イハレビコ達は、尾道の集落を後にし、芦田川を渡った頃に福山の集落が見えてきた。この福山の集落は、北に行けば奥出雲から出雲に抜ける道があり、芦田川の上流から、庄原の集落に行ける道があった。また、福山は、吉備の国が出雲の国や安芸の国と交流するのに重要な要所であり、古事記によると垂仁天皇(イクメイリビコイサチ)の皇子ホムチワケの口を開かない病気を治すため、出雲大社に出向く時に、広島県福山市付近でホムチワケのお世話をした吉備の品遅(ほむじ)の君の一族が居た所である。 「若、あそこにひとが集まっています。何をしているか見に行きましょう。」 イハレビコ達は、そこへ行くと、手鏡を並べて、物々交換をしていた。 「そこの若いお方、この鏡を姫さまに如何ですか。」とイハレビコに声を掛けた。 「これは、鉄で作られた鏡ではないか。お主、これをどこで手に入れた。」 「総社の集落で作られたものです。」 「何故、ここにある。」 「私が育てた米やキビや桃を総社の渡来人と交換したのです。そして、この鏡を魚やワカメ等の海産物と交換したいのです。」 「私は、日向の国のイハレビコです。お主、名を何という。」 「サチタメでございます。」 イハレビコは、筑紫の国の娜の津に入港している馬韓の船で、青銅で作られた鏡を見ているので、手鏡にはさほど驚かなかったが、その鏡が鉄で作られているのに驚かされた。 イハレビコの時代の吉備の国は、出雲の国に軍事力だけでなく、すべてにおいて対抗できる能力を備えた部族が岡山県総社市付近に存在し、製鉄技術を持った韓の国の渡来人を住まわせていた。それだけでなく、弥生後期時代から、総社市を中心に吉備の国王として君臨した人物が眠る古墳があり、韓の国の渡来人に国王の墓として古墳を作らせていた。 古墳では、倭の五王時代の応神天皇陵や仁徳天皇陵や履中天皇陵の巨大な前方後円墳は有名であるが、吉備の国にも作山古墳(岡山県総社市南東部付近)や造山古墳(岡山市北区付近)や中山茶臼山古墳(岡山市北区吉備津付近・オホキビツヒコ古墳)等の巨大な前方後円墳のほか、弥生後期時代の古い古墳も見られ、大和朝廷樹立後、吉備の国の古墳技術や韓の国の帰化人を大和朝廷に呼び寄せ、大和の国に天皇陵を築かせたのだろう。 古事記によると、大和朝廷と吉備の国は、イハレビコが大和朝廷を樹立するため、倭の国を目指して、吉備の国の高島の宮に八年も滞在したという話と、第八代孝元天皇(オホヤマトネコヒコクニクル)が異母兄弟のオホキビツヒコ(ヒコイサセリヒコとも呼ばれる吉備の上つ道の臣の祖)皇子を将軍に、ワカタケキビツヒコ(吉備の下つ道の臣の祖)皇子を副将軍として、吉備の国に遠征軍を送り、吉備の部族や百済の国の帰化人(百済の王子と言われている温羅を領主とした部族)と戦わせた話が語られている。また、吉備の国に遠征した話は、桃太郎が猿や犬や雉をお供にして、岡山県総社市奥坂の鬼ノ城に、鬼を退治した昔ばなしの素材となったと言われている。 ここで、古事記の神武天皇以後崇神天皇までの子息と后になった豪族の祖との関係を抜粋してみて、天皇家と豪族の関係を探ってみます。 初代神武天皇(カムヤマトイハレビコ)は阿多の小椅氏(鹿児島県南さつま市、日置市付近の豪族)の妹アヒラヒメを妻。子息はタギシミミ、キスミミ。三輪山のオホモノヌシと三島のミゾクヒの娘セヤダタラヒメとの子息ヒメタタライスケヨリヒメ(別名ホトタタライススキヒメ)を妻。子息はヒコヤヰ、カムヤヰミミ、カムヌナカハミミ。 ヒコヤヰの子孫は茨田氏(大阪府交野市、寝屋川市、門真市付近の豪族)、手島氏(大阪府豊中市、池田市、箕面市付近の豪族)。 カムヤヰミミの子孫は意富氏(奈良県磯城郡田原本町付近の豪族で、古事記の編修者太安麻侶はこの豪族の子孫)、小子部氏(天皇家の側近の小子部を統括する豪族)、坂合部氏(天皇家の側近で国境や境界を定めた豪族)、火氏(熊本県八代郡から八代市付近の豪族)、大分氏(大分県大分市から別府市付近の豪族)、阿蘇氏(熊本県阿蘇地方の豪族)、筑紫の三宅氏(福岡市南区三宅付近の豪族で、博多港を管理した豪族)、雀部氏(大阪府南部地方の豪族で、仁徳天皇の名代の雀部を統括した豪族)、小長谷氏(武烈天皇の名代を統括した豪族)、都祁氏(奈良市都祁付近の豪族)、伊余氏(愛媛県全域を治めた豪族)、科野氏(長野県諏訪郡から伊那郡付近の豪族)、道奥の石城氏(福島県いわき市付近や茨城県北茨城市から日立市付近の豪族)、常陸の仲氏(茨城県那珂市、ひたちなか市付近の豪族)、長狭氏(千葉県勝浦市付近の豪族)、伊勢の船木氏(三重県度会郡大紀町付近の豪族)、尾張の丹羽氏(愛知県一宮市付近の豪族)、島田氏(愛知県海部郡美和町付近の豪族)。 第二代綏靖天皇(カムヌナカハミミ)は師木氏(磯城氏とも言われ、奈良県磯城郡から桜井市を治めた豪族)のカハマタヒメを妻。子息がシキツヒコタマテミ。 第三代安寧天皇(シキツヒコタマテミ)は師木氏のカハマタヒメの兄ハエの娘アクトヒメを妻。子息はトコネツヒコイロネ、オオヤマトヒコスキトモ、ツキツヒコ。 ツキツヒコの子孫に伊賀の須知氏(三重県名張市付近を治めた豪族)、那婆理氏(三重県名張市付近を治めた豪族)、三野氏(三野の国を治めた豪族で、美濃の国の古い呼び名。) 第四代懿徳天皇(オホヤマトヒコスキトモ)は師木氏のフトマワカヒメ(別名イヒヒヒメ)を妻。子息はミマツヒコカエシネ、タギシヒコ。 タギシヒコの子孫は血沼氏(大阪府和泉市から泉佐野市付近を治めた豪族)、多遅麻の竹氏(多遅麻は但馬の国の古い呼び名で、兵庫県豊岡市竹野町の豪族)、葦井氏。 第五代孝昭天皇(ミマツヒコカエシネ)は尾張氏(名古屋市熱田区の熱田神社を中心にした豪族)オキツヨソの妹ヨソタボビメを妻。子息はアメオシタラシヒコ、オホヤマトタラシヒコ。 アメオタラシコの子孫は春日氏(奈良市白亳寺町付近の豪族)、大宅氏(奈良市古市町付近の豪族)、粟田氏(京都市東山粟田口付近の豪族)、小野氏(滋賀県小野あたりか、京都市左京区高野付近の豪族)、柿本氏(奈良県天理市櫟本付近の豪族)、壱比韋氏(奈良県天理市櫟本付近の豪族)、大坂氏(広島県福山市神辺町付近の豪族)、阿那氏(広島県福山市付近の豪族)、多紀氏(兵庫県篠山市付近の豪族)、羽栗氏(京都府城陽市付近の豪族)、知多氏(愛知県知多郡、常滑市、半田市、知多市付近の豪族)、牟耶氏(千葉県山武市成東付近の豪族)、都怒の山氏(滋賀県高島市今津町付近の豪族)、伊勢の飯高氏(三重県松坂市飯高町付近の豪族)、壱師氏(三重県松阪市、津市一志町から白山町付近の豪族)、近淡海氏(滋賀県近江の豪族)。 第六代孝安天皇(オホヤマトタラシヒコクニオシヒト)は、アメオシタラシヒコの娘オシカヒメを妻。子息はオホキビモロススミ、オホヤマトネコヒコフトニ。 第七代孝霊天皇(オホヤマトネコヒコフトニ)は十市氏(奈良県磯城郡田原本町から橿原市の付近)の祖オホメの娘ホソヒメを妻。子息はオホヤマトネコヒコクニクル。春日氏のチチハヤマワカヒメを妻。子息はチチハヤヒメ。シキツヒコ(安寧天皇の子)の孫娘ハヘイロネ(別名オホヤマトクニアレヒメ)を妻。子息はヤマトモモソビメ、ヒコサシカタワケ、ヒコサセリビコ(別名オホキビツヒコ)、ヤマトトビハヤワカヤヒメ。ハヘイロネの妹ハヘイロドを妻。子息はヒコサメマ、ワカタケヒコキビツヒコ。 オホキビツヒコの子孫は岡山市付近の吉備氏。 ワカタケヒコキビツヒコの子孫は高梁市、総社市、倉敷市付近の吉備氏、笠氏(岡山県笠岡市付近の豪族)。 ヒコサメマの子孫は針間の牛鹿氏(兵庫県姫路市付近の豪族で、針間は播磨の国の古い呼び名)。ヒコカシカワケの子孫は高志の利波氏(富山県砺波市付近の豪族)、豊の国の国前氏(大分県国東半島付近の豪族)、五百原氏(静岡県清水市から庵原郡付近の豪族)、角鹿の海氏(福井県敦賀市付近の豪族)。 第八代孝元天皇(オホヤマトネコヒコクニクル)は穂積氏(奈良県天理市前栽町付近の豪族)の祖ウツシコヲの妹ウツシコメを妻。子息はオホビコ、スクナヒコタケヰココロ、ワカヤマトネコヒコオホビビ。ウツシコヲの娘イカガシコメを妻。子息はヒコフツオシノマコト。河内のアヲタマの娘ハニヤスビメを妻。子息はタケハニヤスビコ。 オホビコの子息タケヌナカハワケは阿倍氏(奈良県桜井市安部付近の豪族)の祖。 オホビコの孫ヒコイナコジワケは膳氏(奈良県天理市櫟本付近の豪族で、天皇家の食膳を担当した。のちの高橋氏)の祖。 ヒコフツオシノマコトは尾張氏の祖オホナビの妹カヅラキノタカチナビメを妻。子息はウマシウチノスクネ。また、木氏(和歌山市付近の豪族で、紀氏とも言われている)の祖ウヅヒコの妹ヤマシタカゲヒメを妻。子息はタケウチノスクネ、その孫のハタノヤシロノスクネ、コセノヲカラノスクネ、ソガノイシカハノスクネ、ヘグリノツクノスクネ、キノツヌノスクネ、クメノマイトヒメ、ノノイロヒメ、カヅラキノソツビコ、ワクゴノスクネ。 ウマシウチノスクネは山代の内氏(京都府八幡市付近の豪族)の祖。 ハタノヤシロノスクネは波多氏(奈良県高市郡明日香村畑付近の豪族)、林氏(大阪府藤井寺市沢田付近の豪族)、波美氏(滋賀県東浅井郡湖北町付近の豪族)、星川氏(奈良県天理市福住町付近の豪族)、淡海氏(近江の国の豪族)、長谷部氏(雄略天皇の親衛隊の豪族)の祖。 コセノヲカラノスクネは許勢氏(奈良県高市郡高取町付近の豪族で、巨勢氏とも言われている)、雀部氏(大阪府南部和泉の国で仁徳天皇の名代として雀部を管理した豪族)、軽部氏(奈良県橿原市大軽付近の豪族で、允恭天皇の皇子キナシニカルの名代として軽部を管理した豪族)の祖。 ソガノイシカハノスクネは蘇我氏(奈良県橿原市曽我町付近の豪族)、川辺氏(奈良県桜井市多武峰付近の豪族)、田中氏(奈良県橿原市田中町付近の豪族)、高向氏(大阪府河内長野市高向付近の豪族)、小治田氏(奈良県高市郡明日香村豊浦付近の豪族)、桜井氏(大阪府東大阪市付近か奈良県桜井市付近に居住していた豪族)、岸田氏(奈良県天理市岸田付近の豪族)の祖。 ヘグリノツクノスクネは平群氏(奈良県生駒郡平群町付近の豪族)、佐和良氏(福岡市中央区付近の豪族)、馬御 氏(奈良県生駒郡、生駒市付近の豪族)の祖。 キノツヌノスクネは木氏(和歌山県の豪族で、紀氏とも言われている)、都奴氏(山口県周南市、下松市付近の豪族)、坂本氏(大阪府和泉市阪本町の豪族)の祖。 カヅラキノソツビコは玉手氏(奈良県御所市玉手付近の豪族)、的氏(京都府南部、大阪府中部、南部を転々とした軍事に関わる豪族)、生江氏(福井市付近の豪族)、阿芸那氏(奈良県や大阪府の阿芸那と言う地名の付近の豪族)の祖。 ワクゴノスクネは江野の財氏(石川県江沼から加賀市付近か、福井市の豪族)の祖。 第九代開化天皇(ワカヤマトネコヒコオホビビ)は旦波氏(京都府京丹後市から宮津市付近の豪族)ユゴリの娘タカノヒメを妻。子息はヒコユムスミ。ウツシコヲの娘で先代の孝元天皇の妻イカガシコメを妻。子息はミマキイリヒコイニヱ、ミマツヒメ。丸迩氏(奈良県天理市和爾町付近の豪族でのちに奈良市春日野町に移って春日氏を名乗った)の祖ヒコクニオケツの妹オケツヒメを妻。子息はヒコイマス。カヅラキノタルミノスクネの娘ワシヒメを妻。子息はタケトミハヅラワケ。 ヒコユムスミの子息はオホツツキノタネリ、サヌキノタネリ。 ヒコイマスは山代の内氏のエナツヒメ(別名カリハタトベ)を妻。子息はオホマタ、ヲマタ、シブミスクネ。春日氏のタケクニカツトメの娘サホノオホクラミトメを妻。子息はサホビコ、サホヒメ(別名サハヂヒメ)、ムロビコ。近淡海の御上神社の祀るアメノミカゲの神の娘オキナガノミヅヨリヒメを妻。子息はタニハノヒコタタスミチノウシ、ミヅホノマカワ、カムオホネ(別名ヤツリノイリヒコ)、ミヅホノイホヨリヒメ、ミヰツヒメ。丸迩氏の祖ヒコクニオケツとオケツヒメの妹ヲケツヒメを妻。子息はヤマシロノオホツツキノマカワ、ヒコオス、イリネ。 オホマタの子息はアケタツ、ウナカミで、アケタツは伊勢の品遅部氏(垂仁天皇の名代で伊勢の国の品遅部を統括した豪族)、伊勢の佐那氏(三重県多気郡多気町付近の豪族)の祖。ウナカミは比売陀氏(滋賀県伊香郡付近の豪族)の祖。 ヲマタは当麻の勾氏(奈良県葛城市當麻と奈良県橿原市曲川町付近の豪族)の祖。 シブミノスクネは佐々氏の祖。 サホビコは日下部氏(仁徳天皇の皇子オホツカサの養育にあたった日下部を統括した豪族)、甲斐氏(山梨県全域を治めた豪族)の祖。 ヲボサは葛野氏(京都市右京区太秦付近の豪族)、近淡海の蚊野氏(滋賀県愛知郡愛荘町蚊野付近の豪族)の祖。 ムロビコは若狭の耳氏(福井県三方郡美浜町付近の豪族)の祖。 ヒコタタスミチノウシは旦波氏のカハカミノマスノイラツメを妻。子息はヒバスヒメ、マトノヒメ、オトヒメ、ミカドワケ。ミカドワケは三川の穂氏の祖。 ミヅホノマワカは近淡海の安氏(滋賀県野洲市付近の豪族)の祖。 カムオホネは三野の本巣氏(岐阜県本巣市付近の豪族)、長幡部氏(長幡部を統括した豪族)の祖。 ヤマシロノオホツツキノマワカの孫オキナガノスクネの子息はオキナガヒコ、オホタムサカ。オキナガヒコは吉備の品遅氏(広島県福山市、府中市付近の豪族で、垂仁天皇の皇子ホムチワケの名代としての吉備の国の品遅部を統括した豪族)、針間の阿宗氏(兵庫県揖保郡太子町阿曾付近の豪族)の祖。オホタムサカは多遅摩氏(兵庫県北部但馬地方付近の豪族)の祖。 開化天皇の三番目の子息タケトミハヅラワケは道守氏(道守部を統括した豪族)、忍海部氏(鉄工技術を持つ忍海部を統括した豪族)、御名部氏(天智天皇の子、御名部皇女の名代を統括した豪族)、稲羽の忍海部氏(鳥取県東部因幡地方付近の豪族で、鉄工技術を持つ忍海部を統括した豪族)、旦波の竹野氏(京都府京丹後市丹後町竹野付近の豪族)、依網の阿毘古氏(大阪府松原市付近の豪族)の祖。 第十代崇神天皇(ミマキイリヒコイニヱ)は木氏のアラカハトベの娘トホツアユメマグハシヒメを妻。子息はトヨキイリヒコ、トヨスキイリヒコ。尾張氏のオホアマヒメを妻。子息はオホイリキ、ヤサカノイリヒコ、ヌナキノイリヒメ、トヲチノイリヒメ。孝元天皇の子オホビコの娘ミマツヒメを妻。子息はイクメイリビコイサチ、イザノマカワ、クニカタヒメ、チチツクワヒメ、イガヒメ、ヤマトヒコ。 トヨキイリヒコは上毛野氏(群馬県全域を治めた豪族)、下毛野氏(栃木県全域を治めた豪族)の祖。 オホイリキは能登氏(石川県能登半島全域を治めた豪族の祖。 イクメイリビコイサチ(垂仁天皇)は開化天皇の子、ヒコイマスの娘サハヂヒメを妻。子息はホムツワケ。ヒコイマスの子タニハノヒコタタスミチノウシの娘ヒバスヒメを妻。子息はイニシキノイリヒコ、オホタラシヒコオシロワケ、オホナカツヒコ、ヤマトヒメ、ワカキイリヒコ。ヒバスヒメの妹ヌバタノイリヒメを妻。子息はヌラタシワケ、イガタラシヒコ。ヌバタノイリヒメの妹アザミノイリヒメを妻。子息はイコバヤワケ、アザミツヒメ。崇神天皇の兄ヒコユムスミの子、オホツツキノタリネの娘カグヤヒメを妻。子息はヲザベ。山代の内氏のオホクニノフチの娘カリハタトベを妻。オチワケ、イカタラシヒコ、イトシワケ。カリハタトベの妹オトカリハタヒメを妻。子息はイハツクワケ、イハツクビメ(別名フタヂノイリビメ)。 オホナカツヒコは、山辺氏(奈良県山辺郡と天理市、奈良市の一部付近の豪族)、三枝氏(石川県加賀市付近の豪族)、稲木氏(愛知県江南市付近の豪族)、阿太氏(奈良県五條市東阿田町、西阿田町付近の豪族)、尾張の三野氏(愛知県稲沢市、一宮市付近の豪族)、吉備の石无氏(岡山県和気郡から備前市の一部付近の豪族、和気氏の元の名で、平安京遷都で活躍した和気清麻呂の豪族)、許呂母氏(愛知県豊田市挙母町付近の豪族)、高巣鹿氏(愛知県田原市付近の豪族)、飛鳥氏(奈良県高市郡明日香村か大阪府柏原市の一部から羽曳野市の一部付近の豪族)、牟礼氏(大阪府摂津市を中心にした北部地方か山口県南部付近の豪族)の祖。 イコバヤワケは、沙本の穴太部氏(奈良市法蓮町、法華寺町付近の豪族で、安康天皇の名代としての穴太部を統括した豪族)の祖。 オチワケは、小月の山氏(滋賀県栗東市から草津市付近の豪族)、三川の衣氏(愛知県豊田市挙母町付近の豪族)の祖。 イカタラシヒコは、春日の山氏(奈良市付近の豪族)、高志の池氏(新潟県から福井県までの北陸地方で池作りの技術を習得した豪族)、春日部氏(春日山田皇女の名代として春日部を統括した豪族)の祖。 イハツクワケは、羽咋氏(石川県羽咋市付近の豪族)、三尾氏(福井県あわら市、坂井市から滋賀県高島市安曇川町付近の豪族)の祖。 このように、神武天皇から崇神天皇までの十代天皇のあらましと、天皇家と豪族との関係を、古事記を元に端追って記述しました。 この時代の大和朝廷は、地方の豪族と婚姻関係を持ち、戦闘に明け暮れて、大和朝廷の領土を拡大していったことが、よく分かります。 この古事記の記述を見ていると、地方豪族が天皇家から出ているようにも見えますが、果たして如何だったのでしょうか。確かに、皇族が地方制圧のため出向くことも多々あったでしょうが、そのまま、皇族が地方に留まったでしょうか。制圧した地方豪族を天皇家の一員とすることで、地方を押さえ込み、天皇家の権威を維持したのではないでしょうか。そろそろ、吉備の国の話に戻ります。 いにしえの時代の吉備の国は、総社の集落を中心にして、軍事力、政治力、財力、技術力を備えた国であり、イハレビコが大和朝廷を樹立してからも、地方豪族の代表的存在の吉備氏(天皇家の一族)は、天皇家に天皇の后として姫を送ったり、大和朝廷が日本全国統一する戦いに、必ず援軍を送ったりしていました。 「サチタメ、そちの住居に私達を泊めていただけないか。」 「それは、かまわないですよ。」 イハレビコ達は、このサチタメの住居で宿を取ることになった。 「サチタメ、吉備の国や出雲の国や安芸の国を旅しておるようだが、吉備の国の情勢などもよく知っておろうな。」 「イハレビコ様、吉備の国の事ならある程度分かります。」 「そうか。私達は、これから高島の宮に行く途中なのだが。」 「高島の宮には、海岸沿いに行かれて、高梁川を渡れば、岬の先に小高い山、鷲羽山があり、その麓の海沿いにあります。しかし、吉備の国に来られたのなら、ここから、山沿いに行き、小田川に沿って行くと高梁川と合流し、その高梁川を渡れば、上流に総社の集落があります。一度、総社の集落に寄ってみてください。」 「その総社の集落に、何があるのだ。」 「それは、言えません。この間、吉備の大君の后がお隠れになられたところだし、珍しい光景が見えるかも。とりあえず、行ってみてください。」 イハレビコ達は、サチタメの言うように、翌日、朝冷えする山道を総社の集落に向かって出発し、小高い山の谷間を流れる川に沿って歩くと、比較的低い山に囲まれた盆地に幅広い川が流れるところに着いた。そこに颯爽と馬に乗った青年が現れた。 「あなた達は、これからどちらに行かれる。」 「日向の国のタシトですが、これから、総社の集落に行く途中でございます。」 「私は、高島の宮がある児島の集落から来たマネチワケと申します。総社の集落まで、私が案内しましょう。」 「マネチワケ様こそ、どうしてこの様な所に。」 「昨日、早馬で尾道のヤソニマワケ様が、我が主、トヨノミソカヒコのところに来られて、日向のイハレビコ君が吉備の国の高島の宮まで来られるので、吉備の国を案内がてら護衛してほしいとの事。そこで、主が私にイハレビコ君を護衛せよと。」 「マネチワケと申したな。私が、日向の国のイハレビコです。よくぞここまで、私達を探してくださって、ありがたく思います。」 「高梁川を渡った所に私の知人がいます。そこで、今夜はお泊りください。」 イハレビコ達は、マネチワケの案内で、夕暮れも迫り、木枯らしも吹くなか、高梁川までやって来た。高梁川には丸太で作った橋があり、橋を渡る頃には、寒さが身にしみるようになってきた。吉備の国は、土木工事も進んでいる様で、要所に橋がかかっていた。 「イハレビコ様、どうぞお入りください。私の知人のカラチワケでございます。」 「日向の国のイハレビコでございます。お世話になります。」 カラチワケは、イハレビコ達に食事を用意し、体が冷えるからといって、自前の地酒も用意してくれた。その当時の地酒と言っても、現在の甘酒の様な物であるが、砂糖という物がない時代なので、甘くはなかった。 「マネチワケ様、旅の途中でふと聞いたのだが、吉備の国の大君の后が亡くなったそうだな。今、吉備の国の情勢はどのようになっている。」 吉備の国では、九州地方や山陰地方の諸国と同じ様に韓の国や東南アジアから、稲作が入ってきて、吉備の国の部族間で勢力争いをしていたが、イハレビコの時代には、吉備の国の国王にまで、上がり詰めた豪族が出現して、大君と崇められていた。この様な経過は、日本の諸国とあまり変わりがないのですが、吉備の国は少し違った。 出雲の国の砂鉄を求めて韓の国から吉備の国に、製鉄技術を持った渡来人がやって来た。その渡来人は総社の集落の付近で、吉備の大君の配下となって、帰化人となった。 そして、吉備の国の国王は、出雲の国と戦って、出雲が持っている砂鉄を持ち帰り、製鉄技術を持った帰化人に鉄製品を作らせていた。 この様なことをマネチワケは、イハレビコに話をした。 「マネチワケ様、話はよく分かった。明日、総社の集落に行ってみよう。」 イハレビコ達は、カラチワケに別れを告げ、北の山々が紅葉に染まっている風景をみながら、高梁川を北上した。 総社の集落は、小高い山に囲まれていた。 「この土地は、水にも恵まれ、さぞかし米も豊富に取れるだろう。」 「そうですね。吉備の国の歴代の大君は、この地の財源を基に、周囲の部族を押さえ、吉備の国を統一したのでしょうね。そして、この地にやって来た渡来人も配下に置いたのでしょう。」 「マネチワケの部族も、大君の一族に押さえ付けられたのではないか。」 「いや、我らの部族は、いざという時には海があります。」 高島の宮がある児島地方は、海沿いにあるため、海戦となると安芸の部族の援軍も得て、吉備の大君軍でもなかなか落とせない部族であった。吉備の大君は、マネチワケの部族をいちもく置いていた。 「そうか。それはよいことだ。」 イハレビコ達が総社の集落に入ると、人影も見られず、シーンとして物音もしなかった。 「静かだな。」 「イハレビコ様、皆、后の喪に伏しているのです。」 イハレビコ達は、総社の集落の南東方向にある仕手倉山の麓に着た時、何やら人影が見えた。 「イハレビコ様、近づいてみましょう。アレは、大君の后の葬儀です。」 近づいてみると、吉備の大君を先頭に大君の手下達が、白い布で包まれ、首飾りや手鏡などが載せられた后を担いでいた。そして、土器などが並べられた山の麓に横穴を開けた洞窟に入ろうとしていた。 「マネチワケ、あの洞穴は何だ。」 「あれは、后の墓でございます。私達、吉備の人たちの墓地は、地面に竪穴を開け、そこに死体を入れた土葬ですが。」 吉備の国では、イハレビコの時代には古墳の原型である横穴式の弥生式古墳が存在していたが、応神天皇以下の古墳時代のような、古墳の周りに埴輪がある前方後円墳ではなかった。弥生式古墳は、初期の段階では平地に竪穴式の穴を開け、穴の回りに石を重ね、死体が入るようにし、その穴を塞ぐ大きな岩を置いたものであったが、後期には、山の麓に横穴式の洞窟を作り、洞窟の周りには弥生式土器を埋めていた。 「イハレビコ様、このようなお墓を韓の国から来た帰化人は、古墳と呼んでいます。」 「韓の国には、このようなお墓がすでにあるのか。」 「帰化人に聞いたのですが、韓の国ではすでに、土を盛り上げ、横穴を掘り、周りに堀を作っている古墳があるそうです。」 「古墳か。良きものを見せて頂いた。それにしても、吉備の国とは。」 「イハレビコ様、さっさと退散しましょう。何時、吉備の連中に見つかるかもしれませんから。」 「製鉄技術や古墳を作る技術を持った帰化人に、会いたいものよ。」 「何れ、お会いするようにします。」 このマネチワケは、イハレビコが大和朝廷を樹立するため、東を目出した時、高島の宮で八年の永い間、イハレビコを世話することになるとは、この二人には知る余地もなかった。 イハレビコ達は、仕手倉山と軽部山の間を抜け、倉敷の集落に向かった。 「イハレビコ様、倉敷の集落に私の母メグミヒメの親、コサンワケがいます。そこで、今日は泊まりましょう。」 倉敷の集落に近づいた時、西の方向を見ると海があり、その海に浮かぶ島の間に夕陽が沈もうとしていた。 マネチワケの祖父コサンワケは、吉備の大君と高島の宮のトヨノミソカヒコとを仲介する役目を担っていた。 倉敷の集落は、集落に小川が流れ、落ち着いた雰囲気を持った集落であった。 「着きました。イハレビコ様、ここがお爺のコサンワケの住居です。」 玄関に現れたのは、初老の落ち着いたコサンワケであった。 「お爺様、この方が日向の国の若君、イハレビコ様です。」 「日向の国ですか。私が若い頃、一度、吉備の国の大君の命で、日向の国を訪れたことがあります。お日様の国にふさわしく、雰囲気が明るくて、人々は勇敢で琢磨しい方が多かった。」 「そうでしたか。父上大君にお会いされましたか。」 「会わなかったですが。」 「それは、残念でした。」 「玄関先です。イハレビコ様、どうぞ中へお入りください。」 コサンワケは、イハレビコ達の食事を用意し、手下に膳を整えさせた。 「イハレビコ様、吉備の国は如何ですか。吉備の大君がいる総社の集落に行かれたそうですが。」 「吉備の国は、我が国日向に比べて、かなり進んでいます。渡来人を上手に扱っているのには感心させられます。」 「そうですか。しかし、私には気になることがあります。」 「それは、何なのですか。」 「それは、いや止めときます。」 「是非、聞かせてください。」 コサンワケは、言い難そうな顔をして、黙り込んでしまった。 「お爺様、大君の事でしょ。我ら民の事を考えていない大君なんて。」 「そうだな。大君の事は、話さない事にしたのだが。」 「コサンワケ様、お話ください。」 「それでは。」 コサンワケは、大君が最近、スサノヲの神の生まれ代わりであると言い、出雲の国に再三出兵し、民の生活の負担を増やし、年貢も増えて来ていた事や帰化人を優遇するあまり、帰化人の態度が横柄になり、民の生活を脅かしている事を淡々と、例えを交えて話してくれた。 「そうですか。大君がスサノヲの生まれ代わりね。」 「お爺様、もう寝ましょう。」 イハレビコは、コサンワケの話を聞きながら、スサノヲの事を考えていた。吉備の国において、スサノヲの存在はどのように扱われているのか。何故、吉備の大君が出雲の国にスサノヲの神の生まれ代わりだと言って、軍を送っているのだろうか。尾道の集落のヤソニマワケから聞いた高志の国が、出雲の国に攻めてくるので、吉備の国が援軍を送っているのだろうか。吉備の大君の狙いは何なのか。その狙いは、出雲の国の砂鉄なのか。そんな事を考えていると眠れなかった。 イハレビコは、眠たい目を擦りながら、倉敷の集落を後にして、高島の宮に向かった。そして、トヨノミソカヒコに会って、昨日の寝床で考えていたスサノヲの事や吉備の国の事を聞こうと思って、旅を進めていた。 イハレビコ達は、初冬とは言え、お日様が暖かくイハレビコを迎えるように照らしてくれている昼下がり、左右に福南山と鴨ヶ辻山を見ながら旅を進め、目の前に海が広がってきた。 「イハレビコ様、もう少しで高島の宮に着きます。トヨノミソカヒコ様に会って頂きます。」 「そうか。スサノヲの神の事が聞けるのだな。」 「それだけではないですよ。」 「と言うのは。」 「トヨノミソカヒコ様は、難波の津や墨江の住吉大社の事もよくご存知ですよ。」 「あの航海の神、三柱の大神を祀っている。あの住吉大社か。」 「そうです。」 イハレビコ達は、左右に仙随山と龍王山に挟まれ、目の前には、岬の先に鷲羽山が見える児島の集落に着いたのは、お日様が西の赤く染まろうとしていた時であった。 「イハレビコ様、あそこが、トヨノミソカヒコが居られる高島の宮です。」 高島の宮は、海辺にあることを考えて、高く聳え建っているのではなくて、面積の広い平屋建てであった。 「イハレビコ様、ようこそお越し下された。トヨノミソカヒコでございます。」 「トヨノミソカヒコ様、マネチワケ様が迎えに来ていただいて助かりました。ありがとうございます。」 「今夜は、底冷えしそうですので、暖かくしてお休みください。お話は明日にしましょう。先ずは、お食事でも用意します。」 「ありがたく、思います。」 早朝、海風が潮騒を送ってくれる高島の宮の居間で目が覚めた。 「イハレビコ様、今日は岬の鷲羽山に登ってみましょう。」 トヨノミソカヒコは、イハレビコの身内のように暖かく、優しくイハレビコに声を掛けた。鷲羽山は見事に紅葉していて、吉備の国が見渡せ、海の向こうには讃岐の国が見えた。 「イハレビコ様、この岬鷲羽山から見える海を見せたかったのです。」 「私も、旅の途中で海を眺めてきました。東の彼方にアマテラス様の伊勢の国があると思って。」 「今、お日様が居られる方向にある島、あれがアズキの島(小豆島)その向こうには、イザナキとイザナミの神が最初に作られたアハヂノホノサワケの島(淡路島)があり、その向こうには、難波の津、そして、倭の国、伊勢の国があります。」 「早く、行ってみたいものだ。」 「難波の津にオホツモリノオサジ(津守氏の祖)と言う御仁が居り、会ってみてください。住吉大社の事をよく知っています。」 「ありがたく、思います。会ってみましょう。」 「そうと決まれば、難波まで船と船頭を用意しますので、高島の宮に帰りましょう。」 イハレビコが高島の宮に着いたのは、昼前であった。トヨノミソカヒコは、イハレビコが難波の津に行く用意のため出かけ、イハレビコ達は、高島の宮で旅の疲れを癒していた。 その夜、トヨノミソカヒコと膳を交わした時、イハレビコがスサノヲの事について話しかけた。 「吉備の大君がスサノヲの神の生まれ変わりだと言っているようですが、吉備の国ではスサノヲの神をどのように扱っているのですか。」 「では、お話しましょう。」 スサノヲの神は、高天の原でイザナキの大御神がスサノヲに海原を治めよと命じたのに嘆き、大暴れした。イザナキの大御神が困って、スサノヲに聞いたところ、根の堅州の国(根源の堅い砂の国の意味で、海底にもつながる地下世界でありながら、草原の広がる大地を持ち、あらゆる生命の根源をやどす異界の国)に行きたいとのことであった。イザナキの大御神は許さなかった。吉備の人たちはそのスサノヲの神が望んだ根の堅州の国が吉備の国であると思っている。また、スサノヲは最後には根の堅州の国に住んだとも言われている。そして、吉備の国から、高志の国のコシノヤマタノヲロチを退治するため、出雲の国まで行ったとも言い伝えられていて、スサノヲの神は、吉備の国の神だとも言っている。トヨノミソカヒコは、そのようなことをイハレビコに話した。 「トヨノミソカヒコ様、これで分かりました。その国の堅い砂が何であるかも。」 「お分かりかな。砂鉄であることが。」 イハレビコが、疑問にしていたスサノヲのことがすべて分かった。 翌朝、イハレビコ達は、トヨノミソカヒコが用意していた船に乗り込み、難波の津に向けて出発した。
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