、その当時としては大集落であった。 「イハレビコ様、針間の国までよくぞ来られました。私がセビナでございます。どうぞごゆっくりお泊りください。」 「伊勢の国のアマテラス様に奉納するための旅の途中です。セビナ様の心遣いに感謝いたします。」 イハレビコ達は、早朝、難波の津に向けて出発した。潮の流れの速い明石海峡を越え、右側には淡路島、左側には六甲山等の山並みを眺めながら、広い大阪湾を進みました。 「イハレビコ様、あれが難波の津です。右側の浜辺に大きな社があるでしょ。あれが住吉大社でございます。」 「着いたら、参拝しよう。」 「トヨノミソカヒコ様から、難波の津に着いたら、オホツモリノオサジ様の所にお連れするように言われています。」 「オホツモリノオサジ様に住吉大社の事を聞こうかな。」 難波の津に到着したイハレビコ達が見た風景は、娜の津の様子とはまた違っていた。安芸、吉備、針間、伊予、讃岐、粟、土左の国だけでなく、豊の国からも物資が運ばれ、各地の船が停泊していた。また、港には今まで見たことがない、派手やかな衣服を身に着けた人々が往来していた。 「デコマサ、賑やかじゃ。」 「難波の津は、倭の国が目の先でございますから。」 「倭の国は、難波の津以上に繁栄しているのか。」 「私が聞いた処によりますと、倭の国では歴代の女王が政をしておられるとか。」 「娜の津で出会ったヤジラベも、その様な事を言っておった。」 港から少し離れた所に、オホツモリノオサジの住居があった。イハレビコ達が玄関先に来た時、女性達が慌しく動き回っていた。 「イハレビコ君、よくぞ来られた。トヨノミソカヒコ様から連絡を戴き、航海の神と崇められているワタツミ様の孫である方がお越しになると聞いて、宴会の用意をしていた処でした。」 「それは忝い配慮を戴き、ありがとうございます。」 「若君は、アマテラス大神に草薙の剣を奉納される旅と聞いています。ここからでしたら、伊勢の国も近こうございますので、難波でごゆっくりと、過ごされればよいと思います。」 「オホツモリノオサジ様は、ワタツミお爺様をご存知でしたか。」 「私が若い頃、豊の国のワタツミ様が難波の津に来られて、イザナキの大御神が瀬で濯がれた時に流れた大御神の垢が、ソコツツノヲ、ナカツツノヲ、ウハツツノヲの神になった言い伝えをもとに、難波の津の墨江に航海の神として、この三柱の大神を祀るため祠を建てられた。」 「そうでしたか。ところで、娜の津のヤジラベ様をご存知ですか。」 「ヤジラベ様ですか。知っていますよ。ワタツミ様が墨江に祠を建てられてから、娜の津にもソコツツノヲ、ナカツツノヲ、ウハツツノヲの神の祠を建てるのだと言われて、ワタツミ様と一緒に来られました。」 住吉大社が古事記や日本書紀に登場するのは、神功皇后が新羅に出兵する時で、住吉大社に出向かれ、航海の神(ソコツツノヲ、ナカツツノヲ、ウハツツノヲ)に祈祷された。そして、何から何まで墨江の大神の教えの通りにしたところ、新羅征伐軍の軍船は海流に乗って、新羅までいっきに攻め寄って、新羅軍を打ち破り、百済や高句麗も支配下に入れて凱旋した。神功皇后が難波に帰って来た時、墨江の大神のお告げにより、新羅征伐に勝利を上げるきっかけを作った摂津の国の豪族の田裳見宿禰(たもみのすくね・津守氏の祖)に住吉大社を奉斎するように命じた。なお、住吉大社には四つの本宮があり、三つの本宮にはソコツツノヲ、ナカツツノヲ、ウハツツノヲの神が祀られ、四つ目の本宮に神功皇后が祀られている。田裳見宿禰の祖先はアマテラス大神の子孫で、イハレビコの曾祖父のアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギの兄のアメノホアカリの子アメノカグヤマの孫アメノオシオ(津守氏の祖)である。また、アメノカグヤマの孫にはアメノオシヒト(尾張氏の祖)がいて、その子孫は、ヤマトタケルが草薙の剣を奉納した熱田神宮を奉斎している。また、アメノホアカリはニギハヤヒとも言われ、物部氏や海部氏の祖先神となっている。 イハレビコ達は、オホツモリノオサジが用意してくれた宴会に参加し、その夜は難波の津で宿泊した。 「イハレビコ様、お目覚めでしたか。今日は、住吉大社にご案内します。」 「分かりました。お供します。」 「オホツモリノオサジ様、昨日、難波の津に到着した時、沢山の船が停泊していましたが、何かあったのですか。」 「気づかれましたか。あの船はほとんどが、木の国の船ですよ。」 「木の国ですか。」 「住吉大社の祠を建て直すのに、木の国から木材を運んで貰っているのです。」 「木の国の大君は、何方ですか。」 「オホキノカナエヒコ大君です。」 木の国(紀伊の国の古い呼び名)には、創建が紀元前と言われる日前宮(日前神宮・國懸神宮)があり、この神宮を奉斎しているのが、天と地とがはじめて姿を現した時に、イザナキとイザナミ兄妹が降り立つ前に独神の別天つ神にカムムスヒの子孫アメノミチネ(紀氏の祖)であり、その神の子孫オホキノカナエヒコであった。 日前神宮(ひのくまじんぐう)は、日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体にし、ヒノクマの大神(太陽神・農業神でアマテラスの大神の別名とも言われる神)を祭神とし、天と地とがはじめて姿を現した時に、イザナキとイザナミ兄妹が降り立つ前に独神の別天つ神のタカミムスヒの子で、アマテラスの大神が天の岩屋にお隠れになった時にその岩屋の戸を開くためにいろいろ演出したオモヒカネと岩屋の戸を開くために天香山(あめのかぐやま)で産出した銅で製作した日前神宮の御神体、國懸神宮の御神体日矛鏡(ひぼこのかがみ)、伊勢神宮に奉納されている八咫鏡(やたのかがみ)を作ったイシコリドメを相殿神とした。 國懸神宮(くにかかすじんぐう)は、クニカカスの大神を祭神とし、天の岩屋にお隠れになった時に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を作ったタマノオヤやイハレビコの祖父アマツヒコヒコヒコホホデミの子で近淡海の御上神社の祭神でもあるアケタツアメノミカゲや天の岩屋にお隠れになった時に舞を踊ったアメノウズメを相殿神とした。 タマノオヤが作った八尺瓊勾玉は、天皇家の三種の神器のひとつで現代皇居にあり、八咫鏡は伊勢神宮にあり、草薙の剣は熱田神宮にあります。 アマテラスの大神が天の岩屋にお隠れになった時に現れた神としてイシコリドメ、タマノオヤ、アメノウズメを取り上げたが、他に榊で作られた太御幣(ふとみてぐら)を捧げたフトダマ(忌部または斎部氏の祖先神)と太詔戸言(ふとのりとごと)として祝詞を唱えたアメノコヤネ(中臣氏の祖先神)がいて、この五柱の神をお伴にしてイハレビコの曾祖父アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギが葦原の中つ国に降り立った。 オホクニヌシが治めていた葦原の中つ国に最初に降り立った神は、アマテラスとタカミムスヒが相談して、タカミムスヒの子オモヒカネがマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミの弟アメノホヒであった。しかし、アメノホヒはオホクニヌシに言い込められてしまう。このアメノホヒの子タケヒラトリを祖先神にしているのが出雲氏である。その後、葦原の中つ国に降り立ったのが、アメノワカヒコでアマテラスが使わしたキジを射殺した罪で処罰され殺害される。イザナキがイザナミの死を悔やんでわが子ヒノカグツチの首を草薙の剣で切った時に血が出て、その血から生まれたタケミカヅチノヲ(火の神)にヒノカグツチの兄アメノトリブネ(船の神)を伴わせた。そのタケミカツチノヲは、オホクニヌシの子のコトシロヌシとタケミナカタ(諏訪神社の祭神)に、天つ神に従うことを約束させる。そして、イハレビコの曾祖父アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギが葦原の中つ国に降り立ったのである。このように、日本神話を読んでみると、出雲氏、紀氏、尾張氏、津守氏、物部氏、穂積(鈴木)氏、海部氏、大伴氏、中臣(藤原)氏、忌部(斎部)氏、安曇氏、諏訪氏、保科氏、丸邇氏、葛城氏等の豪族は天皇家と同じかそれ以前からの血筋であることが分かる。 木の国は紀の川が流れ、その上流には吉野山があり、育った森林で取られた木材と鏡や勾玉を作る技術を持ち、さらに航海技術も備えた国であった。イハレビコが大和朝廷を樹立するに当って、木の国を味方に入れたことは大きな意味がある。 イハレビコ達はオホツモリノオサジに連れられて、住吉大社に着いた。住吉大社の前には浜辺が広がり、海には船が航海していた。 「ここが住吉大社です。」 「境内には、木材が整頓されて並んでいるな。」 「そうですね。壮大な本殿を建てなければならないのでね。」 「本殿の見本となる建物がありますか。」 「木の国に日前神宮があり、オホキノカナエヒコ大君が祭事を行っておられて、その神宮を見本にしています。」 日前神宮と國懸神宮は紀元前に創建され、出雲大社や伊勢神宮よりも古くから存在していた。それと、日本神話でも分かるように、紀氏の祖先神がイザナキ・イザナミの大御神よりも早く地上に着いたカムムスヒの神であることからも理解できる。 住吉大社の境内を見学していたイハレビコ達に、近づいて来た人物がいた。 「タケトリキノカシキワカ君ではないですか。」 「オホツモリノオサジ様、久し振りですね。いよいよ、本殿の建築が始まりましたね。」 「大君のお蔭です。」 「さて、お隣のお方は。」 「日向の国のイハレビコです。」 「イハレビコ君は、草薙の剣をアマテラス様に奉納するため、伊勢の国に行かれる途中で、難波の津に寄られました。そして、住吉大社をご案内している最中です。」 「日向の国の若君でしたか。噂はかねがね聞かせてもらっています。伊勢の国の帰りでも、木の国に寄りませんか。」 「これは忝い。是非ともそうさせて戴きます。」 「オホツモリノオサジ様、木の国の若君にお会いするとは。」 「イハレビコ君、伊勢の国に行かれるのですが、これからどちらの方へ行かれます。」 「これから、倭の国から伊勢の国に入ろうと思います。」 「難波の津に来られて、何か気が付かれたことがありますか。」 「そう言えば、派手やかな衣服かな。」 「それでしたら、河内の国の太秦の集落にシンカラリョウという帰化人がいます。彼は、織物を生産し、倭の国にも詳しい御仁です。一度、お会いされたら如何ですか。」 「ありがたい。これから、シンカラリョウ様を訪ねましょう。」 難波と言われているが、いにしえの時代には摂津の国と河内の国と和泉の国に分かれていた。シンカラリョウ(秦氏の祖)が移住しているのは、大阪府寝屋川市太秦町付近で、弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)であった。また、その当時の大阪は、現在の東大阪市や大東市辺りが河内湖になっていて、寝屋川市付近に河内湾があった。 「太秦の集落に行くには、東に向かう陸路がありますが、河内の国に入って、八尾の集落を通って、北へ進むのですが、生駒山の麓に登美(とみ)の集落があって、領主のナガスネビコは気性が荒くて、戦いに強い一族がいます。船を用意しますので、墨江から北上して、浪速(なみはや)の渡りを抜け、白肩(しらかた)の津の四條畷の集落から、陸路で行かれれば、すぐ近くの所に太秦の集落があります。」 「オホツモリノオサジ様、ありがとうございます。」 「これから、難波の津に帰って、船の用意をしますので、イハレビコ君、もう一泊なさいませ。」 早朝、イハレビコ達はオホツモリノオサジが用意してくれた船に乗り、浪速の渡り(上町台地の北端・現在の大阪市東淀川区淡路付近)を抜け、岸辺沿いに東へ航海した。そして、丁度昼下がりの頃、四條畷の集落に着いた。 「タシト、太秦の集落まで行って、シンカラリョウ様の住居を探してまいれ。」 タシトは、手下ひとりを連れて、太秦の集落に向かった。イハレビコは、倭の国がもう目の先にきている事を肌で感じていた。その時、上品な初老の翁がイハレビコに声を掛けた。 「そち達は、ここで何をしているのかな。この辺では、見かけない御仁だが。」 「私達は、これから織物の技術を学ぼうと、シンカラリョウ様の住居に行く途中でございます。」 「シンカラリョウ様か。私もよく知っている。高価な絹織物を編んでいるのだろう。絹は何からできているか知っていますか。」 「蚕でしょ。」 「私は、その蚕を人工的に養育している。そして、蚕が羽化した時に繭が残ります。その繭をシンカラリョウ様に渡すのです。シンカラリョウ様は、その繭を生糸にして、絹織物を織機に掛け、絹の反物を作り、倭の国の人に高価な品物と交換するのです。そして、その高価な品物の一部を私達にくださるのです。」 「蚕から繭、そして、生糸だな。よく分かった。話は変わるが、倭の国に行くにはどのように行けばよい。」 「倭の国ですか。この道をまっすぐに行き、山を越えると登美の集落があります。その集落を通って行けば。しかし、この登美の集落は、他国から倭の国に入るのを防ぐため、かなりの警備をしています。」 「いろいろと教えてくれてありがとう。」 絹織物の生産は、紀元前三千年頃に中国で始まり、紀元前千年頃にインド、ペルシア、エジプト、ローマへと伝わり、シルクロードが形成されていった。日本では、弥生時代にはすでに蚕の養殖がはじまり、中国の絹織物のような高級な織物は出来なかったが、木綿程度の物は生産されていたようである。高級な絹織物は、中国から来た帰化人に依存していた。秦氏はその帰化人の中の一族であり、秦氏の祖先は秦の始皇帝に仕えていた織物技術を持った一族で、秦の始皇帝が漢人に滅ぼされた時に、日本に渡って来たとも言われている。 上品な初老の翁と別れてから、半時過ぎた頃、タシトが戻って来た。 「若、太秦の集落に入った時、機を織る音がしましたので、入ってシンカラリョウ様の住居を聞いてみたら、すぐに教えてくれました。」 「そうか。」 「シンカラリョウ様にお会いして、若のことを話したら、是非お越しください。料理も寝床も用意しますとの事でした。」 イハレビコ達がシンカラリョウの住居に到着したのは、年の瀬も近づいた夕暮れ時であった。 「イハレビコ様、ようこそ来られました。居間に夕食を用意しています。」 「ありがとうございます。」 イハレビコ達はシンカラリョウの案内で、食膳の前に着いた。 「イハレビコ様、私どもが編んだ絹の反物をお見せしましょうか。」 「是非、拝見させてください。」 「この反物は、明日、オホモノヌシ様に奉納される方のご依頼で編んだものです。」 「色合いといい、どこか貴賓のある反物ですね。何方のご依頼なのですか。」 「三輪山付近を支配しておられるシキノマカヒコカサユラ様でございます。」 シキノマカヒコカサユラ(師木氏の祖)は、三輪山を大三輪之神として、オホモノヌシの神を祭神とした三輪神社を奉斎していた。また、集団体制で倭の国の政を行っている一員であり、倭の国の南地方(奈良県の天理市の南の一部、田原本町、三宅町、川西町、桜井市、橿原市の付近)を治めていた。 倭の国は、日本古来の国ではなく、漢人や韓人が渡来して日本に住み着いた部族や日本各地の豪族が畿内(摂津、河内、和泉、山代、倭の国)を目指して集まり、集団体制を取り、権威と祭事の象徴として、女王を国のトップに据えていた。後の邪馬台国の卑弥呼に象徴されるように。 イハレビコが大和朝廷を樹立する前の畿内の部族の分布状況は、北部から東部に掛けて、丸邇氏や海部氏のような海人系の部族、東部・西部には、出雲の国にも関係がある物部氏、南部には、師木(磯城)氏や後の天皇家のような従来から日本に住み着いていた部族、南西部には、尾張氏や賀茂氏や弁韓地方と関係のある葛城氏のような金工鍛冶等の技術を持つ韓人の部族、北東部には、秦氏のような織物技術や土木技術を持つ漢人系の部族が存在していたと考えられる。 「シンカラリョウ様、私達はアマテラス様に草薙の剣を奉納するため、伊勢の国まで行く途中です。しかし、倭の国に入るには登美の集落を通って行かねばなりません。だが、登美の集落は恐ろしい所と聞いています。どうか、シンカラリョウ様のお供をさせて戴けないでしょうか。」 「よろしいですよ。シキノマカヒコカサユラ様にも会って戴けますよう配慮します。」 イハレビコ達はシンカラリョウ様のお供として、早朝、倭の国へと出発した。
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